2015年5月3日日曜日

ドラえもんに見る人称表現

小説や物語における人物設定は、読み始めの段階で登場人物のキャラクターがつかめないと面白くないものとなってしまいがちです。

かといって、プロフィールを長々と説明されたのではそれだけで嫌になってしまうこともあります。

そんな時によく使われることが、その登場人物が会話で使用する人称(代名詞)です。


人称代名詞の使い方でその人物のキャラクターを鮮明にすることが可能となっているのです。

例えとして、ドラえもんの登場人物で見てみましょう。

小学校5年生の同級の主要登場人物が、のび太、ジャイアン、スネ夫、静香ちゃん、でありここに未来ロボットのドラえもんが関わります。


それぞれの一人称の呼称を見てみましょう。

時としてわざと外した呼び方もあるようですが、キャラクターを明確にするために使い分けられています。

ジャイアン・・・オレ、静香ちゃん・・・わたし、のび太・スネ夫・ドラえもん・・・ぼく、となっています。


のび太、スネ夫、ドラえもんが同じ「ぼく」となっていますが、そこにもイメージとして頭に浮かぶ文字はそれぞれ異なっているのではないでしょうか。

のび太は子どもっぽさが際立っいるのでひらがなの「ぼく」ではないでしょうか。

スネ夫はハイカラさんですので、カタカナの「ボク」となりそうですね。


では、ドラえもんはどうでしょうか。

のび太君の下僕としてのキャラクターから見ると、「僕」となりそうですね。


第一人称は、年齢やその時の環境によって変わってきます。

小さいころは親が呼ぶままに自分の名前を呼んでいます。
自分を指さして「〇〇ちゃん。」と呼ぶ行為ですね。

やがで、子どもながらに男女差が理解できるようになると、「ぼく」「わたし」が使われ始めます。

思春期になると、特に男の子は「ぼく」が子どもっぽく感じられますが、適当な言葉がありません。
家庭の環境によってはそのまま「ぼく」もありますが、反抗期もかぶってくることから「オレ」が使われるようになり、二人称においても「おまえ」が使われるようになります。

女の子は「わたし」のままが多いようですが、それでも「あたい」や「オレ」が使われることもあります。


やがて、社会との接点が増えてくると「わたし」が一般的になってくるようになり、弱者であることを強調したい場合などで「ぼく」を使用するなど、使い分けがされるようになってきます。


他者からどのように呼ばれているかでもキャラクターをさらに鮮明にすることができます。

特に、母親からどのように呼ばれているかで、親離れや独立性を際立たせることになります。

ジャイアン・・・「たけし」、スネ夫・・・「スネちゃま」、のび太・・・「のびちゃん」となっており、同級生のキャラクターの中ではジャイアンが一番自立したワガママ的なキャラクターとして扱われています。


それでも、ジャイアンがお母さんを呼ぶときは「かあちゃん」であり、そこには子どもらしいキャラクターがしっかりと描かれています。

スネ夫とのび太のお母さん及び方は、ともに「ママ」で子どもらしい甘えん坊が見えていますが、お母さんから見た呼び方が少し異なっています。

スネ夫の方は「スネちゃま」であり、いわゆるハイソの象徴としてお手伝いさんの存在が見えてくるようなキャラクターとなっており、のび太の方は「のびちゃん」で、幼児期の呼ばれ方そのままで来ていることが分かります。


登場人物同士の会話のなかで、それぞれがどのような呼称(人称代名詞)で呼ばれているかは、キャラクターを鮮明にするためにとても役に立つことです。

また、イメージされたキャラクターと異なった呼び方が出てくると、描いていたキャラクターが否定されることにもつながるために注意が必要になります。

人称代名詞の会話のなかでの使い方は、キャラクターを鮮明にする効果があると同時にキャラクターを分からなくさせてしまうことにもつながることになります。


登場人物の成長過程やこころの変化を表すためにも、会話や独り言のなかでの人称代名詞の使い方が大きな役割を持ちます。

特に、誰が見ても明らかな「ぼく」から「わたし」への変化などは、会話者の気持ちの大きな変化や場面の瞬間的な変化を表現することができるものとなります。

絵がなくて文字だけで表現されている場合は、更に効果が大きいことになります。


効果が大きいということは、使い方を間違えると逆の影響も大きなことを意味しています。

「ふさわしく」ない人称代名詞の使い方は、読んでいる人を惑わせることになります。

登場人物が多い場合は、特に一人ひとりのキャラクターの違いが明確にならないと話の展開自体が分かりにくくなります。


気に入った小説がテレビ化されたときに、ほとんどの場合はがっかりさせられます。

キャラクターの印象が全く変わってしまうことが多いからですが、言葉で作られて抱いていたイメージが役者のイメージに置き換えられてしまうからではないでしょうか。

役者はそれ自体でキャラクターのイメージを持っていることが多いために、敢えて異なるキャラクターを演じることは違和感が出てしまいます。

その役者のファンであるならばそんな違和感も楽しむことができるのかもしれませんが、物語そのものに興味がある場合には邪魔になることもあります。


反対に、イメージのぴったり合った役者が、まさしく小説にあった通りの決め台詞で人称代名詞を使った時の気持ちよさは何とも言えないものがあります。

たまには、人称代名詞に注目して設定キャラクターを眺めてみるのも面白いかもしれませんね。