日本語文化とアメリカ英語文化は人が言葉を発するという行動に対して同じような感覚を持っているようです。
それは、人が言葉を発するという行為を表す言葉としての基本語(日常的に使われているにもかかわらず昔から継承されている誰でもが理解できる言葉)の数を見てみればわかるのではないかと思います。
日本語の基本語は「現代やまとことば」として漢字の音読みや外来語を排除した訓読み言葉(いわゆる「ひらがなことば」)で表現されるものになります。
アメリカ英語の基本語は日本の中学校程度で習う単語だと思えばいいのではないでしょうか。
例えば人が言葉を発するという活動を表する基本語を探してみます。
日本語の基本語として代表的なものは「はなす」(話す)、「しゃべる」(喋る)、「かたる」(語る)、「のべる」(述べる)、「いう」(言う)などとなります。
これに対して、アメリカ英語の基本語は "talk", "speak", "tell", "say"などとなるのではないでしょうか。
日本語の「はなす」(話す)という言葉は日常的にその定義を意識することなく感覚的に使われているにもかかわらず、ほとんどの人がその意味するところの行為について間違えることはありません。
日本語を母語として持っている者にとっては使う場面やニュアンスについてすべての人が同じ感覚を持っている言葉ということができます。
「しゃべる」「かたる」「のべる」「いう」などと比べた場合であっても、使用する環境や状況をいちばん考慮する必要がなく広く使われている言葉が「はなす」ではないでしょうか。
「はなす」はそれ以外の言葉のすべてに置き換えが可能なほど広範なニュアンスをカバーしていると思われます。
まさしく基本語といえる使われかたをしている典型的な言葉ではないでしょうか。
「はなす」ということばは文字のなかった時代の日本語である「古代やまとことば」として存在いたものかどうかは確認ができていません。
最古の記録書物である「記紀」(古事記、日本書紀)に「はなす」という言葉を見ることはできないようです。
「記紀」(とくに古事記)においては、それまで記録するための文字がなかったために記憶力によって話し言葉として保持されていた内容を、漢語の音を使うことによって文字として記録することが試みられたものとなっています。
同じ行為を表すことばとしては「いう」が「記紀」にも使われていることは確認されています。
そこで使われている「いう」には漢字として「言」が使われていたり「云」や「曰」が使われていたりしています。
公式な記録として残したものに行き当たりばったりでその都度異なる漢字を使用するわけはありませんので、その使い方には何らかの規則性があるはずです。
「言」は人が言葉を発する行為には使われておらず神が何事かを伝える場合や神にかかわる場合に使われているようです。
人が言葉を発する行為には「云」「曰」などが使われており、時代によっては行為者の身分によって使い分けられたり他の文字が充てられたりしていきます。
「はなす」がどの時代から使われ始めたのかは定かではありませんが基本語の「ひらがなことば」として定着してきていることは疑いようがないものとなっています。
このように「古代やまとことば」であったかどうかはわからなくとも現代としては「やまとことば」として扱うことが適当であると思われる言葉があります。
外来語や漢字の音読みによる言葉を除いた「ひらがなことば」のことであり、「現代やまとことば」と呼んでいるものです。
文字のない時代より継承されてきている「古代やまとことば」はもちろんのこと、「はなす」のように「古代やまとことば」として確認ができない言葉も「現代やまとことば」として扱うことができます。
日本で生まれ、日本で定着した基本語ということができます。
分かりやすい区別としては「ひらがなことば」と漢字表記の場合の訓読みによる言葉が「現代やまとことば」であるということになります。
つまりは同じ行為を表すことばであっても「発言する」「断ずる」「意見する」などは漢字の音読みを使っている言葉であり「現代やまとことば」ではありません。
外来語である漢字の音読みを利用した言葉であり日本で生まれ育った言葉ではないからです。
(参照:「愛する」が苦手な日本人)
明治維新期に広くヨーロッパを中心に取り込んだ先進文明に学んだ言葉のほとんどは、音読み漢字によって表現されたものであり、現代日本語のかなりの部分を占めていることになります。
この時期に生み出された「やまとことば」以外の新しい日本語だけでも広辞苑一冊分の20万語を越えていると言われています。
外来語や新しい文化にかかわるニュアンスを新しい日本語として取り込んだものといえます。
人が言葉を発する行為を表す基本語は、日本語でもアメリカ英語でもほとんど同じ数であるということができます。
それらの言葉はそれぞれの言語を母語とする人たちにとっては苦労することなしに使い分けができる日常語となっています。
それぞれの基本語に対しての近いニュアンスを表す互換語が日本語と英語の間で存在していると言ってもいいのではないでしょうか。
人が言葉を発する行為に対しての感覚がどちらの文化においても近いものがあるということになると思います。
違う行為を見てみましょう。
人が移動する速さを表す基本語を考えてみます。もちろん「現代やまとことば」です。
日本語の基本語では「あるく」「はしる」の二つしかないと思います。
「かける」は本来は人以外の獣に対して使われた言葉ですのでここでは人の動作を表す言葉としては除外しています。
これに対してアメリカ英語では基本語としても"run", "walk" 以外に"jog", "sprint" が存在しています。
日本語には対応する基本語がないために複合語として表現されるものが"jog"=「小走り」, "sprint"=「全力走り」などとなっています。
"jog", "sprint"などは日本語では「はしる」の中の細分化されたカテゴリということになります。
(参照:「あるく」と「はしる」)
基本語として使用されている言葉の数によってその言語文化におけるその分野の一般的な常識レベルでの深さやこだわりを見ることができるのです。
日本文化では人が移動する速さに対して「あるく」と「はしる」の二種類の分類で十分だったことになります。
アメリカ文化では同じ行為に対して四種類・四段階の分類を必要としていたことになります。
人の生産性という文化が根付いているアメリカらしい局面が見えるのではないでしょうか。
日本語の基本語に人の話していることを「きく」という言葉があります。
明治期以降は聞くことに対して様々なレベルが求められるようになりました。
基本語は「きく」ですが、「きく」の中からの細分化を漢字で行うことがなされたのです。
「聞く」「聴く」「訊く」「効く」「利く」などの漢字が充てられていったのです。
中には行為としてはむしろ「はなす」ことに区分するべきと思われる「訊く」が含まれていることも日本文化の特徴を表しているのではないでしょうか。
アメリカ英語だと"hear", "listen" と言うことになるのでしょうね。
できるだけ基本語を使って伝えることこそ誰でもが理解できる表現ということになるのではないでしょうか。
日本語の基本語としての「現代やまとことば」はこれからますます大切になってくると思われます。
世代間の理解がどんどん難しくなってきています。
使っている言葉自体が違ってきているんでしょうね。
若い人たちは新しい言葉を生み出すことにおいては天才的です。
年配者は新しい言葉に対しては触れる機会が少なくなっていきます。
新しい言葉を理解するときにはだれでも自分の持っている基本語で理解します。
あまりにも当たり前なことってなかなか光が当たりませんね。
時には当たり前のことを振り返ることができるといいですね。
「現代やまとことば」。そんな感覚を持ってもう一度日本語を見てみると面白いと思いますよ。
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2017年10月16日月曜日
2017年9月21日木曜日
今月の現代やまとことば・・・「はなす」
新しい言葉は常に生まれては消えていっていますが、日本語の根幹をなす基本語の中には遠く古代の文字のなかった時代の言葉につながっているものがあります。
漢字の音読みは導入された時代における中国語の読みかたである呉音、唐音、漢音などの音を真似たものです。
古代より「やまとことば」として存在していた音しか持たなかった原始日本語とはその起源を一緒にするものではではありません。
特に、人の基本的な活動を表す言葉としては文字のなかった時代においてもしっかり存在しており、その言葉をたどることは日本独特の生活文化を推測するためにけっして無駄なことではないと思われます。
文字のなかった古代の「やまとことば」を知ることは日本語の原点、ひいては日本文化の原点を知ることにつながります。
現代の言葉の中から漢字で表記された上に読み方として音読みしか持たない言葉は「やまとことば」とは一線を画したものであり、漢字を利用することができるようになってから作り出された新しい言葉であるということができます。
現代の言葉であっても訓読みやひらがな表記しか持たない言葉は持っている音が「やまとことば」につながっている可能性があります。
そんな言葉のことを「現代やまとことば」と呼んでいます。
電子書籍「日本語のチカラ」無償で公開中です
「現代やまとことば」の類語を見ていくことによって古代の「やまとことば」を感じることができるのではないかと考えています。
そこには日常的に気軽に使っている意味合いよりもより深遠な日本語の精神文化としての歴史が含まれていることが多くなっています。
特殊な言葉ではなく日常的に使われているきわめて当たり前の基本語にこそより古い時代から使われてきた歴史が蓄積されているものと思われます。
そんな言葉たちを使うことで日本語の持つ歴史文化をよりうまく表現できるのではないか、より日本人の心に伝わる表現ができるのではないかと考えています。
また、「現代やまとことば」を使うことで自然に日本語の持つ伝統的な感覚に馴染んでいけると思われます。
理屈をこねるよりも具体的な言葉を追っていくことで感じていくことができると思いますので、まずは今回取り上げる基本語を紹介します。
言葉について書いているブログですので最初に取り上げる基本語は「はなす」(話す)にしたいと思います。
「はなす」という「ことば」は文字のなかった時代においても使われていたものだと推測することができます。
「はなす」ということばが先にあって導入された漢字の中で「話」という文字が「はなす」と同様の意味を表す漢字だと理解されたので「話す」という表記が生まれたことになります。
それでは「はなす」の類義語を音読み言葉を使わない言葉から探してみたいと思います。
「しゃべる」(喋る)、「かたる」(語る)、「のべる」(述べる)、「つぐ」(告ぐ)、「いう」(言う)、「くちにする[くちをきく]」(口にする[口を利く])
最後の言葉にいたってはもはや基本語とは言えないようですね。
実は最後の「口にする」はとても重要な言葉となっています。
人の持っている重要な機能についてはほとんど使える表現なんですね。
「耳にする」「目にする」「鼻にする」「手にする」など人の部位が持っている基本的な機能を生かすという行為を表すものとなります。
さらにはそこから転じてより抽象的な広い意味を持たせていることもあるんですね。
「手にする」などは実際に手に触れることから転じて自分のものにするといった意味にまで広がっていることになります。
この「~にする」の使い方はある程度言葉が定着して抽象的な概念も言葉で表すことができるようになって行なわれるようになったものと思われます。
当然「やまとことば」だけの時代にはなかった使い方ということができるでしょう。
この「する」や「利く」の使い方についてはあらためて触れる機会もあると思いますのでここではこの程度にしておきたいと思います。
それでは「はなす」「しゃべる」「かたる」「のべる」「つぐ」「いう」の使われるようになった順番はどのようになっているのでしょうか。
すべてが「現代やまとことば」であることは明白ですが文字のなかった時代の「やまとことば」より継承されてきている「ことば」を探してみたいと思います。
話しことばしかなかった頃のことですので現代において残されている書物から探すことは不可能です。
最古の書物といわれる「古事記」ですら稗田阿礼が暗唱していたものを太安万侶が漢字の音を使って記録したものといわれています。
しかし、確認するためには書物として残っている記録に頼らざるを得ません。
「古事記」の中に現れていることばは「いう」があります。
文字としては「云」や「曰」などが使われています。
「言」は神が何かを伝えるときに使われた文字のようで人が何かを話すときには使われなかったようです。
「はなす」は時代が下がってもなかなか見つけられません。
名詞の「はなし」としての「話」は見つけることができても動詞としての「はなす」を限られた資料の中から見つけることはできませんでした。
「はなつ」として「放」を見つけることはできましたが、現在の私たちが使っているような「はなす」(話す)とのつながりを見つけるまでには至りませんでした。
「かたる」については「(もの)かたる」として見ることができます。
物語という名称も平安期には多数見ることができます。
「はなす」よりも前から使われたと考えることができます。
これらのことばのなかでいちばん新しいものは「しゃべる」だと思われます。
音としての「しゃべる」からは他のことばのように音から動きを想像することができにくくなっています。
それは「つぐ」にもいえることです。
「しゃべる」は言葉を発するといった以外の意味を持たない言葉となっています。
他の意味から転じてきたという可能性が極めて低い言葉となっています。
それに対して「つぐ」は中心的な意味が言葉を発すること以外にも「つなぐ」などと同じ意味を持つことから転じてきた可能性が高いことばとなっています。
今では「つぐ」よりも「つげる」(告げる)としての利用法が多いのではないでしょうか。
「はなす」ということばはとてもよく使われる言葉でありその分だけ非常に広い意味を持っている言葉となっています。
つまりは人によって場面によって「はなす」に持たせている意味合いが非常に多岐にわたっていることがあることになります。
古くからより数多く使われることによって使われる場面がどんどん広がっていた言葉であることが伺えます。
「はなす」が「やまとことば」であったかどうかは明確な根拠が見つかりません。
私が確認したのは限られた資料ではありますが、おそらくは「やまとことば」そのものではなかったのではないかと思われます。
音としての「はなす」は「やまとことば」としてあった可能性はとても高いですが、その意味が「話す」という行為であったかどうかはとても微妙なところだと思います。
本来ならば間違いのない「やまとことば」だけを選び出して日本語の基本的な感覚を見つけ出したいと思うのですが、「はなす」のように「現代やまとことば」ではありながら「やまとことば」かどうかが判断できにくい言葉がとてもたくさん存在しています。
したがって基準のはっきりしている「現代やまとことば」から文字を持たなかった「やまとことば」の感覚を想像することが精一杯の活動となると思います。
音としての「はなす」が持っている現代的な意味合いとしては「話す」「放す」「離す」などを挙げることができます。
人の行なう行動としてこれらの三つに共通の行為を見ることはできないでしょうか。
その共通性に日本語の感覚の基本的なものを見ることはできないでしょうか。
「現代やまとことば」から「やまとことば」を想像して、その裏に潜んでいる日本語の基本的な精神文化的な背景を見ていきたいと思います。
きっと現代生活にも役に立つものを見つけていくことができると思います。
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漢字の音読みは導入された時代における中国語の読みかたである呉音、唐音、漢音などの音を真似たものです。
古代より「やまとことば」として存在していた音しか持たなかった原始日本語とはその起源を一緒にするものではではありません。
特に、人の基本的な活動を表す言葉としては文字のなかった時代においてもしっかり存在しており、その言葉をたどることは日本独特の生活文化を推測するためにけっして無駄なことではないと思われます。
文字のなかった古代の「やまとことば」を知ることは日本語の原点、ひいては日本文化の原点を知ることにつながります。
現代の言葉の中から漢字で表記された上に読み方として音読みしか持たない言葉は「やまとことば」とは一線を画したものであり、漢字を利用することができるようになってから作り出された新しい言葉であるということができます。
現代の言葉であっても訓読みやひらがな表記しか持たない言葉は持っている音が「やまとことば」につながっている可能性があります。
そんな言葉のことを「現代やまとことば」と呼んでいます。
電子書籍「日本語のチカラ」無償で公開中です「現代やまとことば」の類語を見ていくことによって古代の「やまとことば」を感じることができるのではないかと考えています。
そこには日常的に気軽に使っている意味合いよりもより深遠な日本語の精神文化としての歴史が含まれていることが多くなっています。
特殊な言葉ではなく日常的に使われているきわめて当たり前の基本語にこそより古い時代から使われてきた歴史が蓄積されているものと思われます。
そんな言葉たちを使うことで日本語の持つ歴史文化をよりうまく表現できるのではないか、より日本人の心に伝わる表現ができるのではないかと考えています。
また、「現代やまとことば」を使うことで自然に日本語の持つ伝統的な感覚に馴染んでいけると思われます。
理屈をこねるよりも具体的な言葉を追っていくことで感じていくことができると思いますので、まずは今回取り上げる基本語を紹介します。
言葉について書いているブログですので最初に取り上げる基本語は「はなす」(話す)にしたいと思います。
「はなす」という「ことば」は文字のなかった時代においても使われていたものだと推測することができます。
「はなす」ということばが先にあって導入された漢字の中で「話」という文字が「はなす」と同様の意味を表す漢字だと理解されたので「話す」という表記が生まれたことになります。
それでは「はなす」の類義語を音読み言葉を使わない言葉から探してみたいと思います。
「しゃべる」(喋る)、「かたる」(語る)、「のべる」(述べる)、「つぐ」(告ぐ)、「いう」(言う)、「くちにする[くちをきく]」(口にする[口を利く])
最後の言葉にいたってはもはや基本語とは言えないようですね。
実は最後の「口にする」はとても重要な言葉となっています。
人の持っている重要な機能についてはほとんど使える表現なんですね。
「耳にする」「目にする」「鼻にする」「手にする」など人の部位が持っている基本的な機能を生かすという行為を表すものとなります。
さらにはそこから転じてより抽象的な広い意味を持たせていることもあるんですね。
「手にする」などは実際に手に触れることから転じて自分のものにするといった意味にまで広がっていることになります。
この「~にする」の使い方はある程度言葉が定着して抽象的な概念も言葉で表すことができるようになって行なわれるようになったものと思われます。
当然「やまとことば」だけの時代にはなかった使い方ということができるでしょう。
この「する」や「利く」の使い方についてはあらためて触れる機会もあると思いますのでここではこの程度にしておきたいと思います。
それでは「はなす」「しゃべる」「かたる」「のべる」「つぐ」「いう」の使われるようになった順番はどのようになっているのでしょうか。
すべてが「現代やまとことば」であることは明白ですが文字のなかった時代の「やまとことば」より継承されてきている「ことば」を探してみたいと思います。
話しことばしかなかった頃のことですので現代において残されている書物から探すことは不可能です。
最古の書物といわれる「古事記」ですら稗田阿礼が暗唱していたものを太安万侶が漢字の音を使って記録したものといわれています。
しかし、確認するためには書物として残っている記録に頼らざるを得ません。
「古事記」の中に現れていることばは「いう」があります。
文字としては「云」や「曰」などが使われています。
「言」は神が何かを伝えるときに使われた文字のようで人が何かを話すときには使われなかったようです。
「はなす」は時代が下がってもなかなか見つけられません。
名詞の「はなし」としての「話」は見つけることができても動詞としての「はなす」を限られた資料の中から見つけることはできませんでした。
「はなつ」として「放」を見つけることはできましたが、現在の私たちが使っているような「はなす」(話す)とのつながりを見つけるまでには至りませんでした。
「かたる」については「(もの)かたる」として見ることができます。
物語という名称も平安期には多数見ることができます。
「はなす」よりも前から使われたと考えることができます。
これらのことばのなかでいちばん新しいものは「しゃべる」だと思われます。
音としての「しゃべる」からは他のことばのように音から動きを想像することができにくくなっています。
それは「つぐ」にもいえることです。
「しゃべる」は言葉を発するといった以外の意味を持たない言葉となっています。
他の意味から転じてきたという可能性が極めて低い言葉となっています。
それに対して「つぐ」は中心的な意味が言葉を発すること以外にも「つなぐ」などと同じ意味を持つことから転じてきた可能性が高いことばとなっています。
今では「つぐ」よりも「つげる」(告げる)としての利用法が多いのではないでしょうか。
「はなす」ということばはとてもよく使われる言葉でありその分だけ非常に広い意味を持っている言葉となっています。
つまりは人によって場面によって「はなす」に持たせている意味合いが非常に多岐にわたっていることがあることになります。
古くからより数多く使われることによって使われる場面がどんどん広がっていた言葉であることが伺えます。
「はなす」が「やまとことば」であったかどうかは明確な根拠が見つかりません。
私が確認したのは限られた資料ではありますが、おそらくは「やまとことば」そのものではなかったのではないかと思われます。
音としての「はなす」は「やまとことば」としてあった可能性はとても高いですが、その意味が「話す」という行為であったかどうかはとても微妙なところだと思います。
本来ならば間違いのない「やまとことば」だけを選び出して日本語の基本的な感覚を見つけ出したいと思うのですが、「はなす」のように「現代やまとことば」ではありながら「やまとことば」かどうかが判断できにくい言葉がとてもたくさん存在しています。
したがって基準のはっきりしている「現代やまとことば」から文字を持たなかった「やまとことば」の感覚を想像することが精一杯の活動となると思います。
音としての「はなす」が持っている現代的な意味合いとしては「話す」「放す」「離す」などを挙げることができます。
人の行なう行動としてこれらの三つに共通の行為を見ることはできないでしょうか。
その共通性に日本語の感覚の基本的なものを見ることはできないでしょうか。
「現代やまとことば」から「やまとことば」を想像して、その裏に潜んでいる日本語の基本的な精神文化的な背景を見ていきたいと思います。
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2017年6月28日水曜日
「あゆ」と「なまず」
今が旬の魚に「鮎(あゆ)」があります。
「旬」という意味も最近では「はやりの初め」や「市場に出回り始めるころ」といった使われ方が多くなっており、本来の意味であった「味の乗ってきた最もおいしい数も出回る時期であったり、最盛期をあらわす」ことからは離れ始めています。
この「あゆ」という言葉の音がどこから来たものかは諸説ありますが決定打はありません。
魚の素早い動きをとらえてアイヌ語で矢(アイ)のようだとしたところから転じたものではないかとする説もありますが、今となっては確認するすべがありません。
それでも漢字としての「鮎」については、誰がやったものかは別にして、この魚を占いに使ったことからこの漢字が「あゆ」の読みとして充てられたという説が有力となっています。
その中でも一番具体的なものが神功皇后が朝鮮半島の新羅を攻めたときに占いに「あゆ」を用いたために占いに使う魚ということで「鮎」になったということになります。
この時期は西暦でいえば266年ごろとなっており、遣隋使の開始とされる600年や古事記の編纂とされる712年から見ればはるか昔でありとても漢字が広がっていたとは思えない時期です。
「さかなへんにうらなう(魚へんに占)」という漢字が作り出せるまでの漢字に対しての習熟度があったとはとても思えない時期です。
それどころか中国との関係や漢語そのものにすら触れていたかどうか怪しい時期ということができます。
古事記や日本書紀(記紀)においては「あゆ」は「年魚」として表していると言われています。
その頃より「あゆ」という魚は認識されていたのではないでしょうか。
日本独自の漢字の使い方ができるようになったころに神功皇后の征韓の故事をいわれとして「鮎」という文字を作り出したのではないでしょうか。
日本語の「あゆ」と同じ意味で中国で使われていた漢字としての「鮎」を持ってきたわけではないことは、中国では「鮎」の字が日本で言うところの「なまず」を指す文字(言葉)であることでも明白だと思われます。
奈良時代の書物では「鮎」は「なまず」を表していることが読み取れるようです。
どう見ても魚としての見た目から「あゆ」と「なまず」を間違うとは考えにくいものです。
「あゆ」という日本語の音に対して「鮎」という漢字を充てたのは、それを考えた段階で漢語としての漢字の学習の域を越えて日本独自の文字として漢字を利用する段階に入っていたことが考えられると思います。
時代としては平安時代(西暦794年~)以降ではないかと思われます。
日本独自の漢字の使い方をして作った「鮎」という文字が、中国ではたまたま「なまず」という魚を指す文字として利用されていたということになると思われます。
「鮎」という字に「なまず」という意味があることが分かっていても「あゆ」という言葉に利用しようと思ったのは、漢語の拘束からの緩さをうかがわせるものではないでしょうか。
日本で「あゆ」と呼んでいる魚が中国にも生息しており、魚へんの一文字ではなく「香魚」として表されていたのが標準表記だったようです。
この「年魚」や「香魚」の表記は現在でも「あゆ」を表す表記として使用されています。
つまり、「鮎」という漢字は本家である中国に古くから存在していますが、その意味は日本語としての「あゆ」を指すものではありません。
「あゆ」=「鮎」は日本語としての漢字の使い方であり、漢字の形や意味を利用した新しい日本語ということができるものです。
さかなへんの文字(言葉)についてはその成り立ちにおいて大きく三つの方法が挙げられます。
ところが2.3.については中国(漢語)にはない文字であることもありますし、同じ文字であってもその意味(魚の種類)としては違うものであったりします。
「あゆ」=「鮎」は3.に当たるものと言うことができるのではないでしょうか。
「あゆ」として「鮎」の文字を使う日本語においては「なまず」については「鯰」という文字を使います。
「ねばる」という意味を持つ「念」を旁として魚の特徴を示す文字の作り方をしています。
この「鯰」という文字はやがて中国にわたって「鮎」よりも高い頻度で「なまず」という意味で使われるようになっていきます。
どんな時代に伝わって、どのように定着していったのかは定かではありません。
日本で作られた漢字(和製漢語)が一気にその数を増すのが明治維新です。
この時に生み出された新しい言葉は広辞苑一冊にも相当する20万語を越えているといわれています。(参照:和製漢語の創出)
新しいヨーロッパ文化を一気に取り込んで富国強兵へと向かっていった時代です。
新しい言葉のほとんどは漢字によって日本語化して取り込まれていきました。
やがて漢字の本国である中国へ逆輸入されたこれらの和製漢語たちが、現代中国の発展に大きく寄与したであろうことは想像に難くありません。
漢語を日本に輸入にした当時の中国は世界最先端の文化を誇った国であり、他の文化から学ぶものはほとんどない状態でした。
日本の明治維新の時期の中国は、産業革命を経たヨーロッパ文明に圧倒されてアヘン戦争などで侵略を許していた時代でもあります。
明治期以降は日本が作った和製漢語を通じて中国がヨーロッパ文明に触れていった時代となっていたのです。
「あゆ」も「なまず」も音としては漢字が充てられる前からことばとして存在していたものだと推測できます。
その意味では「古代やまとことば」と呼べるもであるかもしれません。
しかし「あゆ」「なまず」そのものが日本独自のものであり日本独自の音であるのかどうかは判断がつかないのではないでしょうか。
それでも「現代やまとことば」として扱うには不足のないことばだと思われます。
(参照:「現代やまとことば」を経験する)
成り立ちを気にする必要のない「ひらがなことば」そのものだからです。
日本語の原点の感覚を伝えてくれることばたちではないでしょうか。
これからも様々な観点から「現代やまとことば」をご紹介していきたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
「旬」という意味も最近では「はやりの初め」や「市場に出回り始めるころ」といった使われ方が多くなっており、本来の意味であった「味の乗ってきた最もおいしい数も出回る時期であったり、最盛期をあらわす」ことからは離れ始めています。
この「あゆ」という言葉の音がどこから来たものかは諸説ありますが決定打はありません。
魚の素早い動きをとらえてアイヌ語で矢(アイ)のようだとしたところから転じたものではないかとする説もありますが、今となっては確認するすべがありません。
それでも漢字としての「鮎」については、誰がやったものかは別にして、この魚を占いに使ったことからこの漢字が「あゆ」の読みとして充てられたという説が有力となっています。
その中でも一番具体的なものが神功皇后が朝鮮半島の新羅を攻めたときに占いに「あゆ」を用いたために占いに使う魚ということで「鮎」になったということになります。
この時期は西暦でいえば266年ごろとなっており、遣隋使の開始とされる600年や古事記の編纂とされる712年から見ればはるか昔でありとても漢字が広がっていたとは思えない時期です。
「さかなへんにうらなう(魚へんに占)」という漢字が作り出せるまでの漢字に対しての習熟度があったとはとても思えない時期です。
それどころか中国との関係や漢語そのものにすら触れていたかどうか怪しい時期ということができます。
古事記や日本書紀(記紀)においては「あゆ」は「年魚」として表していると言われています。
その頃より「あゆ」という魚は認識されていたのではないでしょうか。
日本独自の漢字の使い方ができるようになったころに神功皇后の征韓の故事をいわれとして「鮎」という文字を作り出したのではないでしょうか。
日本語の「あゆ」と同じ意味で中国で使われていた漢字としての「鮎」を持ってきたわけではないことは、中国では「鮎」の字が日本で言うところの「なまず」を指す文字(言葉)であることでも明白だと思われます。
奈良時代の書物では「鮎」は「なまず」を表していることが読み取れるようです。
どう見ても魚としての見た目から「あゆ」と「なまず」を間違うとは考えにくいものです。
「あゆ」という日本語の音に対して「鮎」という漢字を充てたのは、それを考えた段階で漢語としての漢字の学習の域を越えて日本独自の文字として漢字を利用する段階に入っていたことが考えられると思います。
時代としては平安時代(西暦794年~)以降ではないかと思われます。
日本独自の漢字の使い方をして作った「鮎」という文字が、中国ではたまたま「なまず」という魚を指す文字として利用されていたということになると思われます。
「鮎」という字に「なまず」という意味があることが分かっていても「あゆ」という言葉に利用しようと思ったのは、漢語の拘束からの緩さをうかがわせるものではないでしょうか。
日本で「あゆ」と呼んでいる魚が中国にも生息しており、魚へんの一文字ではなく「香魚」として表されていたのが標準表記だったようです。
この「年魚」や「香魚」の表記は現在でも「あゆ」を表す表記として使用されています。
つまり、「鮎」という漢字は本家である中国に古くから存在していますが、その意味は日本語としての「あゆ」を指すものではありません。
「あゆ」=「鮎」は日本語としての漢字の使い方であり、漢字の形や意味を利用した新しい日本語ということができるものです。
さかなへんの文字(言葉)についてはその成り立ちにおいて大きく三つの方法が挙げられます。
- 漢語で持っていた意味をそのまま日本の同じ種類の魚にあたえたもの。
- 日本語としてさかなへんに魚の持っている特徴を旁(つくり)として加えたもの。
- 旁としてその魚と縁があるが直接的な特徴ではないものを加えたもの。
ところが2.3.については中国(漢語)にはない文字であることもありますし、同じ文字であってもその意味(魚の種類)としては違うものであったりします。
「あゆ」=「鮎」は3.に当たるものと言うことができるのではないでしょうか。
「あゆ」として「鮎」の文字を使う日本語においては「なまず」については「鯰」という文字を使います。
「ねばる」という意味を持つ「念」を旁として魚の特徴を示す文字の作り方をしています。
この「鯰」という文字はやがて中国にわたって「鮎」よりも高い頻度で「なまず」という意味で使われるようになっていきます。
どんな時代に伝わって、どのように定着していったのかは定かではありません。
日本で作られた漢字(和製漢語)が一気にその数を増すのが明治維新です。
この時に生み出された新しい言葉は広辞苑一冊にも相当する20万語を越えているといわれています。(参照:和製漢語の創出)
新しいヨーロッパ文化を一気に取り込んで富国強兵へと向かっていった時代です。
新しい言葉のほとんどは漢字によって日本語化して取り込まれていきました。
やがて漢字の本国である中国へ逆輸入されたこれらの和製漢語たちが、現代中国の発展に大きく寄与したであろうことは想像に難くありません。
漢語を日本に輸入にした当時の中国は世界最先端の文化を誇った国であり、他の文化から学ぶものはほとんどない状態でした。
日本の明治維新の時期の中国は、産業革命を経たヨーロッパ文明に圧倒されてアヘン戦争などで侵略を許していた時代でもあります。
明治期以降は日本が作った和製漢語を通じて中国がヨーロッパ文明に触れていった時代となっていたのです。
「あゆ」も「なまず」も音としては漢字が充てられる前からことばとして存在していたものだと推測できます。
その意味では「古代やまとことば」と呼べるもであるかもしれません。
しかし「あゆ」「なまず」そのものが日本独自のものであり日本独自の音であるのかどうかは判断がつかないのではないでしょうか。
それでも「現代やまとことば」として扱うには不足のないことばだと思われます。
(参照:「現代やまとことば」を経験する)
成り立ちを気にする必要のない「ひらがなことば」そのものだからです。
日本語の原点の感覚を伝えてくれることばたちではないでしょうか。
これからも様々な観点から「現代やまとことば」をご紹介していきたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2017年6月22日木曜日
日本語ではなかった「馬(うま)」と「梅(うめ)」
半年ほどお休みしていたブログの更新ですが、新たな構想のご案内とともに再開することにしました。
今までのように毎日更新とはいきませんが、「現代やまとことば」の普及と啓蒙にこだわった内容で続けていきたいと思います。
まずはもう一度「現代やまとことば」の定義からしていきたいと思います。
言葉の伝わり方は他の情報と異なり、聴覚によるものがそのほとんどを占めています。
他の情報については目に見える情報である視覚によるものがそのほとんどを占めていることに比べると、文字としての形や文字から理解できる意味がほとんど役に立たないことになります。
特に、日本語の場合には音としては「ひらがなの音」しか持っていないのに対して、文字の表記には「ひらがな」以外にもカタカナ、漢字、アルファベットなどを持っています。
文字として表現している場合には自然と四種類の文字を区別してニュアンスを使い分けしていますが、話し言葉となったとたんにその区別ができないことになってしまいます。
これは、日本語そのものが文字が使用されるされるはるか前よりも音だけで利用されていたことによることが大きな原因です。
音だけで使い分けていた「ことば」に文字が加わったことによって記憶に頼ることなく記録することが可能になり、文化の伝承が一気に広がることになりました。
日本語においては音としてしか存在していなかった古代日本語(「古代やまとことば」)に対して、当時の世界で最も進んだ文化を持った漢語を文字として利用することを行なったことになります。
この時、もともとの漢語が持っていた音が音読みであり、同じ文字であっても時代によって呉音、唐音、漢音などの音を持っています。
「古代やまとことば」が持っていた意味と同じ意味を持つと考えられた漢語に対して表記文字として利用するようになりました。
「やま」という「古代やまとことば」には表記文字として「山」が充てられ、「山」の読みには訓読みの「やま」と同時に漢語読みの音読みとして「サン」が残ることになりました。
したがって、純粋な日本語は「古代やまとことば」を原点として継承されている「ひらがな」読みの「ことば」であり、漢字の言葉は外来語であるということができます。
そのために「現代やまとことば」では日本語がもともと持っている感覚を生かすために音読みを排除することとしています。
ところが、訓読みの中にも「古代やまとことば」にはなかった「ことば」があります。
漢語が導入されたときに日本に存在していなかったものの言葉はもともと「古代やまとことば」として存在していませんでした。
それでも文化の交流が始まりそのものを示すための言葉が必要になりました。
その典型が「馬」であり「梅」になります。
どちらも当時の日本には存在していなかったものであり呼び方すらありません。
やがて、日本にも定着していくこれらのものは漢語としての呼び方しか存在しませんでした。
読みとしては「馬(マ)」であり「梅(メイ)」が当時の読み(呉音)です。
はじめのうちはそのまま「マ」「メイ」と呼ばれていたものと思われますが、「やまとことば」としての日本語としてはなんとも発音しにくい音となっていることはすぐにわかるのではないでしょうか。
いろいろな変遷を経て「うま」「うめ」が訓読みとして定着していくことになります。
音読みとしてはその後の時代に使われた「バ」「バイ」が定着していくことになったのです。
「うま」「うめ」はもともと日本で生まれた言葉としての「古代やまとことば」ではなかったのです。
それでも、時代を経るにしたがって「古代やまとことば」と変わらずに使われる「ことば」となっていきます。
その意味では日本語の原語としての「古代やまとことば」ではなくとも現代から見れば「やまとことば」であると言えるものではないでしょうか。
今となってはその違いを確認することも難しい「ことば」ももっとたくさんあると思われます。
そんな違いを気にすることなく日本語としての感覚を継承している「ことば」を選び出したものが「現代やまとことば」となります。
他の言語と比較したときに母語として日本語を持っていることによる利点が数多くあることは過去のブログでもたくさん触れてきました。
特に英語との比較においては思考のツールとしての言語に限った場合にはとても多くの利点があることが分かっています。
そんなことが日本人のノーベル賞受賞者が続いていることの遠因にもなっているのではないかと思います。(参照:自然科学の探求と言語感覚)
これからは、具体的な「現代やまとことば」の使い方や「ことば」そのものを紹介し取り上げながら、過去のブログで取り上げた日本語の特徴や利点などをリンクしていきたいと思います。
時間もたっていますので、過去の内容を取り上げながら新しい観点や事例を付け加えていきたいと思います。
SNSにも投稿していきますので、お気軽にご意見やご要望をいただけると励みになります。
これからもよろしくお願いします。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
今までのように毎日更新とはいきませんが、「現代やまとことば」の普及と啓蒙にこだわった内容で続けていきたいと思います。
まずはもう一度「現代やまとことば」の定義からしていきたいと思います。
- 現代日本語の中で漢字表記が可能な言葉は訓読みとして使われる言葉
- 現代日本語の中で漢字表記を持たない「ひらがな」のみで表記される言葉
言葉の伝わり方は他の情報と異なり、聴覚によるものがそのほとんどを占めています。
他の情報については目に見える情報である視覚によるものがそのほとんどを占めていることに比べると、文字としての形や文字から理解できる意味がほとんど役に立たないことになります。
特に、日本語の場合には音としては「ひらがなの音」しか持っていないのに対して、文字の表記には「ひらがな」以外にもカタカナ、漢字、アルファベットなどを持っています。
文字として表現している場合には自然と四種類の文字を区別してニュアンスを使い分けしていますが、話し言葉となったとたんにその区別ができないことになってしまいます。
これは、日本語そのものが文字が使用されるされるはるか前よりも音だけで利用されていたことによることが大きな原因です。
音だけで使い分けていた「ことば」に文字が加わったことによって記憶に頼ることなく記録することが可能になり、文化の伝承が一気に広がることになりました。
日本語においては音としてしか存在していなかった古代日本語(「古代やまとことば」)に対して、当時の世界で最も進んだ文化を持った漢語を文字として利用することを行なったことになります。
この時、もともとの漢語が持っていた音が音読みであり、同じ文字であっても時代によって呉音、唐音、漢音などの音を持っています。
「古代やまとことば」が持っていた意味と同じ意味を持つと考えられた漢語に対して表記文字として利用するようになりました。
「やま」という「古代やまとことば」には表記文字として「山」が充てられ、「山」の読みには訓読みの「やま」と同時に漢語読みの音読みとして「サン」が残ることになりました。
したがって、純粋な日本語は「古代やまとことば」を原点として継承されている「ひらがな」読みの「ことば」であり、漢字の言葉は外来語であるということができます。
そのために「現代やまとことば」では日本語がもともと持っている感覚を生かすために音読みを排除することとしています。
ところが、訓読みの中にも「古代やまとことば」にはなかった「ことば」があります。
漢語が導入されたときに日本に存在していなかったものの言葉はもともと「古代やまとことば」として存在していませんでした。
それでも文化の交流が始まりそのものを示すための言葉が必要になりました。
その典型が「馬」であり「梅」になります。
どちらも当時の日本には存在していなかったものであり呼び方すらありません。
やがて、日本にも定着していくこれらのものは漢語としての呼び方しか存在しませんでした。
読みとしては「馬(マ)」であり「梅(メイ)」が当時の読み(呉音)です。
はじめのうちはそのまま「マ」「メイ」と呼ばれていたものと思われますが、「やまとことば」としての日本語としてはなんとも発音しにくい音となっていることはすぐにわかるのではないでしょうか。
いろいろな変遷を経て「うま」「うめ」が訓読みとして定着していくことになります。
音読みとしてはその後の時代に使われた「バ」「バイ」が定着していくことになったのです。
「うま」「うめ」はもともと日本で生まれた言葉としての「古代やまとことば」ではなかったのです。
それでも、時代を経るにしたがって「古代やまとことば」と変わらずに使われる「ことば」となっていきます。
その意味では日本語の原語としての「古代やまとことば」ではなくとも現代から見れば「やまとことば」であると言えるものではないでしょうか。
今となってはその違いを確認することも難しい「ことば」ももっとたくさんあると思われます。
そんな違いを気にすることなく日本語としての感覚を継承している「ことば」を選び出したものが「現代やまとことば」となります。
他の言語と比較したときに母語として日本語を持っていることによる利点が数多くあることは過去のブログでもたくさん触れてきました。
特に英語との比較においては思考のツールとしての言語に限った場合にはとても多くの利点があることが分かっています。
そんなことが日本人のノーベル賞受賞者が続いていることの遠因にもなっているのではないかと思います。(参照:自然科学の探求と言語感覚)
これからは、具体的な「現代やまとことば」の使い方や「ことば」そのものを紹介し取り上げながら、過去のブログで取り上げた日本語の特徴や利点などをリンクしていきたいと思います。
時間もたっていますので、過去の内容を取り上げながら新しい観点や事例を付け加えていきたいと思います。
SNSにも投稿していきますので、お気軽にご意見やご要望をいただけると励みになります。
これからもよろしくお願いします。
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2016年8月12日金曜日
日本語で伝えるための技術(4)
三回にわたってお伝えしてきた伝える技術は、伝えるべき内容が決まっていいるものに対して具体的にどのような伝え方をしたらよいかの観点から見てきたものでした。
書かれている文章を理解することと話し言葉を理解することの一番大きな違いは、いつでも前の内容を確認することができるかどうかということになります。
書かれた文章を読むという行為は、相手の関係ない読んでいる人独自の行為であり自分だけのペースで読むことが可能になります。
分かりにくい部分についてはいつでも前後の内容を参考にすることができますし、そのための時間も自分の都合でどのように使うこともできます。
そのために修飾関係が分かりにくかったり言葉同士の関係や論理が分かりにくかったりしても何度でも読み返して再確認することが可能となっています。
しかし、話し言葉では一瞬のうちに言葉が流れていき基本的には確認することができません。
せめて聞いている自分の記憶に残っている内容を振り返ることはできますが、その間にも新しい内容が伝えられていることになりますので振り返ることだけに集中することはほとんど不可能といえます。
きき方でも確認してきたように、「ひらがなの音」をすべて聞き取ることは大前提なのですがすべてを聞き取ってから理解していてたのでは次から次へと発せられる内容を理解することは難しいことになります。
そのために「ひらがなの音」を聞きながら言葉の理解や内容の理解に対しての予測が行なわれていることになります。
予測なしに「ひらがなの音」を聞き取ってからすべてを理解することは実際には不可能ではないでしょうか。
きくことの経験が増えることによって予測の精度も上がってきていることになっていると思われます。
伝える内容を定めるときに一番気を付けなければいけないことは、伝える対象者が持っている言語や言葉をできるだけ把握しておくことが必要になります。
相手の氏素性や専門分野や経歴を確認しておくことはそのためにやっていることであり、相手に対してより理解をしやすい言葉や論理を見つけるためにこそ役に立つ情報だといえます。
専門分野の違う相手に対して専門用語を多用しても理解してもらうことは難しくなるばかりになりますし、相手の理解しようとする意欲をそぐことにもつながってしまいます。
共有意思を持つことが好きな日本語感覚においては、同じ専門用語を同じように使う相手に対しては共感を持つことが多くなるものですが、反対に少し違っただけでも反感を持たれる要素にもなってしまいます。
相手の持っている言葉を確認すると同時に使ってもよい場面かどうかを確認することも大切なことになります。
特に伝える場としての環境やメンバーによっても言葉を選択する必要があります。
あらかじめ用意しておいた言葉であっても場によっては変更する必要も出てきます。
自分の言葉ではなく理解してほしい相手の言葉で伝えることが理想になります。
次は、一文をできるだけ短くする必要があります。
この場合に気を付けることは修飾語をできるだけ必要なものだけに絞り切ることが必要になります。
長文の文章の分かりにくさは多くの修飾語による修飾関係の複雑さにあります。
話し言葉で伝える内容で文章のように長い内容を伝える場合には、できるだけ細かく文章を区切ることが必要になります。
さらに、文同士の関係を明確にして相手の予測を助けるための接続詞の使い方が大切になります。
接続詞を聞いたとたんにその後に続く内容が前の文との関係において予測できるものとなるからです。
書かれた文章における接続詞の多さは全体の論理をかえって分かりにくいものとしてしまいますが、話し言葉においては一息ついて接続詞を入れることで相手の予測を利用することが可能となるのです。
最後に来るのが伝えたいことの意図です。
聞いて理解してもらうことが目的の場合は決して多くはないはずです。
それよりも理解したうえで何かをしてもらいたいことのほうが多いのではないでしょうか。
そのことをどこまで直接的に伝えるのかは場や環境によって異なると思われますが、それでも効果的な伝え方をしなければなりません。
意図が伝わらなければ「行間が読めない」という感じを味わうことにもなりかねません。
自分の意図したことと違った伝わり方をしてしまった経験は誰にもあると思います。
ほとんどの場合は「仕方ない」ということになっているのだと思います。
日本語の感覚では意図や意思をはっきりと表明することは決して効果的ではないということになります。
もちろん明確にすることが必要な場面がないわけではありませんが、実社会においては相手に応じて言葉を選び使い方を選ぶことが必要になってきます。
「ことあげ」が嫌われる日本の精神文化のなかで磨かれてきた感覚ではないでしょうか。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化)
具体的な言葉としてこれらのことを自然に行なえるのが「現代やまとことば」ということになります。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1))
特に、相手の持っている言葉が明確になっていない場合や伝えるべき相手が明確にわかっていない場合などでは圧倒的な力を発揮する言葉となります。
専門家同士の会話においてさえもよりわかり易い言葉と使い方が尊重されているのが現状です。
一般的な人を相手とする場合には同じことを説明するのに分かりやすさが優先されるのは間違いのないことです。
自己満足的な独りよがりな表現が分かりやすさに勝ることがないのは歌においても同じことが言えます。
「現代やまとことば」による歌が歌詞の内容以上に人に伝わるのは、日本語が持っている音としての「ことだま」のチカラかもしれません。
このチカラを歌の中だけに留めておくことはないと思います。
もっと普段の話し言葉の中でも活かしていけるのではないでしょうか。
日本語が自然に持っている感覚をそのまま生かしていくことが一番伝わることになりそうですね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
- 「ひらがなの音」をしっかり発声する (参照:日本語で伝えるための技術(1))
- 「現代やまとことば」を使う (参照:日本語で伝えるための技術(2))
- きき手の「きく」活動をサポートする (参照:日本語で伝えるための技術(3))
書かれている文章を理解することと話し言葉を理解することの一番大きな違いは、いつでも前の内容を確認することができるかどうかということになります。
書かれた文章を読むという行為は、相手の関係ない読んでいる人独自の行為であり自分だけのペースで読むことが可能になります。
分かりにくい部分についてはいつでも前後の内容を参考にすることができますし、そのための時間も自分の都合でどのように使うこともできます。
そのために修飾関係が分かりにくかったり言葉同士の関係や論理が分かりにくかったりしても何度でも読み返して再確認することが可能となっています。
しかし、話し言葉では一瞬のうちに言葉が流れていき基本的には確認することができません。
せめて聞いている自分の記憶に残っている内容を振り返ることはできますが、その間にも新しい内容が伝えられていることになりますので振り返ることだけに集中することはほとんど不可能といえます。
きき方でも確認してきたように、「ひらがなの音」をすべて聞き取ることは大前提なのですがすべてを聞き取ってから理解していてたのでは次から次へと発せられる内容を理解することは難しいことになります。
そのために「ひらがなの音」を聞きながら言葉の理解や内容の理解に対しての予測が行なわれていることになります。
予測なしに「ひらがなの音」を聞き取ってからすべてを理解することは実際には不可能ではないでしょうか。
きくことの経験が増えることによって予測の精度も上がってきていることになっていると思われます。
伝える内容を定めるときに一番気を付けなければいけないことは、伝える対象者が持っている言語や言葉をできるだけ把握しておくことが必要になります。
相手の氏素性や専門分野や経歴を確認しておくことはそのためにやっていることであり、相手に対してより理解をしやすい言葉や論理を見つけるためにこそ役に立つ情報だといえます。
専門分野の違う相手に対して専門用語を多用しても理解してもらうことは難しくなるばかりになりますし、相手の理解しようとする意欲をそぐことにもつながってしまいます。
共有意思を持つことが好きな日本語感覚においては、同じ専門用語を同じように使う相手に対しては共感を持つことが多くなるものですが、反対に少し違っただけでも反感を持たれる要素にもなってしまいます。
相手の持っている言葉を確認すると同時に使ってもよい場面かどうかを確認することも大切なことになります。
特に伝える場としての環境やメンバーによっても言葉を選択する必要があります。
あらかじめ用意しておいた言葉であっても場によっては変更する必要も出てきます。
自分の言葉ではなく理解してほしい相手の言葉で伝えることが理想になります。
次は、一文をできるだけ短くする必要があります。
この場合に気を付けることは修飾語をできるだけ必要なものだけに絞り切ることが必要になります。
長文の文章の分かりにくさは多くの修飾語による修飾関係の複雑さにあります。
話し言葉で伝える内容で文章のように長い内容を伝える場合には、できるだけ細かく文章を区切ることが必要になります。
さらに、文同士の関係を明確にして相手の予測を助けるための接続詞の使い方が大切になります。
接続詞を聞いたとたんにその後に続く内容が前の文との関係において予測できるものとなるからです。
書かれた文章における接続詞の多さは全体の論理をかえって分かりにくいものとしてしまいますが、話し言葉においては一息ついて接続詞を入れることで相手の予測を利用することが可能となるのです。
最後に来るのが伝えたいことの意図です。
聞いて理解してもらうことが目的の場合は決して多くはないはずです。
それよりも理解したうえで何かをしてもらいたいことのほうが多いのではないでしょうか。
そのことをどこまで直接的に伝えるのかは場や環境によって異なると思われますが、それでも効果的な伝え方をしなければなりません。
意図が伝わらなければ「行間が読めない」という感じを味わうことにもなりかねません。
自分の意図したことと違った伝わり方をしてしまった経験は誰にもあると思います。
ほとんどの場合は「仕方ない」ということになっているのだと思います。
日本語の感覚では意図や意思をはっきりと表明することは決して効果的ではないということになります。
もちろん明確にすることが必要な場面がないわけではありませんが、実社会においては相手に応じて言葉を選び使い方を選ぶことが必要になってきます。
「ことあげ」が嫌われる日本の精神文化のなかで磨かれてきた感覚ではないでしょうか。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化)
具体的な言葉としてこれらのことを自然に行なえるのが「現代やまとことば」ということになります。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1))
特に、相手の持っている言葉が明確になっていない場合や伝えるべき相手が明確にわかっていない場合などでは圧倒的な力を発揮する言葉となります。
専門家同士の会話においてさえもよりわかり易い言葉と使い方が尊重されているのが現状です。
一般的な人を相手とする場合には同じことを説明するのに分かりやすさが優先されるのは間違いのないことです。
自己満足的な独りよがりな表現が分かりやすさに勝ることがないのは歌においても同じことが言えます。
「現代やまとことば」による歌が歌詞の内容以上に人に伝わるのは、日本語が持っている音としての「ことだま」のチカラかもしれません。
このチカラを歌の中だけに留めておくことはないと思います。
もっと普段の話し言葉の中でも活かしていけるのではないでしょうか。
日本語が自然に持っている感覚をそのまま生かしていくことが一番伝わることになりそうですね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2016年8月3日水曜日
日本語で伝えるための技術(3)
過去二回にわたって日本語で伝えるための技術の具体的な内容について触れてきました。
一回目は日本語の伝わり方が「ひらがなの音」によるものであることを確認したうえで、私なりの「ひらがなの音」の練習の仕方をお伝えしました。
二回目にでは「ひらがなの音」で伝えるためには「現代やまとことば」がいかに有効であるかということをお伝えしました。
三回目の今回はきき手の行なっている人の話しを理解するための活動を知ることで、きき手の行なっている活動をサポートする方法についてお伝えしたと思います。
きき手がどのようにして「ひらがなの音」から理解していくかについては”「きく」の五段階活用”としてじっくりと見てきました。
(参照:「きく」の五段階活用(1)・・・聞く)
その中で役に立ったのが動詞としての「きく」と読むことができる訓読みの漢字でした。
「聞く」「聴く」「利く」「効く」「訊く」の五段階として「きく」活動を理解することに大きな助けとなりました。
きき手が行なっている理解するための活動が今どの段階にあるのかを理解して、それぞれの活動の段階に適したサポートを伝える側がしていく必要があります。
まずは「ひらがなの音」を確実に伝えることが大切になります。
日常的には「ひらがな音」で伝わっていることを意識することはないと思われるので、大切なことを伝えるときに思い出すだけでも伝わり方が違ってくると思います。
どんなに体裁の良い言葉ばかり並べてみても言葉自体が伝わらなければ意味がありません。
書くときには誰でもが気をつけている句読点と文字の間隔を話し言葉でも伝えていきたいところです。
特に音数の少ない言葉はしっかりと伝えることが大変難しいものとなります。
その中でも母音の「う」や「お」で終わる音はとても伝わりにくいものとなってしまいます。
戸(こ、と)、酢(す)、巣(す)、麩(ふ)、藻(も)、野(の)などの名詞だけでなく助詞や接続詞なども単音で使用される場合が少なくありません。
接続詞はきき手が論理を理解するための推測にとても役に立つものになりますので、否定の「が」を使う場合には「が、しかし」のように音数を増やしてはっきりと否定であることを伝えていきたいものです。
意味もなく順接の「で」が口癖になっている人を見かけることがありますが、本人が思っているよりもキツイ音になっていることが多く耳障りになることがあるので注意したいところです。
「ひらがなの音」をはっきりと伝える段階である「聞く」や「聴く」の段階では、発音や切れ目としての句読点の間などがきき手の役に立つことになります。
まずは「ひらがなの音」から「ことば」としての音を正しく伝えるように工夫をしなければなりません。
さらに同じ言葉であっても「ひらがなの音」として伝わりやすい言葉としての「現代やまとことば」を使いこなすことによってきき手の理解をより確実なものとしていくことができます。
このことは「利く」の段階にも役に立つことになります。
さらに「効く」の段階においては語尾の変化や助詞や接続詞の使い方できき手の推測を助けることができるようになります。
きき手が行なっている「きく」の段階によってもいろいろな工夫を使い分けしなければならないことになります。
それだけ話し言葉として伝えることの伝わりにくさに多くの原因があるということになると思います。
実際の場面をよく思い起こしてみてください。
とっさの場面で文字を利用できる環境がどれだけあるでしょうか。
ほとんどの場面では話すことでしか伝えることができないのではないでしょうか。
言語情報の80%は聴覚によって得ているとまで言われています。
しっかりと事前に準備をして伝えるべき相手が持っている言葉を確認できてから話をできる環境などほとんどないのではないでしょうか。
相手が持っている言葉を意識することすらなく、自分の言葉を使って勝手に伝わったつもりになっていることがほとんどではないでしょうか。
「ひらがなの音」を意識することで相手が持っている言葉にかかわらず、日本語を母語とする人ならば誰でもが同じように理解できる「現代やまとことば」を考えることができるようになるのです。
話すことに比べると「きく」という活動はとんでもなく多くの知的活動を行なっていることは今まで見てきたとおりです。
聞いて理解するということが日本語の伝え方としては標準的なパターンとなっているものです。
どのように理解しているのかを知っておかないとより理解しやすい伝え方というものを考えることができません。
きき手が行なっている理解する段階によっても伝える側が気を付けるべきポイントが変わってくることになります。
また、きき手の活動はつねに段階を追って順番に流れているわけでもありません。
伝える側は自分勝手な論理と言葉でたたみかけてきますので、きき手のほうではそれぞれの段階を行ったり来たりしながら理解していくことになります。
それだけに、伝える側としてはきき手の行なっているであろうと思われる段階に応じた伝え方をしていく必要があります。
きき手が論理の展開を理解しようとしている段階にいるのに、「ひらがなの音」をきちんと伝えるための対応をしていると馬鹿にされていると感じることにもつながることになります。
伝える側のスタンスとしてはどんな場面においてもきき手の「訊く」という活動を受け入れるという態度が必要になります。
きき手に「訊く」という機会を与えることは伝える側の役割になります。
きき手が行なっている「きく」の段階は伝える側からは分かりにくいものとなりますので、きき手の「訊く」という行為によって確認することしかできないのです。
具体的に言葉を発して「訊く」場合もあるかもしれませんが、非言語による「訊く」に対しても感覚を研ぎ澄ませておく必要があります。
きき手のうなずきや首をかしげるなどの自然な行為に対して注意を払っておく必要があることになります。
これをさぼって伝える側の一方的な思い込みでの対応はかえって伝わりにくさを招いてしまうことになります。
ここまで見てくると伝えることときくことはそれぞれ独立した活動ではなく、伝えるときにはきき手の「きく」活動を意識していなければなりませんし、「きく」ときは伝える側の活動を意識していなければいけないことになります。
一人ひとりが持っている言葉は同じく日本語を母語としても決して同じものではありません。
同じ言葉であってもその定義については異なっていることのほうが多いことになります。
本来ならば伝えるべき相手の持っている言葉を分かったうえで相手の言葉とその定義を使って伝えることが一番理解しやすいことになります。
しかし、伝える相手の持っている言葉を掴み切ることは不可能です。
現実には相手の持っている言葉と定義だろうと思い込んで使った言葉によるミスがほとんどです。
日本語には国語として習得した言葉とその定義以外にも、母語として日本語を持っているだけで共通理解ができる言葉が存在しているのです。
それは世代にも生活環境にも影響されることなくほとんどの人が同じ解釈ができる言葉なのです。
日本語の基本語とも言うことができる「現代やまとことば」で、どんな場面でも安心して伝えることができるようにしておきたいものです。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
一回目は日本語の伝わり方が「ひらがなの音」によるものであることを確認したうえで、私なりの「ひらがなの音」の練習の仕方をお伝えしました。
二回目にでは「ひらがなの音」で伝えるためには「現代やまとことば」がいかに有効であるかということをお伝えしました。
三回目の今回はきき手の行なっている人の話しを理解するための活動を知ることで、きき手の行なっている活動をサポートする方法についてお伝えしたと思います。
- 「ひらがなの音」をしっかり発声する (参照:日本語で伝えるための技術(1))
- 「現代やまとことば」を使う (参照:日本語で伝えるための技術(2))
- きき手の「きく」活動をサポートする
きき手がどのようにして「ひらがなの音」から理解していくかについては”「きく」の五段階活用”としてじっくりと見てきました。
(参照:「きく」の五段階活用(1)・・・聞く)
その中で役に立ったのが動詞としての「きく」と読むことができる訓読みの漢字でした。
「聞く」「聴く」「利く」「効く」「訊く」の五段階として「きく」活動を理解することに大きな助けとなりました。
きき手が行なっている理解するための活動が今どの段階にあるのかを理解して、それぞれの活動の段階に適したサポートを伝える側がしていく必要があります。
まずは「ひらがなの音」を確実に伝えることが大切になります。
日常的には「ひらがな音」で伝わっていることを意識することはないと思われるので、大切なことを伝えるときに思い出すだけでも伝わり方が違ってくると思います。
どんなに体裁の良い言葉ばかり並べてみても言葉自体が伝わらなければ意味がありません。
書くときには誰でもが気をつけている句読点と文字の間隔を話し言葉でも伝えていきたいところです。
特に音数の少ない言葉はしっかりと伝えることが大変難しいものとなります。
その中でも母音の「う」や「お」で終わる音はとても伝わりにくいものとなってしまいます。
戸(こ、と)、酢(す)、巣(す)、麩(ふ)、藻(も)、野(の)などの名詞だけでなく助詞や接続詞なども単音で使用される場合が少なくありません。
接続詞はきき手が論理を理解するための推測にとても役に立つものになりますので、否定の「が」を使う場合には「が、しかし」のように音数を増やしてはっきりと否定であることを伝えていきたいものです。
意味もなく順接の「で」が口癖になっている人を見かけることがありますが、本人が思っているよりもキツイ音になっていることが多く耳障りになることがあるので注意したいところです。
「ひらがなの音」をはっきりと伝える段階である「聞く」や「聴く」の段階では、発音や切れ目としての句読点の間などがきき手の役に立つことになります。
まずは「ひらがなの音」から「ことば」としての音を正しく伝えるように工夫をしなければなりません。
さらに同じ言葉であっても「ひらがなの音」として伝わりやすい言葉としての「現代やまとことば」を使いこなすことによってきき手の理解をより確実なものとしていくことができます。
このことは「利く」の段階にも役に立つことになります。
さらに「効く」の段階においては語尾の変化や助詞や接続詞の使い方できき手の推測を助けることができるようになります。
きき手が行なっている「きく」の段階によってもいろいろな工夫を使い分けしなければならないことになります。
それだけ話し言葉として伝えることの伝わりにくさに多くの原因があるということになると思います。
実際の場面をよく思い起こしてみてください。
とっさの場面で文字を利用できる環境がどれだけあるでしょうか。
ほとんどの場面では話すことでしか伝えることができないのではないでしょうか。
言語情報の80%は聴覚によって得ているとまで言われています。
しっかりと事前に準備をして伝えるべき相手が持っている言葉を確認できてから話をできる環境などほとんどないのではないでしょうか。
相手が持っている言葉を意識することすらなく、自分の言葉を使って勝手に伝わったつもりになっていることがほとんどではないでしょうか。
「ひらがなの音」を意識することで相手が持っている言葉にかかわらず、日本語を母語とする人ならば誰でもが同じように理解できる「現代やまとことば」を考えることができるようになるのです。
話すことに比べると「きく」という活動はとんでもなく多くの知的活動を行なっていることは今まで見てきたとおりです。
聞いて理解するということが日本語の伝え方としては標準的なパターンとなっているものです。
どのように理解しているのかを知っておかないとより理解しやすい伝え方というものを考えることができません。
きき手が行なっている理解する段階によっても伝える側が気を付けるべきポイントが変わってくることになります。
また、きき手の活動はつねに段階を追って順番に流れているわけでもありません。
伝える側は自分勝手な論理と言葉でたたみかけてきますので、きき手のほうではそれぞれの段階を行ったり来たりしながら理解していくことになります。
それだけに、伝える側としてはきき手の行なっているであろうと思われる段階に応じた伝え方をしていく必要があります。
きき手が論理の展開を理解しようとしている段階にいるのに、「ひらがなの音」をきちんと伝えるための対応をしていると馬鹿にされていると感じることにもつながることになります。
伝える側のスタンスとしてはどんな場面においてもきき手の「訊く」という活動を受け入れるという態度が必要になります。
きき手に「訊く」という機会を与えることは伝える側の役割になります。
きき手が行なっている「きく」の段階は伝える側からは分かりにくいものとなりますので、きき手の「訊く」という行為によって確認することしかできないのです。
具体的に言葉を発して「訊く」場合もあるかもしれませんが、非言語による「訊く」に対しても感覚を研ぎ澄ませておく必要があります。
きき手のうなずきや首をかしげるなどの自然な行為に対して注意を払っておく必要があることになります。
これをさぼって伝える側の一方的な思い込みでの対応はかえって伝わりにくさを招いてしまうことになります。
ここまで見てくると伝えることときくことはそれぞれ独立した活動ではなく、伝えるときにはきき手の「きく」活動を意識していなければなりませんし、「きく」ときは伝える側の活動を意識していなければいけないことになります。
一人ひとりが持っている言葉は同じく日本語を母語としても決して同じものではありません。
同じ言葉であってもその定義については異なっていることのほうが多いことになります。
本来ならば伝えるべき相手の持っている言葉を分かったうえで相手の言葉とその定義を使って伝えることが一番理解しやすいことになります。
しかし、伝える相手の持っている言葉を掴み切ることは不可能です。
現実には相手の持っている言葉と定義だろうと思い込んで使った言葉によるミスがほとんどです。
日本語には国語として習得した言葉とその定義以外にも、母語として日本語を持っているだけで共通理解ができる言葉が存在しているのです。
それは世代にも生活環境にも影響されることなくほとんどの人が同じ解釈ができる言葉なのです。
日本語の基本語とも言うことができる「現代やまとことば」で、どんな場面でも安心して伝えることができるようにしておきたいものです。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2016年7月29日金曜日
日本語で伝えるための技術(2)
先回は話し言葉としての日本語が「ひらがなの音」であることを確認して、一音ずつをしっかりと伝えるための技術についてお伝えしました。
(参照:日本語で伝えるための技術(1))
今回は次の段階として伝えるための言葉としてどのような言葉を選んだらよいのかということについて触れてみます。
文字によって意味を理解している言葉が多い日本語は、音としての「ひらがなの音」になった途端に意味を理解するのに苦労をすることになります。
それは聞いている方が「ひらがなの音」を聞いてから行なっている理解するための活動をよく考えてみると分かるのではないでしょうか。
自分でやっているときのことを思い出してください。
「ひらがなの音」からすぐに言葉としての意味を理解していますか。
そこには文字に置き換えるという過程が存在していませんか。
特に、同音異義語がたくさんある言葉などはどの漢字を使っている言葉なのか探していませんか。
使っている漢字を特定できたことによって意味を理解しているのではないでしょうか。
”ひらがなの音 ⇒ 文字への置き換え ⇒ 意味の理解” という過程が行なわれていることになります。
さらに、この「ひらがなの音」から文字への変換は聞いている人の中で持っている言葉で勝手に行なわれていることであり、伝えている方にはどのような変換が行なわれているのか全然わかりません。
つまり、伝えた方が意図している文字なり言葉なりに変換されている保証はまったく無いということになります。
また、伝える方が意図している言葉として発した「ひらがなの音」のアクセントや音の長短などから聞き手が同じ言葉を選んでくれる保証もありません。
伝える方が発した「ひらがなの音」が聞き手にとっては言葉の音として受け取られないこともあることになります。
「ひらがなの音」が文字に変換されたときに漢字にしなければならないから違ってしまう可能性があることになります。
「ひらがなの音」だけから文字を特定できる言葉はないのでしょうか。
そうです、音としてのひらがながそのまま言葉になっている「ひらがなことば」は間違えようがないものになります。
ひらがなでしか表記されない言葉こそ音と文字が一対一で対応しており、他に変換される候補すらないことになります。
ひらがなのすべてが一つの音しか持っていなければ間違えようがありません。
しかし、ひらがなにも使い方によって二つの音を持つものが存在しています。
例えば格助詞としての「は」や目的地や方向を表わす助詞の「へ」は、そのままの音以外に「ワ」や「エ」という音を持っています。
「わたしわ」という「ひらがなの音」は文字としての「私は」と変換されて意味が理解できていることになります。
この活動はあまりにも頻繁に行われているために話し言葉としての「わたしわ」は文字に変換しなくとも記憶されている意味に直接結びついていると思われます。
日常的に頻繁に使用している言葉においてはその変換行為が記憶されており、「ひらがなの音」から直接意味につながっているような感覚を持っているのではないでしょうか。
”ひらがなの音 ⇒ 文字への置き換え ⇒ 意味の理解”における「ひらがなの音」と「意味の理解」が直接的に記憶として結びついており、過程としての「文字への置き換え」がなくても困らない程度になっているのだと思われます。
すぐに意味を理解できない「ひらがなの音」に出会った時には確認するために文字への変換行為を改めて行っていることがよくあると思います。
同じ経験を繰り返すことによって学習されてしまい、過程が意識されることなく原因と結果が結びついて記憶されてしまうことは様々な分野でよく知られていることとなっています。
ここで種明かしをしなければいけません。
先ほど「わたしわ」は「私は」と文字になって理解しているといいました。
実はこれは文字として表記しているうえでだけのことなのです。
実は話し言葉としては、全く反対のことが起こっているのです。
文字として「わたしわ」と書いたものを見ているから意味が掴みにくいのです。
文字としての「私は」の意味は音としては「わたしわ」で理解しているのです。
口に出して言ってみてください。
音としての「わたしわ」は文字にすることなくそのまま理解しているのです。
音としての「わたしわ」は誰もが理解している純粋な日本語としての「ひらがなことば」ですので音そのものが意味を表しているのです。
ここでは話し言葉についてのことを文字で表現していますので実感としてつかみにくくなっていると思われます。
ぜひ、実際の話し言葉でも経験してみてほしいと思います。(参照:はなし方ときき方)
日本語は「ことだま」と言われるようにもともとは音によって意味を持っている言語です。
そこに新しい文化としての外来語をたくさん取り込んで今の日本語が出来上がっています。
もともとの音による日本語は母語として日本語を持っている人にとっては、聞きなれていない音であってもかなりの範囲で推測ができるものとなっています。
昔からの音による日本語が「やまとことば」と言われるものです。
漢語も外来語です。
その漢語に対して文字としての意味を利用しながら「やまとことば」が持っていた音と意味を与えたものが漢字の訓読みだと理解していいと思います。
音としての「やまとことば」に表記としての漢字を加えて日本語として取り込んでいったものが訓読み漢字になります。
同じ漢字を使っていても音読みとして利用しているものは日本語として取り込まれていない外来語として文字の意味を利用しているものだということができるのです。
音読み漢字による表現はカタカナによる外来語表記と同じことになるのです。
音としては日本語になり切っていないものとなるのです。
だから「ひらがなの音」として話し言葉になったときに文字を考えないと意味が理解できなくなることがあるのです。
それでも頻繁に使われている音読み漢字は、先ほどのように文字への変換行為が省略されて音と意味が直接結びついて記憶されていることが起きているのです。
これはすべての人が同じ音に対して同じ意味を結び付けているとは限りません。
その言葉に対しての経験と使われ方がすべての人に共通とは限らないからです。
話し言葉として伝えることが適した言葉はもう分かりますね。
「ひらがなの音」が直接意味をあらわしている言葉です。
文字に変換する過程を必要としていない言葉です。
「やまとことば」はもちろんのこと、現代の日本語の中でも音としての意味を持っている言葉がたくさん存在しています。
具体的に言えば「ひらがなことば」と訓読み漢字で表すことができる言葉たちです。
これらの言葉を「現代やまとことば」と呼んでいます。
「ひらがなの音」がそのまま日本語としての意味を伝えてくれる言葉です。
「ことだま」に結びつくことができる言葉たちです。
日本語を母語とする人にとっては誰もが同じ意味を感じ取ることができる言葉です。
音読み漢字による言葉も外来語も「現代やまとことば」だけを使って説明することができます。
ひとことで言い換える必要はありません、その言葉の持っている意味やその言葉で伝えたいことを「現代やまとことば」を使って説明すればいいのです。
自分で使いたい言葉が「現代やまとことば」で説明できないということは、その言葉に対して自分の持っている日本語でしっかりとした理解ができていないことになります。
そんな言葉を使って他の人に理解してもらおうとすること自体が無理なことではないでしょうか。
限られた紙面やスペースに書かれた言葉は略語や外来語や音読み熟語が多くなってしまいます。
それらの言葉を「現代やまとことば」で置き換えたり説明したりする練習はとても役に立ちます。
日本語で伝えるための技術の二番目はしっかりと日本語になっている言葉を使うということにほかなりません。
それが「現代やまとことば」ということになるのでしょうね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
(参照:日本語で伝えるための技術(1))
今回は次の段階として伝えるための言葉としてどのような言葉を選んだらよいのかということについて触れてみます。
文字によって意味を理解している言葉が多い日本語は、音としての「ひらがなの音」になった途端に意味を理解するのに苦労をすることになります。
それは聞いている方が「ひらがなの音」を聞いてから行なっている理解するための活動をよく考えてみると分かるのではないでしょうか。
自分でやっているときのことを思い出してください。
「ひらがなの音」からすぐに言葉としての意味を理解していますか。
そこには文字に置き換えるという過程が存在していませんか。
特に、同音異義語がたくさんある言葉などはどの漢字を使っている言葉なのか探していませんか。
使っている漢字を特定できたことによって意味を理解しているのではないでしょうか。
”ひらがなの音 ⇒ 文字への置き換え ⇒ 意味の理解” という過程が行なわれていることになります。
さらに、この「ひらがなの音」から文字への変換は聞いている人の中で持っている言葉で勝手に行なわれていることであり、伝えている方にはどのような変換が行なわれているのか全然わかりません。
つまり、伝えた方が意図している文字なり言葉なりに変換されている保証はまったく無いということになります。
また、伝える方が意図している言葉として発した「ひらがなの音」のアクセントや音の長短などから聞き手が同じ言葉を選んでくれる保証もありません。
伝える方が発した「ひらがなの音」が聞き手にとっては言葉の音として受け取られないこともあることになります。
「ひらがなの音」が文字に変換されたときに漢字にしなければならないから違ってしまう可能性があることになります。
「ひらがなの音」だけから文字を特定できる言葉はないのでしょうか。
そうです、音としてのひらがながそのまま言葉になっている「ひらがなことば」は間違えようがないものになります。
ひらがなでしか表記されない言葉こそ音と文字が一対一で対応しており、他に変換される候補すらないことになります。
ひらがなのすべてが一つの音しか持っていなければ間違えようがありません。
しかし、ひらがなにも使い方によって二つの音を持つものが存在しています。
例えば格助詞としての「は」や目的地や方向を表わす助詞の「へ」は、そのままの音以外に「ワ」や「エ」という音を持っています。
「わたしわ」という「ひらがなの音」は文字としての「私は」と変換されて意味が理解できていることになります。
この活動はあまりにも頻繁に行われているために話し言葉としての「わたしわ」は文字に変換しなくとも記憶されている意味に直接結びついていると思われます。
日常的に頻繁に使用している言葉においてはその変換行為が記憶されており、「ひらがなの音」から直接意味につながっているような感覚を持っているのではないでしょうか。
”ひらがなの音 ⇒ 文字への置き換え ⇒ 意味の理解”における「ひらがなの音」と「意味の理解」が直接的に記憶として結びついており、過程としての「文字への置き換え」がなくても困らない程度になっているのだと思われます。
すぐに意味を理解できない「ひらがなの音」に出会った時には確認するために文字への変換行為を改めて行っていることがよくあると思います。
同じ経験を繰り返すことによって学習されてしまい、過程が意識されることなく原因と結果が結びついて記憶されてしまうことは様々な分野でよく知られていることとなっています。
ここで種明かしをしなければいけません。
先ほど「わたしわ」は「私は」と文字になって理解しているといいました。
実はこれは文字として表記しているうえでだけのことなのです。
実は話し言葉としては、全く反対のことが起こっているのです。
文字として「わたしわ」と書いたものを見ているから意味が掴みにくいのです。
文字としての「私は」の意味は音としては「わたしわ」で理解しているのです。
口に出して言ってみてください。
音としての「わたしわ」は文字にすることなくそのまま理解しているのです。
音としての「わたしわ」は誰もが理解している純粋な日本語としての「ひらがなことば」ですので音そのものが意味を表しているのです。
ここでは話し言葉についてのことを文字で表現していますので実感としてつかみにくくなっていると思われます。
ぜひ、実際の話し言葉でも経験してみてほしいと思います。(参照:はなし方ときき方)
日本語は「ことだま」と言われるようにもともとは音によって意味を持っている言語です。
そこに新しい文化としての外来語をたくさん取り込んで今の日本語が出来上がっています。
もともとの音による日本語は母語として日本語を持っている人にとっては、聞きなれていない音であってもかなりの範囲で推測ができるものとなっています。
昔からの音による日本語が「やまとことば」と言われるものです。
漢語も外来語です。
その漢語に対して文字としての意味を利用しながら「やまとことば」が持っていた音と意味を与えたものが漢字の訓読みだと理解していいと思います。
音としての「やまとことば」に表記としての漢字を加えて日本語として取り込んでいったものが訓読み漢字になります。
同じ漢字を使っていても音読みとして利用しているものは日本語として取り込まれていない外来語として文字の意味を利用しているものだということができるのです。
音読み漢字による表現はカタカナによる外来語表記と同じことになるのです。
音としては日本語になり切っていないものとなるのです。
だから「ひらがなの音」として話し言葉になったときに文字を考えないと意味が理解できなくなることがあるのです。
それでも頻繁に使われている音読み漢字は、先ほどのように文字への変換行為が省略されて音と意味が直接結びついて記憶されていることが起きているのです。
これはすべての人が同じ音に対して同じ意味を結び付けているとは限りません。
その言葉に対しての経験と使われ方がすべての人に共通とは限らないからです。
話し言葉として伝えることが適した言葉はもう分かりますね。
「ひらがなの音」が直接意味をあらわしている言葉です。
文字に変換する過程を必要としていない言葉です。
「やまとことば」はもちろんのこと、現代の日本語の中でも音としての意味を持っている言葉がたくさん存在しています。
具体的に言えば「ひらがなことば」と訓読み漢字で表すことができる言葉たちです。
これらの言葉を「現代やまとことば」と呼んでいます。
「ひらがなの音」がそのまま日本語としての意味を伝えてくれる言葉です。
「ことだま」に結びつくことができる言葉たちです。
日本語を母語とする人にとっては誰もが同じ意味を感じ取ることができる言葉です。
音読み漢字による言葉も外来語も「現代やまとことば」だけを使って説明することができます。
ひとことで言い換える必要はありません、その言葉の持っている意味やその言葉で伝えたいことを「現代やまとことば」を使って説明すればいいのです。
自分で使いたい言葉が「現代やまとことば」で説明できないということは、その言葉に対して自分の持っている日本語でしっかりとした理解ができていないことになります。
そんな言葉を使って他の人に理解してもらおうとすること自体が無理なことではないでしょうか。
限られた紙面やスペースに書かれた言葉は略語や外来語や音読み熟語が多くなってしまいます。
それらの言葉を「現代やまとことば」で置き換えたり説明したりする練習はとても役に立ちます。
日本語で伝えるための技術の二番目はしっかりと日本語になっている言葉を使うということにほかなりません。
それが「現代やまとことば」ということになるのでしょうね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
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2016年7月15日金曜日
文字頼みの日本語
何かを伝えようとするときの中心的な方法は言語化をしたうえで話して伝えることと書いて伝えることの二種類になります。
あるデータによれば言語化された情報について口頭によって得ているものと文字によって得ているものの比率は、口頭によるものが80%を占めているそうです。
一般的な情報を得ている方法のうち視覚によるものが80%を占めていると言われていることに比べると、言語における伝達は一般的情報の受け渡しとは異なった注意が必要となっているのではないでしょうか。
このことはそれぞれの言語が持っている特性によっても影響を受けていることでもあると思われます。
日本語を見てみた時に口頭による伝達と文字による伝達とどちらを得意としているのかを考えてみたいと思います。
まずは言語が持っている音と文字について見てみたいと思います。
音と文字が一対一で対応している言語を見たことがありますか?
日常的に使用されている言語ではおそらく存在していないと思います。
そのために人工的に生み出された言語がエスペラント語ということになるのではないでしょうか。
音と文字が一対一で対応しているということは言い換えれば発音記号ということになります。
英語にも発音記号があります。
それは一つの文字が使われ方によって複数の音を持っているから必要とされているものです。
中国語にもピンイン(併音)という音を表すために表記があります。
実は国際音声記号という発音記号が存在しています。
国際音声学会が作っているのですが、世界のあらゆる言語に対して同じ方法で発音の仕方を表記した記号文字になります。
試みとしては素晴らしいと思うのですが、それぞれの言語の持つ音をしっかりと区分して表記するためには巨大な分類体系を必要とするためにとても複雑なものとなってしまっています。
日常的に目にすることがないのは実用としては向かいないからではないでしょうか。
日本語は四種類の文字(漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット)を持っていますが音を表すためにはひらがなを使用しています。
カタカナを使用する場合も増えてきていますが一般的に読みがなと言った場合にはひらがなになるのではないでしょうか。
音としてはひらがなもカタカナも全く同じになりますのでカタカナの音もひらがなの音と同じとして扱いたいと思います。
そうなりますと、四種類の文字に対して一種類の音を持っているのが日本語ということになります。
日本語には発音記号が存在していません。
発音記号の役割を担っているのがひらがなということになります。
そのひらがなは発音記号としては完全なものではありません。
格助詞の「は」は「ワ」と読みますし、目的地を表わす助詞の「へ」は「エ」と読んでいます。
それ以外にも同じひらがなであっても使われ方によっては音が変わるものがいくつか存在しています。
しかしその違っている音もひらがなの持っている音の中のものでありひらがなの音以外の音が存在しているわけではありません。
つまり日本語の音はひらがなの音の一種類しかないことになります。
四種類の文字種類を持ちながらもその音としてはひらがなの一種類の音しか持っていないということはどういうことを示しているのでしょうか。
文字にした時には同じ言葉であっても四種類の表記方法があり、それぞれの文字種類によって独特の感覚やイメージを持っていることになります。
感覚やイメージが同じだとしたら異なった文字種類が存在する必要がないですし実用的に歴史のどこかで淘汰されて消えていったことでしょう。
文字にすることによって文字の種類を使い分けることで同じ言葉であっても微妙なニュアンスの違いを表わしていることになります。
コピーライターなどはこの感覚が優れていないとできない仕事ですね。
ところが話し言葉にしたとたんに文字としてのこの微妙なニュアンスの違いやイメージの違いがなくなってしまうことになります。
音にした瞬間に文字の違いが消えてしまいひらがなの音だけになってしまうからです。
日本語の持っている音の数はひらがなの音の数になります。
五十音表にある清音と言われるひらがなの音は46音です。
音のバリエーションである長短や強弱、音便などは同じ音による言い方の違いとして扱うことができますので「きゃ」「ちょ」などは「きや」「ちよ」のバリエーションとして別の音としては考えないことになります。
そのようにしてみてみると濁音(が、ざ、だ、など)や半濁音(ぱ、ぷ、など)は別の音になりますので計25音を清音に加えた71音が日本語の持っている基本音ということになります。
ところが濁音の中にも「じ」「ぢ」と「ず」「づ」が同じ音ですので、日本語の持っている基本音は合計で69音になります。
言語による音数の違いはそれぞれの数え方によっても異なりますが、どの資料を見ても他の言語に比べた日本語の音数の少なさは突出したものがあります。
さらに、一般的に使われている単語だけでも10,000語を越えていると言われる日本語ではその違いを話し言葉だけから理解することはとても難しいことになります。
(参照:他の言語話者から見た日本語)
世界でも類を見ないくらい少ない音数で世界でも類を見ないくらい多くの言葉を表現していることになる日本語の口頭による情報は、理解するためにはとんでもない能力が必要になっているということではないでしょうか。
日本語の持っている文字のなかで文字自体が意味を持っているものが漢字になります。
完全ではないにしても漢字以外の文字は音を表すための表音文字であり、漢字は意味を表すための表意文字となります。
世界で現存している文字のなかで唯一の表意文字が漢字だと言われています。
表意文字は文字になって初めて意味が分かるものであり読みとしての音からは意味を理解することが難しいものとなります。
漢字は中国文化から借用したものであり、原点にあった音は中国音(呉音、唐音、漢音)です。
それが音読みとして漢字の音に充てられている音になります。
この段階での音読みには日本語としての読み(音)としての意味はありませんので音から意味を理解することは出来ません。
やがて日本語としての音に対しても同じような意味を持つ漢字が使用されるようになり、訓読みとして利用されるようになります。
音としても文字としても意味を持つ言葉になったことになります。
ところがこの音としての意味と文字としての意味が完全に一致しているわけではないのです。
一般的には文字としての意味の方が音としての意味よりもより限定された具体的な場合の方が多くなっています。
このことも文字と音の間での理解の違いを生む原因にもなっているのです。
見てきたように、日本語は世界の言語の中でも究極の文字言語ということができると思います。
それでも、言語による伝達の80%は口頭によって行なわれているのです。
文字による伝達に比べた時にどれほどの内容が欠落しているのかはしっかりと意識しておく必要があるのではないでしょうか。
大切な情報伝達については必ず文字情報を伴うことを意識しておくことも大切ですね。
口頭による情報伝達しかできない場面もたくさんあります。
そんな時にどんなことに気を付けたらいいのかもお伝えしていきたいと思います。
そうです「現代やまとことば」が一番生きてくるのがここです。
(参照:なぜ「現代やまとことば」か?)
話して伝える機会の多い人ほど知っておいてほしいですね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
あるデータによれば言語化された情報について口頭によって得ているものと文字によって得ているものの比率は、口頭によるものが80%を占めているそうです。
一般的な情報を得ている方法のうち視覚によるものが80%を占めていると言われていることに比べると、言語における伝達は一般的情報の受け渡しとは異なった注意が必要となっているのではないでしょうか。
このことはそれぞれの言語が持っている特性によっても影響を受けていることでもあると思われます。
日本語を見てみた時に口頭による伝達と文字による伝達とどちらを得意としているのかを考えてみたいと思います。
まずは言語が持っている音と文字について見てみたいと思います。
音と文字が一対一で対応している言語を見たことがありますか?
日常的に使用されている言語ではおそらく存在していないと思います。
そのために人工的に生み出された言語がエスペラント語ということになるのではないでしょうか。
音と文字が一対一で対応しているということは言い換えれば発音記号ということになります。
英語にも発音記号があります。
それは一つの文字が使われ方によって複数の音を持っているから必要とされているものです。
中国語にもピンイン(併音)という音を表すために表記があります。
実は国際音声記号という発音記号が存在しています。
国際音声学会が作っているのですが、世界のあらゆる言語に対して同じ方法で発音の仕方を表記した記号文字になります。
試みとしては素晴らしいと思うのですが、それぞれの言語の持つ音をしっかりと区分して表記するためには巨大な分類体系を必要とするためにとても複雑なものとなってしまっています。
日常的に目にすることがないのは実用としては向かいないからではないでしょうか。
日本語は四種類の文字(漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット)を持っていますが音を表すためにはひらがなを使用しています。
カタカナを使用する場合も増えてきていますが一般的に読みがなと言った場合にはひらがなになるのではないでしょうか。
音としてはひらがなもカタカナも全く同じになりますのでカタカナの音もひらがなの音と同じとして扱いたいと思います。
そうなりますと、四種類の文字に対して一種類の音を持っているのが日本語ということになります。
日本語には発音記号が存在していません。
発音記号の役割を担っているのがひらがなということになります。
そのひらがなは発音記号としては完全なものではありません。
格助詞の「は」は「ワ」と読みますし、目的地を表わす助詞の「へ」は「エ」と読んでいます。
それ以外にも同じひらがなであっても使われ方によっては音が変わるものがいくつか存在しています。
しかしその違っている音もひらがなの持っている音の中のものでありひらがなの音以外の音が存在しているわけではありません。
つまり日本語の音はひらがなの音の一種類しかないことになります。
四種類の文字種類を持ちながらもその音としてはひらがなの一種類の音しか持っていないということはどういうことを示しているのでしょうか。
文字にした時には同じ言葉であっても四種類の表記方法があり、それぞれの文字種類によって独特の感覚やイメージを持っていることになります。
感覚やイメージが同じだとしたら異なった文字種類が存在する必要がないですし実用的に歴史のどこかで淘汰されて消えていったことでしょう。
文字にすることによって文字の種類を使い分けることで同じ言葉であっても微妙なニュアンスの違いを表わしていることになります。
コピーライターなどはこの感覚が優れていないとできない仕事ですね。
ところが話し言葉にしたとたんに文字としてのこの微妙なニュアンスの違いやイメージの違いがなくなってしまうことになります。
音にした瞬間に文字の違いが消えてしまいひらがなの音だけになってしまうからです。
日本語の持っている音の数はひらがなの音の数になります。
五十音表にある清音と言われるひらがなの音は46音です。
音のバリエーションである長短や強弱、音便などは同じ音による言い方の違いとして扱うことができますので「きゃ」「ちょ」などは「きや」「ちよ」のバリエーションとして別の音としては考えないことになります。
そのようにしてみてみると濁音(が、ざ、だ、など)や半濁音(ぱ、ぷ、など)は別の音になりますので計25音を清音に加えた71音が日本語の持っている基本音ということになります。
ところが濁音の中にも「じ」「ぢ」と「ず」「づ」が同じ音ですので、日本語の持っている基本音は合計で69音になります。
言語による音数の違いはそれぞれの数え方によっても異なりますが、どの資料を見ても他の言語に比べた日本語の音数の少なさは突出したものがあります。
さらに、一般的に使われている単語だけでも10,000語を越えていると言われる日本語ではその違いを話し言葉だけから理解することはとても難しいことになります。
(参照:他の言語話者から見た日本語)
世界でも類を見ないくらい少ない音数で世界でも類を見ないくらい多くの言葉を表現していることになる日本語の口頭による情報は、理解するためにはとんでもない能力が必要になっているということではないでしょうか。
日本語の持っている文字のなかで文字自体が意味を持っているものが漢字になります。
完全ではないにしても漢字以外の文字は音を表すための表音文字であり、漢字は意味を表すための表意文字となります。
世界で現存している文字のなかで唯一の表意文字が漢字だと言われています。
表意文字は文字になって初めて意味が分かるものであり読みとしての音からは意味を理解することが難しいものとなります。
漢字は中国文化から借用したものであり、原点にあった音は中国音(呉音、唐音、漢音)です。
それが音読みとして漢字の音に充てられている音になります。
この段階での音読みには日本語としての読み(音)としての意味はありませんので音から意味を理解することは出来ません。
やがて日本語としての音に対しても同じような意味を持つ漢字が使用されるようになり、訓読みとして利用されるようになります。
音としても文字としても意味を持つ言葉になったことになります。
ところがこの音としての意味と文字としての意味が完全に一致しているわけではないのです。
一般的には文字としての意味の方が音としての意味よりもより限定された具体的な場合の方が多くなっています。
このことも文字と音の間での理解の違いを生む原因にもなっているのです。
見てきたように、日本語は世界の言語の中でも究極の文字言語ということができると思います。
それでも、言語による伝達の80%は口頭によって行なわれているのです。
文字による伝達に比べた時にどれほどの内容が欠落しているのかはしっかりと意識しておく必要があるのではないでしょうか。
大切な情報伝達については必ず文字情報を伴うことを意識しておくことも大切ですね。
口頭による情報伝達しかできない場面もたくさんあります。
そんな時にどんなことに気を付けたらいいのかもお伝えしていきたいと思います。
そうです「現代やまとことば」が一番生きてくるのがここです。
(参照:なぜ「現代やまとことば」か?)
話して伝える機会の多い人ほど知っておいてほしいですね。
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・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2016年5月20日金曜日
「カテゴリー」で気づいたこと
最近「カテゴリー」という言葉をよく使って言います。
本来のこのブログの主旨である「現代やまとことば」で日本語を使いこなすことからするとカタカナ表記での外来語は使いたくないところなのですが、今のところわたしの描いている「カテゴリー」の概念を上手く表現できる日本語が見当たらないのです。
つまりは、人に対して自分が持っている「カテゴリー」の概念をうまく日本語で説明できないということでもあります。
もちろん「カテゴリー」という言葉は英語の授業でも出てきましたし様々な場面で触れてきたものです。
しかし、いざ表現してみると抽象的でボヤっとしたイメージしか持っていなかったことが改めて確認できました。
できるだけ正確に日本語の置き換えをしようとすると「範疇」という言葉が選択され、英語の単語を覚える時にも"category=範疇"として固定されてきました。
そもそも「範疇」(はんちゅう)という言葉も漢字も読みかたも"category"に出会って初めて知ったものでした。
つまりは自分の中では"category=範疇"は機械的に英語と日本語の置き換えをするための単語同士であり、そこにおける日本語の扱いは母語としての感覚の伴った扱いにはなっていません。
単なる言語間の訳語として存在しているだけであり、それは英語とロシア語の置き換えにおける言語の扱いと何ら変わりがないことが分かったのです。
言い換えれば日本語として置き換えている「範疇」という言葉が自分のなかで日本語の感覚としての「ことば」にはなっていない、表面的な言語の形としての日本語でしかない母語の感覚からは程遠いものだと分かりました。
簡単に言ってしまえば「範疇」は自分のなかで意味のはっきりした日常的に使いこなせる言葉とはなっていないのです。
人に対して日本語の日常的な基本語で自分の使っている「範疇」の意味について説明できるようになっていないのです。
あらためて「カテゴリー」という言葉を意識させられたのが今井むつみ氏の「ことばと思考」という著作に出会ってからです。
「現代やまとことば」を常に意識している私にとっては「ことば」というひらがな表記はとても気になる表現になります。
言語と思考について深くしかも日常的な例を多く提示ながら論じている名著だと思います。
決して「カテゴリー」について書かれている本ではありませんが、この本で使われている「カテゴリー」は"category"でもなければ"範疇"でもない、日本語としての「カテゴリー」なのです。
その説明についてはご本人も苦労されている跡がうかがえるものとなっていますが、「カテゴリー」としか言いようのないものとなっており読み進むにつれてその概念がなんとなく分かるようになっています。
英語が母語ではない私たちがいくら"category"について感覚的に理解しようとしても彼らと同じ理解をすることは不可能です。
"category"が日本に入ってきたときにその概念を伝えるための適切な基本語を日本語は持っていなかったのです。
難しい漢字や新しい言葉を与えることがたくさん行なわれたのが明治期以降ですが、その時に日常的に使われている言葉を与えられなかった外国語は彼らの持つ感覚とは微妙に違ったものを言葉として持っていくことになりました。
一部の使い方や意味に日本語に合致するものがあれば代表としてその言葉を訳語として与えられてしまったりもしました。
"right"と"権利"、"liberty"と"自由"、"critical"と"批判的"など根本的に感覚的な違いを持ったまま定着してしまった言葉がたくさん存在しています。
その違いに気がついた人たちはいつの間にか元の感覚に近い表現をする場合に「ライト」「リバティ」「クリティカル」といったカタカナによる表記のほうが効果的であることが分かってきたのです。
そして、表記によるカタカナの効果は同じように話し言葉としてどれだけ英語に近い音(発音)で伝えるかで元の英語の感覚に近づけることができることも分かってきました。
母語として英語を持っていない私たちにとってはどんなに英語のネイティブの発音を聞いてもその感覚を理解することは不可能です。
そのかわり日常的に使っている日本語とは違うんだなという感覚を持つことは可能です。
これは、表記としてのカタカナにも当てはまることになります。
"category=範疇"が染みついている日本人は大多数になると思います。
そんな人であっても「カテゴリー」と表記されたものを見ればなんとなく「範疇」ではないんだなと感じることになるのではないでしょうか。
母語として日本語を持っている私たちは表記文字の違いに対してはとても敏感です。
日常的にひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットに親しんでいる私たちは同じ言葉に対して日常的に接している文字と異なったものに出会うと注意をひかれることになります。
そこに不自然さを感じることになるからです。
その結果、単に漢字が書けなかったり忘れていたりしたために仮名が使われていると思うとがっかりすることになります。
その不自然さに意図があるのではないかと感じているからになります。
全く同じ意味で使われているのに表記文字が違っていると読んで理解することが難しくなりますしとても面倒なことになります。
不自然さに対してはどうしてもその理由を求める活動をしてしまうからだと思われます。
言葉によっては無理やり充てられた漢字で表記するよりもカタカナでの表記の方が相応しいものがたくさんあります。
それは決して外来語の本意の感覚を表すものとはなりませんが、少なくとも日本語としてのおかしな言葉よりは実際の運用にあっているからではないでしょうか。
典型的な言葉に「アイデア」があります。
"idea"でもなければ"発想"でもない日本語としてすっかり定着している言葉となっています。
日本語の「アイデア」としてカタカナ表記されることが日常的となっている一種の基本語となっていると思われます。
「アイデア」という言葉を聞いて単なる"発想"をイメージする人はほとんどいないのではないでしょうか。
「アイデア」という言葉や表記の方が不自然さを感じなくて済むところまで来ているからだと思われます。
日常的な自然さを定義して感じさせることは大変難しいことになります。
自然さはそのままでは意識することができない感覚的なものだからです。
そこに不自然さがあってこそ初めて意識できるのが自然さではないでしょうか。
全てのことが自然に流れていたら全く意識することなく流れていくのではないでしょうか。
もちろん人によって不自然さを感じる内容や程度は異なるのでしょうが、それは同じ言語を母語として持っていることによってかなり共通性があると思われます。
持っている母語が異なれば不自然さを感じる対象も程度もかなり広範囲になっていることでしょう。
それは長い歴史文化を経験して作り上げられている言語であり、その言語によって感覚が作られている以上は当然のことでもあると言えます。
同じ言語を母語として持つ人たちの間でも、一人ひとりの母語は少しずつ違ったものとなっています。
母語が母親からの伝承言語であり幼児期の環境で出来上がっていく以上は、正確に言えば全く同じ母語を持った人は存在しないことになります。
したがって同じように日本語を母語として持つ人の間においても不自然さを感じる対象は微妙に違っていることになります。
また言語の感覚は経験によって上書きされていきますので変化していくものでもあります。
それでも日本語を母語として持った人に共通的に存在する感覚というものがあります。
それは歴史文化的に共通して変化してきた言語を継承してきていることによって持っている基本的なものだと思われます。
とくにカタカナ表記の役割は近年大きく変わってきているものとなっています。
漢語を読み下すための補助的な文字として生まれたカタカナは、日常口語を表すためのひらがなとは異なった役割を担ってきました。
生まれてから役割のほとんど変わっていないひらがなに比べてカタカナは明治期以降に大きな役割が加わりました。
日本語にうまく訳すことができない外来語を音で表すための文字として使用されたのです。
現代ではカタカナ言葉は漢字やひらがな言葉とは違った感覚を持った言葉として認識されるようになっています。
日常的な表記から見たら不自然なものと映りますので日本語として理解するためのには説明が必要な言葉でもあります。
日本語の持っている感覚として理解するためには日常的な日本語(基本語)で説明をしなければならない言葉でもあります。
それでも一部の言葉は「アイデア」のように日本語として定着して独り歩きをしているものも出てきていると思います。
「カテゴリー」はまだまだ説明が必要な言葉です。
何とか基本語で説明できるようにしておきたいものです。
もちろん自分が「カテゴリー」に対して持たせている内容を理解してもらうためにも絶対に必要なことでもあります。
今回は言葉としての「カテゴリー」で気づいたことに触れてみました。
次回は、この「カテゴリー」が発想や理論形成において大きな役割を果たしていることについて触れてみたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
本来のこのブログの主旨である「現代やまとことば」で日本語を使いこなすことからするとカタカナ表記での外来語は使いたくないところなのですが、今のところわたしの描いている「カテゴリー」の概念を上手く表現できる日本語が見当たらないのです。
つまりは、人に対して自分が持っている「カテゴリー」の概念をうまく日本語で説明できないということでもあります。
もちろん「カテゴリー」という言葉は英語の授業でも出てきましたし様々な場面で触れてきたものです。
しかし、いざ表現してみると抽象的でボヤっとしたイメージしか持っていなかったことが改めて確認できました。
できるだけ正確に日本語の置き換えをしようとすると「範疇」という言葉が選択され、英語の単語を覚える時にも"category=範疇"として固定されてきました。
そもそも「範疇」(はんちゅう)という言葉も漢字も読みかたも"category"に出会って初めて知ったものでした。
つまりは自分の中では"category=範疇"は機械的に英語と日本語の置き換えをするための単語同士であり、そこにおける日本語の扱いは母語としての感覚の伴った扱いにはなっていません。
単なる言語間の訳語として存在しているだけであり、それは英語とロシア語の置き換えにおける言語の扱いと何ら変わりがないことが分かったのです。
言い換えれば日本語として置き換えている「範疇」という言葉が自分のなかで日本語の感覚としての「ことば」にはなっていない、表面的な言語の形としての日本語でしかない母語の感覚からは程遠いものだと分かりました。
簡単に言ってしまえば「範疇」は自分のなかで意味のはっきりした日常的に使いこなせる言葉とはなっていないのです。
人に対して日本語の日常的な基本語で自分の使っている「範疇」の意味について説明できるようになっていないのです。
あらためて「カテゴリー」という言葉を意識させられたのが今井むつみ氏の「ことばと思考」という著作に出会ってからです。
「現代やまとことば」を常に意識している私にとっては「ことば」というひらがな表記はとても気になる表現になります。
言語と思考について深くしかも日常的な例を多く提示ながら論じている名著だと思います。
決して「カテゴリー」について書かれている本ではありませんが、この本で使われている「カテゴリー」は"category"でもなければ"範疇"でもない、日本語としての「カテゴリー」なのです。
その説明についてはご本人も苦労されている跡がうかがえるものとなっていますが、「カテゴリー」としか言いようのないものとなっており読み進むにつれてその概念がなんとなく分かるようになっています。
英語が母語ではない私たちがいくら"category"について感覚的に理解しようとしても彼らと同じ理解をすることは不可能です。
"category"が日本に入ってきたときにその概念を伝えるための適切な基本語を日本語は持っていなかったのです。
難しい漢字や新しい言葉を与えることがたくさん行なわれたのが明治期以降ですが、その時に日常的に使われている言葉を与えられなかった外国語は彼らの持つ感覚とは微妙に違ったものを言葉として持っていくことになりました。
一部の使い方や意味に日本語に合致するものがあれば代表としてその言葉を訳語として与えられてしまったりもしました。
"right"と"権利"、"liberty"と"自由"、"critical"と"批判的"など根本的に感覚的な違いを持ったまま定着してしまった言葉がたくさん存在しています。
その違いに気がついた人たちはいつの間にか元の感覚に近い表現をする場合に「ライト」「リバティ」「クリティカル」といったカタカナによる表記のほうが効果的であることが分かってきたのです。
そして、表記によるカタカナの効果は同じように話し言葉としてどれだけ英語に近い音(発音)で伝えるかで元の英語の感覚に近づけることができることも分かってきました。
母語として英語を持っていない私たちにとってはどんなに英語のネイティブの発音を聞いてもその感覚を理解することは不可能です。
そのかわり日常的に使っている日本語とは違うんだなという感覚を持つことは可能です。
これは、表記としてのカタカナにも当てはまることになります。
"category=範疇"が染みついている日本人は大多数になると思います。
そんな人であっても「カテゴリー」と表記されたものを見ればなんとなく「範疇」ではないんだなと感じることになるのではないでしょうか。
母語として日本語を持っている私たちは表記文字の違いに対してはとても敏感です。
日常的にひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットに親しんでいる私たちは同じ言葉に対して日常的に接している文字と異なったものに出会うと注意をひかれることになります。
そこに不自然さを感じることになるからです。
その結果、単に漢字が書けなかったり忘れていたりしたために仮名が使われていると思うとがっかりすることになります。
その不自然さに意図があるのではないかと感じているからになります。
全く同じ意味で使われているのに表記文字が違っていると読んで理解することが難しくなりますしとても面倒なことになります。
不自然さに対してはどうしてもその理由を求める活動をしてしまうからだと思われます。
言葉によっては無理やり充てられた漢字で表記するよりもカタカナでの表記の方が相応しいものがたくさんあります。
それは決して外来語の本意の感覚を表すものとはなりませんが、少なくとも日本語としてのおかしな言葉よりは実際の運用にあっているからではないでしょうか。
典型的な言葉に「アイデア」があります。
"idea"でもなければ"発想"でもない日本語としてすっかり定着している言葉となっています。
日本語の「アイデア」としてカタカナ表記されることが日常的となっている一種の基本語となっていると思われます。
「アイデア」という言葉を聞いて単なる"発想"をイメージする人はほとんどいないのではないでしょうか。
「アイデア」という言葉や表記の方が不自然さを感じなくて済むところまで来ているからだと思われます。
日常的な自然さを定義して感じさせることは大変難しいことになります。
自然さはそのままでは意識することができない感覚的なものだからです。
そこに不自然さがあってこそ初めて意識できるのが自然さではないでしょうか。
全てのことが自然に流れていたら全く意識することなく流れていくのではないでしょうか。
もちろん人によって不自然さを感じる内容や程度は異なるのでしょうが、それは同じ言語を母語として持っていることによってかなり共通性があると思われます。
持っている母語が異なれば不自然さを感じる対象も程度もかなり広範囲になっていることでしょう。
それは長い歴史文化を経験して作り上げられている言語であり、その言語によって感覚が作られている以上は当然のことでもあると言えます。
同じ言語を母語として持つ人たちの間でも、一人ひとりの母語は少しずつ違ったものとなっています。
母語が母親からの伝承言語であり幼児期の環境で出来上がっていく以上は、正確に言えば全く同じ母語を持った人は存在しないことになります。
したがって同じように日本語を母語として持つ人の間においても不自然さを感じる対象は微妙に違っていることになります。
また言語の感覚は経験によって上書きされていきますので変化していくものでもあります。
それでも日本語を母語として持った人に共通的に存在する感覚というものがあります。
それは歴史文化的に共通して変化してきた言語を継承してきていることによって持っている基本的なものだと思われます。
とくにカタカナ表記の役割は近年大きく変わってきているものとなっています。
漢語を読み下すための補助的な文字として生まれたカタカナは、日常口語を表すためのひらがなとは異なった役割を担ってきました。
生まれてから役割のほとんど変わっていないひらがなに比べてカタカナは明治期以降に大きな役割が加わりました。
日本語にうまく訳すことができない外来語を音で表すための文字として使用されたのです。
現代ではカタカナ言葉は漢字やひらがな言葉とは違った感覚を持った言葉として認識されるようになっています。
日常的な表記から見たら不自然なものと映りますので日本語として理解するためのには説明が必要な言葉でもあります。
日本語の持っている感覚として理解するためには日常的な日本語(基本語)で説明をしなければならない言葉でもあります。
それでも一部の言葉は「アイデア」のように日本語として定着して独り歩きをしているものも出てきていると思います。
「カテゴリー」はまだまだ説明が必要な言葉です。
何とか基本語で説明できるようにしておきたいものです。
もちろん自分が「カテゴリー」に対して持たせている内容を理解してもらうためにも絶対に必要なことでもあります。
今回は言葉としての「カテゴリー」で気づいたことに触れてみました。
次回は、この「カテゴリー」が発想や理論形成において大きな役割を果たしていることについて触れてみたいと思います。
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2016年5月18日水曜日
慣用句で伝わる言語感覚
言語の持っている独特の感覚が一番身近で感じることができるのが慣用句ではないでしょうか。
故事成句や金言・格言などとは異なって一般的な基本語による言葉の組み合わせによって表現をされて継承されてきている慣用句はまさしくその言語を母語として持っている人にとっての自然に理解できる表現パターンだと思われます。
(参照:基本語で話そう)
教育的な目的やことわざなどと異なり、慣用句は一般的な当たり前の表現の中から生まれてきたものであり誰かが何かを意図して作り上げたものではない自然発生的なものと思われます。
ある環境において誰かが一度限りで使った表現が、言語感覚的にその環境にぴったりとはまったことによってそのことを表すための典型的な表現としてその後にも使われるようになったものが慣用句です。
目的をもってある種の意味を持たせるために作られた意図的な表現ではなく、偶発的に言語の持つ意味よりもその言語の感覚によって使われたものということができると思います。
そこで使われている単語についても誰もが理解できる基本語の組み合わせでありながら、それぞれの基本語が持っている意味とは異なった意味を持たせるものとなっているのが日本語の慣用句ではないでしょうか。
「手を焼く」というのも使い慣れた慣用句ですが「手を焼く」を基本語の意味のまま理解したのでは大やけどをしてしまうことになります。
やがては元の基本語のがどのような意味で使われていたのかすら分からずに慣用句だけが残っていくこともあります。
それはその言語が持っている感覚に合致しているために残っていっている貴重な表現パターンではないでしょうか。
「手を焼く」と同じような意味で使われる慣用句「手こずる」があります。
同じ「手」という基本語を使っていますが「こずる」単独については「?」となる人がほとんどではないでしょうか。
それでも無意識に使いながらも誰もが同じ感覚で理解できるものとなっているのです。
また、慣用句は故事成句やことわざのように国語的に厳密に意味を定めたものとはなっていないために、使われていく環境によって意味が変わっていく場合もあります。
時には「犬も歩けば棒に当たる」のようにほぼ正反対のことを意味するように変化していくこともあります。
出典や成り立ちがはっきりしていないことで元の意味を特定することもできないものなっているのです。
慣用句には音読み漢字が使われているものがほとんどありません。
それは、意図して作られた故事成句や金言・格言と大きく異なるところです。
基本語で成り立っていることから考えると、話し言葉の中から偶発的に生まれてきたものであると考えることが妥当だと思います。
その分、何かを狙った意図的なものよりもより基本的な話しことばとしての言語感覚によって支えられているのではないでしょうか。
「手を焼く」、うまく処理できなくて困る様子であり「もてあます」とも言い換える場面も可能な時もあります。
ことばの意味から考えても使われている意味は浮かんできませんが「手を焼く」というニュアンスがなんとなく理解できてしまうのは日本語が持っている感覚によるものではないでしょうか。
まったく別の意味のようでありながら「手」があることによってなんとなくニュアンス的に理解できてしまう不思議な表現となっているのではないでしょうか。
基本語の意味から辿っていったら誰もが理解することができない表現が、日本語を母語として持っている人には理屈抜きで同じ理解ができてしまう表現なのです。
ことわざ、金言、格言、名言、故事成句、似たようなものはたくさんありますがすべてが意図を持って作られたものです。
区別をするのも難しいものもあると思いますが、慣用句だけが誰が言い始めたか分からない自然発生的に生まれて継承されてきているものになります。
ある種の決まり文句であり挨拶のことばと同じような感覚で使われているのではないでしょうか。
意図したことで生まれた表現ではないということは、話してるうちの感覚から生まれた表現だということができます。
まさしく言語の感覚を具現化した表現なのではないでしょうか。
しかも、継承されてきているということはその表現が使われるのにふさわしい場面が頻繁にあったことを伺わせます。
汎用性の高い表現であったとしたら共通した固定的な意味が薄れてしまい音としての言葉だけが残ったのでしょうが、だれもが理解できる同じ環境における同じ意味はかなり限定的な使われ方としてしかも頻繁に使われていたのではないでしょうか。
だからこその慣用句だと思われます。
日本語以外の言語にも慣用句という表現をされるものが存在していますが、それはいくつかの単語が並んでいるものでありそれぞれの個別の単語が持っている意味を大きく外れるものではないようです。
熟語やイディオムといった呼び方の方が適切なものとなっているのではないでしょうか。
一つずつの単語がかなり幅広い意味を持っている日本語では、一つの単語の持っている意味ですら正反対の内容を表すものも少なくありません。
更には語順を筆頭にして文法的には非常に自由度が高い日本語は共通理解するためにはあまりに豊かな表現を持ちすぎているということができます。
その中で、慣用句による表現は使われている単語が基本語として日常的に親しんで広い意味を持っている言葉でありながら、慣用句としての使われ方は日本語を母語とする人には共通して理解できる共通語としての役割を持っているものとなっています。
しかも、その意味については言葉の意味としてよりも日本語そのものが持っている感覚として理解できるものとなっていると言えるのではないでしょうか。
また、慣用句には人の体の部分を表わす言葉が使われていることが多いと思われます。
その部位の形や役割を考えた時に日本語が持っている基本的な感覚とつながりがあるものがあるのかもしれません。
このあたりは今後の研究を待ちたいと思います。
例に出した「手を焼く」を初めてとして「手を出す」「手に余る」「手を変える」「手を加える」「手に入れる」「手をぬく」などいくら出てくるのではないでしょうか。
そうかと思えば極めて抽象的な概念を持つ言葉である「気(き)」も多くの慣用句を持っています。
「気を張る」「気を許す」「気をもむ」「気にする」「気が多い」「気が乗る」「気が早い」「気を抜く」「気を引く」などなど、どれをとっても日本人ならば共通して理解できる表現となっています。
話しことばとして考えてみるとすべてが「現代やまとことば」として「ひらがなことば」となっていることに気がつくのではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を経験する)
「ひらがなことば」の基本語によって来上がっている慣用句はその慣用句を構成している一つひとつの言葉(単語)よりもより理解しやすい表現になっていると思われます。
誰もが同じように理解出来るからこそ共通語としての役割を継承してきているのだと思われます。
話しことばとしての口語と書き言葉としての文語は明治期から言文一致の取り組みが行なわれてきましたがいまだに完成されているわけではありません。
代表は格助詞としての「は」の読み方の「ワ」です。
(参照:同字異音も日本語らしさ)
かなの五十音が定められた目的の一つに言文一致の表現を徹底することがありました。
しかし、そのかなの中に同字異音となってしまう使い方がいくつも残っていたのです。
使っている私たちはほとんど気にすることもなく言文一致だと思い込んでいないでしょうか。
これからわかるように言葉は話し言葉が基準であり、話し言葉を記録するために文字があるということになります。
話しことばとしての「ひらがなことば」をすべてひらがなで表記したのでは書かれた文章はとても読みにくいものとなってしまいます。
同様に役割の異なる漢字を話し言葉に持ち込んでしまっていることが話して伝えることを分かりにくくしているのです。
話すときにこそ活かしていきたい慣用句です。
手を尽くして慣用句を利用して話してみましょう。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
故事成句や金言・格言などとは異なって一般的な基本語による言葉の組み合わせによって表現をされて継承されてきている慣用句はまさしくその言語を母語として持っている人にとっての自然に理解できる表現パターンだと思われます。
(参照:基本語で話そう)
教育的な目的やことわざなどと異なり、慣用句は一般的な当たり前の表現の中から生まれてきたものであり誰かが何かを意図して作り上げたものではない自然発生的なものと思われます。
ある環境において誰かが一度限りで使った表現が、言語感覚的にその環境にぴったりとはまったことによってそのことを表すための典型的な表現としてその後にも使われるようになったものが慣用句です。
目的をもってある種の意味を持たせるために作られた意図的な表現ではなく、偶発的に言語の持つ意味よりもその言語の感覚によって使われたものということができると思います。
そこで使われている単語についても誰もが理解できる基本語の組み合わせでありながら、それぞれの基本語が持っている意味とは異なった意味を持たせるものとなっているのが日本語の慣用句ではないでしょうか。
「手を焼く」というのも使い慣れた慣用句ですが「手を焼く」を基本語の意味のまま理解したのでは大やけどをしてしまうことになります。
やがては元の基本語のがどのような意味で使われていたのかすら分からずに慣用句だけが残っていくこともあります。
それはその言語が持っている感覚に合致しているために残っていっている貴重な表現パターンではないでしょうか。
「手を焼く」と同じような意味で使われる慣用句「手こずる」があります。
同じ「手」という基本語を使っていますが「こずる」単独については「?」となる人がほとんどではないでしょうか。
それでも無意識に使いながらも誰もが同じ感覚で理解できるものとなっているのです。
また、慣用句は故事成句やことわざのように国語的に厳密に意味を定めたものとはなっていないために、使われていく環境によって意味が変わっていく場合もあります。
時には「犬も歩けば棒に当たる」のようにほぼ正反対のことを意味するように変化していくこともあります。
出典や成り立ちがはっきりしていないことで元の意味を特定することもできないものなっているのです。
慣用句には音読み漢字が使われているものがほとんどありません。
それは、意図して作られた故事成句や金言・格言と大きく異なるところです。
基本語で成り立っていることから考えると、話し言葉の中から偶発的に生まれてきたものであると考えることが妥当だと思います。
その分、何かを狙った意図的なものよりもより基本的な話しことばとしての言語感覚によって支えられているのではないでしょうか。
「手を焼く」、うまく処理できなくて困る様子であり「もてあます」とも言い換える場面も可能な時もあります。
ことばの意味から考えても使われている意味は浮かんできませんが「手を焼く」というニュアンスがなんとなく理解できてしまうのは日本語が持っている感覚によるものではないでしょうか。
まったく別の意味のようでありながら「手」があることによってなんとなくニュアンス的に理解できてしまう不思議な表現となっているのではないでしょうか。
基本語の意味から辿っていったら誰もが理解することができない表現が、日本語を母語として持っている人には理屈抜きで同じ理解ができてしまう表現なのです。
ことわざ、金言、格言、名言、故事成句、似たようなものはたくさんありますがすべてが意図を持って作られたものです。
区別をするのも難しいものもあると思いますが、慣用句だけが誰が言い始めたか分からない自然発生的に生まれて継承されてきているものになります。
ある種の決まり文句であり挨拶のことばと同じような感覚で使われているのではないでしょうか。
意図したことで生まれた表現ではないということは、話してるうちの感覚から生まれた表現だということができます。
まさしく言語の感覚を具現化した表現なのではないでしょうか。
しかも、継承されてきているということはその表現が使われるのにふさわしい場面が頻繁にあったことを伺わせます。
汎用性の高い表現であったとしたら共通した固定的な意味が薄れてしまい音としての言葉だけが残ったのでしょうが、だれもが理解できる同じ環境における同じ意味はかなり限定的な使われ方としてしかも頻繁に使われていたのではないでしょうか。
だからこその慣用句だと思われます。
日本語以外の言語にも慣用句という表現をされるものが存在していますが、それはいくつかの単語が並んでいるものでありそれぞれの個別の単語が持っている意味を大きく外れるものではないようです。
熟語やイディオムといった呼び方の方が適切なものとなっているのではないでしょうか。
一つずつの単語がかなり幅広い意味を持っている日本語では、一つの単語の持っている意味ですら正反対の内容を表すものも少なくありません。
更には語順を筆頭にして文法的には非常に自由度が高い日本語は共通理解するためにはあまりに豊かな表現を持ちすぎているということができます。
その中で、慣用句による表現は使われている単語が基本語として日常的に親しんで広い意味を持っている言葉でありながら、慣用句としての使われ方は日本語を母語とする人には共通して理解できる共通語としての役割を持っているものとなっています。
しかも、その意味については言葉の意味としてよりも日本語そのものが持っている感覚として理解できるものとなっていると言えるのではないでしょうか。
また、慣用句には人の体の部分を表わす言葉が使われていることが多いと思われます。
その部位の形や役割を考えた時に日本語が持っている基本的な感覚とつながりがあるものがあるのかもしれません。
このあたりは今後の研究を待ちたいと思います。
例に出した「手を焼く」を初めてとして「手を出す」「手に余る」「手を変える」「手を加える」「手に入れる」「手をぬく」などいくら出てくるのではないでしょうか。
そうかと思えば極めて抽象的な概念を持つ言葉である「気(き)」も多くの慣用句を持っています。
「気を張る」「気を許す」「気をもむ」「気にする」「気が多い」「気が乗る」「気が早い」「気を抜く」「気を引く」などなど、どれをとっても日本人ならば共通して理解できる表現となっています。
話しことばとして考えてみるとすべてが「現代やまとことば」として「ひらがなことば」となっていることに気がつくのではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を経験する)
「ひらがなことば」の基本語によって来上がっている慣用句はその慣用句を構成している一つひとつの言葉(単語)よりもより理解しやすい表現になっていると思われます。
誰もが同じように理解出来るからこそ共通語としての役割を継承してきているのだと思われます。
話しことばとしての口語と書き言葉としての文語は明治期から言文一致の取り組みが行なわれてきましたがいまだに完成されているわけではありません。
代表は格助詞としての「は」の読み方の「ワ」です。
(参照:同字異音も日本語らしさ)
かなの五十音が定められた目的の一つに言文一致の表現を徹底することがありました。
しかし、そのかなの中に同字異音となってしまう使い方がいくつも残っていたのです。
使っている私たちはほとんど気にすることもなく言文一致だと思い込んでいないでしょうか。
これからわかるように言葉は話し言葉が基準であり、話し言葉を記録するために文字があるということになります。
話しことばとしての「ひらがなことば」をすべてひらがなで表記したのでは書かれた文章はとても読みにくいものとなってしまいます。
同様に役割の異なる漢字を話し言葉に持ち込んでしまっていることが話して伝えることを分かりにくくしているのです。
話すときにこそ活かしていきたい慣用句です。
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2016年5月13日金曜日
日本語の基本語とカテゴリー
幼児が「ことば」を習得していく過程を見てみるとひとつの「ことば」がたくさんの意味を持っていく段階を感じ取ることができるのではないでしょうか。
モノを理解できるようになることと「ことば」を理解できるようになることは同時に発達していくようです。
具体的に見て触れてモノであることについての呼び方としての名前が「ことば」として理解できる初期のものだと思われます。
意味のない欲求を伝えるための音声の次に来るものは目に見えるモノを二音で表す「ワンワン」「ブーブー」などは、「ことば」の一歩手前にある音だと思われます。
初めて「ことば」として捉えることができるモノが「はな」「いぬ」「ほん」などの身近な対象物に対しての基本語による呼び方ではないでしょうか。
この段階で使っている「ことば」は対象とするモノの固有名詞に近い役割を持っていると思われます。
使っている子ども自身にとっては目の前の特定のモノの呼び名が「はな」であり、一般的な基本語として持っている多くの種類の花の総称として(カテゴリーとしての名前)の「はな」とは異なったより限定された対象を示すための「ことば」となっているようです。
その場合の「はな」はカテゴリーとしての「はな」としてではなく対象物を限定している言葉として「たんぽぽ」としての役割に近いものとなっているのではないでしょうか。
子どもの環境によっては「はな」よりも先に「たんぽぽ」を覚える場合もあります。
具体的に目の前にある特定のモノを示すための「ことば」であり、それを「はな」と呼ぶようになるのか「たんぽぽ」と呼ぶようになるのかは親を含めた環境によるものだと思われます。
いずれの呼び方にしても意味しているものは目の前のモノであり、類似性を考慮したカテゴリーの名前として使われているわけではないことは間違いないことです。
カテゴリーという言葉が気になっている方がいるのではないかと思います。
「ひらがなことば」としての「現代やまとことば」を提唱している私が頻繁に使うべき言葉ではないと思われるのも当然です。
実はこのカテゴリーという言葉を言い換えるための適切な「現代やまとことば」がいまだに見つけられていないのです。
日本語の基本的な感覚にはなかった概念を表している外来語なのですが、この外来語の持っている概念を表す適切な日本語がない言葉の一つなのです。
「やまとことば」で基本語を持っている時代には考えつかなかったか一般化していなかった概念だと思われます。
辞書的に「範疇」としてみてもこれ自身が基本語とはなっていないのでかえって分かりにくものとなってしまうことになるので、今の私が持っている言葉としてはカテゴリーとしか表現ができなくなっているのです。
初めて覚える「ことば」たちは目の前のモノを表す呼び名としての言葉であり、それがどのような言葉であったとしてもカテゴリー的な感覚を伴わない固有名詞に近いものであると言えると思います。
やがて子供たちは「たんぽぽ」とは違った個性や特徴を持つ「たんぽぽ」と似たようなモノを認識するようになります。
そしてそれも「はな」であることを学びます。
どちらも同じ「はな」であり、それぞれの違いに注目をしない限りはどちらも「はな」で何の問題もないのです。
ところがそれぞれの違いに注目し認識したときに、一方は「たんぽぽ」でありもう一方は「すみれ」であることを学び覚えるのです。
「たんぽぽ」と「すみれ」はどちらも基本語です。
「たんぽぽ」にもカテゴリーとしての機能もあります。
「〇〇たんぽぽ」というメンバーがたくさん存在しています。
しかし、そこで付けられている名前は「たんぽぽ」を核とした複合語であり合成語になります。
基本語としての「たんぽぽ」とは日本語における一般的な重要度としては明らかに比較にならない言葉となっています。
「たんぽぽ」と「すみれ」は基本語同士の区別でありその違いは「〇〇たんぽぽ」と「△△たんぽぽ」との違いよりもずっと一般的であり明確なものとなっていることになります。
どの様なカテゴリーやカテゴリーのメンバーに基本語が付けられているのかが言語文化の違いによるものになります。
何度か登場していますが、人が移動する動作を「歩く」と「走る」の二種類の基本語で自然に区別をし表現しているのが日本語の言語文化であり、run, walk, jog, sprint, dashの五種類の基本語で自然に区別をしているのが英語の言語文化なのです。
したがって、母語として持っている言語によって一般的なカテゴリーの重要性が基本語であるかどうかで判断できることになります。
日本語においては「たんぽぽ」「すみれ」は基本語ですし、これらの上位カテゴリーになる「はな」も基本語になります。
「なは」と隣り合うカテゴリーは一般的には「は(葉)」「くき(茎)」「ね(根)」などになりますがこれらのすべても基本語です。
更に一般的なカテゴリーとしてのさらに上位は「くさ(草)」「き(木)」になりますが、これもまた基本語となっています。
その上のカテゴリーになると「植物」という言葉が出てくるのではないでしょうか。
この「植物」は基本語でしょうか?
一般的には「植物」と隣り合うカテゴリーは「動物」になります。
これらの言葉は「ひらがなことば」にはならない音読み漢字であり、ある種の専門用語・学術用語ととなります。
結果としては基本語ではないことになります。
「植物」に至るまでのカテゴリーについては専門知識がなくとも一般的に気兼ねなく使っている言葉であり誰が区分けしても日本語を母語として持っている人であるならば間違うことがないものです。
ところが「植物」となると多少は学術的なかしこまった感じがしてある種の定義が必要な感覚がしませんか。
「動物」についても同じことがあり、基本語としての「けもの」や「とり」の方が同じ感覚で認識できるものとなっているのではないでしょうか。
一般的な感覚として言葉が持っている言語文化上の重要性が高いものが基本語で表現されたものであり、隣り合ったカテゴリーとの区別が感覚的に自然にできるものとなっている言葉です。
その言葉の重要度によっては言語文化の違いによってより細分化された基本語を持つ場合もありますし、かなり上位のカテゴリーにまで基本語が使われている場合もあります。
日本語の場合は「ひらがなことば」を意識することで基本語を感じることができます。
漢字で表現された場合には訓読みで読むことになる言葉になります。
一つの言葉は一つのカテゴリーに拘束されるわけではありません。
経験が増えるにしたがって新しい言葉も増えますが、それ以上に持っている言葉が属するカテゴリーが増えることの方が多くなっていきます。
「はな」のカテゴリーメンバーとしてしか認識していなかった「さくら」が、「はる(春)」のカテゴリーメンバーになり「いさぎよさ(潔さ)」のカテゴリーメンバーになることによって使われる機会が増えていくことになるのです。
やがて「さくら」という言葉に持たせる意味が「はな」としての「さくら」だけではなく、「はる(春)」を代表する言葉としての使い方や「いさぎよさ(潔さ)」を代表する言葉としての意味を持って独り歩きするようになっていきます。
「さくら」の細分化された言葉としては「そめいよしの」くらいしか思い浮かばないのはわたしだけではないと思います。
何度もその名前を見ていても「〇〇さくら」という名前は基本語ではないために「さくら」という基本語の影響下でしか存在できない言葉となっているのです。
「そめいよしの」は基本語ですので、それだけで「さくら」を代表する言葉として使われることができるのです。
特別な説明も論理も必要なく日本語を母語として持っているだけで感覚的に「さくら」が持っているカテゴリーについて理解できてしまうのが基本語でつけられたカテゴリーの名称なのです。
これがモノだけではなく抽象的な概念に対してつけられた言葉であればさらにいろいろなカテゴリーに接している可能性があります。
その場合にこそ特に基本語を意識する必要があるのではないでしょうか。
言葉が持っている意味は最低でも属しているカテゴリーの数だけは存在していることになります。
その言葉と対象となるカテゴリーに一般的な必然性や重要性がなければ思いつくこともないものもあると思われます。
その言語を母語とする人ならば誰でもが感覚的にその言葉とカテゴリーの関係や隣り合うカテゴリーとの区別が無意識の感覚として共通性を持ってい出来ていることが基本語による表現だと思われます。
この基本語が日本語の場合には「ひらがなことば」であり「現代やまとことば」であるのではないでしょうか。
「現代やまとことば」による表現は日本語を母語として持つ人であれば理屈抜きに理解できるものとなるはずです。
モノを理解できるようになることと「ことば」を理解できるようになることは同時に発達していくようです。
具体的に見て触れてモノであることについての呼び方としての名前が「ことば」として理解できる初期のものだと思われます。
意味のない欲求を伝えるための音声の次に来るものは目に見えるモノを二音で表す「ワンワン」「ブーブー」などは、「ことば」の一歩手前にある音だと思われます。
初めて「ことば」として捉えることができるモノが「はな」「いぬ」「ほん」などの身近な対象物に対しての基本語による呼び方ではないでしょうか。
この段階で使っている「ことば」は対象とするモノの固有名詞に近い役割を持っていると思われます。
使っている子ども自身にとっては目の前の特定のモノの呼び名が「はな」であり、一般的な基本語として持っている多くの種類の花の総称として(カテゴリーとしての名前)の「はな」とは異なったより限定された対象を示すための「ことば」となっているようです。
その場合の「はな」はカテゴリーとしての「はな」としてではなく対象物を限定している言葉として「たんぽぽ」としての役割に近いものとなっているのではないでしょうか。
子どもの環境によっては「はな」よりも先に「たんぽぽ」を覚える場合もあります。
具体的に目の前にある特定のモノを示すための「ことば」であり、それを「はな」と呼ぶようになるのか「たんぽぽ」と呼ぶようになるのかは親を含めた環境によるものだと思われます。
いずれの呼び方にしても意味しているものは目の前のモノであり、類似性を考慮したカテゴリーの名前として使われているわけではないことは間違いないことです。
カテゴリーという言葉が気になっている方がいるのではないかと思います。
「ひらがなことば」としての「現代やまとことば」を提唱している私が頻繁に使うべき言葉ではないと思われるのも当然です。
実はこのカテゴリーという言葉を言い換えるための適切な「現代やまとことば」がいまだに見つけられていないのです。
日本語の基本的な感覚にはなかった概念を表している外来語なのですが、この外来語の持っている概念を表す適切な日本語がない言葉の一つなのです。
「やまとことば」で基本語を持っている時代には考えつかなかったか一般化していなかった概念だと思われます。
辞書的に「範疇」としてみてもこれ自身が基本語とはなっていないのでかえって分かりにくものとなってしまうことになるので、今の私が持っている言葉としてはカテゴリーとしか表現ができなくなっているのです。
初めて覚える「ことば」たちは目の前のモノを表す呼び名としての言葉であり、それがどのような言葉であったとしてもカテゴリー的な感覚を伴わない固有名詞に近いものであると言えると思います。
やがて子供たちは「たんぽぽ」とは違った個性や特徴を持つ「たんぽぽ」と似たようなモノを認識するようになります。
そしてそれも「はな」であることを学びます。
どちらも同じ「はな」であり、それぞれの違いに注目をしない限りはどちらも「はな」で何の問題もないのです。
ところがそれぞれの違いに注目し認識したときに、一方は「たんぽぽ」でありもう一方は「すみれ」であることを学び覚えるのです。
「たんぽぽ」と「すみれ」はどちらも基本語です。
「たんぽぽ」にもカテゴリーとしての機能もあります。
「〇〇たんぽぽ」というメンバーがたくさん存在しています。
しかし、そこで付けられている名前は「たんぽぽ」を核とした複合語であり合成語になります。
基本語としての「たんぽぽ」とは日本語における一般的な重要度としては明らかに比較にならない言葉となっています。
「たんぽぽ」と「すみれ」は基本語同士の区別でありその違いは「〇〇たんぽぽ」と「△△たんぽぽ」との違いよりもずっと一般的であり明確なものとなっていることになります。
どの様なカテゴリーやカテゴリーのメンバーに基本語が付けられているのかが言語文化の違いによるものになります。
何度か登場していますが、人が移動する動作を「歩く」と「走る」の二種類の基本語で自然に区別をし表現しているのが日本語の言語文化であり、run, walk, jog, sprint, dashの五種類の基本語で自然に区別をしているのが英語の言語文化なのです。
したがって、母語として持っている言語によって一般的なカテゴリーの重要性が基本語であるかどうかで判断できることになります。
日本語においては「たんぽぽ」「すみれ」は基本語ですし、これらの上位カテゴリーになる「はな」も基本語になります。
「なは」と隣り合うカテゴリーは一般的には「は(葉)」「くき(茎)」「ね(根)」などになりますがこれらのすべても基本語です。
更に一般的なカテゴリーとしてのさらに上位は「くさ(草)」「き(木)」になりますが、これもまた基本語となっています。
その上のカテゴリーになると「植物」という言葉が出てくるのではないでしょうか。
この「植物」は基本語でしょうか?
一般的には「植物」と隣り合うカテゴリーは「動物」になります。
これらの言葉は「ひらがなことば」にはならない音読み漢字であり、ある種の専門用語・学術用語ととなります。
結果としては基本語ではないことになります。
「植物」に至るまでのカテゴリーについては専門知識がなくとも一般的に気兼ねなく使っている言葉であり誰が区分けしても日本語を母語として持っている人であるならば間違うことがないものです。
ところが「植物」となると多少は学術的なかしこまった感じがしてある種の定義が必要な感覚がしませんか。
「動物」についても同じことがあり、基本語としての「けもの」や「とり」の方が同じ感覚で認識できるものとなっているのではないでしょうか。
一般的な感覚として言葉が持っている言語文化上の重要性が高いものが基本語で表現されたものであり、隣り合ったカテゴリーとの区別が感覚的に自然にできるものとなっている言葉です。
その言葉の重要度によっては言語文化の違いによってより細分化された基本語を持つ場合もありますし、かなり上位のカテゴリーにまで基本語が使われている場合もあります。
日本語の場合は「ひらがなことば」を意識することで基本語を感じることができます。
漢字で表現された場合には訓読みで読むことになる言葉になります。
一つの言葉は一つのカテゴリーに拘束されるわけではありません。
経験が増えるにしたがって新しい言葉も増えますが、それ以上に持っている言葉が属するカテゴリーが増えることの方が多くなっていきます。
「はな」のカテゴリーメンバーとしてしか認識していなかった「さくら」が、「はる(春)」のカテゴリーメンバーになり「いさぎよさ(潔さ)」のカテゴリーメンバーになることによって使われる機会が増えていくことになるのです。
やがて「さくら」という言葉に持たせる意味が「はな」としての「さくら」だけではなく、「はる(春)」を代表する言葉としての使い方や「いさぎよさ(潔さ)」を代表する言葉としての意味を持って独り歩きするようになっていきます。
「さくら」の細分化された言葉としては「そめいよしの」くらいしか思い浮かばないのはわたしだけではないと思います。
何度もその名前を見ていても「〇〇さくら」という名前は基本語ではないために「さくら」という基本語の影響下でしか存在できない言葉となっているのです。
「そめいよしの」は基本語ですので、それだけで「さくら」を代表する言葉として使われることができるのです。
特別な説明も論理も必要なく日本語を母語として持っているだけで感覚的に「さくら」が持っているカテゴリーについて理解できてしまうのが基本語でつけられたカテゴリーの名称なのです。
これがモノだけではなく抽象的な概念に対してつけられた言葉であればさらにいろいろなカテゴリーに接している可能性があります。
その場合にこそ特に基本語を意識する必要があるのではないでしょうか。
言葉が持っている意味は最低でも属しているカテゴリーの数だけは存在していることになります。
その言葉と対象となるカテゴリーに一般的な必然性や重要性がなければ思いつくこともないものもあると思われます。
その言語を母語とする人ならば誰でもが感覚的にその言葉とカテゴリーの関係や隣り合うカテゴリーとの区別が無意識の感覚として共通性を持ってい出来ていることが基本語による表現だと思われます。
この基本語が日本語の場合には「ひらがなことば」であり「現代やまとことば」であるのではないでしょうか。
「現代やまとことば」による表現は日本語を母語として持つ人であれば理屈抜きに理解できるものとなるはずです。
他の言語に比べて基本語が区別しやすいのも日本語の特徴だと思われます。
使おうとする言葉が「現代やまとことば」であることは勿論ですが、その言葉によって伝えたい意味が含まれているカテゴリーが「現代やまとことば」によって表現された名前がついているかどうかは重要なチェックポイントになります。
あらためて自分が何気なく使っている言葉を見直してみたいですね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
使おうとする言葉が「現代やまとことば」であることは勿論ですが、その言葉によって伝えたい意味が含まれているカテゴリーが「現代やまとことば」によって表現された名前がついているかどうかは重要なチェックポイントになります。
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2016年5月4日水曜日
基本語で話そう
基本語という表現は馴染みのないものかもしれません。
それぞれの言語が持っている動作や感情を表す基本的な言葉であり、古くから一般的に広く使われてきた言葉のことになります。
合成語や複合語は基本語をもとに新しく作られた言葉ということができるために基本語とは呼べない言葉になります。
「寒い」(さむい)は基本語ですが「肌寒い」や「うすら寒い」は基本語とは言えないものになります。
同じようなことを表そうとしても言語によって持っている基本語の多さの領域が異なっていることがあります。
そのことがその言語の特徴を表しており、歴史文化的により細かな区分に対してこだわってきたことを感じさせるものとなっています。
例えば、人が移動することを表す言葉としての基本語は、日本語では「歩く」(あるく)と「走る」(はしる)の二種類になります。
これに対して英語では、walk, run 以外にも jog, sprint, dash などの基本語を持っています。
基本語ですから特に意識をしなくともその言語を母語として持っている人にとっては同じような感覚で使い分けが可能となっています。
「歩く」とwalk は人の動作として表している内容や感覚がほとんど同じものとなっていますので、日本語の「走る」という動作の感覚に対して英語は四段階のカテゴリーとしての基本語を持っていることになります。
しかも基本語として持っている言葉ですので、この四段階の区分けをすべての人がほとんど同じ感覚で無意識のうちに行なうことが可能となっているのです。
私のように日本語を母語としている者から見ると、jog とrun の区別が分からないような微妙な状況であっても英語を母語とする人の間ではほとんど同じ感覚でしかも無意識に区分けをしているのです。
日本語としてはjog に対しては「小走り」(こばしり)といった表現が合うのかもしれませんが、これは基本語を利用した複合表現にしかすぎず「走る」のカテゴリーの中にある表現にすぎないことになります。
つまりはjog に相当する基本語は日本語には存在しないのです。
日本語では、jog もsprint もdash もすべてが「走る」という基本語で表現されることになるのです。
日本語には「駆ける、駈ける」(かける)という基本語もあるではないかと思う人もいるかもしれませんが、文字を見ればわかるようにこれはもともとは馬の走る様子を表した言葉であり人が移動する様子を表した言葉ではありません。
「走る」は基本語として人以外の動物や物が移動するときにも使われる言葉となっていますが、「駆ける、駈ける」は馬から転じて人や動物が移動することにしか使われない言葉となっています。
基本語は誰にでもわかりやすい言葉であるために本来の意味から広がっていったり複合語を構成する核となったりしていきます。
このようにして基本語を見てくると、日本語における基本語は「やまとことば」から継承されている「ひらがなことば」であることがわかってきます。
基本語は漢字を用いて表現する場合は全てが訓読みとなっている言葉なのです。
話し言葉としては全てが「ひらがなことば」であり漢字としての文字を思い浮かべることをしなくとも意味がはっきりと分かることばとなっているのです。
音読み漢字による熟語はまさしく合成語や複合語であり基本語とはなりません。
一文字漢字を利用した音読み言葉である「談ずる」「断ずる」(だんずる)や「食する」(しょくする)「減ずる」(げんずる)などの動作を表す言葉も基本語とは言えないものです。
「話す」「断る」「食べる」「減る」といった基本語に置き換わる言葉になります。
あらゆる言語がそれぞれの基本語だけで成り立っていた時代を持っているはずです。
そして歴史を重ねることによってその基本語を核として合成語や複合語を作ってきたことになります。
また、それらの言葉を使って外来語に対応する言葉を作ってきたということが言えるのです。
日本語における基本語は「ひらがなことば」として他の合成語や複合語とは区別しやすいものとなっています。
このブログで提唱している「現代やまとことば」はまさしくこの基本語のことであることになります。
基本語という言葉自体がとても抽象的で分かりにくい言葉でありますので「現代やまとことば」と言った方がいかにも日本語らしいので採用している表現になります。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1))
文字で表現するときには漢字による表意文字(表語文字)としての機能が生かされることになりますので、音による言葉よりは明確な意味を伝えることが可能になります。
ところが、話し言葉になってしまうと音が同じ場合には文字の違いが機能しなくなってしまいます。
基本語は話し言葉においても言葉同士の違いが明確になる言葉なのです。
話すときにこそ基本語=「現代やまとことば」を使用することでお互いの伝えたいことが分かりやすく伝わるものとなるのではないでしょうか。
「きく」という基本的な動作を表す言葉があります。
文字にすると「聞く」「聴く」「利く」「効く」「訊く」の五種類があることになります。
話しことばとしては「きく」の一種類であり基本語としても「きく」の一種類になります。
伝える側がどんなに「聞く」「聴く」「利く」などの違いを意識して伝えようとしても相手には「きく」としてしか伝わらないことになります。
相手にわかり易いように伝えるためにはそれぞれの「きく」の場面にふさわしい基本語に置き換えて話しをする必要があることになります。
あらゆる言語において基本語だけによる表現が可能になっています。
その方がその言語を母語とする人たちにとっては理解しやすい聞き間違いの少ない表現となっているのです。
基本語だけで表現ができないような状況や言葉については自分自身が人に伝えられるだけのきちんとした理解ができていないことの裏返しとなっていることになります。
このことは「現代やまとことば」を使う上での大きな効果となっています。
「現代やまとことば」で表現しきれない言葉や状況は、自分自身で明確にしっかりと認知できていないことの現れとなるのです。
試しに外来語などでやってみると面白いと思います。
何気なく使っている「IT技術」などという言葉もわたし自身が「現代やまとことば」では表現できないままに使っている言葉となっています。
言葉としての「IT技術」は伝わってもその言葉に込めた意味合いは全く伝わっていないことになります。
自分が日常的に使っている言葉を「現代やまとことば」に置き換えて棚卸してみると面白いと思います。
思っている以上にあやふやなままに使っている言葉がたくさん見つかると思いますよ。
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それぞれの言語が持っている動作や感情を表す基本的な言葉であり、古くから一般的に広く使われてきた言葉のことになります。
合成語や複合語は基本語をもとに新しく作られた言葉ということができるために基本語とは呼べない言葉になります。
「寒い」(さむい)は基本語ですが「肌寒い」や「うすら寒い」は基本語とは言えないものになります。
同じようなことを表そうとしても言語によって持っている基本語の多さの領域が異なっていることがあります。
そのことがその言語の特徴を表しており、歴史文化的により細かな区分に対してこだわってきたことを感じさせるものとなっています。
例えば、人が移動することを表す言葉としての基本語は、日本語では「歩く」(あるく)と「走る」(はしる)の二種類になります。
これに対して英語では、walk, run 以外にも jog, sprint, dash などの基本語を持っています。
基本語ですから特に意識をしなくともその言語を母語として持っている人にとっては同じような感覚で使い分けが可能となっています。
「歩く」とwalk は人の動作として表している内容や感覚がほとんど同じものとなっていますので、日本語の「走る」という動作の感覚に対して英語は四段階のカテゴリーとしての基本語を持っていることになります。
しかも基本語として持っている言葉ですので、この四段階の区分けをすべての人がほとんど同じ感覚で無意識のうちに行なうことが可能となっているのです。
私のように日本語を母語としている者から見ると、jog とrun の区別が分からないような微妙な状況であっても英語を母語とする人の間ではほとんど同じ感覚でしかも無意識に区分けをしているのです。
日本語としてはjog に対しては「小走り」(こばしり)といった表現が合うのかもしれませんが、これは基本語を利用した複合表現にしかすぎず「走る」のカテゴリーの中にある表現にすぎないことになります。
つまりはjog に相当する基本語は日本語には存在しないのです。
日本語では、jog もsprint もdash もすべてが「走る」という基本語で表現されることになるのです。
日本語には「駆ける、駈ける」(かける)という基本語もあるではないかと思う人もいるかもしれませんが、文字を見ればわかるようにこれはもともとは馬の走る様子を表した言葉であり人が移動する様子を表した言葉ではありません。
「走る」は基本語として人以外の動物や物が移動するときにも使われる言葉となっていますが、「駆ける、駈ける」は馬から転じて人や動物が移動することにしか使われない言葉となっています。
基本語は誰にでもわかりやすい言葉であるために本来の意味から広がっていったり複合語を構成する核となったりしていきます。
このようにして基本語を見てくると、日本語における基本語は「やまとことば」から継承されている「ひらがなことば」であることがわかってきます。
基本語は漢字を用いて表現する場合は全てが訓読みとなっている言葉なのです。
話し言葉としては全てが「ひらがなことば」であり漢字としての文字を思い浮かべることをしなくとも意味がはっきりと分かることばとなっているのです。
音読み漢字による熟語はまさしく合成語や複合語であり基本語とはなりません。
一文字漢字を利用した音読み言葉である「談ずる」「断ずる」(だんずる)や「食する」(しょくする)「減ずる」(げんずる)などの動作を表す言葉も基本語とは言えないものです。
「話す」「断る」「食べる」「減る」といった基本語に置き換わる言葉になります。
あらゆる言語がそれぞれの基本語だけで成り立っていた時代を持っているはずです。
そして歴史を重ねることによってその基本語を核として合成語や複合語を作ってきたことになります。
また、それらの言葉を使って外来語に対応する言葉を作ってきたということが言えるのです。
日本語における基本語は「ひらがなことば」として他の合成語や複合語とは区別しやすいものとなっています。
このブログで提唱している「現代やまとことば」はまさしくこの基本語のことであることになります。
基本語という言葉自体がとても抽象的で分かりにくい言葉でありますので「現代やまとことば」と言った方がいかにも日本語らしいので採用している表現になります。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1))
文字で表現するときには漢字による表意文字(表語文字)としての機能が生かされることになりますので、音による言葉よりは明確な意味を伝えることが可能になります。
ところが、話し言葉になってしまうと音が同じ場合には文字の違いが機能しなくなってしまいます。
基本語は話し言葉においても言葉同士の違いが明確になる言葉なのです。
話すときにこそ基本語=「現代やまとことば」を使用することでお互いの伝えたいことが分かりやすく伝わるものとなるのではないでしょうか。
「きく」という基本的な動作を表す言葉があります。
文字にすると「聞く」「聴く」「利く」「効く」「訊く」の五種類があることになります。
話しことばとしては「きく」の一種類であり基本語としても「きく」の一種類になります。
伝える側がどんなに「聞く」「聴く」「利く」などの違いを意識して伝えようとしても相手には「きく」としてしか伝わらないことになります。
相手にわかり易いように伝えるためにはそれぞれの「きく」の場面にふさわしい基本語に置き換えて話しをする必要があることになります。
あらゆる言語において基本語だけによる表現が可能になっています。
その方がその言語を母語とする人たちにとっては理解しやすい聞き間違いの少ない表現となっているのです。
基本語だけで表現ができないような状況や言葉については自分自身が人に伝えられるだけのきちんとした理解ができていないことの裏返しとなっていることになります。
このことは「現代やまとことば」を使う上での大きな効果となっています。
「現代やまとことば」で表現しきれない言葉や状況は、自分自身で明確にしっかりと認知できていないことの現れとなるのです。
試しに外来語などでやってみると面白いと思います。
何気なく使っている「IT技術」などという言葉もわたし自身が「現代やまとことば」では表現できないままに使っている言葉となっています。
言葉としての「IT技術」は伝わってもその言葉に込めた意味合いは全く伝わっていないことになります。
自分が日常的に使っている言葉を「現代やまとことば」に置き換えて棚卸してみると面白いと思います。
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2016年4月28日木曜日
言葉がかけるバイアス
言葉をたくさん持っている方が何かを認知しようとしたときにより正確な認知ができるものだと思っていました。
そうであればより多くの言葉を持っている言語の方がより正確な表現や理解が可能であるということになります。
ところが言葉を持っていることでその言葉によって認知に対してのバイアスがかかってしまっていることがあることが分かりました。
言語はそれぞれの使用民族における歴史文化の影響を強く受けていますので、言語によって多くの言葉を持っている領域や分野が異なったものとなっています。
例えば人が移動する行動を速さで分けた言葉は、日本語では「歩く」「走る」といった二種類の基本語で区別されますが英語ではそれに相当する run, walk以外にも jog, sprint, dashなどの基本語が存在して日常的に区別されています。
「歩く」「走る」といった日本語の感覚は英語を母語として持っている人の感覚としてはより細かく日常的に無意識に五段階に区別されていることになります。
人が移動している姿を見て日本語話者は「歩く」か「走る」かという認知で区分けしてみていることになります。
同じ状況を見ても英語話者は瞬時に run, walk,jog, sprint, dashのいずれであるのかを認知していることになります。
カテゴリ認知(範疇認知)という言い方もあるようですが、母語として持っている言語の基本語においては意識することなく感覚的にそのカテゴリを当てはめて認知しているという考え方です。
具体的なモノや行動について基本語として設けられている区分としてのカテゴリは、類似のモノや行動を認知するときにどうしても持っているカテゴリに当てはめようとする力が働いているようです。
基本語として存在している言葉で行なわれているカテゴリ分けについてはその言語全体の特徴を表すものとして考えることができます。
しかし、カテゴリに完全に一致するわけではない基本語で区分されたカテゴリの中間に位置付けされるようなモノや行動はどの様に認知されているのでしょうか。
それは、二種類の方法が存在していると思われます。
ひとつは、その言語文化が持つ一般的な感覚としてどちらへ包含するかが暗黙の了解となっているような場合です。
日本語の感覚では「進め」を示す信号の色は「青」と呼ばれます。
幼児であっても「赤とまれ、青すすめ」といって信号を学んでいます。
英語の感覚においては「進め」を示す信号の色は green(緑)であり決して blue(青)と呼ばれることはありません。
どちらの言語においても green(緑)も blue(青)も基本語として日常的に使用している言葉です。
これは、それぞれの言語文化において感覚的に継承されてきている認知の仕方ではないでしょうか。
もうひとつは、個人の経験にもとずいて微妙な位置にあるモノについてのカテゴリを決めている場合です。
人が移動するいろいろな速度を写した映像を見ながら「歩く」か「走る」かの判断をしてもらうと日本語話者はほとんど皆が同じような段階で区分をしていきますが、本当に微妙なラインになると個人的な感覚で判断が異なってきます。
英語話者の場合は walkから dashまでの五段階もありますが、ほとんどの人が同じ判断を示すことになります。
それでも本当に微妙なラインでは個人的な感覚でどちらのカテゴリに入れるかが分かれることになります。
全体が二段階になっている日本語と五段階になっている英語では初めからその精度については差があるものということができるのではないでしょうか。
「歩く」と walkについてはどちらの言語話者においてもほとんど同じ速度であり感覚的にも同じ行動であると言ってもいいカテゴリであることが実験の結果で分かっています。
したがって日本語の「走る」が英語においては四段階に区分されていることになります。
四種類の基本語があることによって、認知をしようとした段階で既にバイアスがかかっていることになることにならないでしょうか。
ここまではそれぞれの言語における絶対的な共通語ともいえる基本語におけるカテゴリで見てきましたので、母語としてその言語を持っている人同士にはほとんど同じ感覚でのバイアスであるためにお互いの違和感はないと思われます。
専門分野や社会環境が異なるということは持っている言葉が異なっていたり多かったりすることになります。
一人ひとりの持っている言葉も厳密に言えばすべて異なっているものです。
その言葉は相手が持っているカテゴリとは異なったカテゴリを作っている可能性があります。
その言葉によって認識する段階で既にバイアスがかかっていることがあります。
何かを認知しようとするときにはその何かに関連するカテゴリのどれかに分類区分をしようとした言葉に影響を受けることになっていきます。
完全合致として適する言葉がなければより近いと思われるカテゴリに引っ張られることになります。
言葉を持っていることによって対象物を認知する方向がその言葉によって引っ張られていることがあるのです。
持っている言葉が違うということは同じ対象に対しても認知の仕方が違っている可能性があることになります。
共通語、標準語、基本語などの色々な言い方がありますが同じ言葉であってもそれぞれの人が持っている意味が異なっている言葉も決して少なくありません。
同じ言葉を使っていることで正確なコミュニケーションができている感覚になってしまうことはとても怖いことだと思います。
日本語の共通語としては国語がその役割を果たしていると思われますが、いったん社会に出てしまえば国語だけでは生活すらできないことが分かると思います。
日本語の語彙の豊富さと表現の豊かさは他の言語の及ばないところにあるほどのものですが、それだけに共通理解のためにコミュニケーションのためには難しさが伴うものとなっています。
「現代やまとことば」がそのために一助になるのではないかと考えています。
日本語の原点にまで続くことができる「現代やまとことば」は基本語としての役割も持っていると思われます。
いろいろな場面で試していきたいと思います。
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そうであればより多くの言葉を持っている言語の方がより正確な表現や理解が可能であるということになります。
ところが言葉を持っていることでその言葉によって認知に対してのバイアスがかかってしまっていることがあることが分かりました。
言語はそれぞれの使用民族における歴史文化の影響を強く受けていますので、言語によって多くの言葉を持っている領域や分野が異なったものとなっています。
例えば人が移動する行動を速さで分けた言葉は、日本語では「歩く」「走る」といった二種類の基本語で区別されますが英語ではそれに相当する run, walk以外にも jog, sprint, dashなどの基本語が存在して日常的に区別されています。
「歩く」「走る」といった日本語の感覚は英語を母語として持っている人の感覚としてはより細かく日常的に無意識に五段階に区別されていることになります。
人が移動している姿を見て日本語話者は「歩く」か「走る」かという認知で区分けしてみていることになります。
同じ状況を見ても英語話者は瞬時に run, walk,jog, sprint, dashのいずれであるのかを認知していることになります。
カテゴリ認知(範疇認知)という言い方もあるようですが、母語として持っている言語の基本語においては意識することなく感覚的にそのカテゴリを当てはめて認知しているという考え方です。
具体的なモノや行動について基本語として設けられている区分としてのカテゴリは、類似のモノや行動を認知するときにどうしても持っているカテゴリに当てはめようとする力が働いているようです。
基本語として存在している言葉で行なわれているカテゴリ分けについてはその言語全体の特徴を表すものとして考えることができます。
しかし、カテゴリに完全に一致するわけではない基本語で区分されたカテゴリの中間に位置付けされるようなモノや行動はどの様に認知されているのでしょうか。
それは、二種類の方法が存在していると思われます。
ひとつは、その言語文化が持つ一般的な感覚としてどちらへ包含するかが暗黙の了解となっているような場合です。
日本語の感覚では「進め」を示す信号の色は「青」と呼ばれます。
幼児であっても「赤とまれ、青すすめ」といって信号を学んでいます。
英語の感覚においては「進め」を示す信号の色は green(緑)であり決して blue(青)と呼ばれることはありません。
どちらの言語においても green(緑)も blue(青)も基本語として日常的に使用している言葉です。
これは、それぞれの言語文化において感覚的に継承されてきている認知の仕方ではないでしょうか。
もうひとつは、個人の経験にもとずいて微妙な位置にあるモノについてのカテゴリを決めている場合です。
人が移動するいろいろな速度を写した映像を見ながら「歩く」か「走る」かの判断をしてもらうと日本語話者はほとんど皆が同じような段階で区分をしていきますが、本当に微妙なラインになると個人的な感覚で判断が異なってきます。
英語話者の場合は walkから dashまでの五段階もありますが、ほとんどの人が同じ判断を示すことになります。
それでも本当に微妙なラインでは個人的な感覚でどちらのカテゴリに入れるかが分かれることになります。
全体が二段階になっている日本語と五段階になっている英語では初めからその精度については差があるものということができるのではないでしょうか。
「歩く」と walkについてはどちらの言語話者においてもほとんど同じ速度であり感覚的にも同じ行動であると言ってもいいカテゴリであることが実験の結果で分かっています。
したがって日本語の「走る」が英語においては四段階に区分されていることになります。
四種類の基本語があることによって、認知をしようとした段階で既にバイアスがかかっていることになることにならないでしょうか。
ここまではそれぞれの言語における絶対的な共通語ともいえる基本語におけるカテゴリで見てきましたので、母語としてその言語を持っている人同士にはほとんど同じ感覚でのバイアスであるためにお互いの違和感はないと思われます。
専門分野や社会環境が異なるということは持っている言葉が異なっていたり多かったりすることになります。
一人ひとりの持っている言葉も厳密に言えばすべて異なっているものです。
その言葉は相手が持っているカテゴリとは異なったカテゴリを作っている可能性があります。
その言葉によって認識する段階で既にバイアスがかかっていることがあります。
何かを認知しようとするときにはその何かに関連するカテゴリのどれかに分類区分をしようとした言葉に影響を受けることになっていきます。
完全合致として適する言葉がなければより近いと思われるカテゴリに引っ張られることになります。
言葉を持っていることによって対象物を認知する方向がその言葉によって引っ張られていることがあるのです。
持っている言葉が違うということは同じ対象に対しても認知の仕方が違っている可能性があることになります。
共通語、標準語、基本語などの色々な言い方がありますが同じ言葉であってもそれぞれの人が持っている意味が異なっている言葉も決して少なくありません。
同じ言葉を使っていることで正確なコミュニケーションができている感覚になってしまうことはとても怖いことだと思います。
日本語の共通語としては国語がその役割を果たしていると思われますが、いったん社会に出てしまえば国語だけでは生活すらできないことが分かると思います。
日本語の語彙の豊富さと表現の豊かさは他の言語の及ばないところにあるほどのものですが、それだけに共通理解のためにコミュニケーションのためには難しさが伴うものとなっています。
「現代やまとことば」がそのために一助になるのではないかと考えています。
日本語の原点にまで続くことができる「現代やまとことば」は基本語としての役割も持っていると思われます。
いろいろな場面で試していきたいと思います。
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2016年4月13日水曜日
きき手の推測を楽にする言葉
五回にわたって「きく」時に行なっている知的活動を見てみました。
(参照:「きく」の五段階活用(1)・・・聞く)
想像しているよりもはるかに大変な知的活動をしている事を理解してもらえたのではないかと思います。
これは日本語という言語だからこその独特な解釈するための知的活動となっているのです。
その大きな原因は使用している文字にあります。
同じ音としての言葉であっても文字として表記するときには、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットと選択することができるからです。
しかも表記文字を変えることでその言葉の持っている意味が使っている人の感覚で微妙に異なっていくことになるのです。
しかも、漢字で書けることを敢えてひらがなで表記することはかなりの勇気を必要としていることでもあります。
そこでは、「こんな漢字も書けないのか」という漢字優位の感覚が根付いてしまっているからです。
その異なり方が人によって微妙に異なっていますので持たせている意味も異なっているのです。
これはきき手として話し言葉として伝わった音を理解するときには、話し手がどんな文字を意図しているのかを考えなければならないことになり、大変な労力が必要になります。
話し言葉は受け取った瞬間に言葉から意味までの認知をしていかないとなりません。
次から次へと新しい言葉が投げかけられてきますので、新しい言葉をとらえながら瞬間的に認知の処理をしていかないとならなくなります。
認知が上手くいかなかった言葉にこだわってしまい推測のために時間をかけてしまうと、次の言葉をつかみ損なうことが起こるのもそのためです。
前後の言葉がつかめないと認知が上手くいかなかった言葉を推測するための根拠も減ることになります。
きき手の持っている言葉にほとんど影響されないで認知がしやすい言葉が存在しています。
ひらがなでしか表記できない言葉です。
文字としての表記方法がひらがなでしか行なわれない言葉です。
どんな言葉があるか見てみましょう。
標準的な日本語の表記方法は和漢混淆文であり漢字とひらがなの混用表記です。
カタカナやアルファベットはある種の特殊表記と言ってもいいのではないでしょうか。
一般的に使われる言葉の中で漢字で表記できない言葉が、ひらがなでしか表記が行なわれない言葉ということができます。
具体的には品詞との関係で見てみると分かり易いかもしれないです。
助詞と言えばひらがな一文字で表記することがい多いのではないでしょうか。
動詞や形容詞の語幹を除いた語尾の変化部分もひらがなです。
接続詞も基本表記はひらがなではないでしょうか。

きいている方にとっては表記文字における意味の違いを考える必要のない言葉になります。
言葉として持っている意味や役割が限定されたものしかなく誰が聞いても「ひらがなの音」さえ認知できれば同じ理解ができる言葉になります。
これらの言葉は話の内容や理論を理解するためにも大切な役割を持った言葉であり日本語の核となっていることばです。
言葉と言うとどうしても熟語や名詞を思い浮かべてしまいがちになりますが、これらの言葉は時代や環境によって常に変化している言葉です。
日本語における基本の言葉は使われれ方や意味が固定化されているひらがなの言葉なのです。
他の文化の影響を受けたり限定された分野において使われたりする変化の大きな言葉はそのほとんどが名詞なのです。
「やまとことば」の影響を一番受けていない言葉が名詞になります。
「やまとことば」は日本語の基本的な部分に継承されて来ていることばです。
最も日本語的な言葉とも言うことができるのではないでしょうか。
それは基本動詞であり言葉同士のつながりを作ってきた助詞や語尾の変化なのです。
そして日本語が最も得意とする心情を表す言葉としての形容詞なのです。
「きく」の五段階で見てきたように、「聞く」「聴く」「利く」「効く」「訊く」についてはすべて「やまとことば」としての「きく」に宛てられた漢字表記です。
それぞれの漢字によって意味するところの違いがありますが、話し言葉として使われるときにはそのすべてに対して「きく」というひらがの動詞として理解してまったく問題のないものとなっています。
どの漢字の「きく」を意図して話し手が発したとしても、「きく」として受け取ることさえできればその意図を理解することは漢字を思い浮かべなくとも簡単にできるようになっています。
これが訓読み漢字の効果です。
音読み漢字ではそうはいきません。
言葉としての音に意味がないからです。
「かんき」という「ひらがなの音」で表される漢字の言葉は20種類ではとどまらない数となっています。
喚起、乾季、換気、乾期、寒気、官記、還気、歓喜、簡記、刊記、勘気、少し見ただけでも嫌になるほど候補があります。
全ての表記に共通した意味などありません。
語源としての共通した「やまとことば」があるわけでもありません。
音読み言葉では「ひらがなの音」ではそのままの意味が理解ができないものとなっているのです。
これが動詞でも使うことにしてしまったのが「する」という万能動詞です。
名詞であっても「する」を付けることで動詞になってしまうのです。
喚起する、換気する、何とも便利な動詞ですが本来の動詞は「する」だけです。
ここまで書いてくると、言いたいことが「現代やまとことば」であることはお分かりいただけるのではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1))
きき手が行なっている知的活動はものすごく大変なことをやっていることが分かってきました。
長時間の「きく」活動はとても労力の多い活動であることになります。
きき手に対してやさしい話の方が理解してもらいやすいことは誰もが理解できることです。
そのためにすべきことが見えているのではないでしょうか。
やさしい話とは音読み言葉が少ない話し方となるのです。
「現代やまとことば」は「ひらがなことば」と置き換えることもできます。
実際に使うときには音読み漢字に気をつけるだけです。
思わず使ってしまった音読み漢字の言葉は「現代やまとことば」でもう一度置き換えて言い直してみればよいだけです。
そうすれば自然に「〇〇する」という音読み漢字を使った動詞も減ってくることになります。
どうしても「〇〇する」を使わなければならないときには「〇〇をする」と言った方が伝わりやすくなります。
音読み漢字の言葉は「ひらがなの音」だけではなく文字までも認知しないと意味が理解でないことになるのです。
単純に、きき手に対して文字を同定してもらうという知的行為を追加でさせることになるのです。
当然のように、「ひらがなの音」だけで意味まで理解できる「現代やまとことば」に比べればかなり多くの労を強いることになるわけですから、その結果としての理解の精度も下がることになります。
本当に伝えたいことがあれば伝え方を工夫するのは当たり前のことです。
それは視覚的なことや内容の工夫などいろいろなことに向けられると思います。
その一つに日本語そのものを考えることも加えておきたいですね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
(参照:「きく」の五段階活用(1)・・・聞く)
想像しているよりもはるかに大変な知的活動をしている事を理解してもらえたのではないかと思います。
これは日本語という言語だからこその独特な解釈するための知的活動となっているのです。
その大きな原因は使用している文字にあります。
同じ音としての言葉であっても文字として表記するときには、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットと選択することができるからです。
しかも表記文字を変えることでその言葉の持っている意味が使っている人の感覚で微妙に異なっていくことになるのです。
しかも、漢字で書けることを敢えてひらがなで表記することはかなりの勇気を必要としていることでもあります。
そこでは、「こんな漢字も書けないのか」という漢字優位の感覚が根付いてしまっているからです。
その異なり方が人によって微妙に異なっていますので持たせている意味も異なっているのです。
これはきき手として話し言葉として伝わった音を理解するときには、話し手がどんな文字を意図しているのかを考えなければならないことになり、大変な労力が必要になります。
話し言葉は受け取った瞬間に言葉から意味までの認知をしていかないとなりません。
次から次へと新しい言葉が投げかけられてきますので、新しい言葉をとらえながら瞬間的に認知の処理をしていかないとならなくなります。
認知が上手くいかなかった言葉にこだわってしまい推測のために時間をかけてしまうと、次の言葉をつかみ損なうことが起こるのもそのためです。
前後の言葉がつかめないと認知が上手くいかなかった言葉を推測するための根拠も減ることになります。
きき手の持っている言葉にほとんど影響されないで認知がしやすい言葉が存在しています。
ひらがなでしか表記できない言葉です。
文字としての表記方法がひらがなでしか行なわれない言葉です。
どんな言葉があるか見てみましょう。
標準的な日本語の表記方法は和漢混淆文であり漢字とひらがなの混用表記です。
カタカナやアルファベットはある種の特殊表記と言ってもいいのではないでしょうか。
一般的に使われる言葉の中で漢字で表記できない言葉が、ひらがなでしか表記が行なわれない言葉ということができます。
具体的には品詞との関係で見てみると分かり易いかもしれないです。
助詞と言えばひらがな一文字で表記することがい多いのではないでしょうか。
動詞や形容詞の語幹を除いた語尾の変化部分もひらがなです。
接続詞も基本表記はひらがなではないでしょうか。
きいている方にとっては表記文字における意味の違いを考える必要のない言葉になります。
言葉として持っている意味や役割が限定されたものしかなく誰が聞いても「ひらがなの音」さえ認知できれば同じ理解ができる言葉になります。
これらの言葉は話の内容や理論を理解するためにも大切な役割を持った言葉であり日本語の核となっていることばです。
言葉と言うとどうしても熟語や名詞を思い浮かべてしまいがちになりますが、これらの言葉は時代や環境によって常に変化している言葉です。
日本語における基本の言葉は使われれ方や意味が固定化されているひらがなの言葉なのです。
他の文化の影響を受けたり限定された分野において使われたりする変化の大きな言葉はそのほとんどが名詞なのです。
「やまとことば」の影響を一番受けていない言葉が名詞になります。
「やまとことば」は日本語の基本的な部分に継承されて来ていることばです。
最も日本語的な言葉とも言うことができるのではないでしょうか。
それは基本動詞であり言葉同士のつながりを作ってきた助詞や語尾の変化なのです。
そして日本語が最も得意とする心情を表す言葉としての形容詞なのです。
「きく」の五段階で見てきたように、「聞く」「聴く」「利く」「効く」「訊く」についてはすべて「やまとことば」としての「きく」に宛てられた漢字表記です。
それぞれの漢字によって意味するところの違いがありますが、話し言葉として使われるときにはそのすべてに対して「きく」というひらがの動詞として理解してまったく問題のないものとなっています。
どの漢字の「きく」を意図して話し手が発したとしても、「きく」として受け取ることさえできればその意図を理解することは漢字を思い浮かべなくとも簡単にできるようになっています。
これが訓読み漢字の効果です。
音読み漢字ではそうはいきません。
言葉としての音に意味がないからです。
「かんき」という「ひらがなの音」で表される漢字の言葉は20種類ではとどまらない数となっています。
喚起、乾季、換気、乾期、寒気、官記、還気、歓喜、簡記、刊記、勘気、少し見ただけでも嫌になるほど候補があります。
全ての表記に共通した意味などありません。
語源としての共通した「やまとことば」があるわけでもありません。
音読み言葉では「ひらがなの音」ではそのままの意味が理解ができないものとなっているのです。
これが動詞でも使うことにしてしまったのが「する」という万能動詞です。
名詞であっても「する」を付けることで動詞になってしまうのです。
喚起する、換気する、何とも便利な動詞ですが本来の動詞は「する」だけです。
ここまで書いてくると、言いたいことが「現代やまとことば」であることはお分かりいただけるのではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1))
きき手が行なっている知的活動はものすごく大変なことをやっていることが分かってきました。
長時間の「きく」活動はとても労力の多い活動であることになります。
きき手に対してやさしい話の方が理解してもらいやすいことは誰もが理解できることです。
そのためにすべきことが見えているのではないでしょうか。
やさしい話とは音読み言葉が少ない話し方となるのです。
「現代やまとことば」は「ひらがなことば」と置き換えることもできます。
実際に使うときには音読み漢字に気をつけるだけです。
思わず使ってしまった音読み漢字の言葉は「現代やまとことば」でもう一度置き換えて言い直してみればよいだけです。
そうすれば自然に「〇〇する」という音読み漢字を使った動詞も減ってくることになります。
どうしても「〇〇する」を使わなければならないときには「〇〇をする」と言った方が伝わりやすくなります。
音読み漢字の言葉は「ひらがなの音」だけではなく文字までも認知しないと意味が理解でないことになるのです。
単純に、きき手に対して文字を同定してもらうという知的行為を追加でさせることになるのです。
当然のように、「ひらがなの音」だけで意味まで理解できる「現代やまとことば」に比べればかなり多くの労を強いることになるわけですから、その結果としての理解の精度も下がることになります。
本当に伝えたいことがあれば伝え方を工夫するのは当たり前のことです。
それは視覚的なことや内容の工夫などいろいろなことに向けられると思います。
その一つに日本語そのものを考えることも加えておきたいですね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
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2016年3月23日水曜日
理解を求めるとは?
日本語のむずかしさの一つに言葉通りの意味に捉えると相手の意図していることと違う場合がよくあります。
国語辞典の意味の最初に載っているような標準的な意味として解釈してしまうと意図を読み間違えてしまうことになります。
その一つに「理解を求める(してもらう)」という感覚があります。
言葉通りに解釈すれば伝えたい内容を文字通り理解するということになるのですが、この言葉に込められた意図としては単なる理解を越えたことを求めていることが多くあります。
自分でも頻繁に使ってしまっているのであまり気がつかなかったところですが指摘されれば確かにそうだと思いました。
自分が「理解を求める」として使った時の意図としては内容を分かってもらうことはもちろんなのですが、それ以上の同意までを求めていることに気がつきました。
積極的な同意までいかなくとも、少なくとも反対をしてもらわないように説得をするというニュアンスが込められていることが多いのです。
つまり、言語的な内容をわかってもらうだけではなくこちらの状況を斟酌して積極的に反対することを遠慮してもらいたいということになっているのです。
この時に、理解を求める側からは「反対を遠慮してもらいたい」あるいは「同意をいただきたい」ということは直接的な表現では伝えることはありません。
「理解を求める」という言葉に込められた意図は、内容を理解してほしいということよりも同意してほしい、あるいはもう少し消極的には反対をしないでほしいということになるのではないでしょうか。
「ご理解いただけましたか」は内容をわかったということではなく、少なくとも反対は表明しないという意思確認のためのひとこととして使われているようです。
学生の時には「理解する」に対してこのような解釈が必要な場面はありませんでした。
素直にきちんと内容を理解することだと解釈して間違いがなかったと思いますしそれ以上の解釈も求められていなかったと思います。
使われている言葉自体が変化したわけではありませんし、その通りの解釈で良い場面もたくさんあるのも現実ではないでしょうか。
その言葉がもともと持っていた意味から広がっていくこともありますし比喩として使用されることもあると思われます。
また、単なる言葉としての「理解」ではなく「理解を求める」という使い方によって一般的な「理解」とは異なった解釈が必要であると匂わせているようなニュアンスにもなっています。
ひとつの言葉が持っている意味はその言葉が使われる場面が増えるほど拡大解釈できる環境が広がっていくことにもなります。
専門用語や業界用語と言われるものの中には全く同じ言葉でありながらも一般的な意味とは異なった独自の意味を持たせているものもたくさん存在しています。
また、一般人にはすぐに悟られることを避けるためにわざとわかり易い言葉に対して別の意味を持たせているようなこともあります。
軍隊用語であったり正確さが求められる環境においては、使用する言語に対して厳格に一言一義を貫いているところもあります。
それに対して例に挙げた「理解を求める」は腹芸ともいえる根回しのための言語利用の方法ではないでしょうか。
日本語が持っている基本的な性格としての二面性ということができるかもしれません。
二面性という表現はどうしても両極端を思い浮かべてしまうことになります。
これは二面性という言葉に対して精確さや厳格さを前提とした見方になります。
日本語の持っている性格をより的確に表現するとしたら二面性よりも多様性ではないでしょうか。
言葉によっては正反対の意味を兼ね備えた言葉もあれば同じような意味をたくさん持っている言葉もあります。
日本語の使用環境がそれだけの自由な解釈や使い方が可能なものになっているからだと思われます。
明治期に新しい言葉を生み出した数は広辞苑一冊分にも相当する20万語を超えるものとなっています。
ちょっとした独立した言語体系に匹敵する数になっています。
それで終わりではなかったのです。
新しい言葉が生まれる環境や新しい使い方ができる環境は常に存在しているということができます。
高校生が次から次へと新しい言葉を生み出す環境は誰かが編み出したものではありません、自然にできあがっているものです。
日本語は造語力に優れた能力を持っているだけではなく、言葉を自由に使いこなすことが可能な環境を備えた言語になっていると思われます。
しかも、その対応は外来語である漢字やアルファベットによって行なわれたり、音を中心とする言葉はカタカナによって行なわれるというバリエーションを持っているのです。
これだけの変化が常にできる環境にあるのが日本語という言語環境だと思われます。
しかし、これだけ激しい変化が常に起こっていたら基本的な言語としての役割である共通理解のためにはとても不便な言語となってしまいます。
これだけの柔軟性や拡張性を持ちながらも基本的な共通言語として「ひらがなことば」をきちんと持っていることが素晴らしいことだと思います。
ひらがなは外来語である漢字(漢語)を利用して生み出されたものです。
その生み出し方も中国が行なったサンスクリット語の漢字による音訳に倣ったものです。
(参照:「悉曇学」と日本語)
文字のない時代に日本民族が持っていた「古代やまとことば」を表記するために漢字から生み出された文字がひらがなです。
「ひらがなことば」は「やまとことば」を継承して2000年の文化を引き継いでいる言語となっています。
単語としては漢字やアルファベット・カタカナを使って新しい言葉をたくさん生み出してきましたし今現在でも生み出し続けています。
生み出された単語をつないでいるのも「ひらがなことば」なのです。
単語同士の関係や論理を作っているのは「ひらがなことば」になっているのです。
国語辞典の意味の最初に載っているような標準的な意味として解釈してしまうと意図を読み間違えてしまうことになります。
その一つに「理解を求める(してもらう)」という感覚があります。
言葉通りに解釈すれば伝えたい内容を文字通り理解するということになるのですが、この言葉に込められた意図としては単なる理解を越えたことを求めていることが多くあります。
自分でも頻繁に使ってしまっているのであまり気がつかなかったところですが指摘されれば確かにそうだと思いました。
自分が「理解を求める」として使った時の意図としては内容を分かってもらうことはもちろんなのですが、それ以上の同意までを求めていることに気がつきました。
積極的な同意までいかなくとも、少なくとも反対をしてもらわないように説得をするというニュアンスが込められていることが多いのです。
つまり、言語的な内容をわかってもらうだけではなくこちらの状況を斟酌して積極的に反対することを遠慮してもらいたいということになっているのです。
この時に、理解を求める側からは「反対を遠慮してもらいたい」あるいは「同意をいただきたい」ということは直接的な表現では伝えることはありません。
「理解を求める」という言葉に込められた意図は、内容を理解してほしいということよりも同意してほしい、あるいはもう少し消極的には反対をしないでほしいということになるのではないでしょうか。
「ご理解いただけましたか」は内容をわかったということではなく、少なくとも反対は表明しないという意思確認のためのひとこととして使われているようです。
学生の時には「理解する」に対してこのような解釈が必要な場面はありませんでした。
素直にきちんと内容を理解することだと解釈して間違いがなかったと思いますしそれ以上の解釈も求められていなかったと思います。
使われている言葉自体が変化したわけではありませんし、その通りの解釈で良い場面もたくさんあるのも現実ではないでしょうか。
その言葉がもともと持っていた意味から広がっていくこともありますし比喩として使用されることもあると思われます。
また、単なる言葉としての「理解」ではなく「理解を求める」という使い方によって一般的な「理解」とは異なった解釈が必要であると匂わせているようなニュアンスにもなっています。
ひとつの言葉が持っている意味はその言葉が使われる場面が増えるほど拡大解釈できる環境が広がっていくことにもなります。
専門用語や業界用語と言われるものの中には全く同じ言葉でありながらも一般的な意味とは異なった独自の意味を持たせているものもたくさん存在しています。
また、一般人にはすぐに悟られることを避けるためにわざとわかり易い言葉に対して別の意味を持たせているようなこともあります。
軍隊用語であったり正確さが求められる環境においては、使用する言語に対して厳格に一言一義を貫いているところもあります。
それに対して例に挙げた「理解を求める」は腹芸ともいえる根回しのための言語利用の方法ではないでしょうか。
日本語が持っている基本的な性格としての二面性ということができるかもしれません。
二面性という表現はどうしても両極端を思い浮かべてしまうことになります。
これは二面性という言葉に対して精確さや厳格さを前提とした見方になります。
日本語の持っている性格をより的確に表現するとしたら二面性よりも多様性ではないでしょうか。
言葉によっては正反対の意味を兼ね備えた言葉もあれば同じような意味をたくさん持っている言葉もあります。
日本語の使用環境がそれだけの自由な解釈や使い方が可能なものになっているからだと思われます。
明治期に新しい言葉を生み出した数は広辞苑一冊分にも相当する20万語を超えるものとなっています。
ちょっとした独立した言語体系に匹敵する数になっています。
それで終わりではなかったのです。
新しい言葉が生まれる環境や新しい使い方ができる環境は常に存在しているということができます。
高校生が次から次へと新しい言葉を生み出す環境は誰かが編み出したものではありません、自然にできあがっているものです。
日本語は造語力に優れた能力を持っているだけではなく、言葉を自由に使いこなすことが可能な環境を備えた言語になっていると思われます。
しかも、その対応は外来語である漢字やアルファベットによって行なわれたり、音を中心とする言葉はカタカナによって行なわれるというバリエーションを持っているのです。
これだけの変化が常にできる環境にあるのが日本語という言語環境だと思われます。
しかし、これだけ激しい変化が常に起こっていたら基本的な言語としての役割である共通理解のためにはとても不便な言語となってしまいます。
これだけの柔軟性や拡張性を持ちながらも基本的な共通言語として「ひらがなことば」をきちんと持っていることが素晴らしいことだと思います。
ひらがなは外来語である漢字(漢語)を利用して生み出されたものです。
その生み出し方も中国が行なったサンスクリット語の漢字による音訳に倣ったものです。
(参照:「悉曇学」と日本語)
文字のない時代に日本民族が持っていた「古代やまとことば」を表記するために漢字から生み出された文字がひらがなです。
「ひらがなことば」は「やまとことば」を継承して2000年の文化を引き継いでいる言語となっています。
単語としては漢字やアルファベット・カタカナを使って新しい言葉をたくさん生み出してきましたし今現在でも生み出し続けています。
生み出された単語をつないでいるのも「ひらがなことば」なのです。
単語同士の関係や論理を作っているのは「ひらがなことば」になっているのです。
単語の羅列だけでは不可能である論理を作っているのも「ひらがなことば」のお陰です。
「ひらがなことば」による伝統に裏打ちされた基本的な性格や感覚を継承しながら常に新しい言葉や使い方を生み出していくことが可能となっている日本語は、他のどんな言語と比較しても最高の知的活動のための道具であると言えるのではないでしょうか。
現代における基本的な「ひらがなことば」である「現代やまとことば」を理解しておくことが、より自由な日本語を使いこなしながらも基本的な性格や感覚から逸脱しない日本語として生かしていく方法ではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を使おう、「現代やまとことば」を経験する(1) など)
最高の知的活動の道具を持っていて日本語環境の中だけで生きていく場合には他の言語について考える必要は全くありません。
しかし、世界に対して発信していく必要がある場合にはどうしても世界の公用語としての英語での発信を考えなければならなくなります。
つまり英語は知的活動のための道具として必要なのではなく、日本語で行なわれた知的活動の結果を世界に対して発信するときにだけ必要なものです。
英語の付き合い方もより明確になってきているのではないでしょうか。
日本語の持っている知的活動具としての優秀さやその基本である「現代やまとことば」についてご理解を求めたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
「ひらがなことば」による伝統に裏打ちされた基本的な性格や感覚を継承しながら常に新しい言葉や使い方を生み出していくことが可能となっている日本語は、他のどんな言語と比較しても最高の知的活動のための道具であると言えるのではないでしょうか。
現代における基本的な「ひらがなことば」である「現代やまとことば」を理解しておくことが、より自由な日本語を使いこなしながらも基本的な性格や感覚から逸脱しない日本語として生かしていく方法ではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を使おう、「現代やまとことば」を経験する(1) など)
最高の知的活動の道具を持っていて日本語環境の中だけで生きていく場合には他の言語について考える必要は全くありません。
しかし、世界に対して発信していく必要がある場合にはどうしても世界の公用語としての英語での発信を考えなければならなくなります。
つまり英語は知的活動のための道具として必要なのではなく、日本語で行なわれた知的活動の結果を世界に対して発信するときにだけ必要なものです。
英語の付き合い方もより明確になってきているのではないでしょうか。
日本語の持っている知的活動具としての優秀さやその基本である「現代やまとことば」についてご理解を求めたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2016年3月9日水曜日
可視化できるようにする・・・!?
クライアントとの打ち合わせのなかで「このコストだけは可視化できるようにしておかないと効果が見えなくなりますよ。」と言っている自分がいました。
その場では気にならなかったのですが、そういえば最近よく可視化という言葉を使うなと帰り道で思ったものです。
ところが、時間ができた時に思い浮かんできてしまったのが運の尽きというやつでしょうか、すっかりこの言葉が気になって離れられなくなってしまいました。
そもそも可視化という言葉自体が素直に意味を考えてみれば「視(み)ることができるようにすること」ではないでしょうか。
そうなると、「可視化できるようにする」とは「「視(み)ることができるようにすること」ができるようにする」となっているではありませんか。
一体いくつ同じことがかぶっているのでしょうか。
しかも、そのことに気づかずに当たり前のように抵抗もなく使っている自分がいるではありませんか。
なぜ、それほど違和感を感じていないのかを考えてみました。
これはどうやら「〇〇化」という言葉に原因がありそうだと思い当たりました。
「〇〇化」とは【〇〇(に)する、〇〇(に)なる】ということを短い言葉で言い表したものです。
ところが実際に使われている例としては「〇〇化する」ということの方が多いと思われます。
この時点ですでに「する」がかぶっているのではないでしょうか。
「実現化することを目指して・・・」という使い方にもすっかり慣れてしまっていますが、本来は「実現化を目指して・・・」となるものではないでしょうか。
「〇〇化」という言葉は「〇〇にする」という意味にもかかわらず動的な感覚の極めて少ない言葉となっています。
「〇〇化する」と「〇〇する」のニュアンスの違いはどこにあるのでしょうか。
「実現化する」と「実現する」ですね。
「可視化する」と「可視する」ですね。
この「〇〇化」の「化」は極めて日本語の感覚に合っているもので直接「〇〇」ということを婉曲に言っているニュアンスがあります。
しかも直接に「〇〇」という言葉を含んでいますので意味としては分かりやすいものとなっています。
この「化」の使い方は、「〇〇的」や「〇〇風」などと同じように厳格さや限定することを避けながらも意図を柔らかく伝えるためにとても使いやすいものとなっています。
これは漢字だけではなく「システム化」や「ネット化」のような使い方や「OEM化」「POS化」などの外来語に付け加えるにはもってこいの機能となっています。
万能薬的な使い方が可能ではないでしょうか。
ニュアンスとしては〇〇っぽいものとして捉えることも可能であり、〇〇として断定することを避けたいときにも使うことができます。
この使い方はいつごろから始まったのでしょうか。
恐らくは明治以降の使い方だと思いますがとても日本人的な感覚に合った使い方ができているものだと思います。
そう思って意識してみると世の中には「〇〇化」が溢れていますね。
可視についても基本的な問題についてはよく使う言葉となっていますね。
とくに専門的な問題であればあるほど可視化が大切なってくるのはいたるところで焦点になっていることです。
可視化がされていないから専門分野に携わっている人しか理解できないことになっているだけであり、可視化ができればあらゆる人の知恵を動員することが可能となりより効率的な解決策が見つけられるからです。
私の場合は「かし」と入力すると変換のいの一番の候補に「歌詞」が出てくるのは仕方のないことだと思っています。
「かしか」と入力しても「歌詞か」と変換されてしまいます。
そんなことを思っていたら、「歌詞化」という言葉が思いうかびました。
「現代やまとことば」の練習には「歌詞化」がとても効果的なことを発見しました。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1))
何のことはない、自分が「現代やまとことば」を提唱し始めたきっかけが曲つくりの歌詞にあったことを思い出しました。
その原点と同じことが練習になるのは当たり前のことですね。
話しをしようと思った内容を書き留めてみてから、それを歌詞として表現するにはどのような言葉を使ったらいいのかを考えてみることです。
歌詞ですから基本的には文字としては伝わりません。
曲に乗せた言葉として伝わるだけです。
その時にどのような言葉を使ったらいいのかを考えることになります。
自分の好きな曲や聞きこんだ曲の歌詞を参考にしてみてください。
どんな言葉が使われていますか。
「ひらがなことば」がたくさん出てきませんか。
話しことばとしての基本は「ひらがな」なんですね。
自分の曲を作るつもりでやってみませんか。
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その場では気にならなかったのですが、そういえば最近よく可視化という言葉を使うなと帰り道で思ったものです。
ところが、時間ができた時に思い浮かんできてしまったのが運の尽きというやつでしょうか、すっかりこの言葉が気になって離れられなくなってしまいました。
そもそも可視化という言葉自体が素直に意味を考えてみれば「視(み)ることができるようにすること」ではないでしょうか。
そうなると、「可視化できるようにする」とは「「視(み)ることができるようにすること」ができるようにする」となっているではありませんか。
一体いくつ同じことがかぶっているのでしょうか。
しかも、そのことに気づかずに当たり前のように抵抗もなく使っている自分がいるではありませんか。
なぜ、それほど違和感を感じていないのかを考えてみました。
これはどうやら「〇〇化」という言葉に原因がありそうだと思い当たりました。
「〇〇化」とは【〇〇(に)する、〇〇(に)なる】ということを短い言葉で言い表したものです。
ところが実際に使われている例としては「〇〇化する」ということの方が多いと思われます。
この時点ですでに「する」がかぶっているのではないでしょうか。
「実現化することを目指して・・・」という使い方にもすっかり慣れてしまっていますが、本来は「実現化を目指して・・・」となるものではないでしょうか。
「〇〇化」という言葉は「〇〇にする」という意味にもかかわらず動的な感覚の極めて少ない言葉となっています。
「〇〇化する」と「〇〇する」のニュアンスの違いはどこにあるのでしょうか。
「実現化する」と「実現する」ですね。
「可視化する」と「可視する」ですね。
この「〇〇化」の「化」は極めて日本語の感覚に合っているもので直接「〇〇」ということを婉曲に言っているニュアンスがあります。
しかも直接に「〇〇」という言葉を含んでいますので意味としては分かりやすいものとなっています。
この「化」の使い方は、「〇〇的」や「〇〇風」などと同じように厳格さや限定することを避けながらも意図を柔らかく伝えるためにとても使いやすいものとなっています。
これは漢字だけではなく「システム化」や「ネット化」のような使い方や「OEM化」「POS化」などの外来語に付け加えるにはもってこいの機能となっています。
万能薬的な使い方が可能ではないでしょうか。
ニュアンスとしては〇〇っぽいものとして捉えることも可能であり、〇〇として断定することを避けたいときにも使うことができます。
この使い方はいつごろから始まったのでしょうか。
恐らくは明治以降の使い方だと思いますがとても日本人的な感覚に合った使い方ができているものだと思います。
そう思って意識してみると世の中には「〇〇化」が溢れていますね。
可視についても基本的な問題についてはよく使う言葉となっていますね。
とくに専門的な問題であればあるほど可視化が大切なってくるのはいたるところで焦点になっていることです。
可視化がされていないから専門分野に携わっている人しか理解できないことになっているだけであり、可視化ができればあらゆる人の知恵を動員することが可能となりより効率的な解決策が見つけられるからです。
私の場合は「かし」と入力すると変換のいの一番の候補に「歌詞」が出てくるのは仕方のないことだと思っています。
「かしか」と入力しても「歌詞か」と変換されてしまいます。
そんなことを思っていたら、「歌詞化」という言葉が思いうかびました。
「現代やまとことば」の練習には「歌詞化」がとても効果的なことを発見しました。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1))
何のことはない、自分が「現代やまとことば」を提唱し始めたきっかけが曲つくりの歌詞にあったことを思い出しました。
その原点と同じことが練習になるのは当たり前のことですね。
話しをしようと思った内容を書き留めてみてから、それを歌詞として表現するにはどのような言葉を使ったらいいのかを考えてみることです。
歌詞ですから基本的には文字としては伝わりません。
曲に乗せた言葉として伝わるだけです。
その時にどのような言葉を使ったらいいのかを考えることになります。
自分の好きな曲や聞きこんだ曲の歌詞を参考にしてみてください。
どんな言葉が使われていますか。
「ひらがなことば」がたくさん出てきませんか。
話しことばとしての基本は「ひらがな」なんですね。
自分の曲を作るつもりでやってみませんか。
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