2015年8月28日金曜日

怪しすぎる「いろは」歌

「やまとことば」に興味を持つようになるとどうしてもひらがなが対象の中心になってきます。

ひらがなの五十音表が定められたのは明治期であり、その後幾度かの変更を経て現代の五十音表になっているものです。

しかし、「やまとことば」を考える時には五十音表が基本にはなりません。

どうしても「いろは」が必要になってきます。


現存する最古の「いろは」については1079年に書かれたとされる「今光明最勝王経音義」の写本にあるものとされています。

経典の解説書として書かれたものですが、そこで使われている文字音の凡例として「いろは」が表記されているようです。

その写本は現在でも大東急記念文庫が所有しているものとなっているようです。


一般に知られている「いろは」歌は七五調に整えられた意味を持った言葉として以下のように覚えられているものではないでしょうか。


四十七文字のすべてを一回ずつ使って意味のある言葉をつないで七五調に整えられた「いろは」歌は、それだけでも日本語史上の傑作と言えるものです。


現存する最古の「いろは」はこれとは違った書き方をされています。

一行七文字で表記された「いろは」は歌として読むにはリズムも意味も難しいものとなっています。

仮名を読み学ぶための現代で言うところの五十音表と言った方がふさわしいものとなっていると思われます。

そして、この文字を覚えるために七五調としての「いろは」歌が作られていたと考えたほうがよさそうです。

それでも初めから七五調の歌を意識していなければ意味のある言葉としてつなぐことは不可能であったことでしょう。

一行七文字の「いろは」字母表が先にできてから「いろは」歌ができたとは考えにくいことです、




この一行七文字の「いろは」字母表が広く知れ渡っていたことは、江戸時代の大衆芸能である浄瑠璃や歌舞伎を見ればよく分かります。

「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」は「義経千本桜」と共に三大演目と言われたものであり、この演目さえ行なっていれば客入は心配しなくていいと言われた人気演目です。

「仮名手本」や「手習鑑」はともに手習のお手本としての「いろは」を表すものであり、それぞれの物語の内容である罪もなく殺された人々を扱ったものとして、「いろは」の最下段に隠された折句(隠し言葉)である「咎なくて死す(とがなくてしす)」が広く一般大衆にも知れ渡っていたことを示すものと言えます。
(参照:「いろは」に隠された怨念


「いろは」の成立年代や作者については全くの不詳ですが、これだけのものが自然発生的にできたとは思えません。

最古の「いろは」を見ることができる1079年には確定的なものとして取り上げられていることを考えれば、仮名の始まりの史料と言われる「古今和歌集」(905年)ころにはそれらしいものがあったのではないかと推測されます。


折句としての読み方の基本は横や縦、斜めや角とりなどありますが、そこから見えてくるあまりにも多くの旧約聖書との共通点は偶然というには難しいものがあると思われます。
(参照:「いろは歌」に隠されたユダヤ

「使徒イエス」「ヤアエ」「モセス」、更には「神子入れり(ミコイレリ)」や「巌となて(イハホトナテ)」などを読み取ることができるのは偶然とは言い難いのではないでしょうか。


キリスト教がヨーロッパに渡る前のユダヤのヘブライ語の旧約聖書との比較においては使われている言葉の共通性に驚かされることばかりです。

一言主や役行者小角とのかかわりなども思わず浮かんできてしまう時代環境ではないでしょうか。


先回のブログでも見てみた、文字を持たない「古代やまとことば」があれほど強力で高度な文明の言語である漢語に対して生き残っていったことを考えると、何か別の要因を考えざるを得なくなります。

その一端が「いろは」に見えているような気がしています。


日本語の起源を考察することは、完全なる知的遊戯であり個人的な楽しみでもあります。

確実な検証はおそらく不可能なことだと思います。

何気なく触れている「いろは」やひらがなには日本独特の歴史ロマンに彩られた感覚が継承されているのではないでしょうか。


怪しすぎる「いろは」は、面白すぎる「いろは」でもあります。

日本語への興味は尽きないところですね。