2015年7月27日月曜日

同音異義語の文化

日本語ほど同音異義語がたくさんある言語はないと思われます。

同音異義語の存在自体が、言語としての習得のむずかしさや理解するうえでの曖昧さの原因となっています。


「かんき」という音だけでは、聞いた人がすべて同じ理解することは不可能です。

還気、歓喜、喚起、乾季、換気、乾期、寒気、官記、など30以上あるのではないでしょうか。

こうなってしまうと、「かんき」という音だけで同じ理解をすることは不可能であるとも言えるのではないでしょうか。


漢字で書くことによってその意味を限定することができます。

それは、漢字が表意文字であるために一文字ずつが意味を持ったものとなっているからです。

漢字の音読みは、漢語として持っていた音がもとになって日本語の音として発音しやすいように単純化されたものです。


中国語よりは圧倒的に音数の少ない日本語にとっては、音による違いで区別をすることが難しくなっています。

中国語は日本語の比べると遥かにたくさんの音を持っています。

日本人にとっては区別のつかない音もたくさんあります。


日本語が中国語と同じ漢字を使いながらも、圧倒的に同音異義語が多いのは持っている音数の少なさにも要因があります。

また、抑揚のないアクセントは音で区別をするのをさらに困難にしています。

無理にアクセントをつけると訳の分からない方言のようになってしまうことすらあります。


これだけ多くの同音異義語は、単語としての言葉を覚えようとするときにはとても邪魔なものになります。

単語としての言葉の音を覚えても、違う意味を持った同じ音がたくさん存在してしまうからです。

特に使用頻度の少ない言葉は、同じ音の使用頻度の多い言葉に受け取られることが増えてしまうのです。


いくつかある同音異義語を特定させるためには、文のチカラが必要になります。

文の中における使われ方やその場で扱っているテーマなどから同音異義語の中から特定させる語を推測していくことになります。

あるいは、言語以外の体の動きや指差しなどで特定することもあると思われます。


しかも日本語の場合は、述語がいちばん最後にくるようになっていますので、文の中に登場してくる各要素は最後の述語が登場してくるまでは要素同士の関係すらが確定しないことになります。

文として何を言いたいのか何を述べているのかが、最後まで文を見たり聞いたりしないと分からないようになっているのです。


そのためには、確定できない同音異義語の候補たちを確定できるまで持ち続けなければなりません。

途中で候補が絞れること場合もたくさんありますが、述語が登場してくるまで文そのものが確定しませんので、推測だけで候補を絞ってしまうと意味のとり間違いが起こる可能性があります。

しかも、ひとたびこうであろうと推測を付けてしまうと、どうしてもそれが最優先に浮かびますので簡単には変更されにくくなってしまいます。


先入観を持ってはいけないことや、文や話は最後まできちんと理解しないといけないことは、日本語では絶対の原則となることになります。

日本語の構図を見てみるとよく分かりますが、あらゆる要素がすべて述語に向かっていろいろな修飾関係になっているのです。
(参照:日本語の基本構造

この関係が、最後の述語が登場してこないと確定できないのです。

述語が登場してきてもさまざまな修飾関係が特定できないこともあるのです。


その場合には、前後の文の理解や言語以外の表現などを参考に推測をしていくことになります。

日本語の場合は、文を読んだり聞いたりしながら推測している部分がかなりあると思われます。

そうでなければ、最後の述語が出てきたときに一気にすべての要素の意味を確定させることなど出来ないと思われます。

文が進むにつれて候補として絞れる対象をどんどん減らしていくことを行なっているのではないでしょうか。


英語の場合には、感嘆表現以外ではほとんどの場合は主語があります。

そして次には述語が来ます。

言葉が登場して来る順番でそのまま確定的な理解ができるようになっています。


これは、一つの文だけではなく文章全体にも言えることとなっています。

大切なことや結論は初めにあります。

段落の構成も同じようになっており、初めの段落に主題があります。


したがって、段落の初めの文だけを読み飛ばしても論旨や論理すらも取り間違えることはありません。

論理によって相手を説得するための言語となっていますので、理解させることに重きが置かれた構図になっているのです。


日本語の場合は、言語で表現を遊ぶための構図になっていると思われます。

理解させることや論理を伝えることよりも、言語で表現の豊かさを遊ぶための言語となっているのではないでしょうか。

そのために同音異義語で一つの言葉に複数の意味を持たせたり、同じことを異なる表現で伝えてみたりします。


欧米の言語学者が指摘したところでは、日本語は長文には向かないという研究もあります。

俳句、短歌、長歌などの和歌によって磨かれた表現技術は、限られた表現形式のなかでいかに広く大きな表現をするかということに向けられてきました。

情景を表現しながらもそこには掛詞などを駆使してしっかりと心情が盛り込まれていたりする技術がこれにあたるのでしょう。


しかし、これも日本語の一面をとらえたものと言えると思います。

長文においてもわかり易い作品はたくさん存在しています。

やだし、英語などの長文に比較すると論理の展開や読みやすさかる理解のしやすさの観点から、日本語の方がどうしても文学的な表現になっていることは否定できないのではないでしょうか。


同音異義語の文化は、優先順位を付けずに複数の要素をそのまま扱えることではないでしょうか。

また、その不安定な曖昧な状況において決して不快ではないということだと思います。

きちんと結論が出て白黒はっきりと分類されていくことよりも、混沌に近い中から各要素を扱うことに慣れているのではないでしょうか。


白黒やYES/NOではなく、異なる次元の要素を同時にいくつも候補として抱えながら活動していくことに特徴があるのではないでしょうか。

不変の事実を発見することによって自然科学分野の発展がなされてきたことは間違いのないことだと思われます。

しかし、不変の事実だけで理解しようとすることも無理なことではないでしょうか。


日本語が言語としての特徴そのものに、優先順位をつけない要素をいくつも抱えながら活動していくことを持っているには、そうして生きていくことが自然と共生するためには最適だったからではないでしょうか。

文の構図と同音異義語から見た文化は、まだまだ奥が深そうですね。

ここにも日本語のチカラがありそうです。