見慣れない言葉や新しい言葉にはどうしても目が行ってしまいます。
それは自分の持っている既存知識や既成概念に当てはまらないものだからです。
また、新しい言葉として感じてしまうためには表記としての目新しさもあります。
同じ言葉であっても今まで出会ったこともない文字で書かれていると、新しい言葉として映ってしまうからです。
現代においても文字そのものに格のようなものがあります。
同じ言葉を書くのに、ひらがなで書くよりは漢字で書く方が格が上という感覚があります。
漢字で書くよりもカタカナで書く方が専門用語的な感覚があります。
さらには、アルファベットを使うことによって世界的に確立された専門用語のような感覚を持つこともあります。
ところがこれらのことが行なわれているもののほとんどが名詞なのです。
新しい言葉としての名詞はどんどん生まれては入れ替わっていきます。
語彙としての名詞の入れ替わりは、どの言語においても一番変化の激しい部分です。
日本語は、一番変化の激しい部分に多くの文字種を適応させることができますが、変化の少ない部分についてはひらがなでしか表現できないものがほとんどなのです。
一つの言葉を主語とするのも述語とするのも形容詞とするのも、その役割はひらがなによって行なわれているのです。
日本語の理解のしにくさの原因の一つに、述語(動詞)が文の最後に来ることが挙げられています。
文を最後まで確認しないと肝心の述語が出てこないのです。
長い文になってくると、ますます何を言っている文であるのかが分かりにくくなってくるのです。
特に話し言葉の場合には、最後に来る動詞の語尾につく言葉が分かりにくくなります。
文章であっても、最後に来る述語の語尾の変化にまで気を配ることは日本人であっても難しいことです。
最後の動詞の語尾変化の中に、事実なのか推測なのか意見なのか疑問なのか否定なのかの決定的な表現が含まれているのです。
しかもそれらは、文字の格としては最下位にあってほとんど目立たないひらがなによって行われているのです。
文章に使われている量にもよりますが、アルファベットやカタカナはそれだけでも注意をひきつけてしまいます。
漢字は文字を見れば意味が理解できる表意文字ですので、書く方も読む方もとても便利に当たり前に使っています。
それらの文字に比べると、ひらがなは本当に目立つこともなく意識して注目しなければ簡単に読み飛ばしてしまうような存在です。
斜め読みや速読ではどうしてもキーとなる単語(名詞)に注意が行ってしまいます。
頻発する単語については印象に残ってしまいます。
それでも、日本語における文の基本はひらがなによって作られているのです。
更には、文ごとの関係を鮮明にしてくれるものが接続詞です。
文だけではなく文章としてのブロックである段落単位での関係性までも鮮明にしてくれる働きがあります。
これによって論理が成り立っているということもできるのではないでしょうか。
無理に漢字を当てない限りにおいては、接続詞に基本はすべてひらがなと言ってもいいでしょう。
理解してもらいたいことであったり伝えたいことであったりするものの要素は、すべてひらがなによってさまざまな論理として表現されることになります。
基本的な動作を示す動詞は、ほとんどが文字のない時代から継承されてきているものです。
ですから、音読み漢字による動詞は新しく作られたものです。
訓読み漢字による動詞には、同じ読みには必ず共通した動きがあります。
もともと同じ言葉で表していたなごりではないでしょうか。
「かく」という動詞があります。
描く、書く、欠く、掻く、画く、などの漢字が与えられていますが、すべてに共通する動詞としての動きがありませんか?
昔の「かく」はこれらのすべてを表していたのだと思われます。
やがて表意文字の漢字を使って、「かく」をより具体的に漢字で表すようになったのではないでしょうか。
また、このことによって、対象物によって「書く」「描く」「画く」の使い分けが必要になってくるという煩雑さをも生み出していることになります。
口に出して言葉として発したときには、どの漢字に充てはまるのかと意味を考えるよりは「かく」として感覚的にとらえることが出来ているのではないでしょうか。
キーボードを打つことはあっても、手で文字を書く機会が激減してきました。
反対に、ネット社会においては文字を読む機会が激増しています。
勝手に漢字に変換されていく仕組みにおいては、打っている方が理解していなくともそれらしい文字が出てきてしまいます。
しかもきれいに整ったフォントとポイントでいかにも正確そうな顔をして現れてきます。
どうしても漢字倒れアルファベット倒れになりやすい環境にあると言えるでしょう。
日本語の醍醐味はひらがなにあります。
ひらがなで考えることによって、いちばん基本的な誰にでもわかる論理となります。
見てくれや格好よさはもういらないのです。
わかり易さが何よりも大切な基準になってきているのです。
「現代やまとことば」は、ますます必要なものとして高まってきているのではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を使おう、思考の限界(「現代やまとことば」のすすめ)など)
ひらがなで理解して、ひらがなで思考する。そして、ひらがなで表現する。
そうすることによって、黙っていても日本人の持っている感覚が生かされてくるのではないでしょうか。
1500年を超えて言葉を伝承してきた日本語のチカラが、一番生きているのがひらがなではないでしょうか。
ひらがなの言葉で理解してひらがなの言葉で伝えていけたら、おかしなことは起きないと思うのですが。