何かを伝えようとするときの中心的な方法は言語化をしたうえで話して伝えることと書いて伝えることの二種類になります。
あるデータによれば言語化された情報について口頭によって得ているものと文字によって得ているものの比率は、口頭によるものが80%を占めているそうです。
一般的な情報を得ている方法のうち視覚によるものが80%を占めていると言われていることに比べると、言語における伝達は一般的情報の受け渡しとは異なった注意が必要となっているのではないでしょうか。
このことはそれぞれの言語が持っている特性によっても影響を受けていることでもあると思われます。
日本語を見てみた時に口頭による伝達と文字による伝達とどちらを得意としているのかを考えてみたいと思います。
まずは言語が持っている音と文字について見てみたいと思います。
音と文字が一対一で対応している言語を見たことがありますか?
日常的に使用されている言語ではおそらく存在していないと思います。
そのために人工的に生み出された言語がエスペラント語ということになるのではないでしょうか。
音と文字が一対一で対応しているということは言い換えれば発音記号ということになります。
英語にも発音記号があります。
それは一つの文字が使われ方によって複数の音を持っているから必要とされているものです。
中国語にもピンイン(併音)という音を表すために表記があります。
実は国際音声記号という発音記号が存在しています。
国際音声学会が作っているのですが、世界のあらゆる言語に対して同じ方法で発音の仕方を表記した記号文字になります。
試みとしては素晴らしいと思うのですが、それぞれの言語の持つ音をしっかりと区分して表記するためには巨大な分類体系を必要とするためにとても複雑なものとなってしまっています。
日常的に目にすることがないのは実用としては向かいないからではないでしょうか。
日本語は四種類の文字(漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット)を持っていますが音を表すためにはひらがなを使用しています。
カタカナを使用する場合も増えてきていますが一般的に読みがなと言った場合にはひらがなになるのではないでしょうか。
音としてはひらがなもカタカナも全く同じになりますのでカタカナの音もひらがなの音と同じとして扱いたいと思います。
そうなりますと、四種類の文字に対して一種類の音を持っているのが日本語ということになります。
日本語には発音記号が存在していません。
発音記号の役割を担っているのがひらがなということになります。
そのひらがなは発音記号としては完全なものではありません。
格助詞の「は」は「ワ」と読みますし、目的地を表わす助詞の「へ」は「エ」と読んでいます。
それ以外にも同じひらがなであっても使われ方によっては音が変わるものがいくつか存在しています。
しかしその違っている音もひらがなの持っている音の中のものでありひらがなの音以外の音が存在しているわけではありません。
つまり日本語の音はひらがなの音の一種類しかないことになります。
四種類の文字種類を持ちながらもその音としてはひらがなの一種類の音しか持っていないということはどういうことを示しているのでしょうか。
文字にした時には同じ言葉であっても四種類の表記方法があり、それぞれの文字種類によって独特の感覚やイメージを持っていることになります。
感覚やイメージが同じだとしたら異なった文字種類が存在する必要がないですし実用的に歴史のどこかで淘汰されて消えていったことでしょう。
文字にすることによって文字の種類を使い分けることで同じ言葉であっても微妙なニュアンスの違いを表わしていることになります。
コピーライターなどはこの感覚が優れていないとできない仕事ですね。
ところが話し言葉にしたとたんに文字としてのこの微妙なニュアンスの違いやイメージの違いがなくなってしまうことになります。
音にした瞬間に文字の違いが消えてしまいひらがなの音だけになってしまうからです。
日本語の持っている音の数はひらがなの音の数になります。
五十音表にある清音と言われるひらがなの音は46音です。
音のバリエーションである長短や強弱、音便などは同じ音による言い方の違いとして扱うことができますので「きゃ」「ちょ」などは「きや」「ちよ」のバリエーションとして別の音としては考えないことになります。
そのようにしてみてみると濁音(が、ざ、だ、など)や半濁音(ぱ、ぷ、など)は別の音になりますので計25音を清音に加えた71音が日本語の持っている基本音ということになります。
ところが濁音の中にも「じ」「ぢ」と「ず」「づ」が同じ音ですので、日本語の持っている基本音は合計で69音になります。
言語による音数の違いはそれぞれの数え方によっても異なりますが、どの資料を見ても他の言語に比べた日本語の音数の少なさは突出したものがあります。
さらに、一般的に使われている単語だけでも10,000語を越えていると言われる日本語ではその違いを話し言葉だけから理解することはとても難しいことになります。
(参照:他の言語話者から見た日本語)
世界でも類を見ないくらい少ない音数で世界でも類を見ないくらい多くの言葉を表現していることになる日本語の口頭による情報は、理解するためにはとんでもない能力が必要になっているということではないでしょうか。
日本語の持っている文字のなかで文字自体が意味を持っているものが漢字になります。
完全ではないにしても漢字以外の文字は音を表すための表音文字であり、漢字は意味を表すための表意文字となります。
世界で現存している文字のなかで唯一の表意文字が漢字だと言われています。
表意文字は文字になって初めて意味が分かるものであり読みとしての音からは意味を理解することが難しいものとなります。
漢字は中国文化から借用したものであり、原点にあった音は中国音(呉音、唐音、漢音)です。
それが音読みとして漢字の音に充てられている音になります。
この段階での音読みには日本語としての読み(音)としての意味はありませんので音から意味を理解することは出来ません。
やがて日本語としての音に対しても同じような意味を持つ漢字が使用されるようになり、訓読みとして利用されるようになります。
音としても文字としても意味を持つ言葉になったことになります。
ところがこの音としての意味と文字としての意味が完全に一致しているわけではないのです。
一般的には文字としての意味の方が音としての意味よりもより限定された具体的な場合の方が多くなっています。
このことも文字と音の間での理解の違いを生む原因にもなっているのです。
見てきたように、日本語は世界の言語の中でも究極の文字言語ということができると思います。
それでも、言語による伝達の80%は口頭によって行なわれているのです。
文字による伝達に比べた時にどれほどの内容が欠落しているのかはしっかりと意識しておく必要があるのではないでしょうか。
大切な情報伝達については必ず文字情報を伴うことを意識しておくことも大切ですね。
口頭による情報伝達しかできない場面もたくさんあります。
そんな時にどんなことに気を付けたらいいのかもお伝えしていきたいと思います。
そうです「現代やまとことば」が一番生きてくるのがここです。
(参照:なぜ「現代やまとことば」か?)
話して伝える機会の多い人ほど知っておいてほしいですね。
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・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2016年7月15日金曜日
2016年7月13日水曜日
新しい日本語か?「ほぼほぼ」
あなたは聞いたことがありますか?
「ほぼほぼ」という言葉です。
恐らく今年になってからあちこちで見かけるようになりましたが、SNSでは頻出しているようです。
あるデータによれば仕事上でも40代にまで浸透し始めているようです。
30代までの使用が日常化してきており、それを聞いている40代も自分では意識しないうちに耳に馴染んでしまい知らないうちに使っていることが多いようです。
どうやら日本語の音としてはとても受け入れやすいものとなっているようですね。
若い人たちから広まった言葉であることに間違いはないようでありますが、文字言葉としてではなく日常の話しことばとして使われ始めたと思われます。
音としては日本語の一般的な口語の定番であるオノマトペを踏襲したものとなっており、しかもその意味の持っている何とも言えない軽さによって幅広い使用場面をに対応できるものとなっています。
もとになっている「ほぼ」という言葉自体が非常に漠然としたことや状態を表す言葉となっているので、使用機会の多い言葉となっているものです。
同じ言葉を二つ重ねる場合にもたらされる効果には二つのものがあります。
もともとある言葉をより強調する場合が一つです。
「ダメ」という言葉を重ねることで「ダメダメ」となると、「ダメ」よりもさらに上の重いダメであるという感覚を持つようなものです。
もともとの言葉がはっきりとした厳しいイメージを持っている場合に効果を発揮するものです。
もう一つの効果が言葉を重ねることによってもとの言葉が持っているイメージをより薄くしてボカしてしまう効果があることです。
「ほぼほぼ」はこちらの効果の方が強く出ているのではないでしょうか。
「ほぼ」というイメージも漠然としてしていますが「おおよそ」や「概略」といった意味になります。
二度重ねることによって「ほぼ」よりもさらに薄れたイメージとなって、使用場面を増やしていることになります。
日本語の持っている基本的な性格は文字で意味を表し限定していくことが得意なものです。
それでも日常的な言葉のやり取りは文字を伴わない話し言葉(口頭言語)によることの方が多くなっているものです。
したがって多くの言葉は話し言葉としての使いやすさである音としての伝えやすさが言葉として広がるための大きな要素となっています。
「ほぼほぼ」は音としての軽さや使う場面を選ばない軽い意味など、現代社会において使いやすい要素をたくさん持った言葉ということができると思います。
厳格さを要求される環境においてはそもそもの「ほぼ」という言葉は嫌われる言葉となっています。
その「ほぼ」が重なっている言葉は正確さや厳格さを求められる環境においては嫌われる言葉であることは間違いないと思います。
きちんとした時間やルールのなかで縛られている若者たちが、その反動として「ほぼほぼ」を意識しなくとも気軽に使うようになることは十分に想定できたことではないでしょうか。
その「ほぼほぼ」が40代や50代においても無意識に使われ始めている状況は、その年代においても同じような感覚が伝わっているということだと思われます。
私なども、「ほぼ」と言われると「ほぼじゃなくて正確にはどうなんだ」と言い返したくなる方ですが、「ほぼほぼ」と言われるとなんとなく「それじゃ仕方がないな」と思い込まされてしまう状況にあります。
初めて聞いた時に感じたような違和感もほとんどなくなってしまい、知らないうちに自分でも使っていることに驚いたくらいです。
一般的なビジネスの場でも登場してくるようになった「ほぼほぼ」は今後どのような広がりを見せて定着していくのか、あるいは一時のはやり言葉として消えていくのか注視していきたいと思います。
「どきどき」「ゆらゆら」「ふらふら」などの状態を表す擬態語とは一線を画した表現なのですが使われ方によってはきちんとした分析カテゴリーなど意味のないものとなってしまうかもしれないものです。
使っている人によっては「ほぼほぼ」に込めた意味について、「ほぼ」をさらに薄めたものとしてよりも「ほぼ」よりはもっと明確に確実になったものとして扱っている場面もあるようです。
その人にとっても気軽に使える言葉として、また「ほぼ」よりも薄くも濃くも使うことができる言葉として特に意味を持たさなくとも口癖のように使うこともあるようです。
他の言語には見ることができない極めて日本語らしい言葉であると思います。
ほとんどの新しい言葉は学生生活を送っている若者たちが発信源になることが多くあります。
時間とルールに厳格な生活を余儀なくされながら次から次へと新しい言葉を学習していく環境にありながらも感受性の豊かな感性を持った時代に感覚的に生まれて言葉があります。
地域差があったとしても学生時代の生活環境は社会に出てからの環境よりも共通している部分が多いものとなっています。
それだけ受け入れられる感性にも近いものがあるということになるのではないでしょうか。
「ほぼほぼ」が10代20代だけでなく40代50代までにまで侵透しつつあるということは、そこにも世代を超えた共通する感性が残っていることの表れでもあると思われます。
世代を超えたコミュニケーションのためには大切な要素でもあります。
今や死語となりつつある「ナウい」などよりは日本語としての基本的な感覚を備えた言葉ではないでしょうか。
若者たちの間に広がるカタカナ言葉は今も昔もそれほど変わりがないと思われますが、最近の新しい言葉にはひらがなの感覚が多いと感じているのはわたしだけではないと思います。
日本語の持っている音の感覚はしがらみの少ない若者たちから発信されることで継承されていくのかもしれないですね。
「ほぼほぼ」の使用場面を少しは気にしてみませんか?
最近はテレビやメディアでも登場していますので、ちょっと意識しただけで捕まえることができると思いますよ。
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「ほぼほぼ」という言葉です。
恐らく今年になってからあちこちで見かけるようになりましたが、SNSでは頻出しているようです。
あるデータによれば仕事上でも40代にまで浸透し始めているようです。
30代までの使用が日常化してきており、それを聞いている40代も自分では意識しないうちに耳に馴染んでしまい知らないうちに使っていることが多いようです。
どうやら日本語の音としてはとても受け入れやすいものとなっているようですね。
若い人たちから広まった言葉であることに間違いはないようでありますが、文字言葉としてではなく日常の話しことばとして使われ始めたと思われます。
音としては日本語の一般的な口語の定番であるオノマトペを踏襲したものとなっており、しかもその意味の持っている何とも言えない軽さによって幅広い使用場面をに対応できるものとなっています。
もとになっている「ほぼ」という言葉自体が非常に漠然としたことや状態を表す言葉となっているので、使用機会の多い言葉となっているものです。
同じ言葉を二つ重ねる場合にもたらされる効果には二つのものがあります。
もともとある言葉をより強調する場合が一つです。
「ダメ」という言葉を重ねることで「ダメダメ」となると、「ダメ」よりもさらに上の重いダメであるという感覚を持つようなものです。
もともとの言葉がはっきりとした厳しいイメージを持っている場合に効果を発揮するものです。
もう一つの効果が言葉を重ねることによってもとの言葉が持っているイメージをより薄くしてボカしてしまう効果があることです。
「ほぼほぼ」はこちらの効果の方が強く出ているのではないでしょうか。
「ほぼ」というイメージも漠然としてしていますが「おおよそ」や「概略」といった意味になります。
二度重ねることによって「ほぼ」よりもさらに薄れたイメージとなって、使用場面を増やしていることになります。
日本語の持っている基本的な性格は文字で意味を表し限定していくことが得意なものです。
それでも日常的な言葉のやり取りは文字を伴わない話し言葉(口頭言語)によることの方が多くなっているものです。
したがって多くの言葉は話し言葉としての使いやすさである音としての伝えやすさが言葉として広がるための大きな要素となっています。
「ほぼほぼ」は音としての軽さや使う場面を選ばない軽い意味など、現代社会において使いやすい要素をたくさん持った言葉ということができると思います。
厳格さを要求される環境においてはそもそもの「ほぼ」という言葉は嫌われる言葉となっています。
その「ほぼ」が重なっている言葉は正確さや厳格さを求められる環境においては嫌われる言葉であることは間違いないと思います。
きちんとした時間やルールのなかで縛られている若者たちが、その反動として「ほぼほぼ」を意識しなくとも気軽に使うようになることは十分に想定できたことではないでしょうか。
その「ほぼほぼ」が40代や50代においても無意識に使われ始めている状況は、その年代においても同じような感覚が伝わっているということだと思われます。
私なども、「ほぼ」と言われると「ほぼじゃなくて正確にはどうなんだ」と言い返したくなる方ですが、「ほぼほぼ」と言われるとなんとなく「それじゃ仕方がないな」と思い込まされてしまう状況にあります。
初めて聞いた時に感じたような違和感もほとんどなくなってしまい、知らないうちに自分でも使っていることに驚いたくらいです。
一般的なビジネスの場でも登場してくるようになった「ほぼほぼ」は今後どのような広がりを見せて定着していくのか、あるいは一時のはやり言葉として消えていくのか注視していきたいと思います。
「どきどき」「ゆらゆら」「ふらふら」などの状態を表す擬態語とは一線を画した表現なのですが使われ方によってはきちんとした分析カテゴリーなど意味のないものとなってしまうかもしれないものです。
使っている人によっては「ほぼほぼ」に込めた意味について、「ほぼ」をさらに薄めたものとしてよりも「ほぼ」よりはもっと明確に確実になったものとして扱っている場面もあるようです。
その人にとっても気軽に使える言葉として、また「ほぼ」よりも薄くも濃くも使うことができる言葉として特に意味を持たさなくとも口癖のように使うこともあるようです。
他の言語には見ることができない極めて日本語らしい言葉であると思います。
ほとんどの新しい言葉は学生生活を送っている若者たちが発信源になることが多くあります。
時間とルールに厳格な生活を余儀なくされながら次から次へと新しい言葉を学習していく環境にありながらも感受性の豊かな感性を持った時代に感覚的に生まれて言葉があります。
地域差があったとしても学生時代の生活環境は社会に出てからの環境よりも共通している部分が多いものとなっています。
それだけ受け入れられる感性にも近いものがあるということになるのではないでしょうか。
「ほぼほぼ」が10代20代だけでなく40代50代までにまで侵透しつつあるということは、そこにも世代を超えた共通する感性が残っていることの表れでもあると思われます。
世代を超えたコミュニケーションのためには大切な要素でもあります。
今や死語となりつつある「ナウい」などよりは日本語としての基本的な感覚を備えた言葉ではないでしょうか。
若者たちの間に広がるカタカナ言葉は今も昔もそれほど変わりがないと思われますが、最近の新しい言葉にはひらがなの感覚が多いと感じているのはわたしだけではないと思います。
日本語の持っている音の感覚はしがらみの少ない若者たちから発信されることで継承されていくのかもしれないですね。
「ほぼほぼ」の使用場面を少しは気にしてみませんか?
最近はテレビやメディアでも登場していますので、ちょっと意識しただけで捕まえることができると思いますよ。
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2016年7月8日金曜日
文字言語と音声言語について
3年ほど前に同じテーマで書いていますが、新しい観点も出てきているので改めて触れてみたいと思います。
(参照:音声言語と文字言語)
言語の世界に実際にこんな分類があるのかどうかはよく分かりませんが、日本語の特徴を説明するためには良くできた観点ではないかと思っています。
日本語以外の言語と決定的に違っている最も分かりやすい点は表記文字の種類の多さです。
しかもそれらの表記文字のどれを使っても日本語をほぼ完全に表記することが可能となっているのです。
その中でも完全に表記するために一番難しいのが漢字ではないでしょうか。
漢字以外のひらがな、カタカナ、アルファベット(ローマ字)ではそれぞれ単独でどのような日本語でも完全に表記することが可能となっています。
漢字だけで表記するためには漢文表記の知識がなければできませんが、ある程度のことにつていは一般的な知識の中でも熟語の羅列程度は可能ではないでしょうか。
その意味では日本語を日本語として表記するためには漢字がいちばん相応しくない文字であると言えないこともありません。
実はこの漢字という文字の存在が日本語を分かり難いものとしている根源なのです。
最も標準的な日本語の表記スタイルは漢字とかなの混用による和漢混淆文(わかんこんこうぶん)と言われるものとなります。
呼び方など意識しなくとも日常的に何の抵抗もなく利用している表記方法です。
義務教育で徹底的に漢字を教え込まれた私たちは漢字を使用することに対して意識をしなくともできるまでに鍛え上げられているのです。
漢字という文字がない日本語を考えてみましょう。
表記文字はすべてが音としての「ことば」を表わすための文字だけであり、一文字ずつを見ただけでは「ことば」としての意味が分からないものとなります。
いわゆる表音文字と言われる文字だけになります。
世の中に存在する言語のほとんどが一種類の表音文字しか持たない言語です。
「ことば」の音を表わすための文字しか持っていない音声言語ということができます。
表記された文字は「ことば」としての音を表わすための記号であり、言語によってはそれを分かりやすくするために「ことば」単位でスペースを空けて表記するルールを持っているものもあります。
英語やフランス語、ドイツ語などのほとんどの先進文化圏の言語がそうです。
世界に現存する文字のなかで漢字だけが突出して特殊な文字ということができるのです。
文字そのものに意味がありその文字の成り立ちや構成における論理性を考えた時に、とても人間が作ったものであるとは思えないほどの創造性豊かな表記方法となっています。
しかし、この漢字を文字として持っている中国であっても日常的なコミュニケーションは音声言語としての「ことば」によって行なわれています。
話し「ことば」が通用しなかったりする場合に漢字という共通認識のための文字が登場してくることになります。
主な方言だけでも十以上存在しておりお互いには話し「ことば」として理解できない場面もたくさんあるのが中国語となっています。
その意味では、中国語は方言が通用する者同士の間では音声言語として機能しており、話し「ことば」として理解できない場合に限って文字言語としての機能が発揮されているということができます。
民族間闘争の末に統一されていった中国では話し「ことば」としての方言が敵味方を判断するための大切な要素として機能していました。
どの様な話し「ことば」を持っているかによって生死が分かれてしまうことになっていたのです。
しかも、旧勢力の影響は根絶やしにすることが当たり前に行なわれていましたので訛りを探して追及の手を緩めなかったことが記録されています。
日本語を見てみると漢字という意味を持つ文字に複数の読みを与えながらも四種類の文字を使い分けして表記していることになります。
物事を学習するときには「読み書き」を基本としており口伝はある程度の言語レベルを持った者同士に限られて行なわれていたと思われます。
どうやら、現存する言語の中では日本語は他の先進国の言語とは異なった文字言語として機能しているもののようです。
より正確なことを伝えようとするときは話すことよりも文字を書くことによって行なおうとします。
四種類の文字はたとえ同じ「ことば」を表記したとしても書かれたものではニュアンスが違っています。
感じ、ひらがな、カタカナ、アルファベットで同じ「ことば」を表記してもそれぞれのニュアンスやイメージが変わってしまうのです。
感覚的にこの違いを分かっていないとコピーライターという仕事は成り立たないものとなってしまいますね。
そして、これらの感覚の違いは話し「ことば」としてはすべて同じ音として扱われることになります。
話し「ことば」になったとたんに文字の種類による感覚の違いがなくなってしまうことになります。
世界の現存する言語の中でもこれほど極端な文字言語は存在しないのではないでしょうか。
他の言語においては日本人が思っているよりも話して伝えることは重要なこととなっているのです。
文字として表記し表現することよりも話して伝えることの方が需要視されていると言ってもいいのではないでしょうか。
言語は話し「ことば」から始まったことは歴史を見ても明らかなことでしょう。
幼児の言語の習得過程を見ていてもよく分かるのではないでしょうか。
日本語が持っているこの文字言語としての機能は、使いこなすためにはとんでもない習得過程が必要となります。
表音文字の一種類しか持たない音声言語に比べたら想像もできないくらいの学習要素を持ったものとなっていることは簡単に理解できることです。
この日本語という言語は日本語を母語として持っている者にとっても生涯使いこなすことができない言語なのかもしれません。
日本語という言語の中の一部で十分に生活をし研究をし娯楽をして生きていけるものなのかもしれません。
それほど大きな機能を持った言語ということができるのではないでしょうか。
なぜ、日本民族にだけこんなにも高機能の言語が継承されているのでしょうか。
それと気づかずに伝承されて、さらに新しい言語文化を取り込みながらも変化し続けているのでしょうか。
ますます日本語の中でも共通語としての国語としての役割が大切になっていくのではないでしょうか。
国語は日本語の中のほんの一部を限定的に共有しているものでしかありません。
しかし、あらゆる学習は国語によって行なわれているものとなっています。
しかも、どんな方言のある日本語の地域であろうとも義務教育において極めて厳格に統一的に学習されているものとなっています。
文字言語であるからこそ「読み書き、書き取り」が重要視されてきたのです。
日本語を最も生かすためには文章として表記することになりそうですね。
それでも日本語を母語として持っている人にしかそのニュアンスは伝わらないのかもしれませんね。
文字言語である日本語を知的活動で生かすためにはとにかく文字化することが大切になります。
音声言語である外国語との交渉においてはひと工夫もふた工夫も必要になることは当たり前ですね。
日本語を知ることによって相手の言語の特徴も知的活動も理解できていくのではないでしょうか。
どうやら日本語の研究はどこまで行っても終わりのない活動のようです。
また、新しい発見があるたびに報告していきたいと思います。
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(参照:音声言語と文字言語)
言語の世界に実際にこんな分類があるのかどうかはよく分かりませんが、日本語の特徴を説明するためには良くできた観点ではないかと思っています。
日本語以外の言語と決定的に違っている最も分かりやすい点は表記文字の種類の多さです。
しかもそれらの表記文字のどれを使っても日本語をほぼ完全に表記することが可能となっているのです。
その中でも完全に表記するために一番難しいのが漢字ではないでしょうか。
漢字以外のひらがな、カタカナ、アルファベット(ローマ字)ではそれぞれ単独でどのような日本語でも完全に表記することが可能となっています。
漢字だけで表記するためには漢文表記の知識がなければできませんが、ある程度のことにつていは一般的な知識の中でも熟語の羅列程度は可能ではないでしょうか。
その意味では日本語を日本語として表記するためには漢字がいちばん相応しくない文字であると言えないこともありません。
実はこの漢字という文字の存在が日本語を分かり難いものとしている根源なのです。
最も標準的な日本語の表記スタイルは漢字とかなの混用による和漢混淆文(わかんこんこうぶん)と言われるものとなります。
呼び方など意識しなくとも日常的に何の抵抗もなく利用している表記方法です。
義務教育で徹底的に漢字を教え込まれた私たちは漢字を使用することに対して意識をしなくともできるまでに鍛え上げられているのです。
漢字という文字がない日本語を考えてみましょう。
表記文字はすべてが音としての「ことば」を表わすための文字だけであり、一文字ずつを見ただけでは「ことば」としての意味が分からないものとなります。
いわゆる表音文字と言われる文字だけになります。
世の中に存在する言語のほとんどが一種類の表音文字しか持たない言語です。
「ことば」の音を表わすための文字しか持っていない音声言語ということができます。
表記された文字は「ことば」としての音を表わすための記号であり、言語によってはそれを分かりやすくするために「ことば」単位でスペースを空けて表記するルールを持っているものもあります。
英語やフランス語、ドイツ語などのほとんどの先進文化圏の言語がそうです。
世界に現存する文字のなかで漢字だけが突出して特殊な文字ということができるのです。
文字そのものに意味がありその文字の成り立ちや構成における論理性を考えた時に、とても人間が作ったものであるとは思えないほどの創造性豊かな表記方法となっています。
しかし、この漢字を文字として持っている中国であっても日常的なコミュニケーションは音声言語としての「ことば」によって行なわれています。
話し「ことば」が通用しなかったりする場合に漢字という共通認識のための文字が登場してくることになります。
主な方言だけでも十以上存在しておりお互いには話し「ことば」として理解できない場面もたくさんあるのが中国語となっています。
その意味では、中国語は方言が通用する者同士の間では音声言語として機能しており、話し「ことば」として理解できない場合に限って文字言語としての機能が発揮されているということができます。
民族間闘争の末に統一されていった中国では話し「ことば」としての方言が敵味方を判断するための大切な要素として機能していました。
どの様な話し「ことば」を持っているかによって生死が分かれてしまうことになっていたのです。
しかも、旧勢力の影響は根絶やしにすることが当たり前に行なわれていましたので訛りを探して追及の手を緩めなかったことが記録されています。
日本語を見てみると漢字という意味を持つ文字に複数の読みを与えながらも四種類の文字を使い分けして表記していることになります。
物事を学習するときには「読み書き」を基本としており口伝はある程度の言語レベルを持った者同士に限られて行なわれていたと思われます。
どうやら、現存する言語の中では日本語は他の先進国の言語とは異なった文字言語として機能しているもののようです。
より正確なことを伝えようとするときは話すことよりも文字を書くことによって行なおうとします。
四種類の文字はたとえ同じ「ことば」を表記したとしても書かれたものではニュアンスが違っています。
感じ、ひらがな、カタカナ、アルファベットで同じ「ことば」を表記してもそれぞれのニュアンスやイメージが変わってしまうのです。
感覚的にこの違いを分かっていないとコピーライターという仕事は成り立たないものとなってしまいますね。
そして、これらの感覚の違いは話し「ことば」としてはすべて同じ音として扱われることになります。
話し「ことば」になったとたんに文字の種類による感覚の違いがなくなってしまうことになります。
世界の現存する言語の中でもこれほど極端な文字言語は存在しないのではないでしょうか。
他の言語においては日本人が思っているよりも話して伝えることは重要なこととなっているのです。
文字として表記し表現することよりも話して伝えることの方が需要視されていると言ってもいいのではないでしょうか。
言語は話し「ことば」から始まったことは歴史を見ても明らかなことでしょう。
幼児の言語の習得過程を見ていてもよく分かるのではないでしょうか。
日本語が持っているこの文字言語としての機能は、使いこなすためにはとんでもない習得過程が必要となります。
表音文字の一種類しか持たない音声言語に比べたら想像もできないくらいの学習要素を持ったものとなっていることは簡単に理解できることです。
この日本語という言語は日本語を母語として持っている者にとっても生涯使いこなすことができない言語なのかもしれません。
日本語という言語の中の一部で十分に生活をし研究をし娯楽をして生きていけるものなのかもしれません。
それほど大きな機能を持った言語ということができるのではないでしょうか。
なぜ、日本民族にだけこんなにも高機能の言語が継承されているのでしょうか。
それと気づかずに伝承されて、さらに新しい言語文化を取り込みながらも変化し続けているのでしょうか。
ますます日本語の中でも共通語としての国語としての役割が大切になっていくのではないでしょうか。
国語は日本語の中のほんの一部を限定的に共有しているものでしかありません。
しかし、あらゆる学習は国語によって行なわれているものとなっています。
しかも、どんな方言のある日本語の地域であろうとも義務教育において極めて厳格に統一的に学習されているものとなっています。
文字言語であるからこそ「読み書き、書き取り」が重要視されてきたのです。
日本語を最も生かすためには文章として表記することになりそうですね。
それでも日本語を母語として持っている人にしかそのニュアンスは伝わらないのかもしれませんね。
文字言語である日本語を知的活動で生かすためにはとにかく文字化することが大切になります。
音声言語である外国語との交渉においてはひと工夫もふた工夫も必要になることは当たり前ですね。
日本語を知ることによって相手の言語の特徴も知的活動も理解できていくのではないでしょうか。
どうやら日本語の研究はどこまで行っても終わりのない活動のようです。
また、新しい発見があるたびに報告していきたいと思います。
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2016年7月1日金曜日
「海海海海海」って何て読む?
今日は海開きのところも多いのではないでしょうか。
「海」という漢字が五つ続けて書かれています。果たして何と読むのでしょう。
「海」という漢字の読みは常用漢字としては音読みでは「カイ」ですし、訓読みでは「うみ」の一種類ずつです。
五つの海で「ゴカイ」。そんな読み方もできますね。
もう一捻りしてある感じですね。
人名漢字として使われるときなどには天海のように「み」と読ませる場合もあります。
それ以外の読み方に思い当たるものがあるでしょうか。
ヒントは「海」という漢字を使った熟語を考えてみることです。
「海」を使った熟語にはどんなものがあるでしょうか。
一番多いものは海に棲む動物の名前ではないでしょうか。
動物の前に思い浮かぶものがあるかもしれません。
朝の連続テレビ小説で有名になった「海女」(あま)が筆頭にあげられるのではないでしょうか。
勘の鋭い人はこの段階でなんとなく想像ができたかもしれませんね。
「あ」と読むことができる「海」が見つかったことと、五つ並んでいることが大きなヒントになりますね。
「海豚」「海胆」「海老」の読み方を見てみましょう。
「いるか」「うに」「えび」になりますね。
更に馴染みはあまりないのですが「海草」とかいて「おご」という読み方があるようです。
オゴノリという海藻は日本に広く分布しており食用として古くから利用されていたようです。
これで分かりますね。
「海海海海海」は「あいうえお」と読むことができるということになります。
「海草」の「おご」という読みがもっと一般化していればなるほどと思う人も多いのではないでしょうか。
ここで利用されてる読みのすべてが音読みでないことはすぐにわかることですが、果たして訓読みと言っていいものかどうかはどうでしょうか。
訓読みの本来の意味は一文字の漢字について日本語の持っている意味をひらがなことば(やまとことば)で充てたものです。
ここで使われている読み方はすべて「海」を使用した熟語となっていますので、熟字訓と言われるものとなります。
熟字訓の特徴としては熟語としての漢字が持っている意味の当て字的な要素が強いために単漢字に分解しても読みの要素は見つけることができません。
単漢字はそれぞれの字訓を持っていますがそれを利用することなく二字をまとめてひとつの訓を与えた読み方となります。
単なる当て字とは異なり漢字としての文字の持っている意味と日本語としてのことばの意味をうまく融合させた日本独特の漢字の使い方の一つです。
熟字訓には「大人」(おとな)のように単漢字の訓からそれほど離れていないために文字から想像できるものから、「飛鳥」(あすか)のように単漢字の訓からは想像もできない意味までかけ離れているものまであります。
漢語を導入したころの中国文明は世界の最先端を行っているものでした。
そこで持っている言葉は当時の文字のない日本が持っている言葉よりも遥かに多かったと推測されます。
漢語の持っている音と意味の情報だけで文字のなかった日本語が持っている言葉をカバーすることができなかったのでしょうか。
単漢字の訓読みだけで対応できないほど文字のない日本語は豊かな言葉を持っていたのでしょうか。
熟字訓は単漢字の訓読みができたおかげで生まれてきたものということができます。
漢字を理解するときには音読みだけでは意味が分からないものとなります。
訓読みがあることによって日本語の音のある言葉として理解できることになります。
音読みだけで意味が作られているのは学術的な記号であったり固有名詞くらいのものではないでしょうか。
音だけしかなかったやまとことばは私たちが思っている以上の言葉を持っていたのではないでしょうか。
音にしか意味のなかった言葉でできていたやまとことばが文字としても意味のある漢語と出会ったことで音と文字の両方で意味を表すことができるようになりました。
世界に類のないとんでもない表現力を持った言語が出来上がったのではないでしょうか。
文字として表すときには漢字としてのメリットを生かすこと、話すときにはやまとことばとしてのメリットを生かすことを考えれば凄いことになりそうです。
まだまだ日本語の使い方はいろいろなことが考えられそうですね。
楽しくなるばかりです。
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・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
「海」という漢字が五つ続けて書かれています。果たして何と読むのでしょう。
「海」という漢字の読みは常用漢字としては音読みでは「カイ」ですし、訓読みでは「うみ」の一種類ずつです。
五つの海で「ゴカイ」。そんな読み方もできますね。
もう一捻りしてある感じですね。
人名漢字として使われるときなどには天海のように「み」と読ませる場合もあります。
それ以外の読み方に思い当たるものがあるでしょうか。
ヒントは「海」という漢字を使った熟語を考えてみることです。
「海」を使った熟語にはどんなものがあるでしょうか。
一番多いものは海に棲む動物の名前ではないでしょうか。
動物の前に思い浮かぶものがあるかもしれません。
朝の連続テレビ小説で有名になった「海女」(あま)が筆頭にあげられるのではないでしょうか。
勘の鋭い人はこの段階でなんとなく想像ができたかもしれませんね。
「あ」と読むことができる「海」が見つかったことと、五つ並んでいることが大きなヒントになりますね。
「海豚」「海胆」「海老」の読み方を見てみましょう。
「いるか」「うに」「えび」になりますね。
更に馴染みはあまりないのですが「海草」とかいて「おご」という読み方があるようです。
オゴノリという海藻は日本に広く分布しており食用として古くから利用されていたようです。
これで分かりますね。
「海海海海海」は「あいうえお」と読むことができるということになります。
「海草」の「おご」という読みがもっと一般化していればなるほどと思う人も多いのではないでしょうか。
ここで利用されてる読みのすべてが音読みでないことはすぐにわかることですが、果たして訓読みと言っていいものかどうかはどうでしょうか。
訓読みの本来の意味は一文字の漢字について日本語の持っている意味をひらがなことば(やまとことば)で充てたものです。
ここで使われている読み方はすべて「海」を使用した熟語となっていますので、熟字訓と言われるものとなります。
熟字訓の特徴としては熟語としての漢字が持っている意味の当て字的な要素が強いために単漢字に分解しても読みの要素は見つけることができません。
単漢字はそれぞれの字訓を持っていますがそれを利用することなく二字をまとめてひとつの訓を与えた読み方となります。
単なる当て字とは異なり漢字としての文字の持っている意味と日本語としてのことばの意味をうまく融合させた日本独特の漢字の使い方の一つです。
熟字訓には「大人」(おとな)のように単漢字の訓からそれほど離れていないために文字から想像できるものから、「飛鳥」(あすか)のように単漢字の訓からは想像もできない意味までかけ離れているものまであります。
漢語を導入したころの中国文明は世界の最先端を行っているものでした。
そこで持っている言葉は当時の文字のない日本が持っている言葉よりも遥かに多かったと推測されます。
漢語の持っている音と意味の情報だけで文字のなかった日本語が持っている言葉をカバーすることができなかったのでしょうか。
単漢字の訓読みだけで対応できないほど文字のない日本語は豊かな言葉を持っていたのでしょうか。
熟字訓は単漢字の訓読みができたおかげで生まれてきたものということができます。
漢字を理解するときには音読みだけでは意味が分からないものとなります。
訓読みがあることによって日本語の音のある言葉として理解できることになります。
音読みだけで意味が作られているのは学術的な記号であったり固有名詞くらいのものではないでしょうか。
音だけしかなかったやまとことばは私たちが思っている以上の言葉を持っていたのではないでしょうか。
音にしか意味のなかった言葉でできていたやまとことばが文字としても意味のある漢語と出会ったことで音と文字の両方で意味を表すことができるようになりました。
世界に類のないとんでもない表現力を持った言語が出来上がったのではないでしょうか。
文字として表すときには漢字としてのメリットを生かすこと、話すときにはやまとことばとしてのメリットを生かすことを考えれば凄いことになりそうです。
まだまだ日本語の使い方はいろいろなことが考えられそうですね。
楽しくなるばかりです。
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2016年6月22日水曜日
四種の文字と一種の音
私たちの情報伝伝達における中心的な方法は文字による表記と話し言葉による二種類になります。
これは日本語だけに限ったことではなく文字を持つ言語にとっては当たり前のことだと言えます。
もちろんその前提には文字を持った言語は必ず口頭言語としての音による表現も同時に持っていることになります。
言語の成り立ちからすれば口頭言語の存在の方が文字よりも先にあったことは明らかであり、それは文字を持たない言語の存在からも確認されていることでもあります。
現存する多くの言語が文字の持っている役割として音を意味する発音記号的な役割である表音文字であることが日本語や中国語との特徴を異にすることになります。
文字として単独で意味を持つ表意文字は現在において日常的に使用されている文字の中では漢字だけだと言われています。
文字自体が意味を持っていることから、言葉としての音が分からなくとも漢字という文字のみによってその言葉が持っている意味を理解することが可能となっています。
そのために、話し言葉としての伝達方法よりも文字による伝達方法の方がより精度の高いものとなっていることになります。
表意文字を持っていない言語においては文字にして記録することに対して日常的な場面においてはそれほど重きを置いていない傾向があります。
後で確認が必要となることや記録として残しておく必要のある内容についてのみ文字化している傾向があり、実際の情報伝達においては口頭表現のウエイトが多くなっていると思われます。
そのために、書くことよりも話す技術の方が重要視されておりかなりの教育レベルを修了した者であってもスペルのミスは散見されることがあります。
読む技術は話すために必要な技術であり一緒に扱われることが多いですが、書く技術とは一線を画したものとなっている場合が多いようです。
見た目からわかる日本語の特徴として使用している文字種の多さがあります。
ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットの四種類が日常的に使われています。
漢語・漢文的な表現ができる人にとっては漢字だけで表現することも可能ですし、ローマ字であればアルファベットだけで表現することも可能なのが日本語です。
その意味では、四種類の文字のすべてで単独での日本語表現が可能な文字であると言うこともできます。
しかし、敢えて日本語の標準表記方法を撰ぶとしたら漢字かな混用表記ということになるのではないでしょうか。
その基本形に対してカタカナやアルファベットを必要に応じて使い分けしているということだと思われます。
そのようにして見てみると、日本語になり切っていない言葉や外来語の表記についてはカタカナやアルファベットで行なわれていることが分かってくると思われます。
もともとは外来語であっても漢字やひらがなで適切な日本語表現がなされた言葉については、明治期に大量に生み出された言葉のように日本語として定着しているものだと思われます。
日本語として定着しきれなかった言葉や適切な日本語に翻訳できなかった言葉、あるいは本来の言葉が持っているニュアンスを上手く日本語にできなかった言葉などがカタカナやアルファベットで表記されているのだと思われます。
特にアルファベットについては元の言葉がアルファベット言語で表記されたいたニュアンスをそのまま伝えたいときにはよく使われるのではないでしょうか。
使い始めの場合においてもいろいろ試した日本語での表記に対してどことなく違和感を感じるために原語表記を残しておきたくなるのではないでしょうか。
それだけ原語のニュアンスに対しても敏感になってきて違いを感じられるようになってきているという証でもあると思われます。

文字表記上の四種類の文字の使い分けはコピーライターは勿論のこと一般的な表記においても気にしていることではないでしょうか。
伝える相手を考慮しての言葉の選択は当たり前にしても、決まった言葉に対しての文字の選択にも自然と注意を払っているのではないでしょうか。
表記文字を一種類しか持たない言語に比べると余分な活動であり手間であると言うこともできると思います。
また、それだけ同じ言葉に対しての表現が豊かであるということでもあります。
文字を一種類しか持たない言語に比べると表現が豊かであるが故の問題も存在していることになります。
それは、文字上では四種類の文字の使い分けによるニュアンスや感覚の違いを表現できる豊かさがあったとしても、その言葉を話したときには文字の種類による違いを表現できないことがあります。
話しことばとしての日本語が持っている音は一種類でありそれは四種類の文字の違いを表現できるだけの音になっていないということです。
話しことばとしての日本語が持っている音は「ひらがなの音」だけになっています。
それは言文一致の政策としてひらがな五十音が定められた時からまったく変わっていないことになります。
ひらがな五十音と言っても実際の音は五十音表に載ってる46音になります。
それ以外に明確に異なっている音としては濁音・半濁音の25音ではないでしょうか。
その他の音はこれらの音の組み合わせとしてのバリエーションと言えると思います。
つまりは「ひらがなの音」は基本音71音でできていることになります。
小さなひらがなで表されるような音は単独の音としてよりも基本音の言い方のバリエーション(長短や音便など)として扱うことの方が適していると思われます。
そのようにしてみてみると、日本語は世界の現存する言語の中でも極めて音数の少ない言語であることが分かります。
同じ漢字を使っている中国語を見てみると、母音だけでも36音あり音数の合計ではゆうに400音を超えるものとなります。
英語の場合にはいくつあるのかさえわかりませんが2,000音以上はあると言われています。
同じような基準で小さなひらがなまでも入れても120音あるかないかといったところが日本語の音です。
中国語も英語も表記文字は一種類です。
どちらもあまりに多い音に対して発音記号を持っているのも共通していることかもしれませんね。
基本的には文字(単語)と音が一種類ずつしかない言語だということができます。
文字にして表現しても言葉として話したとしても表し方は一種類しかないことになります。
したがって、文字表記と話し言葉が同じ理解をされることになり、そこにはほとんどギャップが存在しないことになります。
ところが日本語はニュアンスや感覚が異なる四種類の文字表記が可能にもかかわらず話しことばとしては一種類しか持っていないことになります。
話しことばでは文字の種類の違いの感覚を表現することは出来ないことになってしまいます。
しかも圧倒的に少ない音数で表現するとんでもない豊かな表現には、必然的に同じ音によって表現される言葉が出てきてしまいます。
いわゆる、同音異義語です。
異なった漢字で読みが同じものだけが同音異義語ではないのです。
四種類の文字と一種類の音との間には大きな表現力の違いが存在していると思われます。
ある程度の教育を受けた者は日本語を言葉として理解しているのは文字によって行なっています。
多くの同音異義語から適切な言葉を見つけるのは文字の違いによる意味の違いを理解しているからです。
人の話しを聞いた時には行なっているこれらの活動は、自分が話すときにはどうなっているのでしょうか。
文字になっているものと聞いているだけのものとの間には大きなギャップが存在しているのが日本語だと思われます。
それを意識しないで伝達が行なわれていることはどこかでもの凄い知的活動が無意識に行なわれているのでしょうね。
これだけ文字を使いこなしている日本語はやっぱり大きな言語だと思います。
日本語だけの環境にいたのでは分からないことかもしれないですね。
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これは日本語だけに限ったことではなく文字を持つ言語にとっては当たり前のことだと言えます。
もちろんその前提には文字を持った言語は必ず口頭言語としての音による表現も同時に持っていることになります。
言語の成り立ちからすれば口頭言語の存在の方が文字よりも先にあったことは明らかであり、それは文字を持たない言語の存在からも確認されていることでもあります。
現存する多くの言語が文字の持っている役割として音を意味する発音記号的な役割である表音文字であることが日本語や中国語との特徴を異にすることになります。
文字として単独で意味を持つ表意文字は現在において日常的に使用されている文字の中では漢字だけだと言われています。
文字自体が意味を持っていることから、言葉としての音が分からなくとも漢字という文字のみによってその言葉が持っている意味を理解することが可能となっています。
そのために、話し言葉としての伝達方法よりも文字による伝達方法の方がより精度の高いものとなっていることになります。
表意文字を持っていない言語においては文字にして記録することに対して日常的な場面においてはそれほど重きを置いていない傾向があります。
後で確認が必要となることや記録として残しておく必要のある内容についてのみ文字化している傾向があり、実際の情報伝達においては口頭表現のウエイトが多くなっていると思われます。
そのために、書くことよりも話す技術の方が重要視されておりかなりの教育レベルを修了した者であってもスペルのミスは散見されることがあります。
読む技術は話すために必要な技術であり一緒に扱われることが多いですが、書く技術とは一線を画したものとなっている場合が多いようです。
見た目からわかる日本語の特徴として使用している文字種の多さがあります。
ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットの四種類が日常的に使われています。
漢語・漢文的な表現ができる人にとっては漢字だけで表現することも可能ですし、ローマ字であればアルファベットだけで表現することも可能なのが日本語です。
その意味では、四種類の文字のすべてで単独での日本語表現が可能な文字であると言うこともできます。
しかし、敢えて日本語の標準表記方法を撰ぶとしたら漢字かな混用表記ということになるのではないでしょうか。
その基本形に対してカタカナやアルファベットを必要に応じて使い分けしているということだと思われます。
そのようにして見てみると、日本語になり切っていない言葉や外来語の表記についてはカタカナやアルファベットで行なわれていることが分かってくると思われます。
もともとは外来語であっても漢字やひらがなで適切な日本語表現がなされた言葉については、明治期に大量に生み出された言葉のように日本語として定着しているものだと思われます。
日本語として定着しきれなかった言葉や適切な日本語に翻訳できなかった言葉、あるいは本来の言葉が持っているニュアンスを上手く日本語にできなかった言葉などがカタカナやアルファベットで表記されているのだと思われます。
特にアルファベットについては元の言葉がアルファベット言語で表記されたいたニュアンスをそのまま伝えたいときにはよく使われるのではないでしょうか。
使い始めの場合においてもいろいろ試した日本語での表記に対してどことなく違和感を感じるために原語表記を残しておきたくなるのではないでしょうか。
それだけ原語のニュアンスに対しても敏感になってきて違いを感じられるようになってきているという証でもあると思われます。
文字表記上の四種類の文字の使い分けはコピーライターは勿論のこと一般的な表記においても気にしていることではないでしょうか。
伝える相手を考慮しての言葉の選択は当たり前にしても、決まった言葉に対しての文字の選択にも自然と注意を払っているのではないでしょうか。
表記文字を一種類しか持たない言語に比べると余分な活動であり手間であると言うこともできると思います。
また、それだけ同じ言葉に対しての表現が豊かであるということでもあります。
文字を一種類しか持たない言語に比べると表現が豊かであるが故の問題も存在していることになります。
それは、文字上では四種類の文字の使い分けによるニュアンスや感覚の違いを表現できる豊かさがあったとしても、その言葉を話したときには文字の種類による違いを表現できないことがあります。
話しことばとしての日本語が持っている音は一種類でありそれは四種類の文字の違いを表現できるだけの音になっていないということです。
話しことばとしての日本語が持っている音は「ひらがなの音」だけになっています。
それは言文一致の政策としてひらがな五十音が定められた時からまったく変わっていないことになります。
ひらがな五十音と言っても実際の音は五十音表に載ってる46音になります。
それ以外に明確に異なっている音としては濁音・半濁音の25音ではないでしょうか。
その他の音はこれらの音の組み合わせとしてのバリエーションと言えると思います。
つまりは「ひらがなの音」は基本音71音でできていることになります。
小さなひらがなで表されるような音は単独の音としてよりも基本音の言い方のバリエーション(長短や音便など)として扱うことの方が適していると思われます。
そのようにしてみてみると、日本語は世界の現存する言語の中でも極めて音数の少ない言語であることが分かります。
同じ漢字を使っている中国語を見てみると、母音だけでも36音あり音数の合計ではゆうに400音を超えるものとなります。
英語の場合にはいくつあるのかさえわかりませんが2,000音以上はあると言われています。
同じような基準で小さなひらがなまでも入れても120音あるかないかといったところが日本語の音です。
中国語も英語も表記文字は一種類です。
どちらもあまりに多い音に対して発音記号を持っているのも共通していることかもしれませんね。
基本的には文字(単語)と音が一種類ずつしかない言語だということができます。
文字にして表現しても言葉として話したとしても表し方は一種類しかないことになります。
したがって、文字表記と話し言葉が同じ理解をされることになり、そこにはほとんどギャップが存在しないことになります。
ところが日本語はニュアンスや感覚が異なる四種類の文字表記が可能にもかかわらず話しことばとしては一種類しか持っていないことになります。
話しことばでは文字の種類の違いの感覚を表現することは出来ないことになってしまいます。
しかも圧倒的に少ない音数で表現するとんでもない豊かな表現には、必然的に同じ音によって表現される言葉が出てきてしまいます。
いわゆる、同音異義語です。
異なった漢字で読みが同じものだけが同音異義語ではないのです。
四種類の文字と一種類の音との間には大きな表現力の違いが存在していると思われます。
ある程度の教育を受けた者は日本語を言葉として理解しているのは文字によって行なっています。
多くの同音異義語から適切な言葉を見つけるのは文字の違いによる意味の違いを理解しているからです。
人の話しを聞いた時には行なっているこれらの活動は、自分が話すときにはどうなっているのでしょうか。
文字になっているものと聞いているだけのものとの間には大きなギャップが存在しているのが日本語だと思われます。
それを意識しないで伝達が行なわれていることはどこかでもの凄い知的活動が無意識に行なわれているのでしょうね。
これだけ文字を使いこなしている日本語はやっぱり大きな言語だと思います。
日本語だけの環境にいたのでは分からないことかもしれないですね。
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2016年6月14日火曜日
母語とバイリンガルの関係
最近はほとんど聞かなくなった言葉にバイリンガルがあります。
以前にはバイリンガルについて投稿したときには反応の大きさに驚きもしました。
(参照:バイリンガルの知能は低い?)
当初は二つの言語を同様に扱うことができる能力だと思われていましたが、そんなことはありえないことが分かってきたためにバイリンガルという言い方そのものが相応しくないと言うことなのではないでしょうか。
それと同時にさらに母語に対しての認識が広まってきたように思われます。
母語も母国語ももともと日本語にはなかった感覚であり言葉です。
英語のmother tongue を日本語に訳したものが母国語と言われていたものです。
最近ではすっかり使わなくなった言葉です。
代わりに母語という言葉が使われるようになってきました。
元の言葉が変わったわけではありません。
英語ではもともとmother tongue で何も変わっていないのですが日本語の解釈として母国語が相応しくなくなったと言うことで母語という言葉の方が使われるようになりました。
たしかに、その人の基礎となっている言語には国は全く関係ないわけでして母国語というわけのわからない言葉を使うよりははるかに良いことだと思われます。
母語については何度も触れてきていますので過去の投稿のラベル「母語」を参考にしていただきたいと思います。
(参照:言語習得における母語の重要性)
母語が英語である人たちはあらゆる場面で他の言語のことを気にする必要がありません。
それは、英語が世界の共通語としての立場を確固たるものとしてきており公用語としてあらゆる場面で使用されているからです。
したがって、英語を母語とする人にとって第二言語は個人的な趣味やより深い関係を構築するためのものでしかありません。
ところが英語を母語としていない人たちにとっては国を超えた交流においてはメインの言語として英語が必要になることが多くあります。
自ら望まなくともSNSやコンピュータの上では触れざるを得ませんし知らないうちに英語環境に入っている場合も少なくありません。
英語を母語として持たない人にとってはレベルの差こそあれ英語とのかかわりを避けて生きていくことは不可能になっている現状です。
母語以外での知的活動が母語で行なう知的活動よりも劣っていることは当たり前のことですし、いたるところで実証されていることでもあります。
英語が世界の共通語としての立場を強めるほど英語を母語とする者にとっての優位な環境が広がっていくことになります。
一つのことを専門に行なっている場合の質や効率に比べると二つのことを行なっているときは片方あるいは両方の質や効率が著しく劣るのは何事に対してもあてはまることですね。
英語が世界共通語としての立場を強固なものとしてさらに拡大していることは決して自然の流れではなく、英語を母語とする者たちの戦略によるものです。
(参照:英語圏の言語戦略)
この戦略に乗せられてしまって自らの母語による本来の力を発揮できなくさせられている現実はなかなか気がつきにくいものとなっています。
英語圏の戦略としても全方位的に行なっているわけではなく、彼らが競争優位を確保しておく必要がある分野においてより強力に推し進めておりその他の分野においてはむしろ相手をたたえる態度を見せているのです。
英語という交渉ツールが指定された環境においてはその時点で英語を母語とする者が最も有利な立場にいることになります。
国際交渉の場においてはどんなに英語が理解できたとしても母語以外を使用しない交渉が行なわれている現実は大きなヒントを与えてくれるものでもあります。
使えないことと使わないことは大きく意味が異なります。
日本語を母語とする者にとってはいかなる知的活動も日本語で行なうことが良いに決まっています。
それを敢えて英語で行なおうとすることは自ら知的活動のレベルを下げていることに他ならないからです。
友人としての会話や共通の趣味としての会話であればどんな言語を使おうとも有利不利は関係ないと思われますが、駆け引きが存在するような交渉においては使用する言語は大きな影響力を持ちます。
世界中のあらゆる機関において一切の公用語としての立場を持たない日本語は、それだけで日本語を母語とする者にとっては難しい交渉環境にあることになります。
交渉の場面の公用語が相手の母語であることはそれだけで負け戦を覚悟しなければならないことになります。
それだけ母語で交渉できることのメリットは計り知れないものがあるのです。
いかに第二の言語を使いこなせたとしてもその言語の感覚を使いこなすことは出来ません。
第二の言語を使いこなしている力が母語によるものだからです。
母語で理解している第二の言語を母語の感覚で使っているからです。
第二の言語を理解するという知的活動は母語で行なわれてることになります。
必ず翻訳と言う知的活動が行なわれているのです。
生まれてひとたび身についた母語は生涯書き換えることは出来ません。
他の言語を理解して使いこなすという活動は母語によってのみ可能となっているものです。
母語は単なるコミュニケーションのためのツールではなく知的活動の唯一のツールであり感覚でありその人そのものでもあるのです。
バイリンガルとみえる人は言語翻訳における母語のレベルが鍛えられた、翻訳効率の高い人でしかないのです。
どんなに効率のよい変換が行なわれたとしても元の母語による知的活動にかなうわけがないことが分かるのではないでしょうか。
母語による知的活動をレベルアップしていくことこそが必要なことになります。
その一環として他の言語を理解し使いこなすことも必要になってくることになります。
そしてその言語は実用を考えた時には世界の共通語としての英語を選択せざるを得ないことになるのではないでしょうか。
2020年に向けて再び英語習得がブームになりつつあります。
母語のレベルに応じた言語習得しかできません。
画一的なカリキュラムで習得できる可能性は極めて低いということになるのではないでしょうか。
知的活動のためのツールとして見直したときにあらためて日本語の素晴らしが見えてくると思います。
英語圏ではそのような研究も行われてきており、その結果としての日本語母語話者に対する英語教育の戦略も仕掛けられてきました。
何の抵抗もなく受け入れた日本における英語教育は母語としての日本語教育にまで悪影響を与えるものにまでなってきているようです。
しっかりとした言語戦略を子どもたちに残していきたいものです。
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以前にはバイリンガルについて投稿したときには反応の大きさに驚きもしました。
(参照:バイリンガルの知能は低い?)
当初は二つの言語を同様に扱うことができる能力だと思われていましたが、そんなことはありえないことが分かってきたためにバイリンガルという言い方そのものが相応しくないと言うことなのではないでしょうか。
それと同時にさらに母語に対しての認識が広まってきたように思われます。
母語も母国語ももともと日本語にはなかった感覚であり言葉です。
英語のmother tongue を日本語に訳したものが母国語と言われていたものです。
最近ではすっかり使わなくなった言葉です。
代わりに母語という言葉が使われるようになってきました。
元の言葉が変わったわけではありません。
英語ではもともとmother tongue で何も変わっていないのですが日本語の解釈として母国語が相応しくなくなったと言うことで母語という言葉の方が使われるようになりました。
たしかに、その人の基礎となっている言語には国は全く関係ないわけでして母国語というわけのわからない言葉を使うよりははるかに良いことだと思われます。
母語については何度も触れてきていますので過去の投稿のラベル「母語」を参考にしていただきたいと思います。
(参照:言語習得における母語の重要性)
母語が英語である人たちはあらゆる場面で他の言語のことを気にする必要がありません。
それは、英語が世界の共通語としての立場を確固たるものとしてきており公用語としてあらゆる場面で使用されているからです。
したがって、英語を母語とする人にとって第二言語は個人的な趣味やより深い関係を構築するためのものでしかありません。
ところが英語を母語としていない人たちにとっては国を超えた交流においてはメインの言語として英語が必要になることが多くあります。
自ら望まなくともSNSやコンピュータの上では触れざるを得ませんし知らないうちに英語環境に入っている場合も少なくありません。
英語を母語として持たない人にとってはレベルの差こそあれ英語とのかかわりを避けて生きていくことは不可能になっている現状です。
母語以外での知的活動が母語で行なう知的活動よりも劣っていることは当たり前のことですし、いたるところで実証されていることでもあります。
英語が世界の共通語としての立場を強めるほど英語を母語とする者にとっての優位な環境が広がっていくことになります。
一つのことを専門に行なっている場合の質や効率に比べると二つのことを行なっているときは片方あるいは両方の質や効率が著しく劣るのは何事に対してもあてはまることですね。
英語が世界共通語としての立場を強固なものとしてさらに拡大していることは決して自然の流れではなく、英語を母語とする者たちの戦略によるものです。
(参照:英語圏の言語戦略)
この戦略に乗せられてしまって自らの母語による本来の力を発揮できなくさせられている現実はなかなか気がつきにくいものとなっています。
英語圏の戦略としても全方位的に行なっているわけではなく、彼らが競争優位を確保しておく必要がある分野においてより強力に推し進めておりその他の分野においてはむしろ相手をたたえる態度を見せているのです。
英語という交渉ツールが指定された環境においてはその時点で英語を母語とする者が最も有利な立場にいることになります。
国際交渉の場においてはどんなに英語が理解できたとしても母語以外を使用しない交渉が行なわれている現実は大きなヒントを与えてくれるものでもあります。
使えないことと使わないことは大きく意味が異なります。
日本語を母語とする者にとってはいかなる知的活動も日本語で行なうことが良いに決まっています。
それを敢えて英語で行なおうとすることは自ら知的活動のレベルを下げていることに他ならないからです。
友人としての会話や共通の趣味としての会話であればどんな言語を使おうとも有利不利は関係ないと思われますが、駆け引きが存在するような交渉においては使用する言語は大きな影響力を持ちます。
世界中のあらゆる機関において一切の公用語としての立場を持たない日本語は、それだけで日本語を母語とする者にとっては難しい交渉環境にあることになります。
交渉の場面の公用語が相手の母語であることはそれだけで負け戦を覚悟しなければならないことになります。
それだけ母語で交渉できることのメリットは計り知れないものがあるのです。
いかに第二の言語を使いこなせたとしてもその言語の感覚を使いこなすことは出来ません。
第二の言語を使いこなしている力が母語によるものだからです。
母語で理解している第二の言語を母語の感覚で使っているからです。
第二の言語を理解するという知的活動は母語で行なわれてることになります。
必ず翻訳と言う知的活動が行なわれているのです。
生まれてひとたび身についた母語は生涯書き換えることは出来ません。
他の言語を理解して使いこなすという活動は母語によってのみ可能となっているものです。
母語は単なるコミュニケーションのためのツールではなく知的活動の唯一のツールであり感覚でありその人そのものでもあるのです。
バイリンガルとみえる人は言語翻訳における母語のレベルが鍛えられた、翻訳効率の高い人でしかないのです。
どんなに効率のよい変換が行なわれたとしても元の母語による知的活動にかなうわけがないことが分かるのではないでしょうか。
母語による知的活動をレベルアップしていくことこそが必要なことになります。
その一環として他の言語を理解し使いこなすことも必要になってくることになります。
そしてその言語は実用を考えた時には世界の共通語としての英語を選択せざるを得ないことになるのではないでしょうか。
2020年に向けて再び英語習得がブームになりつつあります。
母語のレベルに応じた言語習得しかできません。
画一的なカリキュラムで習得できる可能性は極めて低いということになるのではないでしょうか。
知的活動のためのツールとして見直したときにあらためて日本語の素晴らしが見えてくると思います。
英語圏ではそのような研究も行われてきており、その結果としての日本語母語話者に対する英語教育の戦略も仕掛けられてきました。
何の抵抗もなく受け入れた日本における英語教育は母語としての日本語教育にまで悪影響を与えるものにまでなってきているようです。
しっかりとした言語戦略を子どもたちに残していきたいものです。
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2016年6月10日金曜日
宛名表記に見る言語感覚
言語が知的活動のための唯一のツールであることに疑問を唱える説はいくつかありますが、大きな要素を占めていることには間違いのないことだと思われます。
使用する言語によって論理の展開や結論までもが違ってくることはさまざまな場面で検証されていることでもあります。
それは、議論としての会話において検証されていることが多いのですが文字を伴った場合にはさらにいろいろな要素が出てくるのではないかと思います。
その中でも日本語は表記文字がたくさんあり同じことを文字を変えて表記することが可能になっているものです。
しかも、同じことであっても文字の種類が変わることによって与えるイメージが変わってしまうことがよくあります。
そのうえ、語順がとても自由な日本語は自由に置かれた言葉の関係を結び付ける助詞の働きによってさまざまな関係を表現することもできてしまいます。
語順に厳格な決まりを持っている言語話者から見るとどこに重きがあるのかがとてもわかりにくいものとなっています。
それでも、本当に関係がバラバラな要素がちりばめられているとどんなに助詞で補ってみたとしても日本語話者でもわかりにくいものとなってしまうこともあります。
そんな日本語にも言語そのものが持っている文法には現れない順番があるのではないかと思われる現象を見つけました。
ヒントは海外から届いた封書の宛名でした。
ネットショッピングなどを利用する人は海外宛の住所を書く場合もあるのではないでしょうか。
ほとんどの場合は以下のような順番になっていませんか。
これって、国名を表記するかどうかだけでそれ以外は日本での郵便の宛名の全く逆の順番ではないでしょうか。
さらに、表書きのレイアウトを見てみると以下のようになっています。
左上にあるのが差出人であり右下にあるのが宛先になります。
日本の感覚から見たらこの配置も逆ではないでしょうか。
自分が先にしかも上にあることに違和感を覚えるのが自然な日本語感覚だと思います。
それぞれの順番はそれぞれの国で抵抗なく使われてきて定着してきたものです。
どんな順番に記載していくのかは、物事に順番を付けるときにどんなことに基準を置いているかということに他なりません。
つまりは、どんな順番に並んでいると戻って振り返ることなく安心して進んでいくことができるかということになります。
アメリカの郵政公社(USPS)のサイトにも記載する順番に触れた記載があります。
そこでは、minor to major や smallest to largestなどの表記があります。
異なった表現ではより特殊性の高い詳細なものほど先に記載するとしているものもあります。
言語にかかわらず世界の宛名表記のほとんどがこの形式をとっていますが、それはフランス語が世界郵便の標準語であったことと無関係ではないと思われます。
日本語のように大きなものから小さなものへという順番を採用しているのはアジアに多く中国、韓国、イランなどとなっているようです。
使用文字に漢字があったり表記方法が縦書きか横書きかなどによっても向き不向きがあったのではないでしょうか。
あるいは、歴史文化的に持っている感覚が文字や書く方向を選んできたのかもしれませんね。
それでも日本語にとっては文法的な定めのない語順に対しての一つの指針となっているのではないでしょうか。
それは論理の構築についても同じことが言えると思います。
語順は一つの文章における要素の順番のことになりますが、それは論理における段落などの要素の構成の順番にも当てはまるものだと思われるからです。
数多くの機能を持った接続詞や語尾の変化によって文章そのものをどのような展開へも持っていくことが可能となっている日本語は、明確な論理の構造がなくともそれなりに話をつなぐことが可能になっています。
また、読みとる方もそれが可能なだけの技量を備えていることになります。
論理的には結論が先にあって次になぜならばと言う理由づけがあって事実の提示と検証がある方が理解しやすいと思われますが、これは英語型の論理構築に慣らされてしまった結果だと思われます。
効率化や生産性アップのためにはこの方が効果があることは間違いのないことでしょう。
世の中すべてがアメリカ型の効率化や生産性アップを求めて活動してきた事によって染みついてきたものと言うことができると思います。
ところが理解がしやすいことと感覚的に受け入れやすいこととは決して一致しません。
特に日本人の感覚としては論理的なことよりも心情的なことの方が優先される場面が少なくありません。
そして、そのことの方が共感を得ることが多いのもよくあることです。
日本語話者が感覚的にも安心して理解できる流れは、環境が説明される中で個別の状況が説明され結論に至る経過に納得性があることが大事になります。
それを繰り返しながら最後の個別の結論に至ることによって納得したままに結論に導かれることに安心感を覚えるのです。
いきなり結論を提示されると思わず反対したり逡巡したりしてしまうのは仕方のないことなのです。
常に最終目的や結論を先に意識している英語型の感覚とは異なった過程が必要となっているのです。
それぞれの長所も短所もあります。
一方では欲しい結論ややりたい目的がはっきりしている場合には理由づけや根拠づけが無理やりに行なわれることが起こりやすくなります。
また一方では段階ごとに納得性のあるステップを設けていくと最終的に何を目指すのかが分からなくなることもあります。
使い分けが必要となっていると思われますが、それができるのは両方の感覚に触れている場合だけになります。
つまりは英語型の感覚を持った者はほとんど日本型の感覚に触れることがありませんので、ワンパターンで展開されることになります。
したがって、使い分けをしなければならないのはもともと日本語型の感覚を身につけている方ということになります。
英語そのものを使いこなすことではなく、英語を母語として持っていることはこのような感覚的な違いを持っていることを理解しておく必要があるのではないでしょうか。
とくに、難しい問題や困難な場面において知的活動を行なっているときにはこの傾向が自然と出てくるようです。
語順の自由な日本語においても感覚的に安心して受け入れることができる順番と言うものが存在していると思われます。
これもまた、日本語だけの環境にいたのでは気がつきにくいことです。
この感覚を翻訳することは不可能だと思います。
彼らに論理的には説明できたとしても感覚的に理解してもらうことは無理だと思われます。
より英語に触れる機会の多い日本語話者の方が対応するしかないことではないでしょうか。
やることがいっぱいあって楽しくなりますね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
使用する言語によって論理の展開や結論までもが違ってくることはさまざまな場面で検証されていることでもあります。
それは、議論としての会話において検証されていることが多いのですが文字を伴った場合にはさらにいろいろな要素が出てくるのではないかと思います。
その中でも日本語は表記文字がたくさんあり同じことを文字を変えて表記することが可能になっているものです。
しかも、同じことであっても文字の種類が変わることによって与えるイメージが変わってしまうことがよくあります。
そのうえ、語順がとても自由な日本語は自由に置かれた言葉の関係を結び付ける助詞の働きによってさまざまな関係を表現することもできてしまいます。
語順に厳格な決まりを持っている言語話者から見るとどこに重きがあるのかがとてもわかりにくいものとなっています。
それでも、本当に関係がバラバラな要素がちりばめられているとどんなに助詞で補ってみたとしても日本語話者でもわかりにくいものとなってしまうこともあります。
そんな日本語にも言語そのものが持っている文法には現れない順番があるのではないかと思われる現象を見つけました。
ヒントは海外から届いた封書の宛名でした。
ネットショッピングなどを利用する人は海外宛の住所を書く場合もあるのではないでしょうか。
ほとんどの場合は以下のような順番になっていませんか。
- 宛名(個人名)
- 会社名
- 建物名・部屋番号
- 番地、町名
- 区・市・州(都道府県)
- 郵便コード
- 国名
これって、国名を表記するかどうかだけでそれ以外は日本での郵便の宛名の全く逆の順番ではないでしょうか。
さらに、表書きのレイアウトを見てみると以下のようになっています。
左上にあるのが差出人であり右下にあるのが宛先になります。
日本の感覚から見たらこの配置も逆ではないでしょうか。
自分が先にしかも上にあることに違和感を覚えるのが自然な日本語感覚だと思います。
それぞれの順番はそれぞれの国で抵抗なく使われてきて定着してきたものです。
どんな順番に記載していくのかは、物事に順番を付けるときにどんなことに基準を置いているかということに他なりません。
つまりは、どんな順番に並んでいると戻って振り返ることなく安心して進んでいくことができるかということになります。
アメリカの郵政公社(USPS)のサイトにも記載する順番に触れた記載があります。
そこでは、minor to major や smallest to largestなどの表記があります。
異なった表現ではより特殊性の高い詳細なものほど先に記載するとしているものもあります。
言語にかかわらず世界の宛名表記のほとんどがこの形式をとっていますが、それはフランス語が世界郵便の標準語であったことと無関係ではないと思われます。
日本語のように大きなものから小さなものへという順番を採用しているのはアジアに多く中国、韓国、イランなどとなっているようです。
使用文字に漢字があったり表記方法が縦書きか横書きかなどによっても向き不向きがあったのではないでしょうか。
あるいは、歴史文化的に持っている感覚が文字や書く方向を選んできたのかもしれませんね。
それでも日本語にとっては文法的な定めのない語順に対しての一つの指針となっているのではないでしょうか。
それは論理の構築についても同じことが言えると思います。
語順は一つの文章における要素の順番のことになりますが、それは論理における段落などの要素の構成の順番にも当てはまるものだと思われるからです。
数多くの機能を持った接続詞や語尾の変化によって文章そのものをどのような展開へも持っていくことが可能となっている日本語は、明確な論理の構造がなくともそれなりに話をつなぐことが可能になっています。
また、読みとる方もそれが可能なだけの技量を備えていることになります。
論理的には結論が先にあって次になぜならばと言う理由づけがあって事実の提示と検証がある方が理解しやすいと思われますが、これは英語型の論理構築に慣らされてしまった結果だと思われます。
効率化や生産性アップのためにはこの方が効果があることは間違いのないことでしょう。
世の中すべてがアメリカ型の効率化や生産性アップを求めて活動してきた事によって染みついてきたものと言うことができると思います。
ところが理解がしやすいことと感覚的に受け入れやすいこととは決して一致しません。
特に日本人の感覚としては論理的なことよりも心情的なことの方が優先される場面が少なくありません。
そして、そのことの方が共感を得ることが多いのもよくあることです。
日本語話者が感覚的にも安心して理解できる流れは、環境が説明される中で個別の状況が説明され結論に至る経過に納得性があることが大事になります。
それを繰り返しながら最後の個別の結論に至ることによって納得したままに結論に導かれることに安心感を覚えるのです。
いきなり結論を提示されると思わず反対したり逡巡したりしてしまうのは仕方のないことなのです。
常に最終目的や結論を先に意識している英語型の感覚とは異なった過程が必要となっているのです。
それぞれの長所も短所もあります。
一方では欲しい結論ややりたい目的がはっきりしている場合には理由づけや根拠づけが無理やりに行なわれることが起こりやすくなります。
また一方では段階ごとに納得性のあるステップを設けていくと最終的に何を目指すのかが分からなくなることもあります。
使い分けが必要となっていると思われますが、それができるのは両方の感覚に触れている場合だけになります。
つまりは英語型の感覚を持った者はほとんど日本型の感覚に触れることがありませんので、ワンパターンで展開されることになります。
したがって、使い分けをしなければならないのはもともと日本語型の感覚を身につけている方ということになります。
英語そのものを使いこなすことではなく、英語を母語として持っていることはこのような感覚的な違いを持っていることを理解しておく必要があるのではないでしょうか。
とくに、難しい問題や困難な場面において知的活動を行なっているときにはこの傾向が自然と出てくるようです。
語順の自由な日本語においても感覚的に安心して受け入れることができる順番と言うものが存在していると思われます。
これもまた、日本語だけの環境にいたのでは気がつきにくいことです。
この感覚を翻訳することは不可能だと思います。
彼らに論理的には説明できたとしても感覚的に理解してもらうことは無理だと思われます。
より英語に触れる機会の多い日本語話者の方が対応するしかないことではないでしょうか。
やることがいっぱいあって楽しくなりますね。
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2016年5月14日土曜日
日本語は表現力より解釈力
英語と日本語を比較してみるといかに日本語が難しい言語であるかがよく分かります。
英語は一つひとつの単語が持っている意味や使い方がかなり厳しく限定されており、同じ文であるならば英語を母語として持っている人ならばほとんど同じ解釈が行なわれるものとなっています。
しかも言語上の意味がすべてであり言葉の意味をひっくり返すような解釈がされることをできるだけ除外しようとしている文化環境です。
ある種の論理を展開する場合にも使用される文型や単語すらほとんど定型化されたものとなっています。
したがって、個人の言語技術で優劣をつけたり巧拙を競ったりすることはほとんどありません。
使い方としての場面さえ間違わなければ良いといった語彙や用法がかなり固定化された言語となっているのです。
そのために初等教育においても言葉の意味や文の解釈について学ぶ機会は本当に短い期間しかありません。
先生の役割は、生徒のレベルにあった本を選択して読ませることが中心となります。
言語としての基本的な意味や解釈ができるようになると、言語を使用するための技術を徹底して教え込まれます。
基本的なパターンはあるのですから、使うべき場面で使うべきパターンを選択して適切に使いこなすことを学びます。
受けた教育のレベルによって使える語彙やパターンがある程度決まってしまうことになります。
会話をしてみただけでどの程度の教育レベルを身につけた人であるかとてもわかり易い基準がそこには出来上がっているのです。
それは、コミュニケーションとして自分の意思を明確に表明し相手を説得する技術になります。
対象や人数や環境を変えて初等教育から言語技術を身につけることが教育の中心となります。
言語教育で重視されるのは社会で生きていくためのクリティカルシンキングを表現できる言語技術を身につけることです。
よりレベルの高い教育を身につけた者ほど知的レベルの高い言語環境での表現力としての言語技術を身につけていくことになるのです。
表現するためのパターンが出来上がっていますので、単語としての音のとり間違いをしない限りはほとんどの人が同じ解釈をできることになります。
ネイティブの者でも映画の内容についてはしっかりと音が聞き取れて確実に理解できている部分は多くても70%程度だそうです。
残りの30%については理解できている70%からguess(推測)しているのだそうです。
そしてその推測の確度は驚くほど高いものとなっているようです。
パターン化されている表現を利用していることによる典型的な効果ではないでしょうか。
それに対して日本語は一つの単語が持っている意味があまりにもたくさんあり過ぎて使われ方もパターン化されているとは言い難いものとなっています。
その意味では語順を初めとしてかなり自由度の高い言語だということができます。
その分、決まりきったパターンが少ないためにどの様に表現しても構わない環境となっているのです。
同じ文に対しても話し方ひとつでニュアンスが変わってしまったり、極端な場合には180度正反対の意味になってしまったりすることすらあるのです。
ある程度型にはまったパターンがあるためにその中での技術の巧拙が必要になってくるのであり、自由度が高い環境にあっては技術は必要ないものとなってしまうのです。
したがって日本語の環境においては数少ない決まり切った表現パターンや自由度の高い表現の中から発信者の意図を解釈できる能力を身につけなければなりません。
この解釈力がないとコミュニケーションそのものが存在できなくなります。
結果として日本語の言語教育は文字や単語の意味を解釈することと文や文章を解釈することに重点が置かれることになります。
小学校から大学まで読解と書き取りばかりやって解釈力を磨くことしかやっていないのです。
それでも社会に出てより自由度の高い日本語の環境に放り込まれるとコミュニケーションすら取れないことが起きているのです。
歴史環境的に彼我の関係は対等並立の関係を嫌うのが日本人です。
どうしても上下あるいは主従の関係を設定して自分がどちらの位置にあるのかを確認しないと落ち着かないのです。
強者の立場になった途端に「見て覚えろ」「行間を読め」「一を聞いて十を知れ」といった相手に一方的に負担を強いる態度になってしまうのです。
反対に弱者の立場に立った途端に「かゆいところの手が届く」「先の先を読む」「最悪を想定する」といった解釈力を発揮するようになるのです。
環境が変わって立場が変わればその時に合わせてどちらも使いこなすのです。
自由度が高すぎる日本語の表現方法は文字通りの解釈をすることが必ずしも正しい理解となっていないことでもあります。
そこに込められている意図はわざと文字通りの意味とは離れていることも少なくないのです。
また、それも一つの表現技術として存在してしまうのです。
人の数だけあるいは文の数だけ表現方法があるのです。
同じ意図を伝えるために使える表現はいくらでも存在しているのです。
文字表現だけでなく話ことばとしての表現まで考えれば無限大にまで広がっていくのではないでしょうか。
それを解釈するのは大変な能力が求められることになります。
日本語における表現技術の磨き方は受け手としての解釈者の能力にあった表現を選ぶことになります。
相手の持っている言語解釈能力とパターンを理解しないといけないことになります。
事前に確認できることもあるでしょうし会話や話をしながら推測していかなければならない場合もあるでしょう。
それでも母語として日本語を持っている人ならば特に意識しなくとも同じように解釈することができる言葉や文が存在していることも確かなのです。
これらをうまく利用することも言語技術になります。
日本語の基本になっている言葉やパターンは「やまとことば」から伝統的に継承されたものが中心になっています。
それは漢字の音読みやカタカナや外来語に邪魔をされないで継承されてきた日本語の基本的な感覚となっているものでもあります。
具体的には折に触れて出てくる「現代やまとことば」で理解できるものだと思います。
(参照:「現代やまとことば」を経験する)
ことばの意味がたくさんあり文法の自由度が高い日本語はどのような表現も可能な言語となっています。
意図を伝えるためには伝えるべき相手をしっかり確認し、つたえたい意図をしっかり確認して相手が理解しやすい表現をすることが必要になります。
日本語にはこの場面にはこの単語によってこの順番で表現をするといった絶対表現パターンがないのです。
礼を失することさえ恐れなければどんな表現でも可能だと言っても言い過ぎではないかもしれません。
それを支えるために徹底した解釈力を身につけるための教育が行なわれているのではないでしょうか。
相手がどのように解釈しているのかを知らずに行う表現は自分勝手なだけでありその意図を理解してもらうことは出来ないものと思わなければなりません。
何を理解してもらいたいのかをしっかりと確認して表現をしていきたいものです。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
英語は一つひとつの単語が持っている意味や使い方がかなり厳しく限定されており、同じ文であるならば英語を母語として持っている人ならばほとんど同じ解釈が行なわれるものとなっています。
しかも言語上の意味がすべてであり言葉の意味をひっくり返すような解釈がされることをできるだけ除外しようとしている文化環境です。
ある種の論理を展開する場合にも使用される文型や単語すらほとんど定型化されたものとなっています。
したがって、個人の言語技術で優劣をつけたり巧拙を競ったりすることはほとんどありません。
使い方としての場面さえ間違わなければ良いといった語彙や用法がかなり固定化された言語となっているのです。
そのために初等教育においても言葉の意味や文の解釈について学ぶ機会は本当に短い期間しかありません。
先生の役割は、生徒のレベルにあった本を選択して読ませることが中心となります。
言語としての基本的な意味や解釈ができるようになると、言語を使用するための技術を徹底して教え込まれます。
基本的なパターンはあるのですから、使うべき場面で使うべきパターンを選択して適切に使いこなすことを学びます。
受けた教育のレベルによって使える語彙やパターンがある程度決まってしまうことになります。
会話をしてみただけでどの程度の教育レベルを身につけた人であるかとてもわかり易い基準がそこには出来上がっているのです。
それは、コミュニケーションとして自分の意思を明確に表明し相手を説得する技術になります。
対象や人数や環境を変えて初等教育から言語技術を身につけることが教育の中心となります。
言語教育で重視されるのは社会で生きていくためのクリティカルシンキングを表現できる言語技術を身につけることです。
よりレベルの高い教育を身につけた者ほど知的レベルの高い言語環境での表現力としての言語技術を身につけていくことになるのです。
表現するためのパターンが出来上がっていますので、単語としての音のとり間違いをしない限りはほとんどの人が同じ解釈をできることになります。
ネイティブの者でも映画の内容についてはしっかりと音が聞き取れて確実に理解できている部分は多くても70%程度だそうです。
残りの30%については理解できている70%からguess(推測)しているのだそうです。
そしてその推測の確度は驚くほど高いものとなっているようです。
パターン化されている表現を利用していることによる典型的な効果ではないでしょうか。
それに対して日本語は一つの単語が持っている意味があまりにもたくさんあり過ぎて使われ方もパターン化されているとは言い難いものとなっています。
その意味では語順を初めとしてかなり自由度の高い言語だということができます。
その分、決まりきったパターンが少ないためにどの様に表現しても構わない環境となっているのです。
同じ文に対しても話し方ひとつでニュアンスが変わってしまったり、極端な場合には180度正反対の意味になってしまったりすることすらあるのです。
ある程度型にはまったパターンがあるためにその中での技術の巧拙が必要になってくるのであり、自由度が高い環境にあっては技術は必要ないものとなってしまうのです。
したがって日本語の環境においては数少ない決まり切った表現パターンや自由度の高い表現の中から発信者の意図を解釈できる能力を身につけなければなりません。
この解釈力がないとコミュニケーションそのものが存在できなくなります。
結果として日本語の言語教育は文字や単語の意味を解釈することと文や文章を解釈することに重点が置かれることになります。
小学校から大学まで読解と書き取りばかりやって解釈力を磨くことしかやっていないのです。
それでも社会に出てより自由度の高い日本語の環境に放り込まれるとコミュニケーションすら取れないことが起きているのです。
歴史環境的に彼我の関係は対等並立の関係を嫌うのが日本人です。
どうしても上下あるいは主従の関係を設定して自分がどちらの位置にあるのかを確認しないと落ち着かないのです。
強者の立場になった途端に「見て覚えろ」「行間を読め」「一を聞いて十を知れ」といった相手に一方的に負担を強いる態度になってしまうのです。
反対に弱者の立場に立った途端に「かゆいところの手が届く」「先の先を読む」「最悪を想定する」といった解釈力を発揮するようになるのです。
環境が変わって立場が変わればその時に合わせてどちらも使いこなすのです。
自由度が高すぎる日本語の表現方法は文字通りの解釈をすることが必ずしも正しい理解となっていないことでもあります。
そこに込められている意図はわざと文字通りの意味とは離れていることも少なくないのです。
また、それも一つの表現技術として存在してしまうのです。
人の数だけあるいは文の数だけ表現方法があるのです。
同じ意図を伝えるために使える表現はいくらでも存在しているのです。
文字表現だけでなく話ことばとしての表現まで考えれば無限大にまで広がっていくのではないでしょうか。
それを解釈するのは大変な能力が求められることになります。
日本語における表現技術の磨き方は受け手としての解釈者の能力にあった表現を選ぶことになります。
相手の持っている言語解釈能力とパターンを理解しないといけないことになります。
事前に確認できることもあるでしょうし会話や話をしながら推測していかなければならない場合もあるでしょう。
それでも母語として日本語を持っている人ならば特に意識しなくとも同じように解釈することができる言葉や文が存在していることも確かなのです。
これらをうまく利用することも言語技術になります。
日本語の基本になっている言葉やパターンは「やまとことば」から伝統的に継承されたものが中心になっています。
それは漢字の音読みやカタカナや外来語に邪魔をされないで継承されてきた日本語の基本的な感覚となっているものでもあります。
具体的には折に触れて出てくる「現代やまとことば」で理解できるものだと思います。
(参照:「現代やまとことば」を経験する)
ことばの意味がたくさんあり文法の自由度が高い日本語はどのような表現も可能な言語となっています。
意図を伝えるためには伝えるべき相手をしっかり確認し、つたえたい意図をしっかり確認して相手が理解しやすい表現をすることが必要になります。
日本語にはこの場面にはこの単語によってこの順番で表現をするといった絶対表現パターンがないのです。
礼を失することさえ恐れなければどんな表現でも可能だと言っても言い過ぎではないかもしれません。
それを支えるために徹底した解釈力を身につけるための教育が行なわれているのではないでしょうか。
相手がどのように解釈しているのかを知らずに行う表現は自分勝手なだけでありその意図を理解してもらうことは出来ないものと思わなければなりません。
何を理解してもらいたいのかをしっかりと確認して表現をしていきたいものです。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2016年5月9日月曜日
名詞の持つカテゴリー
どんな言語でも共通して一番多い品詞は名詞となっています。
主語にでも目的語にでもなることができる名詞は、それぞれの言語が経験してきた歴史文化によって特徴つけられたカテゴリーを持っています。
英語における名詞の典型的なカテゴリーは加算・不可算のカテゴリーです。
ドイツ語、フランス語、ロシア語などにおける名詞のカテゴリーは文法上の性(ジェンダー)ということができるでしょう。
また、日本語や中国語においては助数詞が名詞のカテゴリーとして挙げられるのではないでしょうか。
(参照:助数詞という言語文化)
助数詞は数字とともに使われて対象物を数えるための単位となっている言葉のことで、「一本」「一冊」「一枚」などの「本」「冊」「枚」のことを言います。
同じように助数詞を持っている日本語と中国語ですが、同じ名詞に対しても使用される助数詞は同じこともあれば違っていることもあります。
また、助数詞として区分される共通性の感覚はそれぞれの言語で異なったものとなっています。
夏目漱石の「吾輩は猫である」が中国語に翻訳されたときに、原作で用いられた助数詞の四倍にもあたる助数詞が使われていたと言われています。
同じように名詞を表現するにしても、中国語の場合は助数詞を伴う使い方が日本語に比べて四倍多いということになるのではないでしょうか。
それだけに中国語の環境においては日本語に比べて頻繁に助数詞に出会うことになります。
助数詞は名詞が持っている基本的なカテゴリーとは異なった助数詞としてのカテゴリーを持つことになります。
ニワトリ(鶏)とウシ(牛)は基本的なカテゴリとしてしては動物というカテゴリーで括られていますが、日本語の助数詞としてのカテゴリーでは「羽」と「頭」となって違うカテゴリーに属することになります。
「羽」で数える対象は同じ動物でもウサギ(兎)やワシ(鷲)などもありますし、「頭」で数える対象はチョウ(蝶)やイルカ(海豚)などもあります。
動物というカテゴリーはどの言語においても共通するカテゴリーとなっていますが、助数詞におけるカテゴリーは言語によっても異なったものとなっているのです。
日本語は中国語ほど助数詞の使われる機会が多くないので、それほど助数詞としてのカテゴリーに影響されることはないのではないかと思われます。
しかし、日本語の四倍以上の機会で助数詞と触れている中国語においては助数詞が持っているカテゴリーの影響は日本語以上のものがあると言えるのではないでしょうか。
日本語の場合にはそれぞれの名詞に必ず数え方があることになります。
極めて抽象的な概念を表す名詞に対しても「ひとつの平和」「二つのにおい」などとといった使い方が具体的に数えられる名詞と同じようになされています。
英語の感覚から見るとすべての名刺が可算名詞として扱われていることになります。
英語の名詞におけるカテゴリーは可算名詞・不可算名詞になります。
これは日本語との大きな違いとして文法上の表現にも違いが現れることになります。
数詞である one, two を直接伴って複数形を持つ可算名詞があるのと直接的には one, two とは数えることができない不可算名詞との違いは決定的なものとなっています。
あらゆる名詞が必ず可算名詞か不可算名詞に区分されることになります。
形あるモノとして直接数えることが可能なものが可算名詞となり物質や抽象度の高い概念などが不可算名詞となっています。
日本語で表現するには適切な言葉がない「アイデア」idea が可算名詞であることは彼らの文化における思考の具体性を物語っているものではないでしょうか。
可算名詞か不可算名詞か判断ができないような聞いたことがないような名詞については、まずは可算名詞として扱うことが自然な流れのようです。
論理性や具体性に重きを置く英語文化らしい対応内容ではないかと思います。
不可算名詞を量的に表現する場合には具体的な入れ物や単位をつけて数えることになります。
具体性を重視する社会環境を生き抜いてきた言語であることが垣間見えるような気がします。
文法的な性(ジェンダー)を持つ言語においても実際に持っている性の数は男女の二種類に限られているわけではありません。
(参照:性をもつ言語、もたない言語)
文法上の性を持つ言語の中では厳格に二つの性で運用をされている言語が最も多いのですが、三つ(中性を持つ)四つ以上もつ言語も決して少なくない数存在しています。
英語ももともとは文法上の性を持っていたのですが、名残りはあるものの現在では可算・不可算によるカテゴリーの方がより前面に出ているものとなっています。
文法上の性は日本人のわたしたちが思っている以上に言語上のバイアスをかけているように思われます。
とくに雌雄の存在する動物などを雌雄を隠して当てさせるようなテストをすると、その名詞が持っている文法上の性に引っ張られることがあることが分かっています。
母語として中国語と英語を持っている人口を合わせると14億人を超える数となります。
それらの言語を持っているだけで本人が意識することもなくある種のカテゴリー化が自然と行なわれていることになります。
それは、名詞としてのカテゴリーとしての助数詞の影響がきわめて小さい日本語から比べると想像もできないくらい強いものとなっていると思われます。
動物や植物などの論理的なカテゴリーはどんな言語においても学術的な裏付けもあり同じように行なわれていることになります。
しかし、言語における名詞が持っている無意識のカテゴリーは知らないうちに影響を与えているのではないでしょうか。
主語にでも目的語にでもなることができる名詞は、それぞれの言語が経験してきた歴史文化によって特徴つけられたカテゴリーを持っています。
英語における名詞の典型的なカテゴリーは加算・不可算のカテゴリーです。
ドイツ語、フランス語、ロシア語などにおける名詞のカテゴリーは文法上の性(ジェンダー)ということができるでしょう。
また、日本語や中国語においては助数詞が名詞のカテゴリーとして挙げられるのではないでしょうか。
(参照:助数詞という言語文化)
助数詞は数字とともに使われて対象物を数えるための単位となっている言葉のことで、「一本」「一冊」「一枚」などの「本」「冊」「枚」のことを言います。
同じように助数詞を持っている日本語と中国語ですが、同じ名詞に対しても使用される助数詞は同じこともあれば違っていることもあります。
また、助数詞として区分される共通性の感覚はそれぞれの言語で異なったものとなっています。
夏目漱石の「吾輩は猫である」が中国語に翻訳されたときに、原作で用いられた助数詞の四倍にもあたる助数詞が使われていたと言われています。
同じように名詞を表現するにしても、中国語の場合は助数詞を伴う使い方が日本語に比べて四倍多いということになるのではないでしょうか。
それだけに中国語の環境においては日本語に比べて頻繁に助数詞に出会うことになります。
助数詞は名詞が持っている基本的なカテゴリーとは異なった助数詞としてのカテゴリーを持つことになります。
ニワトリ(鶏)とウシ(牛)は基本的なカテゴリとしてしては動物というカテゴリーで括られていますが、日本語の助数詞としてのカテゴリーでは「羽」と「頭」となって違うカテゴリーに属することになります。
「羽」で数える対象は同じ動物でもウサギ(兎)やワシ(鷲)などもありますし、「頭」で数える対象はチョウ(蝶)やイルカ(海豚)などもあります。
動物というカテゴリーはどの言語においても共通するカテゴリーとなっていますが、助数詞におけるカテゴリーは言語によっても異なったものとなっているのです。
日本語は中国語ほど助数詞の使われる機会が多くないので、それほど助数詞としてのカテゴリーに影響されることはないのではないかと思われます。
しかし、日本語の四倍以上の機会で助数詞と触れている中国語においては助数詞が持っているカテゴリーの影響は日本語以上のものがあると言えるのではないでしょうか。
日本語の場合にはそれぞれの名詞に必ず数え方があることになります。
極めて抽象的な概念を表す名詞に対しても「ひとつの平和」「二つのにおい」などとといった使い方が具体的に数えられる名詞と同じようになされています。
英語の感覚から見るとすべての名刺が可算名詞として扱われていることになります。
英語の名詞におけるカテゴリーは可算名詞・不可算名詞になります。
これは日本語との大きな違いとして文法上の表現にも違いが現れることになります。
数詞である one, two を直接伴って複数形を持つ可算名詞があるのと直接的には one, two とは数えることができない不可算名詞との違いは決定的なものとなっています。
あらゆる名詞が必ず可算名詞か不可算名詞に区分されることになります。
形あるモノとして直接数えることが可能なものが可算名詞となり物質や抽象度の高い概念などが不可算名詞となっています。
日本語で表現するには適切な言葉がない「アイデア」idea が可算名詞であることは彼らの文化における思考の具体性を物語っているものではないでしょうか。
可算名詞か不可算名詞か判断ができないような聞いたことがないような名詞については、まずは可算名詞として扱うことが自然な流れのようです。
論理性や具体性に重きを置く英語文化らしい対応内容ではないかと思います。
不可算名詞を量的に表現する場合には具体的な入れ物や単位をつけて数えることになります。
具体性を重視する社会環境を生き抜いてきた言語であることが垣間見えるような気がします。
文法的な性(ジェンダー)を持つ言語においても実際に持っている性の数は男女の二種類に限られているわけではありません。
(参照:性をもつ言語、もたない言語)
文法上の性を持つ言語の中では厳格に二つの性で運用をされている言語が最も多いのですが、三つ(中性を持つ)四つ以上もつ言語も決して少なくない数存在しています。
英語ももともとは文法上の性を持っていたのですが、名残りはあるものの現在では可算・不可算によるカテゴリーの方がより前面に出ているものとなっています。
文法上の性は日本人のわたしたちが思っている以上に言語上のバイアスをかけているように思われます。
とくに雌雄の存在する動物などを雌雄を隠して当てさせるようなテストをすると、その名詞が持っている文法上の性に引っ張られることがあることが分かっています。
母語として中国語と英語を持っている人口を合わせると14億人を超える数となります。
それらの言語を持っているだけで本人が意識することもなくある種のカテゴリー化が自然と行なわれていることになります。
それは、名詞としてのカテゴリーとしての助数詞の影響がきわめて小さい日本語から比べると想像もできないくらい強いものとなっていると思われます。
動物や植物などの論理的なカテゴリーはどんな言語においても学術的な裏付けもあり同じように行なわれていることになります。
しかし、言語における名詞が持っている無意識のカテゴリーは知らないうちに影響を与えているのではないでしょうか。
これもまた言語によって認知や思考や表現などの知的活動に無意識のうちにかかっているバイアスとなっているのではないかと思われます。
(参照:言葉がかけるバイアス)
言葉を持っているが故にその言葉によって知的活動が影響を受けることは避けることができません。
(参照:言葉がかけるバイアス)
言葉を持っているが故にその言葉によって知的活動が影響を受けることは避けることができません。
さらにその言葉がある種のカテゴリーを持っているとしたら、そのカテゴリーは無意識のうちにも知的活動に影響を与えているものとなっているのではないでしょう。
バナナ、バット、ビン、映画などが同じように「本」という助数詞を伴っていたとしても、同じカテゴリーの仲間としてあまり影響を受けないのが日本語だと思われます。
バナナ、バット、ビン、映画などが同じように「本」という助数詞を伴っていたとしても、同じカテゴリーの仲間としてあまり影響を受けないのが日本語だと思われます。
日常的に使用する場面では序数詞を伴わないことの方が多くなっていると思われます。
また、本来持っていた独特の数え方がどんどん姿を消していって「つ」や「個」が万能的な助数詞として使われるようになっているのはかなり前からのことではないでしょうか。
日本語における助数詞のカテゴリーの影響はますます薄くなっているということができると思います。
タンスや三味線の「一棹」(さお)、魂やご遺体の「一柱」(はしら)、海苔や半紙の「一帖」(じょう)、箸やご飯の「一膳」(ぜん)などは日本語ならではの助数詞です。
簡単には「つ」や「個」にはならないと思いますが、この種の変化は起こり始めると加速度的にスピードが上がっていくことになります。
言葉は時代環境と共に変化していくのが宿命ともいえますが実用一辺倒ではないところが日本語の特徴ともなっているところです。
長い歴史文化の影響を受けながらも極めて中立的な言語となっているのが日本語の特徴でもあるのではないでしょうか。
いろいろなことから見つめていきたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
また、本来持っていた独特の数え方がどんどん姿を消していって「つ」や「個」が万能的な助数詞として使われるようになっているのはかなり前からのことではないでしょうか。
日本語における助数詞のカテゴリーの影響はますます薄くなっているということができると思います。
タンスや三味線の「一棹」(さお)、魂やご遺体の「一柱」(はしら)、海苔や半紙の「一帖」(じょう)、箸やご飯の「一膳」(ぜん)などは日本語ならではの助数詞です。
簡単には「つ」や「個」にはならないと思いますが、この種の変化は起こり始めると加速度的にスピードが上がっていくことになります。
言葉は時代環境と共に変化していくのが宿命ともいえますが実用一辺倒ではないところが日本語の特徴ともなっているところです。
長い歴史文化の影響を受けながらも極めて中立的な言語となっているのが日本語の特徴でもあるのではないでしょうか。
いろいろなことから見つめていきたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2016年3月23日水曜日
理解を求めるとは?
日本語のむずかしさの一つに言葉通りの意味に捉えると相手の意図していることと違う場合がよくあります。
国語辞典の意味の最初に載っているような標準的な意味として解釈してしまうと意図を読み間違えてしまうことになります。
その一つに「理解を求める(してもらう)」という感覚があります。
言葉通りに解釈すれば伝えたい内容を文字通り理解するということになるのですが、この言葉に込められた意図としては単なる理解を越えたことを求めていることが多くあります。
自分でも頻繁に使ってしまっているのであまり気がつかなかったところですが指摘されれば確かにそうだと思いました。
自分が「理解を求める」として使った時の意図としては内容を分かってもらうことはもちろんなのですが、それ以上の同意までを求めていることに気がつきました。
積極的な同意までいかなくとも、少なくとも反対をしてもらわないように説得をするというニュアンスが込められていることが多いのです。
つまり、言語的な内容をわかってもらうだけではなくこちらの状況を斟酌して積極的に反対することを遠慮してもらいたいということになっているのです。
この時に、理解を求める側からは「反対を遠慮してもらいたい」あるいは「同意をいただきたい」ということは直接的な表現では伝えることはありません。
「理解を求める」という言葉に込められた意図は、内容を理解してほしいということよりも同意してほしい、あるいはもう少し消極的には反対をしないでほしいということになるのではないでしょうか。
「ご理解いただけましたか」は内容をわかったということではなく、少なくとも反対は表明しないという意思確認のためのひとこととして使われているようです。
学生の時には「理解する」に対してこのような解釈が必要な場面はありませんでした。
素直にきちんと内容を理解することだと解釈して間違いがなかったと思いますしそれ以上の解釈も求められていなかったと思います。
使われている言葉自体が変化したわけではありませんし、その通りの解釈で良い場面もたくさんあるのも現実ではないでしょうか。
その言葉がもともと持っていた意味から広がっていくこともありますし比喩として使用されることもあると思われます。
また、単なる言葉としての「理解」ではなく「理解を求める」という使い方によって一般的な「理解」とは異なった解釈が必要であると匂わせているようなニュアンスにもなっています。
ひとつの言葉が持っている意味はその言葉が使われる場面が増えるほど拡大解釈できる環境が広がっていくことにもなります。
専門用語や業界用語と言われるものの中には全く同じ言葉でありながらも一般的な意味とは異なった独自の意味を持たせているものもたくさん存在しています。
また、一般人にはすぐに悟られることを避けるためにわざとわかり易い言葉に対して別の意味を持たせているようなこともあります。
軍隊用語であったり正確さが求められる環境においては、使用する言語に対して厳格に一言一義を貫いているところもあります。
それに対して例に挙げた「理解を求める」は腹芸ともいえる根回しのための言語利用の方法ではないでしょうか。
日本語が持っている基本的な性格としての二面性ということができるかもしれません。
二面性という表現はどうしても両極端を思い浮かべてしまうことになります。
これは二面性という言葉に対して精確さや厳格さを前提とした見方になります。
日本語の持っている性格をより的確に表現するとしたら二面性よりも多様性ではないでしょうか。
言葉によっては正反対の意味を兼ね備えた言葉もあれば同じような意味をたくさん持っている言葉もあります。
日本語の使用環境がそれだけの自由な解釈や使い方が可能なものになっているからだと思われます。
明治期に新しい言葉を生み出した数は広辞苑一冊分にも相当する20万語を超えるものとなっています。
ちょっとした独立した言語体系に匹敵する数になっています。
それで終わりではなかったのです。
新しい言葉が生まれる環境や新しい使い方ができる環境は常に存在しているということができます。
高校生が次から次へと新しい言葉を生み出す環境は誰かが編み出したものではありません、自然にできあがっているものです。
日本語は造語力に優れた能力を持っているだけではなく、言葉を自由に使いこなすことが可能な環境を備えた言語になっていると思われます。
しかも、その対応は外来語である漢字やアルファベットによって行なわれたり、音を中心とする言葉はカタカナによって行なわれるというバリエーションを持っているのです。
これだけの変化が常にできる環境にあるのが日本語という言語環境だと思われます。
しかし、これだけ激しい変化が常に起こっていたら基本的な言語としての役割である共通理解のためにはとても不便な言語となってしまいます。
これだけの柔軟性や拡張性を持ちながらも基本的な共通言語として「ひらがなことば」をきちんと持っていることが素晴らしいことだと思います。
ひらがなは外来語である漢字(漢語)を利用して生み出されたものです。
その生み出し方も中国が行なったサンスクリット語の漢字による音訳に倣ったものです。
(参照:「悉曇学」と日本語)
文字のない時代に日本民族が持っていた「古代やまとことば」を表記するために漢字から生み出された文字がひらがなです。
「ひらがなことば」は「やまとことば」を継承して2000年の文化を引き継いでいる言語となっています。
単語としては漢字やアルファベット・カタカナを使って新しい言葉をたくさん生み出してきましたし今現在でも生み出し続けています。
生み出された単語をつないでいるのも「ひらがなことば」なのです。
単語同士の関係や論理を作っているのは「ひらがなことば」になっているのです。
国語辞典の意味の最初に載っているような標準的な意味として解釈してしまうと意図を読み間違えてしまうことになります。
その一つに「理解を求める(してもらう)」という感覚があります。
言葉通りに解釈すれば伝えたい内容を文字通り理解するということになるのですが、この言葉に込められた意図としては単なる理解を越えたことを求めていることが多くあります。
自分でも頻繁に使ってしまっているのであまり気がつかなかったところですが指摘されれば確かにそうだと思いました。
自分が「理解を求める」として使った時の意図としては内容を分かってもらうことはもちろんなのですが、それ以上の同意までを求めていることに気がつきました。
積極的な同意までいかなくとも、少なくとも反対をしてもらわないように説得をするというニュアンスが込められていることが多いのです。
つまり、言語的な内容をわかってもらうだけではなくこちらの状況を斟酌して積極的に反対することを遠慮してもらいたいということになっているのです。
この時に、理解を求める側からは「反対を遠慮してもらいたい」あるいは「同意をいただきたい」ということは直接的な表現では伝えることはありません。
「理解を求める」という言葉に込められた意図は、内容を理解してほしいということよりも同意してほしい、あるいはもう少し消極的には反対をしないでほしいということになるのではないでしょうか。
「ご理解いただけましたか」は内容をわかったということではなく、少なくとも反対は表明しないという意思確認のためのひとこととして使われているようです。
学生の時には「理解する」に対してこのような解釈が必要な場面はありませんでした。
素直にきちんと内容を理解することだと解釈して間違いがなかったと思いますしそれ以上の解釈も求められていなかったと思います。
使われている言葉自体が変化したわけではありませんし、その通りの解釈で良い場面もたくさんあるのも現実ではないでしょうか。
その言葉がもともと持っていた意味から広がっていくこともありますし比喩として使用されることもあると思われます。
また、単なる言葉としての「理解」ではなく「理解を求める」という使い方によって一般的な「理解」とは異なった解釈が必要であると匂わせているようなニュアンスにもなっています。
ひとつの言葉が持っている意味はその言葉が使われる場面が増えるほど拡大解釈できる環境が広がっていくことにもなります。
専門用語や業界用語と言われるものの中には全く同じ言葉でありながらも一般的な意味とは異なった独自の意味を持たせているものもたくさん存在しています。
また、一般人にはすぐに悟られることを避けるためにわざとわかり易い言葉に対して別の意味を持たせているようなこともあります。
軍隊用語であったり正確さが求められる環境においては、使用する言語に対して厳格に一言一義を貫いているところもあります。
それに対して例に挙げた「理解を求める」は腹芸ともいえる根回しのための言語利用の方法ではないでしょうか。
日本語が持っている基本的な性格としての二面性ということができるかもしれません。
二面性という表現はどうしても両極端を思い浮かべてしまうことになります。
これは二面性という言葉に対して精確さや厳格さを前提とした見方になります。
日本語の持っている性格をより的確に表現するとしたら二面性よりも多様性ではないでしょうか。
言葉によっては正反対の意味を兼ね備えた言葉もあれば同じような意味をたくさん持っている言葉もあります。
日本語の使用環境がそれだけの自由な解釈や使い方が可能なものになっているからだと思われます。
明治期に新しい言葉を生み出した数は広辞苑一冊分にも相当する20万語を超えるものとなっています。
ちょっとした独立した言語体系に匹敵する数になっています。
それで終わりではなかったのです。
新しい言葉が生まれる環境や新しい使い方ができる環境は常に存在しているということができます。
高校生が次から次へと新しい言葉を生み出す環境は誰かが編み出したものではありません、自然にできあがっているものです。
日本語は造語力に優れた能力を持っているだけではなく、言葉を自由に使いこなすことが可能な環境を備えた言語になっていると思われます。
しかも、その対応は外来語である漢字やアルファベットによって行なわれたり、音を中心とする言葉はカタカナによって行なわれるというバリエーションを持っているのです。
これだけの変化が常にできる環境にあるのが日本語という言語環境だと思われます。
しかし、これだけ激しい変化が常に起こっていたら基本的な言語としての役割である共通理解のためにはとても不便な言語となってしまいます。
これだけの柔軟性や拡張性を持ちながらも基本的な共通言語として「ひらがなことば」をきちんと持っていることが素晴らしいことだと思います。
ひらがなは外来語である漢字(漢語)を利用して生み出されたものです。
その生み出し方も中国が行なったサンスクリット語の漢字による音訳に倣ったものです。
(参照:「悉曇学」と日本語)
文字のない時代に日本民族が持っていた「古代やまとことば」を表記するために漢字から生み出された文字がひらがなです。
「ひらがなことば」は「やまとことば」を継承して2000年の文化を引き継いでいる言語となっています。
単語としては漢字やアルファベット・カタカナを使って新しい言葉をたくさん生み出してきましたし今現在でも生み出し続けています。
生み出された単語をつないでいるのも「ひらがなことば」なのです。
単語同士の関係や論理を作っているのは「ひらがなことば」になっているのです。
単語の羅列だけでは不可能である論理を作っているのも「ひらがなことば」のお陰です。
「ひらがなことば」による伝統に裏打ちされた基本的な性格や感覚を継承しながら常に新しい言葉や使い方を生み出していくことが可能となっている日本語は、他のどんな言語と比較しても最高の知的活動のための道具であると言えるのではないでしょうか。
現代における基本的な「ひらがなことば」である「現代やまとことば」を理解しておくことが、より自由な日本語を使いこなしながらも基本的な性格や感覚から逸脱しない日本語として生かしていく方法ではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を使おう、「現代やまとことば」を経験する(1) など)
最高の知的活動の道具を持っていて日本語環境の中だけで生きていく場合には他の言語について考える必要は全くありません。
しかし、世界に対して発信していく必要がある場合にはどうしても世界の公用語としての英語での発信を考えなければならなくなります。
つまり英語は知的活動のための道具として必要なのではなく、日本語で行なわれた知的活動の結果を世界に対して発信するときにだけ必要なものです。
英語の付き合い方もより明確になってきているのではないでしょうか。
日本語の持っている知的活動具としての優秀さやその基本である「現代やまとことば」についてご理解を求めたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
「ひらがなことば」による伝統に裏打ちされた基本的な性格や感覚を継承しながら常に新しい言葉や使い方を生み出していくことが可能となっている日本語は、他のどんな言語と比較しても最高の知的活動のための道具であると言えるのではないでしょうか。
現代における基本的な「ひらがなことば」である「現代やまとことば」を理解しておくことが、より自由な日本語を使いこなしながらも基本的な性格や感覚から逸脱しない日本語として生かしていく方法ではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を使おう、「現代やまとことば」を経験する(1) など)
最高の知的活動の道具を持っていて日本語環境の中だけで生きていく場合には他の言語について考える必要は全くありません。
しかし、世界に対して発信していく必要がある場合にはどうしても世界の公用語としての英語での発信を考えなければならなくなります。
つまり英語は知的活動のための道具として必要なのではなく、日本語で行なわれた知的活動の結果を世界に対して発信するときにだけ必要なものです。
英語の付き合い方もより明確になってきているのではないでしょうか。
日本語の持っている知的活動具としての優秀さやその基本である「現代やまとことば」についてご理解を求めたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2016年2月12日金曜日
「すみません」の効果
何年も何十年も前に比喩的に言われたことがあります。
外国に行く時はその国の言葉で「ありがとう」という意味の言葉を覚えておけば苦労しないと言われたものです。
実際にその言葉で何度も助けられた経験をした話も聞きました。
知り合いの外国人に同じような感覚で日本に来るにあたってコレだけは覚えておけと言われた言葉を教えてもらったことがあります。
「ありがとう」もありましたが一番多かったのは「すみません」でした。
その中にはあらゆる場面で使える万能の言葉として「すみません」を教えられたという人もいました。
確かに、日常の話し言葉の場面でも「ありがとう」よりは「すみません」の方が使用機会が多くなっていると思われます。
先日も昼食に入ったラーメン屋で店員さんを呼ぶときに「すみません」と言っている自分がいました。
「ありがとう」を言わない日はあっても「すみません」を言わない日は無いのではないかと思えるくらいの使用頻度の違いがありそうです。
今まで生きてきた中でも何度か「すみません」については気になったことがあります。
いったん気になると人が使っている場面を見たり聞いたりしたときでも、テレビで誰かが使っている場面でも思わず反応してしまいます。
そんな時に思うことは、その場面は本当に「すみません」が最適なのかということです。
もっとふさわしい言い方があるのではないかと思ってよく聞いていると、ほとんどの場合は「すみません」ではない方がよりふさわしく意図が明確になることが分かりました。
「すみません」の使い方には以下の場面が多いようです。
あらゆる場面において絶対に「すみません」しか使うことができないということはないと思われます。
それよりもしっかりとした意思を表明する場合においては、より使い方が限定されている他の言葉を使った方がわかり易いと思われます。
自分の意思を明確に表明することに抵抗がある日本人(日本語を母語とする人)にとっては「ちょっと」と同じようにとても便利な言葉となっているのではないでしょうか。
ビジネスの場面においては新入社員のころ「すみませんは使うな。」と教えられた記憶もあります。
返事としての「すみません」は拒否の態度であり軽々しく使ってはいけないと言われたと思います。
「ちょっと」と「すみません」が多い話を聞かされると、いかにも自信のなさが感じられることになりイライラしてきます。
日本語話者独特の喜怒哀楽の感情だけでなく自分の意思を明確に表すことに恥かしさを感じる感覚は、他の言語話者にはなかなか理解できないことではないでしょうか。
環境に対して緊張しているのは違った状況だと思われます。
とくに、人を褒めることが苦手な人が多いと思われます。
その中でも親密度の高い人ほど褒めることが恥かしいと感じるのは、その態度に対して自慢をしているという感覚を持たれることの怖さがあるのではないでしょうか。
人前で家族を褒めることは、よほど自信を持っていないとできる行為ではないと思います。
人がいちばん気持ちよく話ができるのが自慢話をしているときであり、一番聞きたくないのが人が自慢話をしているときだというのは言い得て妙だと思います。
自慢と誇りは紙一重だと思われます。
上手く誇りとして表現したいものだと思います。
「自慢の息子」というよりも「私の誇りの息子」と言った方がずっと受け入れやすいのではないでしょうか。
世界と接するときに一番不思議に思われ、結果として損になってしまうのが意思を明確にしない表現です。
日本語でのコミュニケーションをしているうちから「ちょっと」と「すみません」という何にでも使える便利な言葉を避けるようにしておく気持ちが大切ではないでしょうか。
日本語話者同士であれば「すみません」はとても便利な言葉ですが、数ある使い方の中からその場にふさわしい意味を感じさせるのはまさしく「行間を読む」ニュアンスがないと難しいことになってしまいます
このニュアンスは日本語を母語として持っている人にしか共有できないものです。
「すみません」は「やまとことば」にはなかった言葉だと思います
いつ出来上がって、いつからこのような便利な使い方ができるようになったのかはよくわかりません。
「すみませんの文化」は面白いテーマではないでしょうか。
機会があるたびに取り上げてみたいと思います。
思わず使ってしまう日本語らしい言葉ですね。
外国に行く時はその国の言葉で「ありがとう」という意味の言葉を覚えておけば苦労しないと言われたものです。
実際にその言葉で何度も助けられた経験をした話も聞きました。
知り合いの外国人に同じような感覚で日本に来るにあたってコレだけは覚えておけと言われた言葉を教えてもらったことがあります。
「ありがとう」もありましたが一番多かったのは「すみません」でした。
その中にはあらゆる場面で使える万能の言葉として「すみません」を教えられたという人もいました。
確かに、日常の話し言葉の場面でも「ありがとう」よりは「すみません」の方が使用機会が多くなっていると思われます。
先日も昼食に入ったラーメン屋で店員さんを呼ぶときに「すみません」と言っている自分がいました。
「ありがとう」を言わない日はあっても「すみません」を言わない日は無いのではないかと思えるくらいの使用頻度の違いがありそうです。
今まで生きてきた中でも何度か「すみません」については気になったことがあります。
いったん気になると人が使っている場面を見たり聞いたりしたときでも、テレビで誰かが使っている場面でも思わず反応してしまいます。
そんな時に思うことは、その場面は本当に「すみません」が最適なのかということです。
もっとふさわしい言い方があるのではないかと思ってよく聞いていると、ほとんどの場合は「すみません」ではない方がよりふさわしく意図が明確になることが分かりました。
「すみません」の使い方には以下の場面が多いようです。
- あやまるとき・・・「ごめんなさい」「申しわけありません」の意味で使う場合
- 感謝するとき・・・「ありがとう」の意味で使う場合
- 呼びかける時・・・「もしもし」「おーい」などの意味で使う場合
- 何かを頼むとき・・・「お願いします」「よろしく」などの意味で使う場合
- 事前にことわる時・・・「失礼します」「ご無礼します」などの意味で使う場合
あらゆる場面において絶対に「すみません」しか使うことができないということはないと思われます。
それよりもしっかりとした意思を表明する場合においては、より使い方が限定されている他の言葉を使った方がわかり易いと思われます。
自分の意思を明確に表明することに抵抗がある日本人(日本語を母語とする人)にとっては「ちょっと」と同じようにとても便利な言葉となっているのではないでしょうか。
ビジネスの場面においては新入社員のころ「すみませんは使うな。」と教えられた記憶もあります。
返事としての「すみません」は拒否の態度であり軽々しく使ってはいけないと言われたと思います。
「ちょっと」と「すみません」が多い話を聞かされると、いかにも自信のなさが感じられることになりイライラしてきます。
日本語話者独特の喜怒哀楽の感情だけでなく自分の意思を明確に表すことに恥かしさを感じる感覚は、他の言語話者にはなかなか理解できないことではないでしょうか。
環境に対して緊張しているのは違った状況だと思われます。
とくに、人を褒めることが苦手な人が多いと思われます。
その中でも親密度の高い人ほど褒めることが恥かしいと感じるのは、その態度に対して自慢をしているという感覚を持たれることの怖さがあるのではないでしょうか。
人前で家族を褒めることは、よほど自信を持っていないとできる行為ではないと思います。
人がいちばん気持ちよく話ができるのが自慢話をしているときであり、一番聞きたくないのが人が自慢話をしているときだというのは言い得て妙だと思います。
自慢と誇りは紙一重だと思われます。
上手く誇りとして表現したいものだと思います。
「自慢の息子」というよりも「私の誇りの息子」と言った方がずっと受け入れやすいのではないでしょうか。
世界と接するときに一番不思議に思われ、結果として損になってしまうのが意思を明確にしない表現です。
日本語でのコミュニケーションをしているうちから「ちょっと」と「すみません」という何にでも使える便利な言葉を避けるようにしておく気持ちが大切ではないでしょうか。
日本語話者同士であれば「すみません」はとても便利な言葉ですが、数ある使い方の中からその場にふさわしい意味を感じさせるのはまさしく「行間を読む」ニュアンスがないと難しいことになってしまいます
このニュアンスは日本語を母語として持っている人にしか共有できないものです。
「すみません」は「やまとことば」にはなかった言葉だと思います
いつ出来上がって、いつからこのような便利な使い方ができるようになったのかはよくわかりません。
「すみませんの文化」は面白いテーマではないでしょうか。
機会があるたびに取り上げてみたいと思います。
思わず使ってしまう日本語らしい言葉ですね。
2016年2月1日月曜日
日本語の持つ性格・・・無意識の影響
日本語を母語として持っている日本人が、日本語の環境の中だけで生活をしていける状況はかなり前に不可能にになっている思われます。
義務教育における外国語の教科が始まったのは、私が経験したのは中学生に入学してからの英語からでした。
現在では小学校五年生からが標準となっており、さらに実験的には小学校の三年生からの取り組みも始まっています。
また、日々触れている情報においても最早日本語だけでは成り立たなくなっているのが現状ではないでしょうか。
その中には日本語として取り込んできた外来語や和製〇〇語として作ってしまった見た目だけの外国語も多くなってきており区別がつかなくなっていると思われます。
明らかに外国語であるとわかる言葉であれば意識して避けることも可能ですが、普段使われる日常語の中にも数多く浸透しているのではないでしょうか。
その中でも日本語の語彙の一つとして単語として取り込まれているものについては、日本語に与えている影響はそれほど大きなものとはなっていないと思われます。
ご飯やみそ汁と同じ感覚で使われているスクランブルエッグやトーストは、外国語というよりはカタカナの日本語化し日本語の語彙の一つとなっていると思われます。
この状態になれば、元の外国語として持っていた感覚を離れて日本語の感覚として日本語の一つの名詞ということができます。
日本語が持っている文法や用法のなかで日本語として使用されている単語となっているからです。
この種の言葉はほとんどが名詞でありますが、一部の動詞は「ジョインする」のように「〇〇する」といった形で取り込まれているものもあります。
joinは英語では名詞としての使用法はありませんが、「〇〇する」という用法によって日本語としての動詞化したものと言えるのではないでしょうか。
このような状況は動詞であったとしても単語としての語彙が増えただけであって、日本語としての基本的な文法や用法・構造などに影響を与えているものとはなっていません。
したがって、日本語として持っている基本的な性格や傾向については変わっていないと言うことができます。
その意味では、日本語化したことによって単語として日本語の語彙を増やしたものとして扱うことができるものです。
動詞的な使い方をされる外国語を「〇〇する」という形で取り込んだのは、日本語が基本的な性格を維持するための工夫の一つではないでしょうか。
名詞は動作を表しませんので名詞だけで文章を構成することは出来ません。
反対に、動詞は命令形や主語が想定できればそれだけで文章を構成することができます。
単語の単体では言語の性格や傾向を表すことは出来ませんが、短くとも文章になってくると言語の基本的な性格が現れてきます。
それは文章に含まれている要素の関係によってその言語の持っている独特のものが現れてくるからです。
主語、動詞、修飾語などの並び方や関係性によってその言語が持っている基本的な性格が現れてくるからです。
漢字においても「開店」は店を開くことですが日本語としては名詞として使われます。
「開店する」という表現によって日本語の動詞になっているのですね。
基本的な文章の構造だけではなく、並び替えにおける表現がどこまで許されるのかや疑問や命令・強調の時の語順の入れ替えの仕方などによって言語としての個性が出てくるからです。
ひいてはそのことから単語同士の関係性を表すことから文章同士の関係や段落同士の関係性を表すことになります。
結果としてどのような論理を基本としているのかや状況に応じた論理の融通性や展開のバリエーションなどまでつながっていくことになります。
先ほどの「開店」は「開店する」と「店を開く」では語順が入れ替わっていますよね。
更には「開店」という名詞まで入れると同じことに対して様々な語順と感覚が存在することになります。

外国語を習得しようとするときに、単語は丸暗記で覚えることができても意見やニュアンスを伝える時の表現の仕方がなかなか身につかないのはこのことが影響しているのです。
単語を覚えているうちは、母語として持っている自分の言語の単語として覚えますので日本語を母語として持っている場合には日本語の単語として覚えていることになるのです。
どんなにアルファベットで表記してみてもそれっぽい発音をしてみても日本語の語彙の一つにすぎないのです。
母音の数や主語や述語の語順については世界の言語のなかで日本語は決して特殊なものではありません。
(参照:日本語って本当に特殊なの?)
その日本語が先進国の言語の中に入るときわめて特徴的な特殊な言語となってしまうのは、世界の言語のなかで先進文化を作ってきた言語が特殊なものであったことを物語っていると思います。
世界の先進文化を作ってきた言語は、英語でありフランス語・スペイン語・ロシア語・ドイツ語であり古くはラテン語や中国語です。
いわゆる先進国の言語は決して世界に存在する言語としては平均的な標準的なものではなく、論理や効率や説明に適した性格を持った特殊な言語たちであるということができます。
先進国は戦勝国であり技術・経済において世界に影響を与え引っ張ってきた国です。
最後の大戦で戦敗国となったのが日本、ドイツ、イタリアであり世界の決定機関である国連における公用語の地位を与えられることのなかった言語です。
遅れてやってきた巨大な後進国だった中国も先進国の仲間入りをしつつあります。
中国語は国連創設時に公用語になっていた言語です。
日本語の持つ基本的な性格は自己主張をしないで理解しようとするものです。
この基本的な性格が言語の構造にも現れているのです。
自由度の高い語順でありながらも動詞(述語)は最後でなければならないのです。
他の先進国の言語で動詞(述語)が最後に来るものはありません。
むしろ、必ず主語を必要としそのあとすぐに動詞が来るものばかりです。
主語はほとんどの言語が必ず必要であり具体的な人や物でない抽象的なことを表すための代表的な主語までも存在しているものが多くなっています。
つまり、「誰が(何が)どうする」を極めて明確に伝えるために都合よくできているのです。
日本語は、省略の言語と言われるほど言語化されることが少ないものとなっています。
その中でも主語が省略されることは当たり前と言えるほどです。
さらには、語順の自由度が高く明確な表現を避けようとする性格を持ったものとなっています。
基本的な態度は自分を主張することよりも相手を理解しようとする言語となっているのです。
そして、理解しようとする中身は言葉や論理よりも相手の気持ちや感情・状況のほうに向かっているのです。
論理よりもその論理を展開している環境や状況においてどのような気持ちでその論理を展開しているのかが理解の中心となっているのです。
そのために、同じ状況であってもさまざまなニュアンスの違いを表わせる表現を持っているのです。

厳しい自然にさらされた後進国の中には、日本語と同じような性格を持った言語が多く存在しています。
日常的に使われている語順や単語の性格についても似たようなものが多くなっています。
しかし、彼らの言語は技術や経済の分野においては先進国とはなり得ませんでした。
世界に影響を与える言語とはならなかったのです。
日本語の持っている基本的な性格は、現在の先進国の言語よりは彼らの言語の方により近いものとなっていると思われます。
母語として持っている言語の基本的な性格や傾向は、あらゆる活動において影響を与えていますが意識することはないと思われます。
母語の環境にいる限りにおいては、その必要が全くないからです。
ところが、言語の基本的な性格の異なるものや環境に出会った時に、一種の理由のない違和感的なものとして感じる感覚的なものとなっているのではないでしょうか。
これを放っておくとストレスを感じることになるのだと思います。
今の日本社会は、アメリカ型英語の感覚によって作られた社会を模倣してきたものです。
とくに政治や企業の運営においてはその影響がかなり強いものとなっていると思われます。
世界でストレスを感じている社会人がいちばん多い日本の現状と無関係ではないと思っています。
具体的的な原因を探してみたところで、言語の基本的な性格の違いによる感覚的なところまで追及することは難しいのではないでしょうか。
理解することにおいては無意識に勤勉に行なうことが苦ではありませんので理屈で理解することは得意なのです。
しかし、理解していることと実際の活動における感覚の違和感とは別に存在しているのです。
これは無意識に起こっていることです。
言葉にすれば「訳もなくイヤだ」と感じることかもしれません。
理解出来るけどやりたくないことなどはその典型ではないでしょうか。

日本語だから持っている特殊な感覚ということではないと思います。
あくまでも相対ですので、他の先進国の言語に比べるとこのような特徴があるということです。
他の言語で触れることが多いのは先進国の言語であることに間違いはないでしょう。
それは好むと好まざるとにかかわらず日々行なっていることになります。
そんな見方をしていったら、もっと実用的な日本語の性格の利用の仕方も見つかるかもしれませんね。
ストレス対策にも役立つものが見つかるのではないでしょうか。
大切に持ち続けたい性格と傾向ではありますね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
義務教育における外国語の教科が始まったのは、私が経験したのは中学生に入学してからの英語からでした。
現在では小学校五年生からが標準となっており、さらに実験的には小学校の三年生からの取り組みも始まっています。
また、日々触れている情報においても最早日本語だけでは成り立たなくなっているのが現状ではないでしょうか。
その中には日本語として取り込んできた外来語や和製〇〇語として作ってしまった見た目だけの外国語も多くなってきており区別がつかなくなっていると思われます。
明らかに外国語であるとわかる言葉であれば意識して避けることも可能ですが、普段使われる日常語の中にも数多く浸透しているのではないでしょうか。
その中でも日本語の語彙の一つとして単語として取り込まれているものについては、日本語に与えている影響はそれほど大きなものとはなっていないと思われます。
ご飯やみそ汁と同じ感覚で使われているスクランブルエッグやトーストは、外国語というよりはカタカナの日本語化し日本語の語彙の一つとなっていると思われます。
この状態になれば、元の外国語として持っていた感覚を離れて日本語の感覚として日本語の一つの名詞ということができます。
日本語が持っている文法や用法のなかで日本語として使用されている単語となっているからです。
この種の言葉はほとんどが名詞でありますが、一部の動詞は「ジョインする」のように「〇〇する」といった形で取り込まれているものもあります。
joinは英語では名詞としての使用法はありませんが、「〇〇する」という用法によって日本語としての動詞化したものと言えるのではないでしょうか。
このような状況は動詞であったとしても単語としての語彙が増えただけであって、日本語としての基本的な文法や用法・構造などに影響を与えているものとはなっていません。
したがって、日本語として持っている基本的な性格や傾向については変わっていないと言うことができます。
その意味では、日本語化したことによって単語として日本語の語彙を増やしたものとして扱うことができるものです。
動詞的な使い方をされる外国語を「〇〇する」という形で取り込んだのは、日本語が基本的な性格を維持するための工夫の一つではないでしょうか。
名詞は動作を表しませんので名詞だけで文章を構成することは出来ません。
反対に、動詞は命令形や主語が想定できればそれだけで文章を構成することができます。
単語の単体では言語の性格や傾向を表すことは出来ませんが、短くとも文章になってくると言語の基本的な性格が現れてきます。
それは文章に含まれている要素の関係によってその言語の持っている独特のものが現れてくるからです。
主語、動詞、修飾語などの並び方や関係性によってその言語が持っている基本的な性格が現れてくるからです。
漢字においても「開店」は店を開くことですが日本語としては名詞として使われます。
「開店する」という表現によって日本語の動詞になっているのですね。
基本的な文章の構造だけではなく、並び替えにおける表現がどこまで許されるのかや疑問や命令・強調の時の語順の入れ替えの仕方などによって言語としての個性が出てくるからです。
ひいてはそのことから単語同士の関係性を表すことから文章同士の関係や段落同士の関係性を表すことになります。
結果としてどのような論理を基本としているのかや状況に応じた論理の融通性や展開のバリエーションなどまでつながっていくことになります。
先ほどの「開店」は「開店する」と「店を開く」では語順が入れ替わっていますよね。
更には「開店」という名詞まで入れると同じことに対して様々な語順と感覚が存在することになります。
外国語を習得しようとするときに、単語は丸暗記で覚えることができても意見やニュアンスを伝える時の表現の仕方がなかなか身につかないのはこのことが影響しているのです。
単語を覚えているうちは、母語として持っている自分の言語の単語として覚えますので日本語を母語として持っている場合には日本語の単語として覚えていることになるのです。
どんなにアルファベットで表記してみてもそれっぽい発音をしてみても日本語の語彙の一つにすぎないのです。
母音の数や主語や述語の語順については世界の言語のなかで日本語は決して特殊なものではありません。
(参照:日本語って本当に特殊なの?)
その日本語が先進国の言語の中に入るときわめて特徴的な特殊な言語となってしまうのは、世界の言語のなかで先進文化を作ってきた言語が特殊なものであったことを物語っていると思います。
世界の先進文化を作ってきた言語は、英語でありフランス語・スペイン語・ロシア語・ドイツ語であり古くはラテン語や中国語です。
いわゆる先進国の言語は決して世界に存在する言語としては平均的な標準的なものではなく、論理や効率や説明に適した性格を持った特殊な言語たちであるということができます。
先進国は戦勝国であり技術・経済において世界に影響を与え引っ張ってきた国です。
最後の大戦で戦敗国となったのが日本、ドイツ、イタリアであり世界の決定機関である国連における公用語の地位を与えられることのなかった言語です。
遅れてやってきた巨大な後進国だった中国も先進国の仲間入りをしつつあります。
中国語は国連創設時に公用語になっていた言語です。
日本語の持つ基本的な性格は自己主張をしないで理解しようとするものです。
この基本的な性格が言語の構造にも現れているのです。
自由度の高い語順でありながらも動詞(述語)は最後でなければならないのです。
他の先進国の言語で動詞(述語)が最後に来るものはありません。
むしろ、必ず主語を必要としそのあとすぐに動詞が来るものばかりです。
主語はほとんどの言語が必ず必要であり具体的な人や物でない抽象的なことを表すための代表的な主語までも存在しているものが多くなっています。
つまり、「誰が(何が)どうする」を極めて明確に伝えるために都合よくできているのです。
日本語は、省略の言語と言われるほど言語化されることが少ないものとなっています。
その中でも主語が省略されることは当たり前と言えるほどです。
さらには、語順の自由度が高く明確な表現を避けようとする性格を持ったものとなっています。
基本的な態度は自分を主張することよりも相手を理解しようとする言語となっているのです。
そして、理解しようとする中身は言葉や論理よりも相手の気持ちや感情・状況のほうに向かっているのです。
論理よりもその論理を展開している環境や状況においてどのような気持ちでその論理を展開しているのかが理解の中心となっているのです。
そのために、同じ状況であってもさまざまなニュアンスの違いを表わせる表現を持っているのです。
厳しい自然にさらされた後進国の中には、日本語と同じような性格を持った言語が多く存在しています。
日常的に使われている語順や単語の性格についても似たようなものが多くなっています。
しかし、彼らの言語は技術や経済の分野においては先進国とはなり得ませんでした。
世界に影響を与える言語とはならなかったのです。
日本語の持っている基本的な性格は、現在の先進国の言語よりは彼らの言語の方により近いものとなっていると思われます。
母語として持っている言語の基本的な性格や傾向は、あらゆる活動において影響を与えていますが意識することはないと思われます。
母語の環境にいる限りにおいては、その必要が全くないからです。
ところが、言語の基本的な性格の異なるものや環境に出会った時に、一種の理由のない違和感的なものとして感じる感覚的なものとなっているのではないでしょうか。
これを放っておくとストレスを感じることになるのだと思います。
今の日本社会は、アメリカ型英語の感覚によって作られた社会を模倣してきたものです。
とくに政治や企業の運営においてはその影響がかなり強いものとなっていると思われます。
世界でストレスを感じている社会人がいちばん多い日本の現状と無関係ではないと思っています。
具体的的な原因を探してみたところで、言語の基本的な性格の違いによる感覚的なところまで追及することは難しいのではないでしょうか。
理解することにおいては無意識に勤勉に行なうことが苦ではありませんので理屈で理解することは得意なのです。
しかし、理解していることと実際の活動における感覚の違和感とは別に存在しているのです。
これは無意識に起こっていることです。
言葉にすれば「訳もなくイヤだ」と感じることかもしれません。
理解出来るけどやりたくないことなどはその典型ではないでしょうか。
日本語だから持っている特殊な感覚ということではないと思います。
あくまでも相対ですので、他の先進国の言語に比べるとこのような特徴があるということです。
他の言語で触れることが多いのは先進国の言語であることに間違いはないでしょう。
それは好むと好まざるとにかかわらず日々行なっていることになります。
そんな見方をしていったら、もっと実用的な日本語の性格の利用の仕方も見つかるかもしれませんね。
ストレス対策にも役立つものが見つかるのではないでしょうか。
大切に持ち続けたい性格と傾向ではありますね。
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2016年1月19日火曜日
言葉の解釈の画一性と自由性
つい先日参加した勉強会で、起業で成功するためのポイントを改めて確認することができました。
極めて単純で当たり前のことなのですが、同じ言葉で表現されたものでもその時の自分の状態や環境によって受ける感覚が大きく異なることを改めて実感しました。
新しい言葉の意味や使い方を覚えるために辞書を引いていた時には、その時に必要な意味や使い方を確認しただけであって自分の言葉とはなっていませんでした。
その時得た内容と理解を絶対的なものとして持ってしまっていたために、次にその言葉に出会った時にも無条件に同じ解釈をしていたと思われます。
国語的に指摘されたり評価されたりして〇☓をつけられたりした内容については余計に確定的なものとなってしまっていたようです。
言葉の解釈に絶対的なものはないことに気づいてからは辞書を引くことがほとんどなくなりました。
同じ言葉に対しても人の数だけ解釈があることが分かってきたからです。
一度出来上がってしまった解釈を変えることには大きな勇気と意志が必要になります。
ところが、初めからその言葉に対する解釈がその瞬間における一時的なものだとわかっていれば変えるべき元の固定的な解釈すらないことになります。
国語の教育では読解力と称して同じ文章に対して同じ解釈ができるように固定的な定義を叩き込まれてきました。
人と変わった解釈をすれば☓を付けられてきたのです。
したがって、言葉の解釈においても人と違っていることが悪いことであるという経験則が出来上がってしまっていると思われます。
同じものを見たり読んだり聞いたりしたときに、ほかの人と同じような解釈をすることが求められてきたのです。
とくに、そのことに精通した人やその道の権威と言われるような人の解釈や定石・定説と言われるような解釈と異なっていることは間違ったこととして扱われてきたのです。
画一的な社会基準やルールを設定するためには必要なことだったのかもしれませんが、あらゆることに対してこの基準が持ち込まれていたのではないでしょうか。
小説などの文学作品は、本来ならばその解釈においては読み手の自由な発想に委ねられるべきものだと思います。
それにもかかわらず、部分的に切り取られた文学作品の解釈に画一性を求める国語の試験などが堂々と行なわれてきたのです。
余りに豊かすぎる表現力を持った日本語という言語おいては社会的なルールや規則を画一的な解釈が可能な表現で行なうことは至難の業です。
至難の業であると言って回避していいことでもありませんし、それでは社会のルールが機能しなくなってしまいます。
そのために日本語の中から画一的な解釈をするための言葉を選び出したものが国語としての解釈になります。
国語としての解釈ができていなければ社会で生きていくための基本的なルールが理解できないことにもなります。
ところがこの国語的な解釈をするために必要な日本語があまりにもたくさんあるために、義務教育だけでは国語的な解釈の習得すらままならないのです。
中学校を卒業しても日刊新聞が解釈できる読解力すらついていないのが現実となっているのです。
余りにも多い言葉と表現に対しての画一的な解釈をするための言語能力の習得だけでものすごく長い時間を必要としてしまっているのです。
小学校の高学年以降になってくると学校で習った言葉に対してアレンジを加えて言葉遊びをするようになってきていると思います。
言葉本来の自由な解釈に対しての活動が始まっているのではないでしょうか。
ルールは画一的な理解をされる言語で表現されることによって始めてルールとして機能することになります。
その表現がルールとして機能するためには、画一的な解釈を教え込まなければなりません。
言葉には画一的な解釈が必要とされる公的な面と自由に自分なりの解釈が許される私的な面があります。
それは言語全体でもありますし一つの言葉に対してもあることになります。
言語の歴史の浅い言葉や機能統制や効率を求めた言葉は画一的な面が求められてきます。
典型的な用例が軍事用語です。
どんな階層どんな場面で使われても誰もが同じ解釈ができて同じ行動ができるための言葉になります。
これができないと軍隊として機能しなくなります。
第二次世界大戦のあとは、軍事用語が大量に企業活動に用いられるようになります。
命令統制による画一性に向いていたからにほかなりません。
日本語はこれに対して漢字の音読みで言葉を作って対応してきました。
ひらがな言葉での軍事用語では役に立たなかったのです。
ひらがな言葉は個人としての解釈の自由度の高い言葉だったからです。
言い換えれば抽象度の高い言葉ということができます。
それは、ひとつのひらがな言葉の動詞を表現する漢字が数多く存在していることでもわかることです。
「かく」という動詞を表現する漢字は「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などたくさん出てきます。
漢字の方がより具体的な動作を表していることは明確です。
日本語語いう言語に画一性を身に付させたのは漢語と言う外来言語です。
その外来言語から自由性に富んだひらがなを生み出したのは古代日本の知恵ではないでしょうか。
世界の言語のなかで複数の書き文字を持った言語はほとんどありません。
ましてや母語として言語保持者が一億人単位でいる言語においては日本語だけです。
更には、カタカナはおろかアルファベットまで日常的に使いこなしている言語はほかには存在しません。
言語として求められる共通理解のための画一性と文化文明の基盤としての自由性の両方を兼ね備えた言語としてこれほどすぐれた言語は他にはありません。
その分、身につけて使いこなすこともほかの言語に比べたら難しいことになっているのではないでしょうか。
その難しさを意識することもなく使いこなしている日本人はもっと自分たちの言語について知ってもいいのではないでしょうか。
言語の画一性だけが求められ生かされてきた時代も終わりに近づいていると思われます。
自分たちですら忘れかけてる自由性に目を向ける場面が増えてきているのではないでしょうか。
この素晴らしい日本語をもっと知っておく必要がありそうですね。
極めて単純で当たり前のことなのですが、同じ言葉で表現されたものでもその時の自分の状態や環境によって受ける感覚が大きく異なることを改めて実感しました。
新しい言葉の意味や使い方を覚えるために辞書を引いていた時には、その時に必要な意味や使い方を確認しただけであって自分の言葉とはなっていませんでした。
その時得た内容と理解を絶対的なものとして持ってしまっていたために、次にその言葉に出会った時にも無条件に同じ解釈をしていたと思われます。
国語的に指摘されたり評価されたりして〇☓をつけられたりした内容については余計に確定的なものとなってしまっていたようです。
言葉の解釈に絶対的なものはないことに気づいてからは辞書を引くことがほとんどなくなりました。
同じ言葉に対しても人の数だけ解釈があることが分かってきたからです。
一度出来上がってしまった解釈を変えることには大きな勇気と意志が必要になります。
ところが、初めからその言葉に対する解釈がその瞬間における一時的なものだとわかっていれば変えるべき元の固定的な解釈すらないことになります。
国語の教育では読解力と称して同じ文章に対して同じ解釈ができるように固定的な定義を叩き込まれてきました。
人と変わった解釈をすれば☓を付けられてきたのです。
したがって、言葉の解釈においても人と違っていることが悪いことであるという経験則が出来上がってしまっていると思われます。
同じものを見たり読んだり聞いたりしたときに、ほかの人と同じような解釈をすることが求められてきたのです。
とくに、そのことに精通した人やその道の権威と言われるような人の解釈や定石・定説と言われるような解釈と異なっていることは間違ったこととして扱われてきたのです。
画一的な社会基準やルールを設定するためには必要なことだったのかもしれませんが、あらゆることに対してこの基準が持ち込まれていたのではないでしょうか。
小説などの文学作品は、本来ならばその解釈においては読み手の自由な発想に委ねられるべきものだと思います。
それにもかかわらず、部分的に切り取られた文学作品の解釈に画一性を求める国語の試験などが堂々と行なわれてきたのです。
余りに豊かすぎる表現力を持った日本語という言語おいては社会的なルールや規則を画一的な解釈が可能な表現で行なうことは至難の業です。
至難の業であると言って回避していいことでもありませんし、それでは社会のルールが機能しなくなってしまいます。
そのために日本語の中から画一的な解釈をするための言葉を選び出したものが国語としての解釈になります。
国語としての解釈ができていなければ社会で生きていくための基本的なルールが理解できないことにもなります。
ところがこの国語的な解釈をするために必要な日本語があまりにもたくさんあるために、義務教育だけでは国語的な解釈の習得すらままならないのです。
中学校を卒業しても日刊新聞が解釈できる読解力すらついていないのが現実となっているのです。
余りにも多い言葉と表現に対しての画一的な解釈をするための言語能力の習得だけでものすごく長い時間を必要としてしまっているのです。
小学校の高学年以降になってくると学校で習った言葉に対してアレンジを加えて言葉遊びをするようになってきていると思います。
言葉本来の自由な解釈に対しての活動が始まっているのではないでしょうか。
ルールは画一的な理解をされる言語で表現されることによって始めてルールとして機能することになります。
その表現がルールとして機能するためには、画一的な解釈を教え込まなければなりません。
言葉には画一的な解釈が必要とされる公的な面と自由に自分なりの解釈が許される私的な面があります。
それは言語全体でもありますし一つの言葉に対してもあることになります。
言語の歴史の浅い言葉や機能統制や効率を求めた言葉は画一的な面が求められてきます。
典型的な用例が軍事用語です。
どんな階層どんな場面で使われても誰もが同じ解釈ができて同じ行動ができるための言葉になります。
これができないと軍隊として機能しなくなります。
第二次世界大戦のあとは、軍事用語が大量に企業活動に用いられるようになります。
命令統制による画一性に向いていたからにほかなりません。
日本語はこれに対して漢字の音読みで言葉を作って対応してきました。
ひらがな言葉での軍事用語では役に立たなかったのです。
ひらがな言葉は個人としての解釈の自由度の高い言葉だったからです。
言い換えれば抽象度の高い言葉ということができます。
それは、ひとつのひらがな言葉の動詞を表現する漢字が数多く存在していることでもわかることです。
「かく」という動詞を表現する漢字は「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などたくさん出てきます。
漢字の方がより具体的な動作を表していることは明確です。
日本語語いう言語に画一性を身に付させたのは漢語と言う外来言語です。
その外来言語から自由性に富んだひらがなを生み出したのは古代日本の知恵ではないでしょうか。
世界の言語のなかで複数の書き文字を持った言語はほとんどありません。
ましてや母語として言語保持者が一億人単位でいる言語においては日本語だけです。
更には、カタカナはおろかアルファベットまで日常的に使いこなしている言語はほかには存在しません。
言語として求められる共通理解のための画一性と文化文明の基盤としての自由性の両方を兼ね備えた言語としてこれほどすぐれた言語は他にはありません。
その分、身につけて使いこなすこともほかの言語に比べたら難しいことになっているのではないでしょうか。
その難しさを意識することもなく使いこなしている日本人はもっと自分たちの言語について知ってもいいのではないでしょうか。
言語の画一性だけが求められ生かされてきた時代も終わりに近づいていると思われます。
自分たちですら忘れかけてる自由性に目を向ける場面が増えてきているのではないでしょうか。
この素晴らしい日本語をもっと知っておく必要がありそうですね。
2016年1月18日月曜日
聞こえない日本語
私の知り合いの外国人たちに言わせれば、日本語自体がとても聞き取り難い言語であると言います。
わたしからすれば、お前たちの言語の方がよほど聞き取りにくいと言いたいのですが、英語を母語にする人とドイツ語を母語にする人から一緒に言われると「そうかな」と思わざるを得ません。
それでも、英語を母語とする友人よりもドイツ語を母語とする友人の方が、意味は分からなくとも音としての日本語が拾えているように思っています。
同じように会話をしていてもドイツ語を母語とする人の方は音を拾ったうえでその音を聞き返しながらどの様な言葉であるのかを確認してくることが多いのです。
英語を母語とする友人の方は、彼に比べて日本語の音そのものが捉えきれていないように感じます。
このことについて、それぞれの人の日本語のついての慣れの問題だとばかり思っていました。
ところが、言語が持っている周波数という資料に触れた時に、思わず「なるほどな」と声に出してしまいました。
実際には文字で書かれていたのですが、わかり易くするために概要でグラフを作ってみました。
それぞれの言語で使われている周波数帯は以下のようになっているそうです。
人の聞こえる周波数帯(可聴域)は約15Hz~20,000Hzと言われています。
個人の可聴域のピークは10代の前半と言われており、特に高音域はそれ以降年を取るにつれてどんどん聞き取りにくくなっていくようです。
子どもたちに早く帰宅するように指導している市で、実験的に公園で5時のチャイムと一緒にモスキート音(蚊の飛ぶような高音)を流したそうです。
気に障る嫌な音なのですが、大人には音が鳴っていること自体が感じられませんので聞き取ることができる年代の子どもの帰宅が早くなったそうです。
グラフから分かるように日本語の使っている周波数帯は他の言語に比べるとかなり特徴的となっています。
全体の幅も狭いうえに低周波数帯域に固まっているのです。
アメリカ人の友人が「日本語は、ボソボソ低い声で太鼓のような平坦なリズムを刻んでいて聞き取りにくい」と言っていたことを思い出しました。
(参照:周波数から見てみた言語)
母語として持っている言語は生まれた時から触れており、母語を聞いたり話したり理解したりするのに都合のいいように体のあらゆる器官が発達していくことが分かっています。
日本語を母語として持っている私たちは、幼児期から日本語に触れることによって日本語の持っている周波数帯の音を言葉として認識するのに都合のいい聴覚を作ってきているのです。
したがって、125Hz~1,500Hzにある音を言葉として聞き分けるための機能がとても発達していることになります。
音楽を聴いたりスピーカの性能についても重低音域について敏感でありうるさいのが日本人だそうです。
結果として、音しての可聴域はもっと広いのですが言語として認識して違いを区別するための機能は125Hz~1,500Hzの周波数帯において一番発達していることになります。
これを見た時に日本語と英語・ドイツ語を比べて思わず納得してしまいました。
同じ英語でもアメリカ英語の方がイギリス英語よりも親しみやすく感じてしまうのは、同じ英語であっても日本語が持っている周波数帯との開きがイギリス英語の方が大きいからではないでしょうか。
ドイツ語を母語として持っている友人は、日本語の持っている周波数帯と彼の持っている言語の音してとらえることが得意な周波数帯がかなりカブっていたのです。
だから、意味は分からなくとも言葉の音として捉えることが自然にできたのではないでしょうか。
意味は分からなくとも日本語の「お」と「う」の違いを区別してとらえることができたのではないでしょうか。
英語を母語としている友人は彼の母語はイギリス英語でした。
しかし、アメリカ英語にも馴染んでいたので純粋のイギリス英語の持っている周波数帯よりはもう少し低いエリアもカバーできているのではないでしょうか。
それでも、日本語がメインに使用している周波数帯は彼らの言語においてはほとんど使用されていない領域だったのです。
つまりは、音としてはとらえることができたとしても言葉(の音)として捉えることが苦手な領域だったとも思われます。
自分の持っている母語以外の言語を身につけようとしたときに、その言語が持っている音を聞き取ることができなければ真似ることができません。
その意味では、「ロシア人は言語を身につける天才である」と言われる理由もわかるように思われます。
ロシア語が持っている使用領域は他の言語のかなりの部分をカバーしているからです。
聴覚だけではなく声帯や口腔や舌の形までもが母語を使いやすいように発達していきます。
使用されない機能は退化していくことになります。
年を取ってからの語学の習得のむずかしさの一因かもしれませんね。
早すぎても大きな弊害があることは分かっているので、流行にのって語学習得を目指すのも気を付けたいものです。
(参照:幼児期言語の習得、幼児期言語の重要性 など)
感覚で思っていたことが科学的な根拠で説明されることはとても面白いことです。
言語はまさしく感覚であり第二の天性です。
意識せずに使っているものですがあらゆる活動に影響を与えているものでもあります。
そんな感覚を解き明かして、日本語の持っている特徴をさらに明らかにして活用していきたいものです。
わたしからすれば、お前たちの言語の方がよほど聞き取りにくいと言いたいのですが、英語を母語にする人とドイツ語を母語にする人から一緒に言われると「そうかな」と思わざるを得ません。
それでも、英語を母語とする友人よりもドイツ語を母語とする友人の方が、意味は分からなくとも音としての日本語が拾えているように思っています。
同じように会話をしていてもドイツ語を母語とする人の方は音を拾ったうえでその音を聞き返しながらどの様な言葉であるのかを確認してくることが多いのです。
英語を母語とする友人の方は、彼に比べて日本語の音そのものが捉えきれていないように感じます。
このことについて、それぞれの人の日本語のついての慣れの問題だとばかり思っていました。
ところが、言語が持っている周波数という資料に触れた時に、思わず「なるほどな」と声に出してしまいました。
実際には文字で書かれていたのですが、わかり易くするために概要でグラフを作ってみました。
それぞれの言語で使われている周波数帯は以下のようになっているそうです。
赤色はメインの領域
人の聞こえる周波数帯(可聴域)は約15Hz~20,000Hzと言われています。
個人の可聴域のピークは10代の前半と言われており、特に高音域はそれ以降年を取るにつれてどんどん聞き取りにくくなっていくようです。
子どもたちに早く帰宅するように指導している市で、実験的に公園で5時のチャイムと一緒にモスキート音(蚊の飛ぶような高音)を流したそうです。
気に障る嫌な音なのですが、大人には音が鳴っていること自体が感じられませんので聞き取ることができる年代の子どもの帰宅が早くなったそうです。
グラフから分かるように日本語の使っている周波数帯は他の言語に比べるとかなり特徴的となっています。
全体の幅も狭いうえに低周波数帯域に固まっているのです。
アメリカ人の友人が「日本語は、ボソボソ低い声で太鼓のような平坦なリズムを刻んでいて聞き取りにくい」と言っていたことを思い出しました。
(参照:周波数から見てみた言語)
母語として持っている言語は生まれた時から触れており、母語を聞いたり話したり理解したりするのに都合のいいように体のあらゆる器官が発達していくことが分かっています。
日本語を母語として持っている私たちは、幼児期から日本語に触れることによって日本語の持っている周波数帯の音を言葉として認識するのに都合のいい聴覚を作ってきているのです。
したがって、125Hz~1,500Hzにある音を言葉として聞き分けるための機能がとても発達していることになります。
音楽を聴いたりスピーカの性能についても重低音域について敏感でありうるさいのが日本人だそうです。
結果として、音しての可聴域はもっと広いのですが言語として認識して違いを区別するための機能は125Hz~1,500Hzの周波数帯において一番発達していることになります。
これを見た時に日本語と英語・ドイツ語を比べて思わず納得してしまいました。
同じ英語でもアメリカ英語の方がイギリス英語よりも親しみやすく感じてしまうのは、同じ英語であっても日本語が持っている周波数帯との開きがイギリス英語の方が大きいからではないでしょうか。
ドイツ語を母語として持っている友人は、日本語の持っている周波数帯と彼の持っている言語の音してとらえることが得意な周波数帯がかなりカブっていたのです。
だから、意味は分からなくとも言葉の音として捉えることが自然にできたのではないでしょうか。
意味は分からなくとも日本語の「お」と「う」の違いを区別してとらえることができたのではないでしょうか。
英語を母語としている友人は彼の母語はイギリス英語でした。
しかし、アメリカ英語にも馴染んでいたので純粋のイギリス英語の持っている周波数帯よりはもう少し低いエリアもカバーできているのではないでしょうか。
それでも、日本語がメインに使用している周波数帯は彼らの言語においてはほとんど使用されていない領域だったのです。
つまりは、音としてはとらえることができたとしても言葉(の音)として捉えることが苦手な領域だったとも思われます。
自分の持っている母語以外の言語を身につけようとしたときに、その言語が持っている音を聞き取ることができなければ真似ることができません。
その意味では、「ロシア人は言語を身につける天才である」と言われる理由もわかるように思われます。
ロシア語が持っている使用領域は他の言語のかなりの部分をカバーしているからです。
聴覚だけではなく声帯や口腔や舌の形までもが母語を使いやすいように発達していきます。
使用されない機能は退化していくことになります。
年を取ってからの語学の習得のむずかしさの一因かもしれませんね。
早すぎても大きな弊害があることは分かっているので、流行にのって語学習得を目指すのも気を付けたいものです。
(参照:幼児期言語の習得、幼児期言語の重要性 など)
感覚で思っていたことが科学的な根拠で説明されることはとても面白いことです。
言語はまさしく感覚であり第二の天性です。
意識せずに使っているものですがあらゆる活動に影響を与えているものでもあります。
そんな感覚を解き明かして、日本語の持っている特徴をさらに明らかにして活用していきたいものです。
2015年12月2日水曜日
自然科学の探究と言語感覚
日本語の構造的な特徴のひとつとして、主語が省略されることが多く語順がかなり自由であることがあります。
基本的な構文として主語が必要であり使用される言葉の語順が厳格に定められている言語に比べると、曖昧さと指摘されたり分かりにくさとして指摘されている原因の一つでもあります。
そのために、他の言語話者から見ると自己主張や自分の意見なのかどうかを文から読み取ることが難しく感じられる言語となっています。
書かれた文章であれば繰り返し意思確認することも可能ですが、話し言葉としてその瞬間で理解することはさらに難しいものとなっているようです。
日本語を母語とする者同士の間では実際に言葉となっているもの以外の感覚を共有することが可能であったとしても、言語での表現を絶対的なものとする他の言語話者達にとってはとても理解しにくい言語となっています。
主体者を明確に表現しない日本語は表現するための視点が移りやすいという特徴を生みます。
言い換えれば絶対的な基準を持たないということもできます。
自然科学は、ノーベル賞の分野で言えば化学・物理学・医学生理学の三分野にあたります。
2000年以降のこの分野の受賞者を母語別に見てみると面白いことが見えてきます。
国別では一番受賞者が多いのはアメリカですが、これは受賞時点での国籍でカウントしているためであり母語が英語の人だけではありません。
二番目に受賞者の多い国が日本なのです。
しかも、全ヨーロッパのこの分野の受賞者の合計よりも多い人数なのです。
母語が日本語である人でカウントするとアメリカ国籍になっている数人もカウントできることになります。
2000年以前に比べると明らかに日本人(日本語母語者)の受賞の比率は格段に高くなっているのです。
それも、新しい事実の発見と言う基礎研究分野においての受賞が続いています。
基礎研究に対する評価は日本国内よりも海外においての方が高いことはよく見えていることではないでしょうか。
ノーベル賞受賞者のほとんどは受賞以前には専門分野以外では知られていない人ばかりではなかったでしょうか。
自然科学の探求は絶対不変の事実の探究でもあります。
起きている自然現象を切り出して、そのことが間違いなく起きていることを証明することやそのことが起こるための事実の積み重ねを発見することにあります。
それらの研究結果を利用して技術や産業が発展してきたことは間違いのないことです。
そこには、絶対的な事実が存在することになります。
ところがこの絶対的な事実は人間と言う知的活動によって定義されているものであり、その知的活動は言語によって行なわれていることです。
言語の持っている特徴や感覚がその活動そのものに影響を与えていることを否定することは出来ないと思われます。
ノーベル賞の自然科学分野の対象は論文(原著論文)です。
(参照:原著論文と日本語)
そのほとんどは英語によって書かれたものとなっています。
受取る側は英語の感覚でその論文を読み評価することになります。
ところが、その論文に至る思考を中心とする知的活動は母語によってなされています。
何ヶ国語を使いこなせる人であっても一番レベルの高い難しい知的活動においては自然と母語で行なわれていることが分かっています。
その知的活動の結果の表現することのみを英語で行なっていることになります。
絶対的な主体性を持たない日本語は、視点においてとても自由な活動ができる言語でもあります。
日本人が他の国の人に比べて感情移入が簡単に出来てしまい人の立場を理解することが素直に行なえるのは持っている言語の感覚によるものだと思われます。
それによって主語の省略や立場の入れ替わりなどにも対応できているのだと思われます。
言い方を変えれば絶対的な視点を持っていないとも言うことができます。
自然科学における現象を見つめる時にはより多くの視点から見ることが必要になります。
他の言語に比べると日本語は言語そのものが持っている感覚に視点にこだわらない自由さがあると思われます。
この感覚は2000年以降に顕著になったものではありません。
日本語が存在していた時から継承されてきたものと言えるでしょう。
それが世界において評価を受けるようになったのは、英語による表現が大きいのではないでしょうか。
日本人のノーベル賞受賞者の初期のころは英語を母語とする人たちとの共同論文であったり、英語を母語とする人たちによる評価論文のおかげであったと思われます。
最近では日本人による単独受賞が増えてきており、本人自身の手による論文が評価されてのこととなっています。
英語での論文の表現に慣れてきていると言えるのではないでしょうか。
日本語で行なわれた知的活動を英語で表現するためには、英語の表現による感覚にならう必要があります。
事実を事実として表記し主体を明確に表記し、意見や自己主張は事実を根拠とした論理で表現しなければなりません。
日本語で知的活動を行なった結果を英語で表現することによって、極めて明確な論理と証明が行なわれることになるのです。
思考言語としての日本語、表現言語としての英語はとても良い関係にあるのではないでしょうか。
世界に対して何かを発信する必要がある人は決して多くはないと思います。
しかしネットの普及に伴って知らないうちに世界と接している環境になっています。
英語で表現するときに自然に行なっていることがあります。
言いたいこと伝えたいことを英語で表現するためにもう一度日本語での表現をやりなおしているはずです。
日本語の感覚のなかで行なわれた表現を、英語の感覚に置き換えるための日本語で表現しなおしていることになります。
日本語はそれが可能なほどのたくさんの言葉と表現方法を持っているのです。
日本語は世界でも日本民族だけが持っている言語です。
もっともっとその特徴や感覚を知っておきたいですね。
基本的な構文として主語が必要であり使用される言葉の語順が厳格に定められている言語に比べると、曖昧さと指摘されたり分かりにくさとして指摘されている原因の一つでもあります。
そのために、他の言語話者から見ると自己主張や自分の意見なのかどうかを文から読み取ることが難しく感じられる言語となっています。
書かれた文章であれば繰り返し意思確認することも可能ですが、話し言葉としてその瞬間で理解することはさらに難しいものとなっているようです。
日本語を母語とする者同士の間では実際に言葉となっているもの以外の感覚を共有することが可能であったとしても、言語での表現を絶対的なものとする他の言語話者達にとってはとても理解しにくい言語となっています。
主体者を明確に表現しない日本語は表現するための視点が移りやすいという特徴を生みます。
言い換えれば絶対的な基準を持たないということもできます。
自然科学は、ノーベル賞の分野で言えば化学・物理学・医学生理学の三分野にあたります。
2000年以降のこの分野の受賞者を母語別に見てみると面白いことが見えてきます。
国別では一番受賞者が多いのはアメリカですが、これは受賞時点での国籍でカウントしているためであり母語が英語の人だけではありません。
二番目に受賞者の多い国が日本なのです。
しかも、全ヨーロッパのこの分野の受賞者の合計よりも多い人数なのです。
母語が日本語である人でカウントするとアメリカ国籍になっている数人もカウントできることになります。
2000年以前に比べると明らかに日本人(日本語母語者)の受賞の比率は格段に高くなっているのです。
それも、新しい事実の発見と言う基礎研究分野においての受賞が続いています。
基礎研究に対する評価は日本国内よりも海外においての方が高いことはよく見えていることではないでしょうか。
ノーベル賞受賞者のほとんどは受賞以前には専門分野以外では知られていない人ばかりではなかったでしょうか。
自然科学の探求は絶対不変の事実の探究でもあります。
起きている自然現象を切り出して、そのことが間違いなく起きていることを証明することやそのことが起こるための事実の積み重ねを発見することにあります。
それらの研究結果を利用して技術や産業が発展してきたことは間違いのないことです。
そこには、絶対的な事実が存在することになります。
ところがこの絶対的な事実は人間と言う知的活動によって定義されているものであり、その知的活動は言語によって行なわれていることです。
言語の持っている特徴や感覚がその活動そのものに影響を与えていることを否定することは出来ないと思われます。
ノーベル賞の自然科学分野の対象は論文(原著論文)です。
(参照:原著論文と日本語)
そのほとんどは英語によって書かれたものとなっています。
受取る側は英語の感覚でその論文を読み評価することになります。
ところが、その論文に至る思考を中心とする知的活動は母語によってなされています。
何ヶ国語を使いこなせる人であっても一番レベルの高い難しい知的活動においては自然と母語で行なわれていることが分かっています。
その知的活動の結果の表現することのみを英語で行なっていることになります。
絶対的な主体性を持たない日本語は、視点においてとても自由な活動ができる言語でもあります。
日本人が他の国の人に比べて感情移入が簡単に出来てしまい人の立場を理解することが素直に行なえるのは持っている言語の感覚によるものだと思われます。
それによって主語の省略や立場の入れ替わりなどにも対応できているのだと思われます。
言い方を変えれば絶対的な視点を持っていないとも言うことができます。
自然科学における現象を見つめる時にはより多くの視点から見ることが必要になります。
他の言語に比べると日本語は言語そのものが持っている感覚に視点にこだわらない自由さがあると思われます。
この感覚は2000年以降に顕著になったものではありません。
日本語が存在していた時から継承されてきたものと言えるでしょう。
それが世界において評価を受けるようになったのは、英語による表現が大きいのではないでしょうか。
日本人のノーベル賞受賞者の初期のころは英語を母語とする人たちとの共同論文であったり、英語を母語とする人たちによる評価論文のおかげであったと思われます。
最近では日本人による単独受賞が増えてきており、本人自身の手による論文が評価されてのこととなっています。
英語での論文の表現に慣れてきていると言えるのではないでしょうか。
日本語で行なわれた知的活動を英語で表現するためには、英語の表現による感覚にならう必要があります。
事実を事実として表記し主体を明確に表記し、意見や自己主張は事実を根拠とした論理で表現しなければなりません。
日本語で知的活動を行なった結果を英語で表現することによって、極めて明確な論理と証明が行なわれることになるのです。
思考言語としての日本語、表現言語としての英語はとても良い関係にあるのではないでしょうか。
世界に対して何かを発信する必要がある人は決して多くはないと思います。
しかしネットの普及に伴って知らないうちに世界と接している環境になっています。
英語で表現するときに自然に行なっていることがあります。
言いたいこと伝えたいことを英語で表現するためにもう一度日本語での表現をやりなおしているはずです。
日本語の感覚のなかで行なわれた表現を、英語の感覚に置き換えるための日本語で表現しなおしていることになります。
日本語はそれが可能なほどのたくさんの言葉と表現方法を持っているのです。
日本語は世界でも日本民族だけが持っている言語です。
もっともっとその特徴や感覚を知っておきたいですね。
2015年11月24日火曜日
欲求を表に出さない日本語感覚
自分の持っている欲求をそのまま表に表現することを善としない感覚が日本語にはあります。
欲求や自己主張をすべき場面であっても、オブラートに包んだような表現に成ってしまい意図が伝わらないことも多くあります。
自己主張を明確にして彼我の違いを明らかにしてその違いに価値を認めようとする欧米型の言語感覚とは、表現することに対する基本的なものが異なっているということができます。
このことは日本語の環境における文化が培ってきたものであり、その精神文化が言語の感覚として継承されてきているものです。
古くは「古事記」や「万葉集」の中にもその感覚を見てみることができます。
それは「ことあげ」(言挙げ、事挙げ)と呼ばれたものです。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化)
個人としての欲求や希望は人に対して表明してはいけないものとして扱われています。
唯一、神に対してのみ行なうことを許された行為となっており人に対して自己主張や欲求を直接的に語ってはいけないこととして一種の戒めとして扱われています。
この「言」という文字は神が行なったり神に対して行なったりするときのみに使われたものであり、人が対象にかかわらず言葉を発する意味で使われるようになったのは明治以降ではないかと言われています。
それ以前は、神にかかわる文字として神聖視されていたものと思われます。
現在のように何に対しても話すことに対して使われた「いう」は「謂う」「云う」などが使われていました。
日本語感覚における神は人を超越した自然神として扱われており、人の名を持っていたとしても超越したものとしての表現がなされたものがほとんどです。
それに対して欧米型言語の感覚における神は究極の人として扱われており、人間として表現されています。
死んだり生き返ったりすることがその典型であり、人を超えるしたものではなく人の延長線上にあるものとして扱われています。
その分、彼らにとっては神はより身近なものであり日本語の感覚における自然神とは一線を画したものとなっているようです。
人にとってのいちばんの脅威が自然環境の変化にある日本語感覚においては、そこに神を感じることによって怒れる荒れ狂う自然に対して人が協力して対処しようとします。
怒れる自然の前には人は協力せざるを得なくなるために、人同士の争いごとよりも自然に対処することの方が大切になります。
そのために人同士は協力し合うために共通性を見つけることでより同調しやすいようになっている感覚を持っていると思われます。
そのためには、ささやかな共通性を発見することで安心する要素が増えて協力をしやすいようになっているのではないでしょうか。
ささやかな相違よりも共通性に目が行って発見しやすくなっているおもと思われます。
最大の脅威である自然環境(神)の変化に対して協力して対処するための基盤がそこにあると思われます。
(参照:共通性の発見で安心する日本語感覚)
協力を前提として共通性を発見していくためには、自己主張や個人の欲求をはっきりと表明することは妨げになります。
個人としての欲求は対峙するものであったとしても自然の脅威の前では協力してこれに当たらなければならないのですから、妨げのなるものは直接的には見えないようにしていくことになります。
そのための教訓が「ことあげ」ではないでしょうか。
欧米型言語の感覚では、最大の脅威が人になります。
他の民族による侵略や攻撃が自然環境の変化よりも生命に対しての現実的な脅威となっていたのです。
自然は他の民族の侵略や攻撃に対して利用すべき最大の環境であったと思われます。
人が驚異の対象ですので、敵か味方かを明確にしなければなりません。
協力すべき相手か敵対すべき相手かの判断が生死を分けることになるからです。
そのために曖昧な強調よりも厳格な差異を求めるようになります。
心情面のつながりよりも明確な罰則のある契約を求めるようになります。
強弱の関係による現実的な支配を求めるようになります。
そのためには個人としての主張を明確に表現して彼我の違いをはっきりさせなければなりません。
その違いに対して、少しでも自分にとって都合の良い方にしようとします。
そのためには自然環境をも利用することになるのです。
日本語の環境下においては自己の主張や個人の欲求を明確に表明することは日本語の母語としての感覚が待ったをかけるようになっているのです。
これを無理に表明するようにするとどこかで歪が出てストレスを感じるようになってしまうのです。
どうしても避けることができないそんな時には、日本語の環境を離れてしまうことをお薦めします。
企業での公用語を英語にするところが出てきています。
英語の感覚を利用する場合にはとても適しています。
しかし、日本語の感覚と英語の感覚とをよく理解していないと全く無駄になるだけではありません。
母語でない言語でコミュニケーションをとるわけになりますので、コミュニケーションの質が母語で行なうよりもはるかに低くなってしまうのです。
使いこなせないまでも英語を使うことでその言語の持つ感覚は自然に現れてきます。
日本語よりも英語の方が自己主張がしやすく他人批判がしやすいことは間違いありません。
しかしそれをより深い質の高い次元で求めると母語に頼らざるを得なくなります。
表面的な言語の感覚を利用するには使用言語を指定することが一番簡単ですが、深度は母語よりもはるかに浅いものにならざるを得ません。
母語は書き換えることができない者であると同時に、単なる言語ではなく感覚として知的活動のすべてに影響を与えているものです。
その人にとっての最高の知的活動は母語によってでしか発揮することは出来ないのです。
表面的な対応や体裁は英語を公用語とすることによって可能となるでしょう。
しかし、日本の持っているものを生かして日本らしいしかもレベルの高いものを実現しようとしたときには間違いなく妨げとなってしまうのです。
日本語の持っている感覚を生かせる環境が減っていっていると思われます。
日本語の感覚が生かせる環境にあるからこそ、その優秀さが生かせるものです。
日本語を母語とする者が日本語の感覚を生かせる環境で活動をしていないこと自体がもったいないことなのです。
戦後の欧米型言語の感覚を押し付けられた社会は、日本語の感覚からは遠いところを走ってきました。
気づいた者たちが少しずつ日本語の感覚の社会を取り戻しています。
母語の感覚がそのまま生かせる社会で生活をしながら、他の言語の感覚とも付き合い方を学んでいくことが大切ではないでしょうか。
言語の感覚にすべてが現れているのだから、決して難しいことではないと思われます。
欲求や自己主張をすべき場面であっても、オブラートに包んだような表現に成ってしまい意図が伝わらないことも多くあります。
自己主張を明確にして彼我の違いを明らかにしてその違いに価値を認めようとする欧米型の言語感覚とは、表現することに対する基本的なものが異なっているということができます。
このことは日本語の環境における文化が培ってきたものであり、その精神文化が言語の感覚として継承されてきているものです。
古くは「古事記」や「万葉集」の中にもその感覚を見てみることができます。
それは「ことあげ」(言挙げ、事挙げ)と呼ばれたものです。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化)
個人としての欲求や希望は人に対して表明してはいけないものとして扱われています。
唯一、神に対してのみ行なうことを許された行為となっており人に対して自己主張や欲求を直接的に語ってはいけないこととして一種の戒めとして扱われています。
この「言」という文字は神が行なったり神に対して行なったりするときのみに使われたものであり、人が対象にかかわらず言葉を発する意味で使われるようになったのは明治以降ではないかと言われています。
それ以前は、神にかかわる文字として神聖視されていたものと思われます。
現在のように何に対しても話すことに対して使われた「いう」は「謂う」「云う」などが使われていました。
日本語感覚における神は人を超越した自然神として扱われており、人の名を持っていたとしても超越したものとしての表現がなされたものがほとんどです。
それに対して欧米型言語の感覚における神は究極の人として扱われており、人間として表現されています。
死んだり生き返ったりすることがその典型であり、人を超えるしたものではなく人の延長線上にあるものとして扱われています。
その分、彼らにとっては神はより身近なものであり日本語の感覚における自然神とは一線を画したものとなっているようです。
人にとってのいちばんの脅威が自然環境の変化にある日本語感覚においては、そこに神を感じることによって怒れる荒れ狂う自然に対して人が協力して対処しようとします。
怒れる自然の前には人は協力せざるを得なくなるために、人同士の争いごとよりも自然に対処することの方が大切になります。
そのために人同士は協力し合うために共通性を見つけることでより同調しやすいようになっている感覚を持っていると思われます。
そのためには、ささやかな共通性を発見することで安心する要素が増えて協力をしやすいようになっているのではないでしょうか。
ささやかな相違よりも共通性に目が行って発見しやすくなっているおもと思われます。
最大の脅威である自然環境(神)の変化に対して協力して対処するための基盤がそこにあると思われます。
(参照:共通性の発見で安心する日本語感覚)
協力を前提として共通性を発見していくためには、自己主張や個人の欲求をはっきりと表明することは妨げになります。
個人としての欲求は対峙するものであったとしても自然の脅威の前では協力してこれに当たらなければならないのですから、妨げのなるものは直接的には見えないようにしていくことになります。
そのための教訓が「ことあげ」ではないでしょうか。
欧米型言語の感覚では、最大の脅威が人になります。
他の民族による侵略や攻撃が自然環境の変化よりも生命に対しての現実的な脅威となっていたのです。
自然は他の民族の侵略や攻撃に対して利用すべき最大の環境であったと思われます。
人が驚異の対象ですので、敵か味方かを明確にしなければなりません。
協力すべき相手か敵対すべき相手かの判断が生死を分けることになるからです。
そのために曖昧な強調よりも厳格な差異を求めるようになります。
心情面のつながりよりも明確な罰則のある契約を求めるようになります。
強弱の関係による現実的な支配を求めるようになります。
そのためには個人としての主張を明確に表現して彼我の違いをはっきりさせなければなりません。
その違いに対して、少しでも自分にとって都合の良い方にしようとします。
そのためには自然環境をも利用することになるのです。
日本語の環境下においては自己の主張や個人の欲求を明確に表明することは日本語の母語としての感覚が待ったをかけるようになっているのです。
これを無理に表明するようにするとどこかで歪が出てストレスを感じるようになってしまうのです。
どうしても避けることができないそんな時には、日本語の環境を離れてしまうことをお薦めします。
企業での公用語を英語にするところが出てきています。
英語の感覚を利用する場合にはとても適しています。
しかし、日本語の感覚と英語の感覚とをよく理解していないと全く無駄になるだけではありません。
母語でない言語でコミュニケーションをとるわけになりますので、コミュニケーションの質が母語で行なうよりもはるかに低くなってしまうのです。
使いこなせないまでも英語を使うことでその言語の持つ感覚は自然に現れてきます。
日本語よりも英語の方が自己主張がしやすく他人批判がしやすいことは間違いありません。
しかしそれをより深い質の高い次元で求めると母語に頼らざるを得なくなります。
表面的な言語の感覚を利用するには使用言語を指定することが一番簡単ですが、深度は母語よりもはるかに浅いものにならざるを得ません。
母語は書き換えることができない者であると同時に、単なる言語ではなく感覚として知的活動のすべてに影響を与えているものです。
その人にとっての最高の知的活動は母語によってでしか発揮することは出来ないのです。
表面的な対応や体裁は英語を公用語とすることによって可能となるでしょう。
しかし、日本の持っているものを生かして日本らしいしかもレベルの高いものを実現しようとしたときには間違いなく妨げとなってしまうのです。
日本語の持っている感覚を生かせる環境が減っていっていると思われます。
日本語の感覚が生かせる環境にあるからこそ、その優秀さが生かせるものです。
日本語を母語とする者が日本語の感覚を生かせる環境で活動をしていないこと自体がもったいないことなのです。
戦後の欧米型言語の感覚を押し付けられた社会は、日本語の感覚からは遠いところを走ってきました。
気づいた者たちが少しずつ日本語の感覚の社会を取り戻しています。
母語の感覚がそのまま生かせる社会で生活をしながら、他の言語の感覚とも付き合い方を学んでいくことが大切ではないでしょうか。
言語の感覚にすべてが現れているのだから、決して難しいことではないと思われます。
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