2014年1月31日金曜日

和製漢字のチカラ(3)

明治期の和製漢字の創造においては、初めのころの夏目漱石のように批判的に見る向きもありました。

その中の一人に郵便制度の父と呼ばれる前島密がいます。

前島密は、1866年(慶応2年)に「漢字御廃止之議」という建議書を将軍の徳川慶喜に提出しました。
これは、国民の間に学問を広めるためには、難しい漢字の使用をやめるべきであるという趣旨のものです。

ひらがなを使用すべしと言う、我が国の国語国字の問題において、原文一致を提言した歴史的な文献です。


明治4年に東京大阪間で官営の郵便事業が始まります。
これは前島密の発議によるものです。

漢字の使用をやめるべきと提言した前島密が作った漢字が、「郵便」「郵便切手」です。

意見はしっかりと言うが、やることも誰よりもやるという当時の気概をうかがい知ることができる気がします。


明治期には全く新しい漢字を発明したものもあります。

翻訳できない外国語に対して「新漢字」を生み出してしまうことまでしたのですね。

単位のセンチメートルに対して「糎」、キロメートルに対して「粁」、ミリグラム「瓱」、などを造りだしてしまいました。


また、とても便利な漢字の使い方を編み出しています。

〇〇化、〇〇的、〇〇性、〇〇式、〇〇観、〇〇力、〇〇制、◯◯法、などは明治期の人たちが編み出した漢字の使い方です。

これらの表現は日本だけでなく、現代中国においてもいたるところで使われています。

違うものであるけれども何となくそれらしいことを表す、「〇〇風」のようないい加減な言い方は明治期にはなかったようです。


漢字が一気に増えてきたことによって、もともとひらがなとして存在していた「やまとことば」の漢字化も推進されました。

そのおかげで、基本漢字を元にした熟語を驚くほど生み出しています。

外来語から持ってきたものはほとんどが名詞であり、語彙は増えるものの基本的な表現方法は今までと変わりません。


動詞(熟語)のほとんどは古来より継承されている「やまとことば」にあります。

その動詞が訓読みとして漢字化されると、その音読みを利用した熟語が膨大に誕生します。

「かく」 → 「書く」 → 「書物」「書生」「書院」「書家」「読書」「封書」「密書」などですね。


「やまとことば」には名詞もありますので、これらも訓読み漢字が充てられると、一気に熟語が増えていくことになります。

「て」 → 「手」 → 「手紙」「手記」「手段」「手法」「挙手」「選手」「歌手」「手配」などです


「えび」を「海老」や「あま」を「海女」などもこのころ定着し始めた表現のようです。

もともと「やまとことば」として伝わっている言葉ですので、どの時点で漢字が使われ出したかは判断が難しいところがあるようです。

「かげろう」、「のろし」にたいして「陽炎」、「狼煙」としたのはまさしく表意文字としての漢字の面目躍如というところではないでしょうか。

明治期の漢字による世界最先端の文明の導入は、微妙なニュアンスの違いを残しながらも確実に日本独自の文化と融合していきます。

漢字と同じように、そこから日本独特の加工がなされて、反対に世界に対して輸出していくものも出てくるようになります。





世界の人口の中で、漢字を使用している人口が一番多いのです。
もちろん中国があるからですが、その漢字のほとんどのものが日本発なのです。

世界で一番多くの人が日本発の言語を使用しているのです。

改めて明治の偉人たちの努力に感謝ですね。





2014年1月30日木曜日

和製漢字のチカラ(2)

日本人が生み出した漢字(熟語)のことを「国字」や「和製漢語(漢字)」と呼ぶことがあります。

鎖国が解かれてヨーロッパの先端文明が一気に入ってきたのが明治維新です。
この文化や技術に対応するためにたくさんの言葉が生み出されました。

原語を持ってきてしまったほうが簡単なものもたくさんあったはずですし、無理に訳してしまったために原語のニュアンスが崩れてしまったものもあります。

それでもそこには「和魂」と言う一種の反骨精神が息づいており、現代の英語のように安易なカタカナ置き換えには至りませんでした。

学者、文化人、政治家をはじめとしたあらゆる人たちがいかに日本語として表現するかに苦心をしました。

その結果、20万語とも言われる膨大な新語を生み出したのです。
現代の私たちが使っている漢字表現のほとんどがこの時に生み出されたものとなっています。




ほんの一例を見ていってみましょう。

民主主義に関する言葉が一気に必要になってきたことがよくわかると思います。


憲法、民法、刑法、法律、経済、資本、国会、内閣、行政、司法、議会、賛成、反対、議論、演説、投票、民権、権利、自由、人民、共和、政治、国家、国際、改革、開放、運動、同士・・・

演説や自由は福沢諭吉が翻訳した言葉です。

演説はまだしも、「自由」は本来の「リバティ」「フリーダム」の絶対に侵してはならない本来持っているものとはニュアンスが異なってしまっていますね。

「自由」には本来持っているものよりも、勝手気ままにふるまうことのニュアンスが強く含まれています。
ですから日本においては、絶対触れてはいけない「自由」を制限したりすることが起こってしまうのですね。


明治維新はスピードが必要とされていました。
西洋列強の植民地となる危機があったために、一日も早く国力を付ける必要があったのです。

その結果、微妙にニュアンスの違う言葉で翻訳されたものもあります。


「権利」の原語は民主主義の根幹をなし、革命や戦争までも引き起こすことのある「(ヒューマン)ライト」ですね。

福沢諭吉は有名な西洋事情という本の中で、「訳語を持って本意を表すこと値わず。」として「ライト」に対しての翻訳を諦めています。

この言葉の重さを感じていたのかもしれませんね。

その時に、仏教用語から「演説」を持ってきた福沢諭吉の真似をして、「権利」を充てたのが西周です。


「権利」には「権力もって利益を得る」という力ずくのニュアンスが伴っています。
したがって、「権利」を聞くと反射的に「義務」を持ち出してしまうのは無理のないことなのです。


「リバティ」「フリーダム」や「ライト」と「自由」や「権利」との違いは、100年以上を経て根本的な部分で考え方のズレを生んでいるのではないでしょうか。

この時期には「こんな安普請で文化を作っていいのか。」と言う漱石のような批判もありました。
その漱石も、たくさんの言葉を生み出しています。


また違う分野を見てみましょう。

哲学、科学、思想、進化、学校、理想、常識、意識、芸術、理学、物質、元素、原子、引力、電気、主観、客観、定義、命題、前提、演繹、帰納、失恋、接吻、文明、文化、宗教、理性、感性・・・

国語もそうですね。
何となく元から中国にあったのではないかと思われるものが多くありませんか?

ほとんどのものが中国へ逆輸出されていますので、時代によっては錯覚するかもしれませんね。


一般的な言葉で見てみましょう。

野球、郵便、銀行、支配、批評、観念、印象、交通、鉛筆、会話、計画、原則、危機、情報、環境、信用、王道、道場、警察、法人、常識、強制、工業、論文、新聞、社会、図書館、金融、保険・・・

中国への逆輸出は、中国の近代化が進んだ日清日露戦争の時代に、中国人の留学生によって日本語の書物が翻訳されていったことが大きいと言われています。

「中華人民共和国」の「人民」も「共和国」も和製漢字であり、国名のみならず中国の体制に必要不可欠な概念まで和製漢字が入り込んでいます。


また、1860年ころに中国(清)で翻訳された国際法の解説書である「万国公法」が、幕末に日本に伝えられた時は以下の漢字が伝えられました。

国債、特権、平時、戦時、民主、野蛮、越権、慣行、共用、私権、実権、主権、上告、例外・・・


こうなると、もはやどっちで作られた言葉かわかりませんね。


漢字文化圏にある国は、中国、大韓民国、台湾、ベトナムにおいても残らず和製漢字をそれぞれ自国の読み方で取り入れています。

私たち自身が、日本生まれの言葉であると知らないものがたくさんあるのですから、どこで生まれた言葉であるかはあまり関係がないようですね。


漢字の造語力にはものすごいものがあります。
しかも、現代では世界で唯一の表意文字です。

文字にした時にその意味するところがより鮮明になる言語です。
議論や討論よりも読み書きによってより理解を深めることができる言語です。

発音はできなくても文字を見れば意味を感じ取ることができるのです。


漢字文化圏以外では、書くこと読むことに対しての重要度が私たちが思っている以上に低くなっています。
識字率は一定以上にはなりません。

それでも問題なく生活していけるのです。


世界で唯一存続している表意文字である漢字に、新しい日本独自の使い方である訓読みを生み出した日本は、使用言語においては世界でも圧倒的な立場にいるのです。

思考はすべて言語によって行われます。
この言語を使いこなしている日本人は、いったいどんな思考をしているのかは一つの研究対象となっていますが、いまだによくわからないことだらけです。

安易に英語を取り込まないで、大事にしていきたいですね「日本語」。



2014年1月29日水曜日

和製漢字のチカラ(1)

現代日本の標準的な文字の表記方法は、漢字仮名混用となっています。

最近では、英語やカタカナの使用が増えていますが、文字を見ても聞いても何のことかさっぱり想像ができない言葉が横行しています。
他の人が知らない言葉を使っていることが、自分が最先端にいることとして勘違いしている者までいるようです。

英語やカタカナの場合は、使われている文字が表音文字ですので、文字にしてもわからない場合がほとんどです。
聞いてわからない場合には文字にすればよりわかりやすくなると思っているのは、表意文字である漢字を使っている人たちだけです。

現在、世界に残っていて日常的に使用されているたった一つの表意文字が漢字です。
漢字以外の文字を使用している人たちにとっては、文字でわからなければ話して説明することが当たり前になっており、伝達手段としては会話に重きが置かれています。
漢字を使用する人たちにとっては、話して伝わらない場合は文字にして確認しますし、文字として記録することに重きを置きます。
文字にした方が意味が明瞭になるからです。

どんなに方言が多くても、読み方がたくさんあっても、文字にしてしまえばすべてが理解することができます。
欧米に比べて「書く」ことに重きが置かれているのは、使用している文字の影響も大きいと思われます。
欧米では口述したものを文字にする専門職としてのタイピストが成り立つ所以ですね。

世界で漢字を使っている国は、中国・日本を初めてとして数か国程度ですが、人口で見るとどういうことになるでしょうか。
中国が含まれることによって、世界の人口の約20%の数の人が漢字を使っているのです。
英語を使っている人の実に2倍以上になります。

中国から来た漢字ですが、漢字世界で使われている現代漢字を造りだしのは明治の日本人が主体です。
中国人学者の王彬彬が2002年にインターネットの「世紀中国」に寄せた論文によれば、以下のようにあります。

今日使用している社会、人文、科学諸領域の名詞、術語の70%は日本から輸入したものだ。

これらは日本人による西洋言語の翻訳を経て中国に伝来し、中国語の中に牢固たる根をおろしたのである。わたしたちが毎日立派な議論をたたかわすのも、瞑想にふけったり思考したりするのも、東西世界を語るときに使用する概念は、ほとんど日本人がつくってくれたものである。

ここまで思いいたると、実に鳥肌が立つぐらいである。


最後の一行は悔しさを込めながらも認めざるを得ないというニュアンスが伝わって来る感じですね。

ここで言われている時代背景は、日本の幕末から明治期にかけての明治維新・文明開化に当たります。
産業革命を経過した西洋文化への対応が日本よりも遅れた中国が、同じ漢字を使用する日本の作った造語を取り込んでいったのです。

西洋文学の翻訳を中心に新しく作られた漢字は、明治20年ころで20万語程度はあったのではないかと言われています。
広辞苑に収録されている語数が24万語と言われていますので、その凄さがわかるのではないでしょうか。
幕末から明治期に、この造語に力を尽くしたと言われる人たちを生年順に見てみましょう。
  • 杉田玄白(1733~1837)
  • 市川清流(1824~未詳)
  • 西 周(1829~1897)
  • 福沢諭吉(1835~1901)
  • 福地桜痴  (1841-1906)
  • 中江兆民(1847~1901)
  • 森 鴎外(1862~1922)
  • 夏目漱石(1867~1916)
お馴染の名前がたくさん出てきていると思います。

この時に間違えてはいけないことは、全く新しい文字としての漢字が生み出されたわけではありません。
いままであった漢字を組み合わせて、新しい熟語を作っていったと言ったほうがいいと思います。
ある分野の専門用語で一般的ではなかった言葉を、導入された西洋概念の一般的な言葉に充てたりしています。

例えば、新たな概念である民主主義の根幹をなす言葉である「スピーチ」に対して、仏教用語として使われていたお坊さんの説話のことを指す言葉である「演説」という語を充てました。
これを行ったのは福沢諭吉です。

福沢諭吉はまた、「トーク」にたいして「談話」という言葉を生み出しています。
それでは、実際にどんな分野でどんな漢字が作り出されていったのでしょうか?
前説が長くなってしまいました。

次回に具体的な漢字を拾いながら見てみたいと思います。
お楽しみにしてください。






2014年1月28日火曜日

沓冠(くつかむり)の技術を見る

巨大な日本語は言語を学ぶことが多すぎて、言語を用いて表現する技術を学ぶ時間がほとんどないことはとても残念なことです。

反対に、未熟な表現技術であったとしても、日常生活においては全く支障がないと言ってもいいと思います。

あまりにも多彩な表現方法を持つ日本語は、推察する、咀嚼するといった表面に表れない内容を理解する必要があります。


高度な表現技術においては、目の前に見えたり聞こえたりする言葉以外に、真意を隠した表現をすることが可能です。

言葉遊びについては何回か触れてきていますが、その中でも王道ともいえる沓冠(くつかむり)は表現技術の到達点の一つと言えるのではないでしょうか。

沓冠は「くつかむり」「くつかぶり」「くつこうぶり」とも読まれます。

広辞苑によれば、「和歌や俳句の折句(おりく)の一つで、ある語句を各句の初めと終わりに一音ずつ詠み込むもの」とあります。

折句についても「日本語の言葉遊び」に触れていますので、参考にしていただきたいと思います。
(参照:日本語の言葉遊び

簡単に言ってしまえば、短歌や俳句の中に本文とは違う言葉を忍び込ませることです。
沓冠はその忍び込ませる位置が、文節の最初と最後の両方に表れてくる、より高度なものです。


有名な沓冠を例に挙げたいと思います。
沓冠というと、必ずこのやり取りが取り上げられます。

徒然草の作者である吉田兼好(1283~1250頃)と同時代の和歌の四天王と呼ばれた頓阿(とんあ)との歌のやり取りです。

 よもすすし ねさめのかりほ たまくらも まそてもあきに へたてなきかせ (兼好)
 よもすずし ねざめのかりほ 手枕も ま袖も秋に へだてなきかぜ

 よるもうし ねたくわかせこ はてはこす なおさりにたに しはしとひませ (頓阿)
 よるもうし ねたくわがせこ はてはこず なおざりにだに しばしとひませ

秋の夜の歌のやり取りであろうことは想像ができると思いますが、沓冠を意識して読んでみたいと思います。

まずは兼好の歌から、



緑の行は上から下へ、紫の行は下から上へ読んでみると、

「よねたまへ、せにもほし」 → 「米たまえ、銭もほし」
と無心をしているのです。

これに対して頓阿は


「よねはなし、せにすこし」 → 「米はなし、銭すこし」
と米はないけど銭なら少しあるよと返しているのです。

二人だけの会話であれば、「米と銭をすこし貸してくれないか?」「米はないけど銭なら少しあるぞ」で済んでしまうはずです。

近くや周りに人がいたのか、直接言うには問題があったのか、いろいろ想像をさせてくれます。

ただし、二人の間に沓冠のルールが存在していなければ、何の意味もないただの歌になってしまいます。

歌のどこかにか、歌を詠む前後の言葉の中にか沓冠が入っていますよと言う合図がなければ分からないのではないかと思います。


言葉をしのばせる技術には「日本語の言葉遊び」でも見てきたように、様々なものがあります。

すべての人が、頻繁に使いこなしていたとは到底思えません。

歌のパターンや、前後の言葉の中に必ずや隠しているやり方を示すものがあると思われます。

歌のみを取り上げて、前後のやり取りが取り上げられていない解説は、とても残念に思います。



表向きの歌の内容とは全く違った言葉を隠して、意志の疎通を行っていたことは十分に考えられることです。

ある意味では究極の表現方法ということができるのではないでしょうか。

表の歌が素晴らしければ素晴らしいほど、その技術の巧みさが伺われることになるのでしょう。
それとも、目立ってはいけないから、敢えていい歌にはしないところまで配慮されているのかもしれないですね。


こんな技術がしっかり伝承されていくことは、とても楽しいことだと思います。

いつかは取り組んでみたいと思っている「古今伝授」の暗号にも、沢山の技術が隠されているのでしょう。
頓阿が藤原定家よりつながる古今伝授の継承者であり、その古今伝授の系統が細川幽玄につながり、天皇家に戻っていくものになります。

関ヶ原の合戦の折に、古今伝授の継承者である細川幽玄が籠城討死の危機であったところを、勅命により武士の力を押しのけて、守り切った「古今伝授」にどんな暗号が隠されているのか興味は尽きません。

皇室に戻った「古今伝授」はその後は一切世間に出ることはありません。

こんなに短い歌にいったいどれだけの表現技術が含まれているのでしょうか。





         

2014年1月27日月曜日

「さくら」の謡にも聖書の物語が・・・

日本の古謡に「さくら」があります。

作者が不詳であるだけでなく、作られた時代も正確には分かっていません。

普通に歌っていたりしますが、この歌の中の言葉に耳慣れない言葉がいくつかあるのではないでしょうか。


「さくら」の詞は以下の内容ですね。

さくら さくら
弥生の空は
見渡す限り
霞か雲か
にほひぞ出ずる
いざや いざや
見に行かん


その気になって見てみると一番気になる言葉は「いざや」ですね。
どうしても聖書に登場する預言者である「イザヤ」を思い起こさせるものとなります。

伊勢神宮のところでも見てみましたが、どうしても気になる言葉です。
 
いたるところで見えて隠れしているようです。
(参照:伊勢神宮にユダヤの陰が


やってみた人がいます。
「さくら」の言葉のどれだけが古代ヘブライ語に置き換わるのかをやったものがあります。



それに基づいて「さくら」の詞をヘブライ語で置き換えてみると、以下のような意味になるようです。

(神が)隠れてしまった
唯一の神が、迫害を受け耐え忍び
死んで犠牲になってしまった
くじ引きで引き当てられ、取り上げられてしまった
素晴らしい神の計画
それは救いである
その救いの捧げものが成就した


この「さくら」の作者を先回見てきた「いろは」歌と同様に、弘法大使空海であるとする説があります。


かなり無理のある話でこじつけだろうと思っていましたが、これをやってみた中島尚彦氏はヘブライ大学の教授に読んでもらう機会を得たそうです。

「さくら」はそのままヘブライ語で無理なく読めるそうです。
中島氏も自分の解釈に自信がなかったらしく、ヘブライ語を日常語として話すユダヤ人にもそのまま読めることを知り、驚いたようです。

ユダヤ人や聖書をヘブライ語で学んでいる人たちにとっては、イスラエルと日本の関係は否定しきれないものとして存在しているようです。

日本人の祖先がユダヤ人であるということまでが、言い切れる明確な根拠はないようですが、古代より何らかのつながりがあったとしか思えない物がたくさんあることはかなり知られているようです。


古代のヘブライ語は母音と子音の組み合わせです。
やがて他の言語と同じように、子音を中心とする言葉となっていきました。

「ヤーレン・ソーラン」を初めとして「ヨイショ」「ドッコイショ」などについては、日本語だけではどうしても説明がつきません。

ヘブライ語から発生してきちんとした意味を持っている言葉であることがわかってきています。

歌や祭りの掛け声などに、日本語では意味の分からない物がたくさんあります。
そのほとんどがその行事や行動の成り立ちも含めて、ヘブライ語で解釈できることがわかってきています。


世界へ出ていく日本人に一番必要なことは、日本の文化を体現できることです。

もっと日本について、日本語について知っておきたいですね。











2014年1月26日日曜日

文字形態から見た日本語の特徴

日本語の特徴のひとつに、表記文字の多さよる表現の豊富さがあります。

ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットとありますが、世界でもきわめて珍しい文字が漢字です。

漢字のみが表意文字であり、その他の文字はすべて表音文字です。



表意文字は文字の形に意味があり、文字を見ただけでその意味するところが理解できるものです。

典型的な文字は象形文字であり、意味するもととなるものの形から文字が作られたものです。

漢字を構成する部首にも意味があり、組み合わせてさらに具体的な意味や異なる意味を表すものもあります。


今の21世紀において確認されている文字を持つ言語の中で、表意文字は漢字だけです。
20世紀まではベトナムや中国の一部で使われていた表意文字があるようです。

世界のほとんどの言語が表音文字でできていることになります。

表音文字の言語は、音声に意味がありますので、文字は音声を表す記号にしかすぎません。
文字を見てもその意味するところは分かりません。

どうしてもコミュニケーションの中心は話し言葉になってしまいます。
思考や理解は言語を音にして出すことによってより深まっていきます。


それに対して表意文字を中心にした言語を使っている場合には、書いて文字にした方が理解が深まることになります。

中国においては同じ漢字に対してあれだけたくさんの発音が存在し、音だけでは共通理解ができません。
文字として表すことによって共通理解が深まるのです。

表音文字は文字による表現よりも、話し言葉による表現の方が理解し易くなっています。
表意文字は話し言葉による表現よりも、文字による表現の方が理解しやすいのです。


日本語のメイン表記は漢字とかな文字の混用です。
一般的には意味の中心となる名詞や動詞・形容詞の語幹部分については漢字表記が多く、それ以外がかな表記となります。

つまりは、表意文字と表音文字を意識せずに使い分けしていることになります。
母語としての感覚として日本語を身に付けていない外国語話者にとっては、論理的な理解では困難な使い分けとなっています。

日本語が使いこなせればどんな言語でもそれほど苦労なく習得できるのはこんな理由もあるんですね。


さて、千年ほど前ならばもう少し多くの表意文字が存在していました。
西夏文字(チベット語系西夏語)や女真文字(古満洲語である女真語)や契丹文字(モンゴル系契丹語)には表意文字と表音文字がありました。

表意文字で名詞や動詞語幹を書き、助詞や動詞語尾を表音文字で書くというように、表意文字と表音文字を混ぜて書いた点は、日本語の漢字かな混用文にそっくりだったようです。

一部には表意文字までの発展がなく、絵文字としか言いようがないものもあったようです。


一番古い表意文字を探してみると、シュメール語に行きつくようです。
そこには世界最古の文明として地球上のすべての文明に影響を与えたとされるメソポタミア文明のシュメール人が浮かんできます。

シュメール語の楔形文字がかなり解析されています。
実は、表意文字と表音文字の組み合わせでできており、混ぜて使われていたことがわかっています。
現代日本の漢字かな混用文と同じなのです。

この時代に、表意文字・表音文字の混用があったこと自体が奇跡と言えます。


どうやら、表意文字・表音文字の両方を持っていた世界最古の言語が、各地の文明に伝わりながら表意文字と表音文字に分かれて広がっていったようです。

純粋な表意文字として現代につながっているのが漢語の中国(黄河)文明です。

同じような楔形文字を使っていますが、古代ペルシャの文字はほぼ表音文字となっています。

エジプト文明におけるヒエログリフも古代では表意文字・表音文字の混用ですが、クレオパトラのころには簡略化した表音文字へと移っています。


世界中で今現在でも表意文字・表音文字の混用ができているのが日本語だけなのです。

日本が文字としての文明を導入したのは漢語が最初であることは間違いのないことだと思われます。
それ以前に、話し言葉としての文字のない「古代やまとことば」があったことも間違いないことでしょう。

中国から導入した文字は、メソポタミア文明(シュメール語)→黄河文明と渡って表意文字化した漢語です。

同じ漢字を使っていても、中国をはじめとした日本以外の国では表音文字との混用はありません。
表意文字としての漢字の単独使用です。


日本においての文字の使用が、表音・表意の混用であることは、古代メソポタミアの文明が何らかの形で伝わってきたものか、漢語を使いながら新たに生み出したものなのかは分かっていません。

個人的には、メソポタミア(シュメール人)→イルラエル(ユダヤ人)→中国(秦氏)→倭(日本人)がとてもロマンのある流れなのではないかと思っています。

 このあたりについてはユダヤとの関係も見ておきたいですね。
(参照:漢字に見る聖書の物語

いずれにしても、どんな言語分類にも組み入れることができない日本語は、もしかすると世界中の言語をすべて包括した言語である可能性があります。

日本語を母語とする者は、いくつになっても比較的容易に他の言語を使いこなすことが可能であるが、他の言語を母語とする者にとっては日本語は生涯使いこなすこなすことができない言語であることはいたるところで言われていることです。

その理由の一つをまた見つけてしまったようですね。



2014年1月25日土曜日

言語技術を鍛える

日本語は世界でも類を見ない強大な言語です。
日本語の研究については世界の様々のところで行われており、その独特の特徴が発表されているところです。
(参照:気づかなかった日本語の特徴


日常語として使用している私たちが見逃しているようなことまでが指摘されており、改めて日本語の素晴らしを知るきっかけとなります。

その中の特徴の一つに、言語としての大きさがあります。

その大きさは、表記文字の多さ(平仮名、カタカナ、漢字、アルファベット)や文法的な語順の緩やかさ、自然音を言葉として表すことなどからきています。

他の言語に比べると、同じこと(現象)を表現するための表現の方法の豊かさは計り知れないものとなっています。



こんな、実験データがあります。

ネイティブ同士の会話の90%を理解しようとしたときに、その言語の言葉(品詞を問わず)を何語くらい知っていれば理解可能であるかを調べたものです。

フランス語では、2,000語が必要だそうです。
英語では、3,000語がわかれば大丈夫だそうです。

では、日本語では何語くらいが必要になるでしょうか?
結果は、10,000語が必要になるというものでした。

こんな言語を日常語として使っている私たちはどんな言語感覚を持っているのでしょうか?


これだけの言語を使えるためには、身につける言語だけでも並大抵のものではありません。

世界の他の言語習得のための教育のほとんどが、小学校に入って早々に完了しているのに対して、日本語の習得のための言語教育は基本的な習得のためだけで10歳頃までを必要としています。

文法的な理解や一般社会で必要とされる語彙の習得には、さらなる時間を必要としています。


欧米を中心にした学校における言語教育は、言語習得のための時間がかからない分を言語技術の習得の時間に使用しています。

もともとが生活の基本に議論がある欧米においては、クリティカル・シンキングが教育の基本にあり、重要な学力として重視されています。

そのためには、相手に理解してもらう言語技術や説得する言語技術、彼我の違いを明確にするための言語技術などが言語教育の中心になっています。

小学校の低学年から、自分の意志を表現する言語技術や議論のための言語技術を学んでいきます。



日本の学校教育においては、日本語があまりにも巨大すぎるために、言語習得のために時間が取られてしまっており、言語技術の習得の機会がほとんどないのが現状です。

特に義務教育においては、基本言語の習得にしか目が向けられていないのが現状です。

習得状況の確認としての試験においても、書き取りと読解が中心となっている状況です。

義務教育以降は入学試験のための技術習得が、教育の目的となってしまうために言語技術の習得の機会がほとんどなくなっているのです。


言語技術とは、言語によるコミュニケーションになくてはならない技術です。
道具としての言語を目的に沿って使いこなす技術です。

言語技術の伴わない言語は、使い方を知らずに持った拳銃と同じです。
知らずに人に向けてしまうことが起こってしまいます、これがいじめや自殺の一つの原因ではないでしょうか。

言語によるコミュニケーションは、人が生きていくための基本能力ですので、言語技術は人が生きていくための基本技術なります。

10歳頃に日本語の基本言語を習得した後は、語彙と文法を強化する機会はあっても、言語技術は自分で磨かなければならないのです。

ある調査によれば、国語科の先生になるための大学の専門課程の学生の言語技術は、10歳の子どもと大差がないことが判明しました。


言語技術とは「聞くこと・話すこと」そして「表現すること」です。

教育指導要領にも大項目として記載されているものです。

この技術を身につけるのに一番適した時期があります。
しっかりとした観察ができていれば、誰でもが気が付くことです。

「なんで?、どうして?」と子どもがやたらと聞いてくるときがありませんでしたか?
「ねえねえ、今日学校でね・・・」と子どもがやたら話しかけてくるときがありませんでしたか?

自己主張を始めて、理屈の通らないわがままを言い出した時がありませんでしたか?
詩を書いたり、絵をかいたり、漫画を描いたり、交換日記をしたりして、何かを表現し始めたときはありませんでしたか?

自分でもいつごろそんなことがあったか気が付きませんか?

そうです、基本言語の習得がほぼ完了した、10歳頃以降から中学校にかけてがこの最適な時期なのです。

本来ならばこの時期に言語技術の習得のためのカリキュラムが実施されることが一番いいのです。
それができれば、いじめや自殺は確実に減少するはずです。


「聞くこと・話すこと」ができなければ「表現すること」ができません。

「聞くこと・話すこと」は現代やまとことばで言えばひとことで「きくこと」と言えると思います。

「きく」を漢字にすれば次の5つになります。
聞く、聴く、訊く、利く、効く、です。

この5つの「きく」が言語技術の基本です。

その具体的な内容については、「きくこと」についてを参照していただきたいと思います。
(参照:「きくこと」について

一番のポイントは「きく」のなかに、実際の行動としては話すことである「訊く」が含まれていることです。

「きく」とは、受動的に相手の言っていることを「聞く」だけではないことがよくわかるのではないでしょうか。

もともとの「きく」という行動にはこれらの5つが含まれていたと思われます。

改めて、言語技術の基本として「きく」ことを見直して、自分の行動としてそれぞれの「きく」を具体的にどうやるのかを考えてみたいですね。

できていない人ばかりですから、今からでも決して遅くないですよ。




2014年1月24日金曜日

英語?何のために?

ふっと見たテレビで小学校の英語学習の特集をしていました。

今の教育指導要領によれば、5年生から週に一回の英語の授業が入ってきます。

取り上げられた埼玉の学校では、テスト校として小学校3年生から英語の授業が取り組まれていました。

肯定的な内容に腹が立ってきました。



そもそも、なんでそんなに英語を身につける必要があるのでしょうか?
しかも、日本語自体の習得ができていない小学校のうちから、学校教育として教え込むことのどこに必要性があるのでしょうか?

その必要性について冷静に考えてみたいと思います。


学校教育に英語という教科が登場したのは、太平洋戦争に負けてアメリカ統治のもとで教育改革が行われてからが中心です。

明治期より富国強兵の一環として取り込まれてきた義務教育制度は、いろいろな変遷を経て戦後の学校教育法の公布によって中学校までの9年間が義務教育となりました。

明治時代の小学校では英語の授業が導入されていたこともあります。

太平洋戦争前も文明開化の明治期以降は英語を教えているところがありました。

1873年(明治3年)には東京外国語学校(東京外語大学)が作られています。


すべての学校教育から英語を消し去ったのは、戦中の敵性語として排斥したからです。

それ以外はどこかで英語教育が行われていました。

戦中であっても、陸軍中野学校では諜報員の養成として英語教育を行っていました。


このころの英語教育には、明確な目的がありました。
英語による貿易交渉のためであったり、専門分野の技術導入であったり、英語を使ってどうするかが明確でした。

一般教養や普通学校の入学試験のために英語を学ぶ必要はなく、使う目的が明確でその目的に沿った英語を身につけることが行われました。

道具としての英語であり、英語を身につけることそのものが目的になることはありませんでした。

日本について、日本語について専門分野を持ち、その分野で世界と交わろうする人たちだけが英語を学びました。

言語を学ぶと言うことは、こういうことだと思います。

 

中学義務教育としての英語が実施され始めると、義務教育としての達成度を測る高校入試に英語が大きな比重を占めてくることになります。

経済発展や国際化に伴って、世界標準語として地位を固めた英語の重要性はどんどん向上しました。

専門分野を問わず、主要科目としての英語は文科系も理科系も関係なく主要科目となってしまいました。

英語は、試験問題を作ったり採点したりする側にとっては、とても扱いやすい教科です。
言語ですから、言葉の使い方は日々変化しています。
言葉を採点する訳にはいきません。

主な採点項目は、語彙と文法です。
単純極まりない英語の文法は、〇☓を付けるにはとても適しています。

文章を読ませて、内容を問う出題形式は、昔から変わりようがありません。

義務教育の習得度合いを測定するのに、英語科はとても便利な教科となっているのです。


そこには、英語を身につけた後の目的がありません。
英語を学ぶ目的は、試験を突破することになるのです。
国語や数学と同じです。

学ぶ内容が入学試験の出題内容に則したものになっていくのは、当たり前のことですね。

そこには、使うための言語の学び方とはまったく異なった、試験をパスするための受験勉強としての学び方しかありません。

そんな学び方をして(させておいて)、使える言語が身に付くわけがないのです。


しかも、まじめに取り組むとコミュニケーションとしての言語ではない世界に踏み込みます。
言語学や歴史に踏み込むことになります。

英語圏の国が一番恐れる状況が出来上がってしまうため、様々な圧力をかけてきます。
このことについては「英語圏の言語戦略」で述べていますので参考にしてください。
(参照:英語圏の言語戦略


義務教育の習得度を測るために利用された英語という学習分野において、学校教育以外の場での効果や評価を求めることは間違っていることです。

英語を使って何をするのかの目的がはっきりしてから、言語としての英語を学べばいいだけです。

学習進度の評価をするためだけの教科としての英語に、それ以上の効果を求めることが間違っているのです。


教科としての英語に対しても、取り組む側がテストや試験以外に明確に英語を使っての目的を持っている場合は全く異なります。

学校で義務教育を受けている場に、そんな人はほとんどいないでしょう。

将来的には、外語大学や専門学校を選択することになるのでしょうが、義務教育においてそんなことを考えることは少ないでしょう。
 


義務教育の後期以降の学習は、その先につづく入学試験突破のための学習が中心になります。

その影響が少ない、義務教育の前半に試験目的ではない言語学習としての英語を持ってこようとしているのです。

しかし、この時期は人の形成において一番大切な日本語の習得時機にあるのです。

英語の学習は、世界で一番習得が難しいと言われている日本語の習得の妨げになるのです。


義務教育として教えるべきことはたった一つだと思っています。

目的を定めることができる能力を身につけることです。

自分が生きている、これから生きていかなければいけない社会環境・自然環境を知って、そこで生きていく目的を定めることができる能力です。

そのための知識の習得や思考力の養成は言語でしかできません。
母語でしかできないのです。


国際化の時代に一番必要なことは、世界標準語を身につけることではないのです。

世界の中での自分の、自分たちの特徴をしっかりと認識して、自分たちの言葉でしっかりと発信できることです。

翻訳なんかはシステムであろうと何であろうと瞬間的にやってくれるのです。

日本語は、どんな国の言葉に対しても正確に翻訳してもらえることができる表現方法を持っているスーパー言語なのです。

その使い方を身につける方がはるかに大切なのです。


みずからは小学校において「ゆとり教育」時代の国語の先生を経験し、その後は大学において小学校の国語教育に携わる学生を指導している、坂本芳明先生の国語教育についての論文の一部をご紹介します。

「日本人は国語力、すなわち日本人として自分の母語である日本語の運用能力、日本国内に留まった国語力ではなく、世界の各国の人々と交流できる言葉の力(言語力)として日本語の能力を充実する必要がある。
国際化、情報化の時代・社会に必要な言葉の力を身に付けることが急務である。」

興味のある方は国語教育の問題についてを参照してください。




2014年1月23日木曜日

「やまとことば」への想い

文字のない時代の「古代やまとことば」はどんな使われ方をしていたのだろうか?

現代日本語からこのことを推測できる方法はないものだろうか?

そんなことを考えていたら、思いついたことがありましたので紹介したいと思います。



私は、巨大な言語である日本語には、日本語の中でも共通言語が必要ではないかと考えています。

特に、文字種類の多さ(平仮名、カタカナ、漢字、アルファベット)に加えて、漢字には同じ漢字であっても読みの違う(音読み訓読み)ものまで存在します。

更には、語順の基本である文法による規制がきわめて緩いうえに、主語や述語までが省略されることも多々あります。

一つのことを表現しようとしたときに、いったいどれだけ多くの表現の仕方があるでしょうか?

そのために、日本語の中での共通語として、ひらがなと漢字の訓読みによる「現代やまとことば」を提唱しています。


ひらがなは、文字のない時代の「古代やまとことば」を書き表すために発明されたものであり、文字に意味はありません。
発音を表すための文字であって、音によって意味を表す文字です。(表音文字)

漢字の訓読みは、漢語として音読みだけで輸入された文字に、送りがなとひらがなによる読みを与えたものです。
その読みは、もともとの日本語が持っていたひらがなによる言葉であり、音しかなかった言葉に漢字という意味のある文字を充てたものです。
漢字は文字そのものが意味を表すものであり、音(音読み)に意味はありません。(表意文字)

訓読み漢字は、「古代やまとことば」からつづく日本オリジナルの音による言葉に、漢字という輸入言語を用いて意味のある文字を与えたものです。

したがって、音としてはひらがなとしての古来の言葉を継承しながら、文字としては漢字を用いて意味を分かりやすくしたものと言うことができます。



ここで少し、音読み漢字を見てみましょう。

熟語を構成することにおいては、もうすごく便利なものであり、並んだ漢字によって意味が分かります。

例えば、「会(カイ)」の一文字ではとても抽象的な様々な意味を受け取れますが、二文字の熟語になるとグッと具体的な意味になります。
「社会」、「会社」、「大会」、「会場」、「会合」、「総会」、「会費」、「開会」、「再会」など、限りなく出てきます。

これにさらに文字数を増やして三文字にすると、一段と具体性が上がります。
「村社会」、「大会社」、「本大会」、「小会場」などと二文字熟語よりもさらに限定的な表現ができます。

文字数が増えれば増えるほど、意味を表す文字が増えますので、より限定的な表現が可能になります。

精確さを求められる表現には漢字が増えるのは、こういう効果があるからなのですね。

音読み漢字は、そのほとんどが名詞での表現になります。
音読み漢字で動詞となるものは、「論じる」、「講じる」、「牛耳る」などでしょうか。



さて、訓読み漢字です。

訓読み漢字の多くは動詞です。
日本オリジナルの動作を表す言葉を漢字の意味を持って表したものがほとんどです。

ですから、同じ読みをもつ訓読み漢字が多数存在します。

ここから、「古代やまとことば」を推測することができると考えています。


例えば、「かく」という動作を表す読みを持つ漢字を拾い出します。
「書く」、「描く」、「画く」、「掻く」、「欠く」などが出てきます。

同じ「かく」という読みを持つ漢字ですが、文字を見ることによって具体的な動作の違いがが見えてくると思います。

これらの同じ訓読みを持つ漢字に共通する動作が、「古代やまとことば」としての「かく」が表すものと推測することができます。

訓読み漢字の成り立ちを逆にたどった方法です。

もともと「かく」という動作を表す言葉が存在していました。
それをより具体化するために意味のある文字として、漢字の意味を充てて作られたのが訓読みです。

同じ読みを持つ訓読み漢字を集めて、共通する動作を見つけてみれば、その読みが持つ「古代やまとことば」としての使われ方が推測できそうです。


「かく」の場合は「掻く」と「欠く」が大きなヒントを与えてくれますね。
動作そのものを表しているからですね。

「書く」、「描く」、「画く」はその対象によって使い分けをしていることが伺えます。


こんなことができるのも、現代日本語が文字の無かった時代の言葉を継承し続けているからですね。

「やまとことばの使い方探し」やってみてはいかがでしょうか?




2014年1月22日水曜日

「いろは歌」に隠されたユダヤ

「いろは歌」に隠された言葉(暗号)があることについては、何度か触れてきました。
(参照:「いろは」に隠された怨念

その時に触れた、「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」に利用されたとする「咎なくて死す」の暗号は、それらの浄瑠璃や歌舞伎が作られたときには誰もが知っているようなことだったと思われます。

では、そもそもの「いろは」の中に「咎なくて死す」を隠したのは誰であり、どんな目的のために折句として埋め込んだのでしょうか?

この辺をできる限り探ってみようと思います。


現存する最古の「いろは歌」は東京の大東急記念文庫にある「金光明最勝王経音義」という、仏教経典の解説書に書かれているものです。

その形式は「咎なくて死す」を見たように七文字七行(最終行は五文字)となっており、私たちが知っている「いろは歌」の形式とは異なっています。


したがって、「いろは」の原点を探ってみるには、元の形である七行形式で考える必要があると思います。

七行形式から見える姿が、あまりにも強烈なために歌としての七五調を充てて、元の暗号を見えにくくしたと言われています。

いずれにしても、四十七文字のすべてを使い切り意味のある文を考え出すだけでも大変な作業であるのに、そこに暗号を隠したうえに歌としての語調までを整えることは、単なる頭の良さを超越した意図を感じざるを得ません。


「いろは」の作者としては弘法大師空海が有力でしたが、定説はありません。

「いろは」に隠された暗号も、いろんな方面からかなり無理のある解釈までがなされていますが、ここではできるだけ素直に扱ってみたいと思います。


日本とイスラエルの関係については、数限りない物証が見つけられており、いまやその関係を否定することが不可能となっています。

原始日本においてイスラエルとの接点を見つける試みはこのブログでも何度かやって来ています。
(参照:記紀神話と聖書の預言


この「いろは」に隠された一番有名な暗号である「咎なくて死す」に値する、歴史的にも一番ふさわしいものはキリストではないでしょうか。

日本とイスラエルとの関係を前提に、ユダヤと日本の智が合わさった時にこの「いろは」ができたと考えると、その巧みさと隠されたものを読み解くヒントがあるのではないかと思います。


まずは、角採りです。
四隅の左下はありませんので、角は五つあります。
3つを採りますと以下のようになります。

ずばり「イエス」が現れてきます。

そうです、聖書の物語が「いろは」に隠されていると推察することができます。


この手のマス目を読み解きするときの基本形があります。
  1. マス目の角を読む
  2. 縦の辺、横の辺を読む
  3. 対角線(斜め線)を読む
  4. ジグザグを読む
基本に従っただけで「イエス」と「咎なくて死す」が現れてきました。
まさしく、「イエス」は「咎なくて死す」の見本のようなものです。

こうなると、「いろは」に聖書が隠されているのではないかと推察されます。
すると「イエス」にあるように、イスラエル(ユダヤ)の聖書の言語に近い外来語が含まれている可能性が考えられます。

そのように見てみると。



ここに横一行目の最後に「ヤアエ」が現れます、そして最終行も最後に「モセス」が現れます。

「ヤアエ」は旧約聖書に語られている創造主の名前であり、神様の名前として世界で共通して使われているものです。

「モセス」はイルラエルを導いた、あの偉大な指導者モーゼではないでしょうか。


さらに、「イエス」の後に残っている2つの角を読んでください。
「シト」となります。
いろは歌の角が「使徒イエス」で囲まれているのです。

この先も「いろは」から展開する、折句としての別の歌が見えてくるようですが、私としてはそこにはかなりのこじつけを感じます。

自然と読める範囲のところで、ご紹介しておきたいと思います。





 

2014年1月21日火曜日

日本語を基準に外国語を学ぶ

日本語の特徴については、ここ何回かで触れてきました。
(参照:気づかなかった日本語の特徴(1)~(6)

では、その素晴らしい言語である日本語と、世界標準語である英語との関係はどのように持ったらいいのでしょうか。

日本人が海外で活動することが当たり前になり、ビジネスそのものもボーダーレスになってきました。

そのためには、英語は不可欠です。



日本語の持っている感性は、英語の感性と大きく異なります。
特に、日本語は言語としては世界的にどの系統にも属さない孤立した存在と言われています。

英語はインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属します。
これに属する言語はドイツ語、オランダ語、ノルウェー語などがあり、他の言語と比較すると文法がきわめて簡素化されています。
また、
語彙としては同じインド・ヨーロッパ語族であるイタリック語派に属するフランス語の影響を大きく受けています。

英語は世界中の言語の中に仲間がたくさんいます。

他の言語の母語話者からすると、比較的馴染み易い言語となっています。

おそらくは、日本語が一番遠いところに位置する言語ではないでしょうか。


日本人が、どんなに他の言語を操ろうとも、認識や思考は母語として身につけた日本語独特の感性から逃れることはできません。

それだけ、幼児期にどの言語で母語を身につけたのかは決定的なものです。

第二言語としてどんなに使いこなせるようになっても、認識や思考についてはすべて母語で行われています。

結果として第二言語に翻訳をしていることになります。

したがって、どんなに第二言語としての英語が使いこなせても、英語による認識や思考はできないのです。


このことが素晴らしいことなのです。

母語としてのアイデンティティがしっかりと確立されているのです。
日本語話者(日本人)としての認識や思考に特徴が出るのです。

日本語は、世界のどの言語に比べてもとんでもなく大きな言語です。

日常語として使用している文字の種類だけでも、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットの4種類を使い分けしています。

どの文字種も、その一種類だけで独立言語として成立するものです。
単純に考えれば、4種類の言語を使い分けしているのが日本語と言えます。

語彙の豊富さと自然や心情描写の豊富さは、他の言語の及ぶところではありません。



言語の持つ感性は、文化そのものです。
言語を使いこなすこなすことは、その文化を使いこなすこととなります。

日本人同士の会話においては、多くの言葉が省略されます。
同じ文化と言語を共有する者同士の会話として、きわめて少ない言語で意志の疎通が可能です。

これをそのまま外国の人が受け取ると、なんといい加減な曖昧な伝達手段であるかと思ってしまいます。

これは日本語の持つごく一部の特徴なのです。

日本語に翻訳された専門書などの評価は全く違います。
原著者自身が、自国語の自分の論文よりもはるかに正確に自分の思ったことを論理立てて説明できていると賞賛するほどです。

日本語はとても懐の広い言語ですので、相手の言語の特徴を理解できれば、同じ日本語であってもそれにふさわしい表現にいくらでも対応できるのです。

同じ内容でも、日本人同士での会話と英語に訳すための表現との使い分けが簡単にできるのです。

相手が英語だけではありません。
世界中のあらゆる言語に対して、この対応が可能なのです。


母語話者として日本語を持つ者は、いつからでも他の言語を母語話者同様に使いこなすことが可能だと言われています。

また、他の母語話者は、どんなことをしても母語話者同様に日本語を使いこなすことは生涯不可能だと言われています。

せっかく日本語を母語として身につけることができる環境にいるのです。
母語は幼児期にしか身につきません。

自分の子どもに、しっかりとした日本語を母語として身につけてあげることこそ、世界を相手に活動できる基本ではないでしょうか。

外国語は使う必要ができてから身につければいいのです。
いくつになってからでも短期間で身につける方法はいくらでもあります。

言葉は生きています、毎日変化していますので今の言葉を身につけなければ意味がありません。
日本語は毎日使っていますので、自然に上書きができています。

すぐに使う予定のない言語を学んでも、実際に使う頃には役に立たないものがたくさんあるのです。


日本語は世界から注目されています。
日本語独特の認識や思考は、世界のあらゆる分野での注目の的です。

まずは、日本語をしっかり使いこなして、日本人として恥ずかしくない認識や思考を身につけなければなりません。
日本語がしっかり使えない者が、身につけた外国語は意味がないのです。

日本語の基本を身につけるべき大切な時期は、おおよそ0歳から10歳です。
特に母語を身につける大切な時期が、2歳から4歳だと言われています。

この時期に他の言語との接触が増えると、日本語そのものがおかしくなります。
基本的な日本語の習得に欠落が起こります。

普段の生活で自然に外来語や外国語に触れることは避けられません、他の言語を教え込むことが一番いけないことです。

幼児期の言語教育による教え込みは、例えそれが日本語であってもとても危険なことです。
絶対に教え込んではいけないのです。

子どもは、生まれた時から(生まれる前から)自然と母語を取得するようになっています。
待つことが大切になります。
より多くの種類の日本語に触れる環境を整えてあげて、じっくりと待つことが母語習得のための理想です。

世界で最も優れた言語を持つ日本人が、なんで幼児期から他の言語を学ぶ必要があるのでしょうか。
それも、世界最高の言語を犠牲にしてまで行う必要があるのでしょうか。
もったいないことだと思います。







2014年1月20日月曜日

言語習得の時期と環境

言語の習得にはそれに相応しい時期があると言われています。
一番多い考え方は、脳の発育にリンクしたものです。

また、脳の発育は言語によってなされているものと考えられています。

何かを認識することも、思考することもすべて言語によってなされているわけですから、一番基礎となる言語(母語)をどの言語にするかによって、その人のすべてが決まってしまいます。


現代では、基本語を選ぶことができる環境にあります。
必ずしも、両親と同じ言語を身につける必要もありませんし、母国語である必要もありません。

しかし、基本言語は一種類しか身につけることができないことがわかっており、幼児期にしか身につかないこともわかっています。

幼児が自分で言語を選べるわけではありませんので、親が基本言語を決めなければいけません。

両親の言語が同じであり、その言語を日常語とする環境にある場合はなんの問題もなく、言語選択という考えすらないと思います。

しかし、海外赴任中であったり、両親の言語が異なったりする場合には、子どもの基本言語の選択は子どもの生涯を左右する大きな決断となります。

ここでは、他の言語との違いに触れながら日本語を基本語とする場合について見ていきます。



言語の習得は以下のような過程でなされていきますが、これは基本言語についてであり、第二言語については当てはまりません。

基本言語の習得は、幼児期の母語の習得に始まります。
この母語によって脳の機能が作られていきます。

民族や地域における考え方の特性は、すべて言語によって形成されるものです。
離れた地域や環境にあっても、母語が同じ言語であれば基本的な考え方や感性の特性は同じものになります。


この母語の習得期間は、幼児期に限定され5歳頃までに習得されるものとされています。

コミュニケーションのための言語ではなく、脳の基本機能や言語感性を身につけるための言語だとされています。

実際の言葉としての言語は、幼児期健忘の現象によってほとんどが消えてしまいます。
母語によって作られた脳の機能に、母語に含まれる感性としての言語感覚が植え付けられて残ることになります。

母語は一つの言語しか身につきませんので、幼児期に多くの言語に触れることになると、それらすべてを包括して一つの言語として対応してしまいます。

すると、どの言語に対しても一般的な言語感覚が身につきませんので、その後のコミュニケーションにおいてとてつもない苦労をすることになります。

同じ言語であったとしても地域や環境において差があるのと同様に、母語の伝承者である母親の言語がすべて全く同じではないので、言語としては日本語であったとしても母語は一人ひとり微妙に異なるものとなります。

母語そのものについては、いろいろな観点から何度となく触れてきていますのでご参照ください。
(参照:ここまでわかってきた「母語」


5歳頃までに母語の習得が完了すると、その次は学習言語の習得になります。

幼稚園や小学校で習う「あいうえお」から始まる国語のことです。

幼児期健忘によって消し去られた言葉としての母語に上書きされる形で、学習言語が習得されていきます。

学習言語はこれによって知識や理論を広く学ぶための言語です。
母語で養われた言語感覚に学習言語が習得されていって、日常言語(第一言語)となります。

学校という環境を中心に10歳頃までかかって、基本的な学習言語を習得します。
その後も言語習得は続きますが、そこでは語彙の増強や文法的な強化などが中心となり、基本的な言語の習得はこのころで完了します。

小学校低学年では、毎日の国語科の授業のほかにも、算数や生活科などの教科書すべてを通じて学習言語の習得が行われます。

低学年の教科は、教科の専門知識の習得ではなく、すべての教科が学習言語の習得のためのものと言えます。

教科の専門性が少しずつ表れてくるのが3年生からです。
社会や理科が加わってきたりするのがこのころです。


この時期は、記憶の保持期間が日々伸びていっている時期となります。
幼児期には一週間もなかった記憶の保持期間が、10歳頃には三週間程度にまで伸びてくると言われています。

いわゆる「もの心がつく」時期となります。
エピソード記憶と言われる、いつ、どこで、だれとについて、自己体験として明確な記憶が残り始めるのがこのころからです。

幼児期の記憶はほとんど残っていませんが、このころの記憶になると割と鮮明に残っているものがあるのはそのためです。


以上のように10歳頃には言語としての基本はほとんど身についていることになります。
これは日本語の場合です。
日本語には、話し言葉としてのひらがな以外に、文字として覚えなければならないものが、カタカナ、漢字、アルファベットとあります。

通常の言語は文字は一種類です。
言語としての習得は6歳頃で完了してしまいます。

身近で2種類以上の文字を持っている言語は韓国(ハングル、漢字)くらいではないでしょうか。

日本語は基本的な習得だけでも、他の言語よりも多くの時間を必要とします。
そのために、学習言語の習得後にしっかり時間をかけて、習得した学習言語を使いこなす技術を身につける時間がないのです。


学習言語の次に身につけるものは、言語を使いこなす技術です。
最適な期間は10歳頃から15歳頃だと言われています。

他の言語においては6歳頃には基本的な言語が身についていますので、小学校の低学年から言語技術の習得が行われます。

自分の意見を発信する技術や、議論の技術が学校において習得されていきます。
小学校の中学年では、議論の場やプレゼンテーション・ディベート的なことも行われます。

日本においては、中学年で基本的な言語の習得はできていますが、日本語が大きすぎるために漢字の書き取りや文章の読解にまだまだ時間がかかります。

結果として、言語技術を習得する場が学校ではほとんどないということになっています。

その後の受験戦争の中では、国語科は採点の容易さからも書き取りと文章読解に焦点が絞られてしまっています。


10歳頃に基本的な道具としての言語を持った子供たちは、その道具を振り回します。
でも、その道具の使い方・技術は身についていないのです。

小学校の高学年から中学生にかけて、いじめがピークになります。
拳銃は持ったけれど使い方がわからない子どもたちが、人に向けて撃ってしまっているのではないでしょうか。

言語技術の習得は、意識して落語研究会や演劇部にでも入らなければ身につきません。
大学を卒業するまでの学校教育では言語技術習得の環境がほとんどありません。

社会に出て、コミュニケーションに悩むうつ病(新型うつ病も)が増加しているのは、こんなことも原因だともいます。

学校の国語教育と言語習得についてはこちらを参考にしていただきたいと思います。
(参照:国語教育の問題について(1)~(5)


日本語が大きくて優秀な言語であるだけに、その習得に時間がかかることは仕方がないことだと思います。

しかし、その後の言語技術の習得は個人任せでは厳しいと思います。
学校教育での言語技術の取り組みが望まれますが、現状では自分で磨いていくしか方法はありません。

世界と触れることの多くなった今では、とても大切な技術だと思います。





2014年1月19日日曜日

オノマトペについて

先日(1月17日)に行なった「やまとことばへの誘い」のセミナーでのアンケートにオノマトペについてのリクエストがありました。

実をいうとオノマトペについては今まで触れるのを避けてきました。

比較的新しい概念で、言葉を見ればわかるようにオノマトペという言葉自体が表れたのは明治の後期以降だと思われます。

触れるのを避けてきた理由は、やまとことばとの関連がよくわからないことと、オノマトペという言葉がフランス語であり語源はギリシャ語からラテン語になってつながっている言葉で実態がつかみにくかったからです。

それでもせっかくリクエストをいただきましたので、わかる範囲で述べてみたいと思います。



フランス語としてのオノマトペの意味するところは「擬声語」とあります。
「擬声語」とは「擬音語」と「擬態語」を合せた総称のことになります。

「擬音語」はモノが発する音や声を、言葉でもって模写・真似たもののことです。
「ドカーン」、「サラサラ」、「ワンワン」などがこれに当たります。

「擬態語」は心情や状態などの本来なら音のない状況を、言葉でもって表したものです。
「ニヤニヤ」、「ヒヤヒヤ」、「ドキドキ」などがこれに当たります。

夏目漱石はこれらのことを音を持って例えることとして「音喩(おんゆ)」という言葉を造りだして呼びました。
おそらくは、オノマトペという言葉が使われる前のことだと思われます。

どちらも、音で表現することに重きが置かれており、文字での表現は二次的な物となっています。
使用文字としてはひらがな・カタカナがほとんどであり、文字だけでは音の持つニュアンスを表すことが難しくなっています。



オノマトペの多さは日本語の特徴の一つと言われています。

日本語の持つ豊富な表現力に貢献していることの一つであることは間違いありません。

オノマトペを見ると、幼児語を思い出す人も多いのではないでしょうか。
オノマトペには「畳語(じょうご)」として2音節の音を繰り返すものが多いので、そのように感じるのではないでしょうか。
「ブーブー」、「わんわん」、「じーじー」、「ぽんぽん」などですね。

幼児期の言語は人の言語の一番基礎になるもので、この言語によって脳の働き方が決まってくるとされています。

ところが、幼児期の記憶は「幼児期健忘」という現象によってほとんどすべてがリセット(消えると言うよりも適している表現だと思います)されてしまいます。

新しい記憶が自分の行動と結びついた「エピソード記憶」として、いつ、だれと、どこでが記憶できるようになることが「もの心がつく」ころと言われる時期になります。

したがって、幼児期の言語は覚えていませんが、その言語によって形成された脳の機能が言語の感覚を持っていることになります。


「とんとん」というリズムに乗った2音節の言葉の繰り返しは、初めて言葉を口にできるようになった幼児にとっては、少ない言葉の繰り返しで表現できる短い音楽のようなものです。

このリズムによる造語の感覚が幼児期の繰り返しによって磨かれていくと思われます。

自他の感覚や時間の感覚、場所の感覚などはありませんので、身近なものを表す言葉から使用できるようになります。

最初に使えるのが名詞になるのはこのことからですね。

あるものを指定するのに、そのモノの色や鳴き声、形や状態を持っている言葉で表現することが始まりでしょう。
そこには擬音や擬態の区別はありません。

「ぶーぶー」、「わんわん」の具体的な物から、だんだんに「かあかあ」、「じいじい」などの身近な人を呼ぶことを覚えます。
さらに、「にぎにぎ」、「とんとん」などの行為の表現から、「うまうま」、「いやいや」などの感情の表現などができるようになります。

どんどん言葉が増えてくると「いたいいたい」、「おいしいおいしい」などと、繰り返す言葉の音節が3つ4つとなっていきます。
ここまで来るとオノマトペとは言えなくなってきますね。



オノマトペとは言語学上の言葉の分類のための言葉ですが、日本語の表現の基本にある言葉の一部であることは間違いないと思います。

幼児期にオノマトペの中のさらに基本語である2音節の畳語によって身につけた日本語は、記憶としてはリセットされても、脳がその使い方を身につけているのだと思います。

「ドボーン」や「ボッチャン」もオノマトペのですが、「パチパチ」や「どんどん」とは成り立ちが異なるものと考えられます。

たぶん、日本人はオノマトペだけでの会話も成立するのではないでしょうか。


オノマトペを語るときのもう一つ触れておく必要があるものが、日本語の自然描写能力です。

日本語の特徴の一つに、自然界の現象や動物や虫の声を言葉をして聞くことができることがあります。
「りーんりーん」、「ころころ」、「すいーっちょ」や「びゅうびゅう」、「ごうごう」、「そよそよ」などですね。

この言語の仲間は、今のところ見つけられているのはポリネシア語だけだと言われています。
それ以外の言語では、これらの音を機械音と同じように雑音として認識するようにできているのです。

日本語とポリネシア語は完全な母音言語だと言われています。
母音の音が自然界に存在する音であることは分かってきました、子音は人間が人工的に生み出した音であって自然音と相容れない音となっているようです。



ここまで見てくると、オノマトペは日本語の幼児語の一部と自然・感情描写語の一部でできていることがわかると思います。

もともと日本にある概念ではないので、ズバリそのものを表すことはできないと思います。

しかし、この概念を持ってきたことによって、日本語の本来持っている特徴が見えてきたことは大いに評価できることでしょう。

もともと、分析的なことや分類的なことは西洋文化が得意とすることです。
その手法が紹介されて、改めて日本古来のものの素晴らしさに気がつくことはよくあることです。

オノマトペをきっかけにして、日本語にもっと興味の目が向けられることはとてもうれしいことですね。



2014年1月18日土曜日

幼児期の専用言語の働き

このブログで意識して扱っているテーマのひとつが「母語」です。
この「母語」の存在に気づかされ、その大切さと共にほとんど目を目けられていないことに驚きました。

「母語」という言葉自体がなじみのない言葉であり、母国語と何が違うのかすら理解されていない状況だと思います。

このことについて知れば知るほど、知らないことの怖さを感じるようになっています。

何とか少しでも多くに人に知ってもらおうと活動をしていますが、伝え方が難しくて日々模索している状況です。


突然、「母語」を大事にしましょう! と言っても何のことだかわかる人はいません。
「母語」という言葉自体の説明に窮してしまい、なかなかその大切さと環境つくりの話までいきません。

結局、分かってきたことは「母語」という言葉をできるだけ使わないで分かってもらう説明をしなければいけないということでした。

そして、結果として「母語」とその大切な環境つくりを理解してもらうためには、日本語そのものについての理解と「幼児期健忘」についての理解が必要なことがわかってきました。

私が伝えたい大切なことは下の図のようになっているのようです。



幼児期の専用言語である「母語」が、人間の形成にとても大きな影響を及ぼしていることは分かってきました。

そして、その「母語」の影響を把握し確認するためには、他の言語と比較した日本語の特徴と幼児期健忘についての理解が必要なことがわかってきました。


5歳くらいまでの幼児期の環境によって、人として生きていく能力に差が出てしまうことがわかってきました。
人として生きていくための基本的なことが、ほとんど幼児期に形成されていることがわかってきました。

しかし、幼児期に身につけたことことのほとんどが、幼児期健忘によって記憶に残らないこともわかってきました。


すべての女性にとって、最初の子どもの子育ては初めての経験になります。
全くやったことのない経験です。

二人目の子供も、普通の場合は上の子が幼児期を脱する前に生まれます。
しっかりと幼児期の子育てを経験してから次の子どもを持てることは、めったにあることではありません。

また、実際の子育ては日々臨機応変な対応の連続です。
じっくり観察したり、経験したりしている暇はありません。


英才教育やお受験対策で幼児期をすごす家族もあります。
おそらくは、子どもの将来のことを思ってやられていることだと思います。

すべてが悪いとは言い切れませんし、それ以外にもっと悪い影響を与えることもあると思います。

幼児期に子どもが何を身につけ、どんな成長過程をしていくかは現象としてかなりのことがわかってきました。

放っておいても、子どもは勝手に必要最低限のことを身につけていくことは分かっています。

周りでできることは二つしかありません。

子どもが自然と身につけていくことに対して妨害をしないことと、より身につけやすい環境を作ってあげることです。

幼児期の英才教育やお受験対策は、本来身につけることの活動を阻害している可能性がとても高いです。
結果として、その目的は達せられても、人として社会で生き抜きていく力に欠落が出てくる可能性が高いのです。




人として生き抜いていくための基礎が形つくられる幼児期の一番の基本活動は、「母語」という幼児期専用の言語による基本脳の形成と言語感覚の習得です。

人としてのすべての活動に対して最も必要とする機能の形成です。

しばらくは、このことをいかにわかりやすく伝えることができるかで悩んでみたいと思います。
時々はアウトプットしてみたいとも思っています。

今の自分の表現力では、及ばないところをもう一度二度三度と試行しながら発していきたいと思います。


今の私がやっていることは、現象としてわかってきたことを共有しようとする活動です。

こういう現象だから、こうしたほうがいいという結論がない内容になっています。
受け取る側にとって、メリットがない内容になっています。

理解できたとして、返ってくる質問もほとんど推測できます。
「じゃ、どうしたらいいの?」です。

幼児期のこのような機能・現象を理解したいという顕在的なニーズもほとんどありません。
幼児期のお子さんがいない人には、全く興味のない内容かもしれません。

だから、尚更より伝わりやすい表現方法を使わなければいけないと思っています。

「母語」という言葉を「幼児期の専用言語」と置き換えていくのはその第一歩です。
先の長い話になりそうですが、少しずつでも進んでいきたいと思います。



2014年1月17日金曜日

なぜ「現代やまとことば」か?

巨大な言語である日本語には、日本語の中でも共通語が必要ではないかと思っています。


母語話者として日本語を使っている人は、日本人の人口よりやや多いと言われています。
世界中の言語の中で9位に位置する人数となっており、決して少ない数ではありません。

ところが、日本語話者の間であっても、会話の理解の割合は、他の言語話者に比較すると少ないと言われています。

つまりは、日本語話者同士の会話であったとしても、決して言いたいことがきちんと伝わっていることではないことを示しています。



その原因としては、日本語が他の言語に比べて圧倒的に表現が豊かであることがあります。
また、
民族の性格として、自分のことを多く語ることを良しをせず、「行間を読む」というような言語外のニュアンスを推察することを重んじるからだと言われています。

ほとんどの人が同じような社会生活を行なっているときは、それでも何の問題もなかったのだと思います。
ところが、
社会の層や幅がどんどん広がるにしたがって、自分の知らない社会が広がっていきます。
より細かくなり専門化していきます。

様々な専門用語が生まれ来るとともに、それまでの言葉も使われ方が変わっていきます。

結果として、同じ日本語のカテゴリーではあっても自分の理解しにくい言葉が増えていくことになります。

特に、漢字はとても造語力のある文字ですので、新たな言葉は日々生まれていると言ってもいいくらいです。



私は「現代やまとことば」として、ひらがな+訓読み漢字による表現を推奨しています。
あまりに便利すぎる漢字に頼ることで、音読みによる同じ音が増えてしまい意味が伝わりにくくなっていると考えているからです。

なぜ、訓読み漢字なのか?
漢字による表現を確認することで、その理由をみていきたいと思います。


日本人は、漢字を使いこなすことによってさまざまな文化を取り込んできました。

漢字は表意文字ですので、文字として見ただけでその意味するところを感じ取ることができます。
しかも、
音読み漢字は簡単に重ねていくことができますので、何文字繋がろうともその意味するところは容易に理解できます。

反対に、漢字がたくさんつながっている言葉ほどその実態をより具体的に正確に表していくことができます。
役所や会社の部署や役職などがそのいい例ですね。


ところが音読み漢字がたくさん重なると、文字としては正確さが増したとしても音として聞いたときには「?」となることが多くなります。

中国語を分からない日本人が中国語の発音を聞いたときに、一生懸命に漢字を思い浮かべようとしていることと同じことが起こります。

音読み漢字は文字として見える場合にはその力を充分に発揮しますが、音としてのみ伝える場合にはとても理解しにくくなるのです。

日本語の発音の基本音は母音を軸とした「ひらがな」の音でできています。
他の言語に比べて基本となる音の数が極めて少なくなっています。

その分、同音異義語が多く存在することになります。
この現象は、音読み漢字において典型的に見受けられます。


馴染のない音読み漢字の重なった言葉を聞いたときには、頭の中でその音を持った漢字を探します。
それが意味のない文字の組合せしか浮かばない場合に「?」となります。

また、
発信側の意味する漢字の組み合わせと異なったものを思い浮かべることもあります。
この場合は、完全な誤解として理解されてしまいます。



また、
音読み漢字には動詞がほとんどありません。
思いつくものは、「論ずる」、「牛耳る」、「講ずる」、「動じる」などでしょうか。

音読み漢字は、そのほとんどが名詞なのです。

これには、漢語の導入前に存在していた文字のない時代の言葉である「古代やまとことば」の存在が大きいです。

漢語導入以前の「古代やまとことば」においては、基本動作を表す言葉は既に存在していました。
その言葉を書き表す文字として漢語を利用しました。
その漢語の読み方が訓読みなのです。

文字としては漢語(漢字)を使いながら、読みとしては「古代やまとことば」を元にしたものが訓読みなのです。

漢字の訓読みは、文字の無かった「古代やまとことば」に対応した充て字なのです。

ですから、訓読みは音では「やまとことば」(ひらがば)になるのです。
音だけで理解できる言葉になるのです。

反対に、訓読み漢字から「古代やまとことば」で使われていた言葉のニュアンスを知ることができます。

例えば「かく」と読む漢字を並べてみましょう。
書く、描く、欠く、掻く、画く、などが出てきます。

これらすべてに共通する動作なり動きが「古代やまとことば」における「かく」という行動になります。


「現代やまとことば」、ひらがなだけで表記できる言葉+訓読み漢字で表記する言葉は音で聞こえるものはすべてひらがな(やまとことば)になります。
漢字を探す必要のない言葉です。
音だけで意味が理解できる言葉です。

伝える環境や条件が厳しくなればなるほど「現代やまとことば」が生きてきます。

時間が少ない場合、視覚が使えない場合、音しか伝えられない場合など文字を補助にできない場合は決定的になります。

一番わかりやすいのは歌の世界です。
人々の心に残る歌の歌詞は、ほとんど「現代やまとことば」が基本となっています。

「現代やまとことば」だけでできている歌詞もたくさんあります。


日本語は素晴らしい言語です。
世界でも有数の表現力を持っています。

それだけに、正確な理解をしてもらうには相手の日本語をよくわからないと伝え方が難しい言語でもあります。

日本語の共通語としての「現代やまとこば」の価値は、ますます高まるのではないでしょうか。


2014年1月16日木曜日

英語を小学校3年生から教えるって!

今朝のテレビを見てビックリしました。
私たちが習った英語が古くて恥ずかしいものなっているとのことでした。

例えば名前を聞かれた時や自己紹介の時に使っていた、My name is ・・・が笑いを誘う表現になるのだそうです。

日本語にすると「拙者、・・・と申す者でござる。」というきわめて古臭い表現になるようです。

公式の場であっても、I'm ・・・が標準だ黄な表現となっているようです。



このテレビ番組の中で、ある高校の英語の授業と文部科学省の英語教育担当者へのインタビューが取り上げられていました。

授業自体が英語で行われており、会話が中心になっています。
英語圏の覇権維持の戦略に乗せられた教育指導要領によるものですね。

英語を学ぶ必要がないことは、このブログでも何回も取り上げて来ました。
是非とも参照していただきたいと思います。

 参照:これからは日本語力・・・英語との付き合い方
    :英語との付き合い方(1)~(3)
    :英語圏の言語戦略


そのテレビ番組のなかで、文部科学省が小学校3年生からの英語授業の導入を考えているということが出てきました。

大反対です。
そもそも、今の5年生から教えること自体にも大反対なのです。

中学校から大学までで、専門課程を除けば8年間は英語を学んできています。

しかし、
英語を実際に使う機会はどれだけあるのでしょうか。
その時に学んだ英語は役に立っているのでしょうか。


英語は太平洋戦争後の教育改革から徐々に取り込まれていったものです。

世界標準語としての地位を獲得した英語は、その地位を維持するために政治的にも外交的にも経済的にもあらゆる力を行使します。

他国の学校教育の内容にも口出しをして、あらゆる力を使って変更させたりします。

このあたりのことは英語圏の言語戦略を是非読んでいただきたいと思います。



日本語の習得には、日本人であっても多くの時間を必要をとします。
基本的なことの習得だけでも最低10歳頃までかかっています。

日本語は世界最高の言語であり、日本語を使いこなせる者は、いくつになっても比較的簡単に他の言語を使いこなせるようになることがわかっています。

この貴重な日本語を身につける機会は、思ったよりも少ないのです。


日本の国語教育にもたくさんの問題がありますが、道具としての英語の習得は使う場面に出会ってからで十分間に合うのです。

日本の国語教育についてはかなり詳しく国語教育の問題について(1)~(5)で述べていますので参考にしていただきたいと思います。


言語に優劣をつけることがどんな意味を持つのかわかりませんが、日本語は私の知る限りでは世界で一番大きな言語です。

小さな言語での母語話者は、より大きな言語については生涯かかっても使いこなせることはありません。
大きな言語の母語話者は、より小さな言語についてはどんな言語であっても比較的簡単に使いこなせるようになることがわかっています。

思考は言語で行われます。
日本語での思考は、英語での思考よりもはるかに大きな思考ができているのです。

英語圏での研究者の中にはこのことを分かっている人がたくさんいます。

その研究者の中には、自分の子供に母語として日本語を身につけさせている人もいます。



日本語が英語よりも言語として劣っているのであれば話は別です。
日本語は世界最高の言語なのです。

言語同士を比較するのに適切な表現が見つかりませんが、日本語>英語 であることは言語上の何をとっても明らかなのです。

日本語は身につけて使いこなせるようになるのはとても大変です。
日本語は大きすぎて、すべての日本語話者が使っている日本語が、すべて違う日本語とも言えるほどです。

日本語話者の使っている言語の集まったものが「日本語」です。
これが日本語ですと言える具体的な物はないのです。

あまり気が付きにくい日本語の特徴についても、つい最近述べています。
参考にしていただき、日本語についての理解を深めて広げていただきたいと思います。
(参照:気づかなかった日本語の特徴(1)~(6)) 


情報影響力のあるテレビで、既成事実のように小学校3年生から英語の授業が始まるように報じられていることに腹が立ちます。

コメントされている文化人の方が、それよりもしっかり日本語を学んでくださいと言っていたことに一安心したところです。

2014年1月15日水曜日

たまに爆発するブログ

ブログに統計のツールがついているのを使ったことがありますか?
設定がわかりにくかったり、使い方がよくわからなかったりしていませんか?


私も、ああ便利そうだなと思っていますが、ちっとも使いこなせません。
今だに、自分のページビューをカウントしない設定ができません。

でも、概数でもどの程度のページビューがあって、リピーターがどのくらいいるものかは知っておきたいですよね。

最近の統計・分析ツールはとてもよくできていて、いろいろなことがわかるようになっていますがきちんと設定をしないと正確さが失われます。
この設定が、分かる人にはいいのですが、素人にはとても分かりにくいものとなっていますね。

人に教えてもらっても、その場では分かったつもりでいるのですが、いざ自分で設定しようとするとなかなかうまくいきません。
知っていることと、できることでは雲泥の差があることの証明を自分でしています。

いじって失敗しながら覚えるしかないようですね。



さて、このブログも毎日更新で270篇になりました。
丸9ヶ月続いたことになります。
もう少しで一年になります、少なくともそこまでは毎日更新を続けたいと思っています。

時々面白いことが起こります。

力が入っているテーマの時ほど読まれないのですね。
自信を持って送り出した内容は、以外と読まれていません。

場つなぎ的にサラッと書いたブログが、何ヶ月もページビューを集め続けていたりします。

私のこのブログの読者数は決して多くありません。
むしろ少ない方だと思います。

現在の月平均のページビューで3,000程度ですので、一日では100程度です。
月間では10,000ページビューで一丁前のブログとしての基準になっているようですので、まだまだです。
ページビューを稼ぐ手も打っていませんので、読んでいただいている方は本当にありがたいと思います。

それでも、9ヶ月やってきたおかげでしょうか、リピーターが25%ほどいます。
この人たちのほとんどは、直接ブログのページにアクセスしてくる人たちです。
平均滞在で2分以上となっていますので、それなりに読んでいただいているのだと思います。

私のブログで一番ページビューを集めているのが、去年の7月3日に投稿した「伊勢神宮にユダヤの陰が」です。

この前後に同じようにユダヤと日本の関係について書いているのですが、このページだけがずば抜けています。
伊勢神宮の遷宮の年でもあったために、一般的な検索において「伊勢神宮」に絡めて引っかかったのではないかと思います。

第2位の「日本語の言葉遊び」(8月8日投稿)に比べると1ヶ月強の投稿時差はありますが、3倍以上のページビューとなっています。

とくに「日本語の言葉遊び」については、同タイトルのページが3つくらいありますが、読まれているのはこの一つだけです。
今年になって突然、日々のアクセスが安定的に多く出ているページです。
 
実は、両方とも書いたときには力が入っていません。
同じような内容のページもたくさんあります。
どちらかと言えば、流して書いた感じの強いページです。

「伊勢神宮に・・・」のページは滞在時間が極端に短いものがたくさんありますので、検索から飛んできてすぐに戻った件数が多いことがわかります。

「日本語の・・・」の方は総数は「伊勢神宮に・・・」にはるかに及びませんが、滞在時間は比較的長くなっていますので、それなりに読まれているのだと思います。


全体数が少ないので何とも言えませんが、SEO対策でもしない限りは、内容でページビューを集めるのは難しいようですね。

とりあえずは、ページタイトルだけは何となく時流の検索ワードにあるようなものを使ったほうがよさそうですが、あとはお任せですね。

過去のブログのページで少しビューが増えてくると、自然と人目に触れることが増えてくるのでしょうか、しばらくはビューが増えます。
まあ、狙ってできることではないようですが。


どうやら私のブログ継続のモチベーションのひとつは、読んでもらうことよりも過去の自分の思考との対比の面白さにあるようです。

過去に扱ったテーマを二度三度と扱うことが全く気にならなくなってからは、特にその傾向が強くなっている気がします。

同じテーマに対して過去の自分の思考との対比は、自分の成長、時には足踏みや後退と出会える貴重な機会です。
ブログがなかったらこんなこと感じなかったでしょうね。

たまに、訳のわからないページがビューを集めていることも面白く見ることができます。
そのタイトルで検索してみると、時流が見えることもあります。

ブログを書き続けていると面白いことがたくさんありますね。





2014年1月14日火曜日

言語の持つ可能性

この正月に改めて日本語の特徴について考えてみました。
(参照:気づかなかった日本語の特徴(1)~(6)

一般的に言われている日本語の特徴とは若干観点が異なるものもあると思います。

言語学的な観点や脳科学的な観点、言語教育的な観点や言語伝承的な観点などいろいろな面からアプローチを試みたつもりです。

更に面白いアプローチもあるのではないかと思います。
それが見つかった時には、また取り上げてみたいと思います。


日本語の特徴として取り上げた内容は、他の言語に比べて日本語全体として持っている特異性ということができると思います。

とくに、他のどの言語体系にも分類できない日本語の特異性は、そのままその言語を使用する日本人の特徴として表れているものと考えていいのではないでしょうか。

あくまでも特徴ですので、場面によってはそれが長所と出たり短所として出たりします。
絶対的な長所・短所となるものはないと言えます。



メリット・デメリットの区分は何らかの目的がある場合に、その目的に対してどういう影響があるかで区分されるものです。

目的を設定するのは人間自身であり、その設定の仕方によっては同じ現象であっても、良い影響を与える場合と悪い影響を与える場合が出てきます。

現象そのものには良いも悪いもない、もともと備わっているものです。

何らかの目的を持った時に、その現象が目的に対してどのような影響を与えることになるかによってメリットとデメリット言う区分が生まれることになります。

目的が明確に精確に設定されていれば、それぞれの現象においてもメリット・デメリットの区分がしやすくなります。

目的が曖昧であればあるほど、区分がわかりにくくなり、判断がしにくくなります。

目的をできる限り明確に精確に表現することが第一歩になりますね。


すべての活動が目的に基づいて行われているわけではありません。
目的のない活動も沢山あります。

そのような活動もすべて、言語を通じてなされているのではないでしょうか。

人が何らかの活動をするとき、必ずそこには言語があるのではないでしょうか。

思考することも知識を得ることも表現することもすべて言語によってなされています。
目的のないおしゃべりも目印や看板もすべて言語によるものです。

人が人として生きていくためには、人との意思疎通ができることが必要です。
人の協力が必要な時には、意志疎通をした上で必要な活動をしてもらわなければなりません。

人は感情によって活動が誘発されことがわかっています。
協力を得たければ、言葉によって相手の感情を協力してもらえるように動かさなければいけません。



私たちは道具としての言語については学校教育を中心に学んできました。
どこまで身についているかどうかは個人に帰することろですね。

しかし、
その道具としての言語をどのように使ったら効果的なのかについては、ほとんど学んだことがありません。
社会人になって、必要に迫られてからセールスやプレゼンなどの片寄った活用術を学んだ人もいると思います。

特に日本語は、基本的な道具としての言語を身につけるだけでも、他の言語に比べて多くの時間がかかります。
他の言語話者が6歳頃には基本言語の習得を完了しているのに対して、日本語は基本言語の学習だけでも10歳頃まで必要としています。

他の言語が小学校の低学年から表現技術や交渉技術を学習する機会が設定されているのに対して、日本語の学習の中には言語技術習得のための内容はほとんどありません。

日本語の習得に関しては、道具としての習得に時間をとられてしまい、言語技術を学んでいる時間がないのです。
結果として、その習得成果でしか効果測定ができないために、書き取りと読解が中心となってしまうのです。

 

日本語の特徴で見てきたように、おそらく日本語は世界最強の言語です。
きわめて巨大な言語です。

大きすぎて、一人ずつの日本語がみんな異なるくらいなのです。

この巨大な言語を道具として、フルで身につけられる人はいないのではないでしょうか。
学習期間においては、道具としての日本語をできるだけ身につけることで精一杯だと思います。

この道具としての日本語を使いこなすためには、個人としての言語技術の習得が必要になってくるのだと思います。

日本語を話し理解することができる人は世界で1億人以上いて、言語話者の人口としては第9位ですが、その中でも日本語を使いこなせる人は極めて少ないと思われます。

使いこなせる人たちも、それぞれの活動分野があります。
文字で人を感動させる使いこなしができる作家の人や、言葉で人を感動させることができる脚本家や作詞家、専門技術分野で専門書を訳す翻訳家などの中にはすばらしい日本語使いがいます。

それぞれの分野で、違った形での日本語使いが存在できるほど、日本語は大きなものだと言えるでしょう。


あまりにも身近にあって、あまりにも簡単に手に入ってしまった日本語という言語の可能性は無限ではないか思うようになっています。

せっかく、世界の他の言語とは驚くほどの違いを持った日本語という原語を持った以上、心を揺さぶる表現の一つでも発してみたいですね。

日本語にはそれだけの可能性が、世界のどの言語よりもたくさん残されているのではないでしょうか。





2014年1月13日月曜日

気づかなかった日本語の特徴(6)

このテーマも最終回となりました。
一般的に言われている日本語の特徴と違ったところもあったと思います。

特に(3)で触れた表現の正確さについては、一般的には日本語の表現は曖昧だと言われいることの方が多いと思います。

日本語の一部だけしか見ていないと、そんなことを指摘してしまったりするんでしょうね。


日本語の特徴
  1. 世界のどの言語体系にも属さない孤立言語
  2. 文字のない時代の言葉をそのまま受け継ぐ言語
  3. 自然の音を「言葉」として受け取る感覚を持つ言語
  4. 比類なき多彩な表現力を持つ言語
  5. 世界の最先端文明を取り込んだ言語
  6. 使いこなすことが世界でも最も難しい言語のひとつ


今回は最後の項目です。

6.使いこなすことが世界でも最も難しい言語のひとつ
何と言っても日常的に使用する文字だけでも、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットと4種類もあります。
しかも、それぞれが単独で表現することも可能な独立した言語として存在できるものです。

単純に言えば日本語は4つ言語を使いこなしている言語であると言うこともできます。

文字の種類だけでも4種類ありますので、言葉によってはどの文字を使って表現したらいいのかということも問題になります。

それも、使う状況によっては同じ言葉でも表記に使う文字が変わったりします。
子供向けに使うときはひらがなにしてみたり、若い人向きにはアルファベットにしてみたりします。
コピーライターなどはこの辺の感覚がないとできない仕事ですね。

複数の表記文字を持つ言語は、身近なところでは韓国(漢字とハングル)くらいしか見当たりませんね。
韓国でも何十年という間、漢字の使用を禁じたために文化が分断されてしまいました。
今も、漢字復活の議論が絶えない状況ですね。



表記文字として意味を持っている表意文字は漢字だけです。
漢字は読みよりも、文字によって意味を伝えるものとなっています。

漢字以外の表記文字はすべて、表音文字となっています。
言葉の音に意味があるものであって、文字は音を表す記号でしかなく、文字そのものに意味はありません。

一般的な表記方法は、漢字かな交じり文です。
必要に応じて、カタカナやアルファベットが使われると考えていいと思います。

ところが、漢字の中にも2種類が存在します。

音読み漢字は完全な表意文字ですが、訓読み漢字は表音文字でもあるのです。
訓読み漢字は両方の特徴を備えた漢字の使用方法ということができるでしょう。

漢語では音読みとしての使用方法しかなかった漢字に対して、古代のやまとことばを表す文字としての訓読みを与えたことはとんでもない発明と言えるでしょう。

漢語の意味をやまとことばに置き換えたときに、送り仮名を伴いながら漢字を使用するようになったと思われます。



表記文字は4種類もありますが、話し言葉としてはひらがなの一種類だけです。
聞こえる言葉もひらがなの音として聞いています。

ひらがなの基本音は47音です。
濁点、半濁点、拗音、撥音などは用法として押さえておけば47音からの展開で使用できます。
すべてを入れても100音はないと思われます。

話すこと聞くこと、つまりは会話をすることだけに限って言えば、日本語は世界でも習得しやすい部類の言語になります。

ところが表記文字が入ってきた途端に、最も難しい言語の一つになってしまいます。



世界の他の言語においては、子供たちが日常言語を習得するのは6歳ごろには完成してしまいます。
小学校に入るころには、ほとんどの言語習得が完了しており、小学校に入学して間もなく基本言語の習得は終了します。

そのあとは、言語の使用技術を学習することになります。

一方、日本の国語科においては、基本言語の習得に10歳ころまでかかるようになっています。

それ以降も言語技術よりも、書き取りや読解に重きが置かれており、学校での学習においては
ほとんど言語技術を学ぶことはありません。

言語習得が難しく時間がかかる分だけ、その言語を使っての技術を学ぶ時間がないのです。

受験対策としての国語科の内容も、書き取りと読解が中心になってしまうため、話すための技術や伝えるための技術、聞くための技術を学ぶことなく社会に出ていくことになります。

そこまでして学んだ日本語においても、社会に出た後で満足にコミュニケーションができないことがたくさんあります。

使いこなすことがとんでもなく難しい言語であるにもかかわらず、使いこなすための技術についてはほとんど学んでいないことになります。



一人ずつの感性だけでもある程度の理解をし合うことは可能ですが、同じ言葉を使っていても意味するところが異なるのが日本語の特徴でもあるのです。

表面上は同じ言葉で会話をしていても、理解していることはかなり隔たっているということが頻繁に起こります。

日本語話者同士の会話ですら、精度を欠くことが多いのです。


いままで見てきたように、日本語は正確さを求めたらとことん追求できる言語であるにもかかわらず、それが生かされていないのです。

他の言語に比べたら巨大すぎるのかもしれませんね、一人ずつの使っている言語は確かに日本語ですが、日本語いう表現が大きすぎるカテゴリーなのかもしれないです。

あなたの日本語と私の日本語はどこまで共通性があるのか、比較してみたら面白いかもしれないですね。




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