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2014年3月28日金曜日

幼児期に英語を教え込む危険(2)

昨日のブログ、「幼児期に英語を教え込む危険」に対しての反応の多さに思わずびっくりしてしまいました。

自分が何かに取り組んで知識を得てくると、周りの人に対しても「この程度は分かっているだろう。」と思うハードルが上がってきてしまっていることを改めて感じました。

全く勘違いして、海外に赴任している家族がうらやましいなどというコメントもありましたので、もう一度分り易く触れておきたいと思います。



このことを理解していただくには、幼児に習得する幼児期専用の「ことば」について知っていただかなければなりません。

この時に習得する「ことば」がその人の生涯の基本言語となります。

脳や発声・聴覚など人としての知的活動のための機能が、この「ことば」を使うために最適なように形作られていきます。

この「ことば」が日本語の場合は、日本語を聞き、日本語を話し、日本語で思考するために機能が整えられていくのです。

この基本機能が出来上がるのが、生まれてから4歳頃までかかるものとされています。

環境による個人差がありますので、5歳頃には出来上がっていると思ったら間違いないと思います。


生まれてきた子どもは、この「ことば」を習得する間は、自然に母親からすべての感覚を使って言語感覚を受け継ぐようにできています。

幼児期の最大の目的は、母親から受け継いだこの「ことば」によって、これから先を生きていくためのことを学ぶための基本言語感覚を身につけることにあります。

その言語を最大限使いこなせるようになるために、あらゆる知的活動のための器官が機能を整えていくことになります。


この「ことば」のことを「母語」(ぼご)と呼んでいます。

人としての原型をなす言語であり、母より伝えられる言語だからでしょうかとても良い名称だと思います。

英語では mother tongue(マザー・タング:母の舌)と言われますが、母国語に対しても同じ言い方をされます。

ニュアンスとしては「母語」の方に使われることが多いと思われます。

母語は言語としては日本語や英語などの区別がありますが、母親から伝えられるものですので、厳密には一人ずつ異なったものとなっています。


この「母語」についていろいろなことがわかってきました。

「母語」についてはここまでわかってきた「母語」で確認していただきたいと思いますが、特に幼児期の母語習得段階に英語を教え込むとどうなるかについて述べておきたいと思います。
(参照:ここまでわかってきた「母語」)


まずは、母語として子どもに英語を身に付けさせることは可能です。

その場合の理想的な環境は、両親および子育ての周りの言語環境が英語を母語として使っている人たちであることです。

子どもの言語習得の基本は母親からしかできません。

特に幼児期の肉体的発達が進んで他者との交わりができるまでは、母親からしか学ぶことができません。

子どもの母語を英語とする場合は、両親を含めて周りの環境すべてが英語である必要があります。


特に母親が母語としての英語話者でない場合で、子どもの母語を英語にしたい場合は、母親を子どもから遠ざける必要があります。

母親の代わりに英語の母語話者によって幼児期を育てる必要があるのです。

あるいは、母親が英語のみで子育てをする必要があるのです。

その場合の子どもの英語は、母親の英語であってそれが限界です。

子どもの母語は母親が持っている言語以上のものにはなりません、母親の言語が子どもが受け継ぐ母語の限界なのです。


両親あるいは母親の母語と異なる母語を子どもに身につけさせようとすることは、母親が子供と触れる時間が極端に減ることになります。

また、そうしないと子どもの母語がおかしな言語になります。

母親の母語が日本語で、子どもに身につけさせたい母語が英語だとしましょう。

普段は英語話者に子供の面倒を見させないと、母語としての英語は身に付きません。

しかし時々母親が子供に接触することになる時は、日本語で接触してしまうとどうなるでしょう。


子どもは母親を見分ける能力を生まれながらに持っていますので、はるかに接触時間が短くとも母親との接触によるインパクトは絶大です。

子どもは言語の区別などつきませんので、受け止める「ことば」をすべて含めて一種類の言語として受け入れます。

英語と日本語のごちゃ混ぜになったものを一つの言語として、母語として身につけてしまいます。

英語でもなければ日本語でもありません。

世の中にない言語を身にけ、それぞれの単独の母語話者とは異なった言語感覚を身につけてしまいます。

幼児期の母語習得期に母親の持っている母語以外の言語を教え込むことは、こういうことを意味するのです。


英語話者の環境の中でも、日本語話者の環境の中でも周りと異なった言語感覚を持つことになり、とんでもない苦痛を味わうことになります。

母親が日本語話者で、幼児期に海外の英語環境で育ったあとで日本の小学校に入った友人の話は昨日のブログで書きました通りです。

本人は精神障害ではないかと長い間、苦しんだそうです。



母語は書き換えができません、一度身につけた母語は生涯を支配します。

子どもは自分で母語が選択できません。

普通に日本で、日本語を母語とする両親のもとで育っていても、英語をはじめとする外国語に触れる機会は増えてしまっています。

母語として持っている日本語は、一人ひとり異なっています。

母親の日本語がひとりひとり異なるのですから当たり前のことです。

しかし、日本語としての言語感覚は共通なものが大部分を占めていますので、学習言語としての「国語」を学び身につけることにおいては大きな問題は出ていません。


日本語の言語感覚と英語の言語感覚は大きく異なります。

知的活動のための各器官の機能の使い方が大きく異なります。

さらに言語としての大きさ(歴史、語彙、表現力など)が全く違います、日本語の方がはるかに大きな言語です。

母語として英語を身につけている人は、生涯かかっても日本語を使いこなすことはできません。

日本語を母語として持っている人は、今わかっている限りの他の言語はいつからでも使いこなせることができると言われています。


子どもが自分で母語を選択することができない以上、その母語を選択するのは親の責任です。

そしてその母語をきちんと身につけさせてあげるのも親の責任です。

子どもは半本能的に勝手に言語を身につけていきます。

大切なのはきちんとした母語を身につけることができるような環境つくりです。

無理やり教え込むことは逆効果です。

自然な習得に任せながらも、おかしなものが混ざらない環境を整えてあげることです。


親の日本語そのものがおかしくなっています。

子どもの母語は母親以上のものには絶対になりません。

母親になる前に、きちんとした日本語感覚を身につけておくことが、子どもに最高の生きるためのチカラを授けることになります。

子どもの母語を日本語にするのであれば、幼児期に他の言語を教え込むことは絶対にタブーです。

それでなくとも単語としての外来語は自然と母親から伝わってしまうのです。

単語としての外来語は、日本語の言語感覚を変えるものではありません、日本語の言語感覚のなかで使われているものです。



幼児期に会話としての他の言語に触れることが、母語の習得に影響を与え、母語としての日本語の感覚をおかしくします。

私たちから見ると、今の若いお母さんたちの日本語感覚はとても日本語とは言えないものとなっていますが、それでも日本語です。

少なくとも日本語である限りはその感覚を母語として継承できれば、古代日本語も国語もわかるようになります。


母語が日本語感覚から離れてしまうことが一番恐ろしいことです。

それによって、世界のどこにもない言語感覚になってしまい、生涯苦労することになってしまいます。

英語なんかは必要な時にいつからでも身につけることができるものです。

そのための方法は山ほどあります。

英語も言葉ですから日々変化しています。

私たちが中学や高校で習って身につけた英語は、今やほとんど役に立ちません。

一応の意味は通じますが、その言語感覚はかえって相手を迷わせ戸惑わせることになります。


幼児期に子どもに英語を学ばせることは、親のエゴ、自己満足以外の何物でもありません。

もっと極端にいってしまうと、自らの育児放棄とも言えるでしょう。


日本語がおかしくなってきているのは教育のせいでも何でもありません。

母親の日本語感覚がおかしくなったからだけです。

正しい日本語なんかありません、言葉は日々変化していますので正しいものなんか決めることはできません。

時代によって一番多くの人が理解している内容を標準的なものとするだけです。


子どもを持つ前のお母さん予備軍の方たちに、昔ながらの日本語が持つ感覚を伝えられる場があるといいですね。

2000年以上前の文字のなかった時代の言葉を継承し続ける日本語は、世界においてもきわめて特殊な位置にあり注目をされています。

他の言語と比べても比べようがないとても貴重な存在となっています。

日本語を母語として持つ誇りと自信をもっと表現できる様になりたいですね。





2014年3月27日木曜日

幼児期に英語を教え込む危険(1)

2020年の東京オリンピックに向けて、英会話を身につけようとする人が増えているそうです。

ある程度の年齢がいって、母語としての日本語が固まってからの人にとってはいいきっかけになっているのではないでしょうか。

そんなことを放送していたテレビで、7歳の女の子が英検2級に合格したことを取り上げていました。

放送内容によれば、親は英語を話せないので1歳から英会話を習わせていたとのことです。



思わず、ゾッとしてしましました。

涙が出そうになってしまいました。

その子はいくつまで苦しまなければいけないのでしょうか。

その子に直接インタビューをしていましたが、日本語で答えた内容は明らかに同年齢と比べておかしなものになっていました。

親が日本語を奪ってしまったのです。


その子の発音は明らかにネイティブの英語話者から習っているものであることがわかります。

親が英語が話せない日本語の母語話者ですので、家庭で日常的に日本語を使っている限り、その子の母語が英語になることはありません。
(参照:ここまでわかってきた「母語」)

その子の母語は日本語と英語がおかしな形で混ざり合ったものとなっています。

日本語と英語の両方の言語感覚がわからない、この世に存在しなかった言語を母語として身につけてしまったことになります。

もう直せません、取り返しがきかないのです。

日本語の環境の中でも英語の環境の中でもどちらの日常語のなかでも、自分の感覚のなかで折り合いがつくまでは、言語感覚の違いに苦しむことになります。


日本語の日常語の中のでの生活においては、同じことを聞いたり読んだりしても、周りの日本語の母語話者とは受け取るニュアンス(感覚)が異なってしまいます。

一番初めに気が付くのは、母親や家族と同じことやモノに対する感性が異なってしまうことです。

このような場合一般的な母親は、特殊な教育をさせた特殊性が発揮されていると勘違いして、その違いを教育の成果として甘受してしまう傾向があります。

これが、子ども本人にとってはとんでもない苦痛になるのです。

自分が周りと何かが違うことを感じ始めるのは、基本言語の習得がほぼ完了し自己をしっかり意識できることができるようになる10歳以降です。

共通の学習言語としての「国語」をほぼ身につけて、「国語」によって様々な知識や経験を身につけていく頃に、その「国語」に対する感覚の違いに悩み始めます。

特に「あなたは、ほかの子と違ってすごいのよ。」などという声掛けは、どんどん子供に疎外感を与えることになります。


私の友人にも、日本語しか話せなかった母親と幼少期を海外で過ごしたために、母語が日本語と英語の混ざったものになってしまった人がいます。

この感覚は、日本語の環境にいる時に英語感覚が、英語環境にいる時に日本語感覚が出て常に違和感を持ち続けるようになるそうです。

自分の感覚と折り合いをつけて、違和感を抱えたまま対応できるには高校生になっても難しかったとのことです。

日本の小学校に行きましたが、「国語」は何とかついていけましたが、「国語」で書かれた他の教科「算数」「理科」は特にほとんどわからなかったそうです。

何がわからないかがよくわかりませんので、どんなに説明されても塾に行ってもわからず大変苦労したようです。

うつ状態も何度も経験し、神経内科へも通ったそうですが、そのこと自体が苦痛になってしまったそうです。



純粋に母語が習得できる環境で幼児期を過ごした親はこの感覚が全く分かりません。

自分でこのような経験をした親は、たとえ海外であろうとも子どもには必ずはっきりとした母語を身につける環境を作ります。

この幼児期の数年間が、子どもの一生を大きく左右することを知っているからです。


働くお母さんが増えています。

保育の代わりに、子どもを預けて幼児教育をするお母さんも増えています。

そのお母さんたちすべてが、幼児期に子どもと離れる時間が多いことを心配しているし、恐れています。

これは本能です。

これを助けてくれる一番の存在はお母さんのお母さんです、子どもにとってはお婆さんです。


母語の段階でバイリンガルはあり得ません。

幼児に言語の区別はできませんので、英語と日本語が混ざり合った感覚が母語となってしまいます。

どんな混ざり方をするのかはわかりません。

母語としては世の中に存在しない言語として身につけてしまうことになります。


日本語は世界の言語の中でも極めて独特な特徴を持った言語です。

身につけて使いこなせるようになるまで長い時間を必要とする難しい言語です。

言語としての表現力の優秀さはあらゆるところで発揮されています。
(参照:気づかなかった日本語の特徴)


幼児期に他の言語を学ぶ方法があります。

母語とする日本語の言葉(単語)の一つとして触れることです。

日本語の発音でいいのです。

単語としてパトロールカーやポリスマン、ペンやレポートなどとして日本語の言葉と同じ様に触れさせてあればいいわけです。

母親が使っていなければ伝わりません。

幼児期に外部の人間から言葉を教え込まされることが、一番いけないことです。

母語は母親から子どもに継承される言語だからです。


もう一つは歌として英語の歌を母親と一緒に歌うことです。

外国語の歌は、言語として捉えることができません。

脳のなかで扱っている領域が言語領域と異なりますので、母語に対しての影響は少ないと言われています。

無理やり教え込むことをしなければ、テレビやDVDなどでも影響は少ないと思われます。

言語は左脳で処理されますが、言葉を意識しない歌や音楽は右脳で処理されます。

日本語が母語として定着すると、雅楽の様な音楽を言語として受け取る感覚ができますが、あくまでも母語としての日本語が前提です。

母語習得期には外国音楽は歌詞を伴っていても、ほとんどが右脳で処理されているようです。


テレビに出ていた7歳の女の子は、家で弟と英語で話している場面が出ていました。

母語は母親からしか伝わらない伝承言語です。

母親の母語と異なる言語を母語とすることの危険性をもっと知ってもらいたいと思います。


日本語を母語とする者は、いつから始めてもきわめて短い期間で他の言語を使えるようになります。

まずは、幼児期にしっかりとした母語を日本語で習得することの大切を知ってもらいたいと思います。










2014年2月19日水曜日

外国の言語教育(5)・・・中国

今回は中国です。

経済発展が急伸している中国では、義務教育においても大きな変化が現れてきています。

まずは、義務教育の制度から見てみましょう。


今まで見てきた国との大きな違いは国の体制です。
共産党の一党支配の国であるということを常に頭においておかなければいけません。




中国の義務教育期間は日本と同じで、満6歳から15歳までの9年間となっています。

初等教育6年間、中等教育3年間についても日本と同様ですが、初等教育においては1~2学年と3~6学年で大きな区切りが設けられているようです。

中国では教科としての国語のことを語文と読んでいます。

大きな国ですので言語としても、標準語としての普通語以外に北京語、広東語、上海語など、語彙も発音も大きく異なるだけなく文法までもが異なる方言が存在しています。

普通語しか話せない人にとっては、ほとんど意味が分からない方言もたくさんあるようです。

七大方言や十大方言などといった呼び方もあり、母語としては異なった言語としてとらえたほうが良いと思われます。

それでも書き言葉の多くは共通しているために、書かれた文書の理解は共通しているようです。





中国の子どもは、小学校に入ると漢字を覚えることから国語教育を始めます。
小学校に入るころには、話し言葉としては立派な中国語を話していますので、それがどういう漢字の言葉であるのかを勉強していくことになります。

小学校6年間を通して、2,000字程度を覚えることになるようです。

日本の「ひらがな」のような簡易な文字はありませんので、漢字を覚えるまでは文章が書けないことになります。
実際に、まともな作文が書けるようになってくるのは、中学に入ってからということが多いようです。

言わずもがな、中国は共産党の一党支配であり、小学校の教育はその国体護持のために大きな役割を担っています。

その教科書では徹底した個人礼賛主義を貫いており、過去の偉人をたたえる話やひとりの優秀な学生を褒めたたえる話が多くなっています。

詩的に表現されることが多く、自分の意見を述べている者の評価は悪くなり、過去の作品の名セリフをうまく使っている者が評価されることが多くなっているようです。

必然的に、有名な格言やことわざ、たとえ話の引用などほとんどオリジナリティのない杓子定規な作文となっているようです。

オリジナリティを求めると、とたんにフランクな話し言葉のような文体になってしまい、話しの流れもグダグダになってしまうようです。

小学校時代の語文の授業時間は総時間の20~22%程度を占めており、どの科目よりも多くなっています。

1980年ころまでは国の定めた国定教科書によって授業がなされていましたが、1986年に語文教学大綱によって検定制へと移行しました。
検定ですので、国の意向が色濃く反映されていることに変わりはないと思われます。





また、中国では国際化への対応の一環として1987年より、英語教育に取り組んできました。

条件が整う重点校においては小学校3年生から、そうでない場合は中等学校の1年生から英語教育を開始しました。

当時の教育現場の実態からみて難度が高すぎ打ち出されはしたものの批判を受け、とくに小学校段階からの英語教育は全国の大多数の地区で実施には至りませんでした。

批判の論点は、標準中国語ですら充分にマスターできていない年齢段階で英語を導入するのは尚早である、英語教育を実践できる教員が中等レベルですら圧倒的に不足しているのに初等段階での実施は無理であるなどの点でした。

様々な批判や影響を受けながらも、国際都市や経済特区などでは小学校1年から英語教育が行われています。

児童期に英語に触れることによって独自言語・独自文化への影響が懸念されましたが、導入後はおおむね良い評価を受けているようです。

そこにあるのは、英語を学ぶことによってどうしても個人的な部分に目を向けざるを得ずオリジナリティを重視せざるを得なくなるからです。

国策としてはその影響を避けようと国語・歴史についてはさらなる重点を置き時間を割いていますが、経済発展のための道具としての英語の教育はさらに力を入れざるを得ない状況となっています。


特にオリンピック前から英語を義務化した内容が増えてきました。

英語教育を受けてきた子供たちが社会の指導層になっていく頃には、さらなる大きな変化が中国に訪れることになるのでしょう。

インターネットの普及率の高さや経済発展に伴って、広大な国土の中で様々な格差が一段と広がっています。

国体維持に必死になっている状況で英語教育を強化せざるをない環境は、旧体制の権力者たちにとっては両刃の剣と言えるのではないでしょうか。




言語を学ぶことは、その言語を母語とする者の文化・思考を学ぶことになります。

学ぶことはできても、自身の思考は母語に頼らざるを得ません。
しっかり考えようとすればするほど母語に頼ることになります。

中国語に比べると英語は遥かに単純な言語です。
母語としての中国語をしっかりと身につけている者にとっては、いとも簡単に操れる言語です。

中国生まれの英語母語話者が増えている現状は、この先どのような影響を与えていくのでしょう。


2014年2月18日火曜日

外国の言語教育(4)・・・ドイツ

今回はドイツの言語教育(国語教育)について見てみます。

今までと同様に義務教育の体制から見てみますが、ここにもマイスターの国らしい職業学校の充実や資格の重視といった傾向が見て取れます。


ドイツもアメリカなどと同様に連邦国であり、基本的なことについては連邦憲法によって規定されているものの、義務教育の実際の運用については、各州ごとの憲法や教育関連法によって規定されています。

州ごとに文部省機能の組織が設けられており、教育政策の立案・実施を行っています。

州による学校制度や教育政策の違いを調整する機関として,各州文部大臣会議が常設されており,そこでの協定や決議を通して,基本的な枠組が確保されています。
連邦には教育研究省が設けられていますが,その権限は高等教育や学術研究など一部に限られており,初等中等教育に関する権限はほとんど有していません。



全16州のほとんどで満6歳より義務教育が始まりますが、親の申請によっては5歳からの早期就学を認めているところもあります。

ほとんどの州の就学年齢は6~15歳の9年間となっていますが、一部の州では16歳までの10年間となっているところもあります。

ドイツの義務教育の特徴は、初等教育である基礎学校の4年間を終了すると、つづく中等学校が生徒の能力や適性に応じて3つの学校から選択することが挙げられます。

5年制が基本の基幹学校、6年制の実科学校、6年制のギムナジウム初級・中級の3つの選択肢があります。

基幹学校は職業訓練校的なものです。
義務教育の範囲内として、日本の小学校高学年から中学校に相当する5年間をこれに充てます。
最終学年への進学についてのみ試験があり、卒業後は中卒相当の資格が与えられます。

他の学校への編入が困難であることや、高等教育への進学希望者は基幹学校を選択しないため、この学校の卒業者の多くは15歳前後で労働者として就職します。

実科学校は、基幹学校と同じく職業訓練学校として位置づけられている学校で、期間は6年制となります。
教育課程は実務訓練だけではなく高等教育準備に関する課程も行われるため、ギムナジウム進学に失敗したけれども高等教育への進学をあきらめていない者が進む場合が多いようです。

卒業後は中卒相当の資格と同時にギムナジウム編入試験を受ける資格も与えられます。
しかし、編入試験は実科学校内の成績優秀者でなければ合格が難しいとされており、編入試験に漏れた生徒は基幹学校の場合と同様に、若年労働者として社会に出ることになります。

高等教育へ進む事を希望する場合は、ギムナジウムという8年制の長期教育過程へと進学することになります。
初級・中級の6年間は後期初等教育を義務教育の範囲で下級生として受けたあとに、上級生として中等教育を受ける形となります。
そこにはきっちりとした入学試験があり、レベルの高いギムナジウムを目指して、州を越えて受験する生徒もいるようです。

日本における中高一貫教育に小学校の高学年を加えたようなきわめて長大なものになります。
教育を受ける生徒にとっては子ども時代のほとんどの期間を過ごす重要な場所となるため、しばしば文学作品の舞台となることもあります。

卒業後はアビトゥーアと呼ばれる大学入校資格を取得する試験への受験資格を与えられます。
このアビトゥーアが実質的な卒業試験となり、同試験合格によって正式に中等教育を完了したと見なされ、日本における高卒資格に相当する社会的地位が与えられます。

一部の州では義務教育後半の3つの機能の区分をなくした、日本の中学校に当たる統合学校が設けられていたり、基幹学校と実科学校の両方の課程を有する学校などもあるようです。




義務教育に限っても学校種ごとに多様な教育カリキュラムがあり、さらには州ごとの独自性も発揮されるために、実に多様な国語教育が展開されていると言えます。

多様な国語教育のカリキュラムを大雑把に概観すると、ドイツの普通教育国語科カリキュラムは、日本の国語科の領域構造に類似していると言えると思います。

大きな項目は①話すこと/傾聴すること、②書くこと、③読むこと/文学メディアとの交流、④言語の省察という4つの学習領域から構成されています。(初等学校4学年)

更に、初等教育としての基礎学校のドイツ語のカリキュラムは,話すことと聞くこと,書くこと,読むこと,言語を調べることといった領域から構成されています。

基本的な分野としては、「読本」と「言語」となっており、教科書もほぼこれに沿ったものとなっているようです。
基礎学年の1年においては、両方を統合してフィーベルと呼ばれるドイツ語入門の教科書になっているものもあるようです。


基本的な指導テーマが設定されており、そこには子供たちが生活する世界における活動能力をつけていくことが求められています。
子どもの生活世界を明らかにする,子どもの経験を拡大する,子どもに生活世界で行動する能力を与えるという目標をもって,子どもに生活世界で生き抜いていく力を付けることを中心としています。

第1学年で「わたしであること」や周りの自然にあるものの言葉などが扱われており、この辺では日本の小学1年との差はあまりないように見受けられます。

第2学年になると教科書で扱われている内容も大きく変わってきており、明らかに基礎的な言語の習得を完了していることが伺われます。
この段階の教科書で使われてる語彙数が約4,000となっており、基礎的な言語習得においてはほぼ完了していることを示していると思われます。

「わたしができること」や「時間はどのように過ぎるのか」を話し合うことも始まっており、言語の習得段階からすでに言語技術の習得段階に入っていいることが伺えます。

第2学年で使用するある国語科教科書の指導要領には、「あるテーマについてほかの人と話し、自分の意見を述べ、民主的態度で相手の話を聞く。」とあります。

更には、「わかりやすく話しをし、人の言っていることを理解しようとして、話が続けられる。」ということもあります。




ドイツの教室の生徒数は二五名前後、一授業時間は45分となっています。
授業に対する宿題の比重が極めて高く、宿題を準備していなければ授業にはついていけないことになります。

また、教室の座席配置も碁盤の目状ではなく、教卓に対してコの字であったり、工房・アトリエのごとく独特の幾何模様を織り成したり、一斉授業と学習者間の協同性を重視したペア活動やグループ活動とを柔軟に交代できるようになっているようです。

初等教育の4年間で、基本的な言語技術までの習得を終えているものと考えることができそうです。


後期中等教育段階での普通国語科教科では「話すこと」「書くこと」について、情報伝達やプレゼンテーション、論証やスピーチを軸とした実践修辞学、意見文や文学解釈文の作成が中心となってます。

「読むこと」では文学史を背景とした文学作品やメディアの解釈が、「言語の習得」では文法と並んで、言語史や言語の機能など言語学入門が教科内容の重点を形成しています。

後期の段階で自国の言語について言語学として取り組む段階に至っているわけですね。


極めて多様な義務教育体系を持つドイツでは、義務教育と言えども実際の言語技術については生徒の進む社会に応じた対応になっているということができます。

そのための一般的な言語技術については、初等教育の4年間ですでに習得が終わっているものと考えることができると思います。


改めて日本語の大きさと習得の難しさ、必要時間の長さを思わずにはいられませんね。






2014年2月17日月曜日

外国の言語教育(3)・・・フランス

第3回目の今回はフランスの言語教育についてです。

まずは、アメリカ、イギリスと同じように義務教育について見てみましょう。

国の法律である教育法典によって義務教育が規定されています。

6歳になる年齢(5歳の間)に義務教育の学年度が始まります。
初等教育5年(6~11歳)、中等教育5年(11~16歳)の10年間が義務教育となっています。




1960年にそれまでエリート教育であった中等教育が庶民階級に開かれ、その後義務教育化されました。
その時から、読み方、書き方、話し方を中心に言語運用能力の低下が大きな社会問題となってきました。

学習能力の基準である国語能力の大衆化によって、中等教育そのものが「言語と文学」から随筆、新聞記事、漫画などへの大衆化となりました。


義務教育以前の幼稚園の最終学年との連携がしっかりとなされており、初等教育就学前の1年間を含めた6年間を3年間ずつに分けた学習体制となっています。

前半の3年間を「基礎学習期」とし、後半の3年間を「深化学習期」としています。

初等教育の1年生は準備級とも呼ばれており、フランス語の読み書きを徹底して学ぶ時期となっています。
移民が多いために初等教育の最初に、学習言語としてのフランス語の読み書きを覚える必要があるからです。





フランスの国語教育の目的は、「言語の習得」と「教養の養成」を追求することにあります。

「言語の習得」においては、フランス語そのものが明確な学習「対象」であり、正確な綴り字と文法を身に付け、共通の言語規範を使いこなし、国民統合に寄与することが求められています。

「教養の養成」においては、国語は学習「手段」であり、文学作品を通じて人文主義的教養を身に付け、繊細で高尚な感性と美的感覚を発達させることが目指されています。

他の国の国語科に比べると、文学的な教養を重視する教育になっているということが言えるようです。


これらの目的を達成するための象徴的な学習方法が、文学テキストの「書き取り」です。
読み書きの規範的モデルとしての美しい文章のテキストを書き取り暗記することで、洗練された言語様式と表現を意識の中に刻み込む指導をします。

そのため、「言語と文学」の相互依存ともいえる状況が長らく続いてきました。

中等教育の大衆化によって純文学以外の作品も教科書に掲載させるようになり、漫画などを含めたジャンルの多様化がどんどん進みます。

また情報化の影響もあり、言語によるコミュニケーションと表現が主要な教育目標として掲げられるようになっていきました。

伝統的な教授方法であった「講義、応用練習、教師による添削」というやり方にも改革のメスが入っていきました。
授業参画を前提とするプロジェクト型の教授法が開発されたことで、生徒は独創性を促進する状況的問題に取り組み、グループで対話することによって、書き言葉および話し言葉の効果的な使用と操作を身に付けつけるようになっていったのです。




それでも、義務教育(小・中学校)段階に比べると、3年制(15~18歳)の高等学校における国語教育では依然として「国語と文学との連結」が根強く残っているようです。


フランスの義務教育の進級は世界一厳しいと言われており、小学校1年生から落第があります。

国語科の教科書は学校ごとの自由選択となっており、その教科書自体が国語科だけでも100種類くらい出回っているようです。

教科書の発行には、日本のような国による検閲はありません。
出版社が自由に発行できるようになっています。

教科書をどのように使うか、使わないことも含めて教師に任せられているところが多いようです。

ほとんどの小学校で「レ・ミゼラブル」を使ってフランスの苦難の時代のことを学ぶようです。


フランスには、高等教育機関である大学等の進学においては「バカロレア」と言われる国家試験で入学資格を取らなければなりません。

「バカロレア」を取得すれば原則どこの大学にでも入学できますが、入学定員を超えた場合には「バカロレア」の成績や居住地などに応じて入学できる大学が決まるようです。

「バカロレア」の種類も3種類あり、さらにその中でもさらに細分化されているものあります。

取得者は受験者の60%程度だと言われていましたが、現在では一般的な取得しやすい分野を受ける人が増えたこともあり80%程度だと言われています。

しかし、垣間見るその問題は、絶対的な正解のない記述式または口述式のものばかりであり、読解力の上に立った言語表現力が大前提となっています。
もちろん選択式などありません。

インプットされた知識や情報はすべてアウトプットのためにあるという根本原則に沿った試験ですね。


日本の場合は、アウトプットよりも溜め込まれている知識や情報を重視する傾向があり、必ずあると思われる正解を探す能力が求められているようです。

自らの主張を表現することを重視する彼らは、正解を探すことよりも自分の考えていることを表現するための技術を身につけることが生きていくために必要なことだとしているのですね。

明治以降100年程度で急成長を遂げた日本にとっては、見本となる正解があらゆる国に存在していました。
それをいかに早く学ぶかが一番求められた能力だったのです。


フランスの国語教育には、厳しい環境に会いながらも自らの考えを発信し、より多くの人の賛同を得ながら成し遂げた革命の歴史が見えるような気がしました。





2014年2月16日日曜日

外国の言語教育(2)・・・イギリス

今回はイギリスの言語教育について見てみましょう。

まずは義務教育についてです。
アメリカが州ごとの法律で決められており、就学年齢も州ごとに異なるのに対して、イギリスの場合は日本と同様に基本法として教育法があります。

これによって義務教育が定められています。


入学年齢は5歳になる学年(4歳の間)と定められており、通常は9月入学を基本としてますが、学校によっては1月、3月、4月入学を設定しているところもあります。

義務教育の就学期間は16歳までの11年間となっており、初等教育6年間(5~11歳)、中等教育5年間(11~16歳)となっています。
中等教育にはさらに大学などの高等教育機関に進学するための教育課程が用意されていますが、これは義務教育には当たりません。

この中等教育の後期の2年間はシックスフォーム(sixth form)とよばれ、ここに進学するためには16歳の時に学校外の試験団体による「中等教育修了一般資格(GCSE)試験」で所定の成績を獲得することが求められています。


また、私立の学校は国の認可を受けて登録し、国の監査を受ける義務を負っていますが、国の定めるカリキュラムに従う必要がなく教員も正規の教員である必要はありません。

そのかわり、国からの補助はないために公的な義務教育とは一線を画した存在となっています。


イギリスでは他のどの教科よりも「国語教育(英語教育)」に重きが置かれています。

かなりレベルの高い言語能力の遂行を幼稚園,小学校のうちから要求される一方で,教師たちは子どもたちが言語活動を通して考える力をつけることができるように足場かけすることが求められています。

アウトプット重視の社会性は、未就学児の段階から一貫しており、「子どもは話すことによって学ぶ」という考えが根底に流れています。
すべてのインプットはアウトプットするためにあるということが徹底されており、積極的な表現活動が低学年より求められています。

スピーチ活動、積極的な演劇活動、絵本つくりなどを低学年から実施しています。

全員参加での劇つくりが象徴的です。
誰もが脚本家であり演出家であり役者であり批評家です。
表現の研究をし、他人の演技を批判し全員参加で劇を作り上げます。




最高の表現をするためにはそれぞれの役割の中でどうあればよいのか、そのために必要なことはなんなのか、過去の同様な表現はどのようになされていたのか、などを新たなアウトプットをするために学んでいきます。

話すことによって個人の意見を重視し、その活動によって自らの考えを発展させようとさせる指導が行われています。


国語科だけでなくあらゆる科目において母語が前提であると考えられており、,「思考の発展」と「文法的に正しい英語」両方の向上を目指しての言語教育が徹底して行われています。

同じ英語を使いながらも、より正しい英語に対するこだわりがアメリカよりもずっと強いのはこのような教育の影響なのではないでしょうか。


イギリスのことばの教育は,「いかに自己表現できるか」を目指す点が非常に明確であると言えます。
言い方を変えれば母語としての英語について「鍛える」と言ったほうが適切なような気がします。

言語教育の目的が明確になっており、そのための技術としての言語技術として「読むこと・書くこと」が位置づけられています。

読むことは書くためであり、知識のインプットとしての価値を認めていません。

また、書くことはしゃべるためのものでもあるという、何よりも「国語」と言う感覚よりも「母語」を使いこなすための言語技術を磨くことにすべての科目が重点を置かれていることが見て取れます。





イギリスでは16歳の時に学校外の試験団体による「中等教育修了一般資格(GCSE)試験」を必ず受けなければなりません。
個人の将来はこの試験の結果に大きく左右されることになります。

「中等教育修了一般資格(GCSE)試験」の内容は事前に試験内容要目(specification)を作成し、出題形式や採点基準も公開されます。

内容要目としては、筆記試験60%、コースワーク40%となっているようです。
コースワークとは「自分のかかわる学校、あるいは地域社会における市民活動について」を1500~2000 語で書くものです。

筆記試験も4つに分かれています。
第一に短答式、第二に参考資料を使い如何に説得力のある文章を書くことができるのかを問うテスト、第三にコースワーク関係で生徒自身が自分で行った活動に関する内容やその意義などについて具体的に問うテスト、第四に3 問中1 問選択による小論文を書く形式のテストです。

書くものばかりです。
総合的な母語による表現力が求められるものなっています。

すべての知力の基礎が言語力にあることを明確に物語っている感じがします。


言語学習とは異なりますが、イギリスの教育制度の特徴の一つに「ギャップイヤー」が挙げられます。
大学の入学前の期間に(通常一年間)入学を繰り延べして、社会活動を経験することです。

様々な分野での活動が認められており、就労経験や奉仕活動、旅行などで専門学習の世界に飛び込む前に、社会経験として若者の自立と成熟を目指すものとして位置づけられています。

大学入学予定者の10%程度がこの制度を利用すると言われています。

様々な問題を解決しながら継続されてきた制度であるだけに、そこに学ぶものもあるのではないでしょうか。



2014年2月15日土曜日

外国の言語教育(1)・・・アメリカ

今回から数回にわたって、外国の義務教育における言語教育について見てみたいと思います。

特に、英語圏、フランス語、ドイツ語との比較をしてみると面白いのではないかと思いつきました。

日本の学校教育における言語教育の問題については、実情とともに提言までをさせていただきましたが、その内容と比較するべく外国の言語教育の実情が紹介できていませんでした。
(参照:国語教育の問題について(1)~(5))

気になっていたことですが、少し資料が集まりましたので紹介させていただきます。

なるべく義務教育を中心に見ていきたいと思ってはいますが、そこまでたどり着けない場合もあると思いますので、高等教育からの推測なども交えていきます。






まず第一回はアメリカですね。

アメリカは承知のように州単位の行政になっており、連邦としての統治よりも州としての自治が発達している国です。

連邦憲法はありますが、各州ごとに憲法を持ち、義務教育についての規定も州ごとの憲法や学校法・教育法で規定されています。

したがって義務教育の対象年齢も州によって異なっている場合もあります。
6~18歳の13年間の義務教育を定めているカリフォルニア州があると思えば、7~16歳の9年間と定めるイリノイ州のようなところもあります。

義務教育以降への進学率が日本よりも若干低いのは、義務教育のカバーする年齢が日本よりも上までだからもしれません。

法律ではありませんが、国家の教育戦略として定めているものが、2010年に発表された全米共通学力基準です。
ブッシュ政権時に基盤となる学力の格差是正として「リーディング・ファースト」が徹底的に実施され、小学校3年生までに読解力の基礎を備えることが図られてきました。

オバマ政権でも学力の向上は変わりませんが、高等学校までの基準が明確にされています。
その内容は、大学進学や就職を保障する学力でなければならないとされています。

高等学校以降の選択は就職であろうと大学進学であろうと、その学力は同等に保障するものであることとされています。

大学進学は学校を続けると言う感覚ではなく、高等学校を卒業して社会へ出ていく選択肢のうちの一つが大学進学であると考えられています。

したがって、
大学生と言う日本のような身分上の特権は存在せず、扱いは就職して社会活動をしている人と変わりはありません。





このような状況下で求められる国語力は、ずばり「社会で生きるチカラ」そのものです。

社会に流通する文章は多彩な語彙を含んでおり、それを読み解くことが第一歩であると考えられています。
そのために、小学校3年生までに読解力の基礎を備えて様々な文章を読み解くことの経験を重ねていきます。


高等学校の国語科では1年間で10冊程度の本をそのまま教科書として使用しています。
教室の本棚には生徒の人数分だけ本が揃えられています。

日本の教科書のようにその一部を「さわり」として扱うのではなく、本の全編を通じて作者の構成に着目します。
その構成を中心にして、作者の主旨・提言がどれくらい作品として成功しているのかを分析します。

シェイクスピアの作品などは古典文学として扱われて、現代語訳との対比なども行われるようです。


小学校から高等学校学校までかなりの本を読むことになります。

先生は生徒個人に合わせて読むべき本の指導をして、その読解度の把握を怠らないようにするそうです。


アメリカにおける言語教育は、会話・議論中心と思われがちですが、それは小学校低学年から高等学校まで根底にずっと流れているものです。

「話す・聞く」については、それぞれのステップで確実に以下のチカラが付くように実施されています。

 小学校: 二人でテーマを決めて話し合う(talk)
 中学校: 三人以上で協調的に話し合う(discuss)
 高等学校: ルールを決めて話し合う(debate)
 大学: 結論に達するまで話し合う(argue)

小学校でこの内容がどのように指導されているのかは、以下の資料がとても参考になります。

小学校の3学年目の(5歳からですので、日本では2年生にあたる)国語科の成績表の項目が公表されていたので転記しておきます。
他の教科に比べて、国語科が一番細かく分けられているようです。

① 読解力 (Reading)
* 内容の理解度 (Comprehension)
* 流暢さ (Decoding/ word attack):文章や単語を読めるか

② 作文 (Written Language) 
* 考えをわかりやすく書けるか (Express ideas clearly)
* 文法・構文 (Mechanics)
* スペル (Spelling)
* 文字の書き方 (Handwriting)

③ スピーキング (Oral Language)
* 考えをわかりやすく伝えられるか (Express ideas clearly)
* 小グループの議論に参加できるか (Participates in small group)
* 大勢の人の前で自信を持って話せるか (Demonstrates confidence before a group)
* クラス全体の議論に参加できるか (Participates in whole group)

一番アメリカらしいのが③ですね。
小学校低学年の時は③を徹底的に指導されるそうです。
学校によっても評価の内容は異なるようですので、あくまで参考と言うことでしょうが、今まで見たことがないだけに面白いですね。

②の作文については、論理的な表現方法として小学校から丁寧な指導が行われています。
その中の一つに「パワー・ライティング」と言われる表現方法があります。

論理的な主張のためには、一般的な文書から裁判所への提出文書までこの手法が取られるということです。
参考になりそうな気がしていますので、もう少し調べてみたいと思います。


アメリカが2010年に打ち出した言語における国家戦略は、各国の言語教育の実態と学力を詳細に調査したうえで定めたものだと言われています。

それまで会話と議論が中心であった国語科が、読解力向上に努めてきました。
そしてさらに、口頭ではなく文字による表現力の向上に力を入れてきています。

英語を学ぼうとする他国に対しては、徹底的に会話を中心とした指導を強要しながらも、自国の教育においては読解力と文字による表現力の向上を目指しています。

彼我の比較と分析を怠らずに、具体的な手を打ってくるアメリカの姿勢は見習うところが多いのではないでしょうか。











2013年12月28日土曜日

2013年に思う(3)・・・学校における言語教育

「やまとことば」、「母語」と続いたテーマは、言語という共通性を持ちながら学校における言語教育がどうなっているのかに向かいました。

きっかけは、テレビでやっていた「新型うつ病」でした。
普段の生活では全く問題ないのに、会社における組織や上司との関係においてのコミュニケーションがうまくできないためにうつ状態になってしまうものです。

新型の特徴は原因を周りに求めて自分を正当化する事です。
今までのうつ病は自分を責めて落ち込んでいくのですが、新型は仕事の時にうまくいかないことを会社や上司のせいにして、仕事の時だけ落ち込むということになります。

仕事を離れれば症状も全く出ないことが多いようです。

見方によっては単なる甘えとしか映らないために、重症化してしまう例もかなりあるようです。
特に20~30代に急増中で、クリニックによっては3ヶ月待ちというところもあるようです。


原因を探っていくと、会社に入ってからのコミュニケーションに問題がある場合が多いことがわかってきました。
それもきわめて当たり前の会社における日常会話です。

むかしは、いろいろな場面で五月病というものが取り上げられました。
4月からの新しい環境に溶け込めずに、五月の連休明けになると気力がなくなりうつ状態になっていくものです。

少し前では、新入社員が会社に馴染めずにうつ病になっていることが取り上げられていました。

やはりコミュニケーションの問題であることがわかっていました。

タイミングは、学生生活が終わって社会へ出たときに起こることがわかりました。


そんなことから学校におけるコミュニケーションの教育に目を向け見ることにしました。
ところがそこには何にもありませんでした。

他の国の言語技術の教育と比べてもほとんど何にもないことに驚きました。


基本言語としての国語の基礎は10歳くらいで完了します。
小学校の中学年ですね。

その後はほとんどの場合は受験戦争に巻き込まれていきます。
国語の世界では書き取りと読解が中心になります。
選択肢の中から正解を選ぶことがほとんどになり、意見を述べたり主張したりする場面はほとんどありません。

大学のカリキュラムでも、コミュニケーション技術については、落研や演劇部にでも所属しない限り出会うことすらありません。

 


コミュニケーションの基本は言語力です。
その次に必要なのが、その言語力に基づいた表現力(聞くこと、話すこと)です。

言語力については10歳頃までかけて、基礎力を身につけます。
その後は様々な語彙や表現に触れながら幅を広げていきます。

しかし、表現力(聞くこと、話すこと)においては大学までのカリキュラムを見てもほとんどないのです。
道具としての言語は身につけても、その言語を使っての表現技術を学校では身につけられないのです。

小学校の高学年から顕在化し始めて、中学校でピークを迎える「いじめ」は、道具としての言語を持った子供たちが、使い方がわからないまま振り回している言葉の影響が大きいのではないかと思っています。

使い方がわからずに道具として拳銃を持ってしまった状況ではないでしょうか。
どこかで撃ってしまうことになるでしょう。

こんなことから、学校における言語教育を何回かに分けて集中的に触れてきました。
(参照:国語教育の問題について)

その後も、警鐘の意味を込めてたびたび登場しています。


小学校における国語(学習言語)の習得体系は、とても素晴らしい内容であり、しっかり全国的に機能しています。

しかし、道具としての言語を身につけるだけで終わってしまっているのです。

教育指導要領を作っている人たちが、学校教育という極めて狭い世界で生きている人たちです。
社会でのコミュニケーションを必要としない人たちです。
特殊な社会のみで生きている人たちに、広く一般社会での対応力を教えられるわけがないのです。

大学までは、水平的(分野別、業種別)においても垂直的(年代別、立場別)にも極めて狭い社会で生きてきており、似たような環境にいる者だけでのコミュニケーションで済んできました。
言葉にしなくとも理解できることがたくさんありました。

社会に出たら、一気に枠が外れます。
水平的も素直的にも、コミュニケーションをとらなければいけない相手が一気に拡大します。
共通言語を見つけることすら難しい相手もたくさん出てきます。


巨大企業や公務員に入った新卒が比較的組織に馴染み易いのは、環境が学校に似ているからです。
同世代が数多くおり、自分の属している職場は先生を中心に同じような仕事を同じようなレベルでしている人がたくさんいる教室のような存在です。



中小、ベンチャーでは全く異なります。
オーナー、社長以下すべての人が毎日のように立場を越えて入り乱れ、様々な業務を兼務して様々なレベルでのコミュニケーションが日々行われます。

会話の技術レベルでは全く異なるレベルと言えるでしょう。

何も教育されていない彼らに、自分で身に付けろと言っても限界があるでしょう。
学業にまじめに取り組めば取り組むほど、社会的なコミュニケーション技術は身に付かないという
おかしな結果になるのです。

現実的な提言もいくつかしていますが、具体的な内容は私の2014年の課題の一つです。

子供たちは家族の宝であると同時に、少子化の現代では社会の宝です。
彼らが自分たちの力で社会を生き抜き、変えていける力を身につけるための応援は、今の社会を作ってしまった者の責任ですね。






2013年12月25日水曜日

言語習得のポイント

現代では、日常会話に使用する言語を自分で選ぶことができるようになりました。
日本人の両親のもとに生まれながら、英語を第一言語として取得することも可能となっています。

言語についての研究も様々な面から進んで来ていますが、まだまだ分からないこともたくさんあります。

それでも、言語の習得について考慮しておかなければならないポイントがいくつか見えてきました。

特に、メインとする言語の習得については、自分の意志では選択できない幼児期が大変重要な時期となります。
親が子供のメインとなる言語を選択することになります。

日本国内に居住して、自然に日本語をメイン言語として選択する場合には大きな問題はないように思いますが、海外に居住して他の言語選択できる環境にある場合は一段と注意が必要になります。



言語の習得におけるポイントは以下の3点から考慮することが必要であると思われます。
  1. 日本語をメイン言語に選ぶこと
  2. 幼児期専用の言語(母語)について知ること
  3. 幼児期健忘について知ること
簡単に一つずつ見てみましょう。


1.日本語をメイン言語に選ぶこと
世界に数ある言語の中で、日本語はきわめて特殊な言語です。
その特徴については何回か触れてきていますので、過去のブログを参照していただきたいと思います。(素晴らしきかな日本語)

日本語は現存する言語としては、世界で一番複雑な言語であると同時に、世界最強の言語であると思われます。

子供のメイン言語として日本語をきっちりと選択することが、日本語環境に生まれた最大の利点につながることになります。

他の言語環境において日本語を習得し使いこなせるようになることは不可能ですが、日本語を習得できれば他のどんな言語でも使えるようになるのです。

日本国内で幼児期の保育ができる場合は問題ありませんが、海外で子供に日本語を習得させる場合には環境つくりに相当の努力が必要になります。

幼児期の言語習得によって小学校以降の学習に影響が出ますので、注意が必要です。
海外での幼児期の言語教育については、海外子女教育振興財団のホームページに的確な注意が指摘されていますので参照してください。(母語の大切さをご存知ですか)


2.幼児期専用の言語(母語)について知ること
前出の海外子女教育振興財団の「母語の大切さをご存知ですか」を見ていただけると母語についてほとんどのことがわかると思います。

言語習得の基礎となる、幼児期専用の言語のことで、母親から伝承される言語のことです。

この母語が、幼児期に圧倒的に発達する脳の基本機能を決めると言われています。

この時期に母語として日本語を選択することによって、日本語独特の言語感性の基礎が身に付くと考えられています。

母親から伝承される日本語によって、脳の基本機能が形成され、そこに日本語独特の感覚が身についていくことは母語の理解の上でも大切な要素です。(参照:ここまでわかってきた「母語」)

ここで一番大切なことは、母語として日本語を選択することです。 

次に述べる幼児期健忘とも関係してきますが、幼児期の言語そのものは記憶に残りません。
小学校に入って国語(学習言語)を学び始めると、言語としての母語は記憶から消えていきます。

しかし、その母語によって日本語脳の基本が形成されることと、日本語の感覚が身に付くことが大切なのです。

これが身につかないと、その後の国語の習得に大きな影響が出ます。


3.幼児期健忘について知ること
幼児期にどんな教育をしても、子供は一切記憶に残りません。
幼児期の記憶はそのほとんどが消える(リセットされる)からです。

特に3歳頃までの記憶は、ことごとくが残りません。
5歳くらいまでは断片的に残るものがあるようです。

物心がつく時期と言われるときがあります。
記憶が残っている時期とかぶっているのではないでしょうか。(参照:幼児期健忘について)

日本語は習得するのに時間がかかる言語のため、基本的な習得だけでも10歳くらいまでかかります。
言語の習得も記憶に影響があると思われます。

ですから、幼児期の教育・教え込みは一切無駄なことなのです。
特に、何かを教え込むといった行為は何の効果もないだけでなく、本来自然と身につける母語の習得に際して悪影響を与えることすらあります。



幼児期の2歳から4歳くらいまでが脳の一番発達する時期であることはきわめて一般的な知識となっています。
母親の中には、この時期に幅広くいろんなことを覚えさせることが大切だと思い込んでいる人がいます。

大きな間違いであることを早めに理解してもらう必要があります。

この幼児期は自然の流れの中で、母語の習得によって脳機能を発達させる事だけが大切になります。
余分な教育や教え込みは、母語の習得を妨げることになります。

親のできることは、母語の習得ができやすい環境を整えることです。
母語は教え込めるものではありません。


言語習得においては、幼児期の母語の習得がほとんどのことを決めてしまいます。
より適切に幼児の母語習得をサポートするためには、母語に対しての理解はもちろんのこと、日本語の位置づけや幼児期健忘について正しい知識を持っていることが大切です。

最近では、母語や幼児期健忘についても、その気になればある程度の知識が手に入ります。
周りに幼児をお持ちのお母さんがいらしたら、是非教えてあげてください。

私が、お伝えした時いつも必ず言われることがあります。
もっと早くに知っておきたかった、と言われます。

子供は家族の宝ですが、少子化の現代では社会の宝でもあります。
多少お節介くらいで関わってあげてもいいのではないでしょうか。

しっかり関わり方を理解して接してあげたいですね。




 

2013年11月25日月曜日

学習言語(第一言語)と小学校のカリキュラム

小学校における学習言語(第一言語)の習得ためのカリキュラムは、とてもよくできていることは何度か触れてきました。(参照:言語習得の段階とその環境(2))
幼児期の言語としての母語がその役目を終えたとき、日常的に使用する言語としての学習言語に徐々に移っていくことになります。

この学習言語が一般的に言われる正しい日本語となります。
既に気づかれた通りに、正しい日本語と言われるものは、日本語として存在する言語の一部でしかありません。

位置づけとしては、方言を含めて様々な日本語を使用する人たちの共通言語と言えると思います。

義務教育の一番初めに、学習するための言語としての身につけます。
この言語は日本国のどこへ行っても通用する共通言語として、全国の小学校においてほとんど同じ教科書を使用して、同じ内容を身につけて行くことになります。




幼児期からここまでの中心言語であった母語は、脳の機能開発と学習言語を習得するための言語としての役割をほとんど終えます。
母語として残るものは、その母語使用の環境における言語的な感性だと言われています。

幼児期の活発な脳細胞の代謝と発達は、母語によって導かれた機能開発を進めながらも、激しい代謝の繰り返しによって、記憶としてはほとんど残らないことがわかっています。
幼児期の記憶がほとんどないのは、記憶媒体としての言語の習得が未熟なことよりも、脳の新陳代謝で記憶した部分がどんどんあたらしい細胞に替わっていくためになくなっていくことに依るものと分かってきました。
 
 
脳の容積が一番発達するのが2歳から5歳頃までと言われています。
10歳ころまでには2歳時点での4倍にまでなるようです。
いかに、激しい代謝が行われているか想像できるのではないでしょうか。

ものごころがついて、記憶が鮮明に残っているのは小学校の高学年以降ではないでしょうか。
幼稚園や小学校の低学年の記憶がある場合は、記憶力がついてから昔の写真等で刷り込まれた記憶がほとんどのようです。

幼児期の母語の言語数が少ないのは、長期の記憶ができないからにあります。
本当に短期間で記憶が入れ替わりますので、毎日繰り返し行われることくらいしか残っていきません。
5歳くらいでもせいぜい3日間程度の記憶だと言う研究結果もあるようです。
 
 
幼児期の英才教育や、何らかの教え込みがその間だけで終わったしまった場合には、ほとんど効果をもたらさないことは、ここに原因があると言われています。

英才教育の場合は、ほとんど毎日のように繰り返しながら10歳くらいまで続けることによって、初めてその効果があることもわかってきました。

そのためには、一番大切な言語の習得に影響が出ることもわかってきたために、ほとんど行われなくなりました。
幼児期の英才教育についてはどこかで改めて触れてみたいと思います。
 
 
下の表は代表的な公立の小学校の時間割です。
1学年を前期後期の2期に分けているパターンです。



低学年である1.2年生では教科と言えるものは国語と算数くらいですね。
あとは、生活科や音楽、図画工作、体育といったものです。
低学年ではすべての教科が学習言語の習得のために当てられていることがよくわかると思います。
 
国語は必ず毎日あります。
他の教科の教科書もすべて国語の進度に合わせて作られていますので、すべての教科で学習言語の習得を行っていると考えていいと思います。

算数においては1年生ですでに足し算、引き算が出てきます。
2年生では九九を覚えなければいけません。
この時点で算数が苦手になる子が出てきます。

これは算数の独特の表現が理解しにくいからです。
2年生くらいですと個人差も大きいですから、きちんと理解できているのかどうかは気づきにくいことです。
算数が苦手な子は、少し前からの国語をやり直すとほとんどの場合で理解できて、苦手が解消します。
いくら算数をやり直しても効果はあまりないようです。


3年生になると、社会と理科が加わってきます。
歴史的な事実や世の中のことを客観視することが求められてきます。
観察や実験から変化や原因を見つけることが求められてきます。
そのための表現に慣れないと、社会や理科が苦手になります。

国語では漢字の書き取りや語句の意味調べが中心になってきます。
そして、
4年生で基本的な学習言語の習得がほぼ終わることになります。

 
高学年になると、より多くの語彙を習得し、より高度の文を読解できるようになります。
また、文法の理解も入ってくるようになります。

この時間割にはありませんが、最近では5年生になると英語の授業が入ってきます。
高学年では国語のない日がある学校も出てきます。

小学校のカリキュラムは言語習得についてはとてもよくできた内容だと思います。
ひらがなから始まってカタカナ、漢字、ローマ字(アルファベット)までの文字を持つ日本語を、全国統一のルールに沿って身につけることができるわけです。

ところが言語の教育としては、ここで終わってしまいます。
この言語を使ってしなければいけない技術については、何の学習もありません。
言語は道具です。
この道具を使ってどうするかの技術を考えていきたいですね。

 
本当に大切なのは、道具を持たせることよりも道具の使い方ではないでしょうか。
外国の言語教育と比べて一番異なるのがこの部分ですね。

せっかく言語習得までは良くできているだけに、仕上げの部分を望むのは欲張りでしょうか。
せめて、自分の意見を伝えることと、人の意見を聞けることは言語技術として学校教育に取り組みべきではないかと思っています。



 

2013年11月2日土曜日

アウトプットの苦手な日本人

欧米のインプットー思考ーアウトプット型の論理的な言語教育に比べると、日本語の言語教育は文字の複雑さのために、道具としての知識を身につける時間がより多く必要なことがわかってきました。

欧米型のインプット(聞くこと、読むこと)-思考ーアウトプット(話すこと、書くこと)は、話し言葉(口語)と書き言葉(文字、文語)が一種類しかない場合にはうまく機能します。
当然、
口語を先に身につけますが、対応する文字は一種類ですので、それほどの時間差を持たずに文字を習得することができます。

道具としての言語が小学校の低学年において習得されますので、その後は言語技術としてのインプットからアウトプットへの流れを学習していくことに専念できます。
教育のレベルによって文字に触れる機会が変化しますが、小学校の中学年以降は言語そのものの習得よりも、言語技術の習得が中心になっていきます。



これに対して日本語の言語教育は、文字を覚えることが中心となります。

話し言葉としての「ひらがな」に対しての書き言葉「ひらがな」は、基本の音や文字数が少ないために世界でも習得しやすい言語の一つとなっています。

ところがこの上に、カタカナ、漢字、アルファベットを習得しなければいけません。
他の教科を学ぶための学習言語としての習得のためだけでも、小学校中学年の10歳くらいまでかかります。

その後も、習得度の確認として行われるテストや、入学試験は文の読解と漢字の書き取りが中心となります。
話すことや書くことによるアウトプットはごく一部の作文程度で、技術的なアウトプットを学ぶ機会はほとんどありません。 

これは日本人が外国の先進文化を導入してきた方法にも大きく影響されていることだと思われます。
日本人が外国の文化を導入する方法は、書物によるものであり、その書物を読んで理解することが中心でした。

漢語で書かれた書物を理解するためにカタカナを生み出しながら、漢字を使いこなすようになりました。
ヨーロッパ文明を漢字で翻訳しながらも、カタカナで表記したり、アルファベットを用いたりしながら書物を理解していきました。

日本人の学習方法の基本は読み書きなのです。
これがそのまま言語教育に影響を及ぼしていると思われます。


しかも、書くことは行為としてはアウトプットであったとしても、自分がその書物の内容を理解するために行われることがほとんどであり、外に対しての情報発信としては考えられていなかったと思われます。

外に対しての行為としての書くことは少しずつですが蓄積されていきますが、大きく発信され始めるのは、庶民文学が広がる江戸後期だと思われます。
明治になると新しい文化を紹介する物を含めて、かなりの書物が読まれること目的として発信されることになります。

しかし、書物として発信する行為は特殊な能力を持った行為として、一般的な教育の対象とはなりませんでした。
書くことは理解するための自己学習の行為として定着していきました。


アウトプットとしての話すことの機会も、学校教育の中ではほとんどありません。
低学年を中心とした斉読の授業も高学年ではほとんど行われません。
手を挙げて自ら発言の機会を求めない限りは、発言することなしに一日過ごす学校生活もありうるのです。

日本人はアウトプットのための教育をほとんど受けていないんですね。
学校教育のほとんどはインプットばかりです。
大きな場面でのアウトプットの経験は、新しい力を身につけることができますね。
社会で生き抜いて行くためのチカラはここにあるのでしょう。



SNSの普及によって一般個人が発信できる環境が増えてきています。
ところが日本人は、個人レベルの発信に慣れていませんので、いまだにこの情報の扱い方に戸惑
っています。

それぞれのSNSに特徴があるのですが、それに応じた使い方にはなっていないようです。
アメリカと日本ではFacebookの使い方はかなり異なっているようです。
今の日本は、個人レベルのアウトプットの過渡期にあるのではないでしょうか。

個人としても気軽にアウトプットできるメディアが増えてきました。
メール一本打つのにもドキドキしていた我々の時代とは変貌しています。
電話よりもさらに気軽に個人的なアウトプットが可能な環境となっています。
画像を使うことによって、むかしの日記をつけることよりも簡単にできるのではないでしょうか。

いつまでも苦手とは言っていられませんね。
手探りで発信しながらも、自分としての目的別のメディアを持っていなければいけなくなると思います。

メディアが充実してくると、そこで発信する内容が問われてきます。
今のうちにいろいろなメディアに発信できるコンテンツを身につけておきたいですね。


2013年11月1日金曜日

日本の言語教育の特徴

先回は欧米の言語教育に触れてみました。
クリティカル・シンキング(批判的思考)が根底にあるとされていますが、その上に言語技術を身につけるための教育があります。
 
インプット(聞くこと、読むこと)-思考(考えること)ーアウトプット(話すこと、書くこと)という情報の流れの沿った内容によって、年齢やレベルに応じながらスパイラルアップしていきます。

小学校の低学年ころより、持っている言葉のレベルでのアウトプットまでを行いますので、インプットからアウトプットまでを一貫して身につけて行きます。
極めて論理的に出来上がっていると思われます。



日本語において同じことをやろうとすると、言語上の特徴からできないことが発生します。
インプットにおける基本技術である「聞くこと」と「読むこと」が、同時進行できないのです。
また、
アウトプットにおける「話すこと」と「書くこと」が同じように同時進行できないのです。
日本語の言語技術の教育が、欧米言語に比べて特殊にならざるを得ない理由がここにあります。

それは、「聞くこと」「話すこと」の口語においては「ひらがな」さえあれば、教育も実際のコミュニケーションンも可能です。
ところが、
「読むこと」「書くこと」の文語については、「ひらがな」に加えて「漢字」「カタカナ」「アルファベット」というものが出てきます。

インプット技術である「聞くこと」と「読むこと」とが同時進行できないのです。
アウトプット技術である「話すこと」と「書くこと」が同時進行できないのです。

日本の言語教育は「聞くこと・話すこと」「書くこと」「読むこと」という内容に区分されています。
そして、
「ひらがな」「漢字」「カタカナ」「アルファベット」の4種類の文字を習得しなければならないので、欧米言語の習得よりも「読むこと」「書くこと」に対しての多く時間を必要とします。


欧米の言語教育ではインプットー思考ーアウトプットのサイクルを、小学校の低学年から行うことができますが、日本の言語教育では小学校の中学年までは文字を覚えることが中心となります。
主な物だけでも「ひらがな」と「漢字」があります。
ほとんど2か国語を同時に習得する程度の時間と能力が必要になるのではないでしょうか。


一通りの文字の習得を終えた後は、受験対策としての学習が続きます。
そこで求められている能力は読解と漢字の書き取りが中心です。
筆記試験がほとんであるために、「聞くこと・話すこと」が試されることがほとんどありません。

結果として、日本における言語教育では「聞くこと・話すこと」の技術を習得する機会がなくなるのです。

日本における言語教育は、言語という道具の習得には時間をかけて取り組んでいますが、身につけた道具の使い方については分からないまま社会に出ていくことになります。
 

もう一つの日本語教育の特徴を上げると、欧米と比較すると思考そのものについての技術教育がないことが挙げられます。
欧米は言語教育の前提にギリシャ・ローマ時代よりつづくキリスト教的な画一的思考(クリティカル・シンキング)があります。

日本にも宗教的な色はないものの、自然と一体化した人道的な思考があると思われますが、欧米ほど明確ではありません。
かつては道徳という授業もありましたが、今では思考についての技術は個人で習得する以外はない状況です。

ほとんどの人は学校教育において思考の技術について触れることすらありませんので、個人で気づき習得していかないと思考が磨かれることはありません。
ところが、
文語における文字の種類の多さも原因として、他の言語と比較したら無限であるとも言える量の表現言語を持っています。

思考は言語でなされます。
言語の限界が思考の限界です。
思考技術を学ばなくとも、日本語を母語・第一言語するだけてきわめて多様な思考が可能になるのです。
ただし、
個人としては思考の技術を学んでいませんので、言語を持てあますことになります。

 

何かのきっかけで、自分の感性に触れるような考え方に出会うと、すぐに感化されてしまう傾向が見受けられるのも日本人の特徴の一つです。
学生の間は思考的な技術については、ほとんど学んでこなかった者が、会社という一つの宗教に触れたとき、感化される可能性は高いと思われます。

かつてはこれがいい方向へ向かっていったこともあると思われますが、これだけ多様性が認められるようになってくると難しいですね。
 

欧米の論理の現実的な言語技術としての素晴らしさと、日本語の特徴を組み合わせたものが最強ではないでしょうか。

私たちは、すでにそれぞれの日本語を身につけて使っています。
理解してもらうためには、無限の日本語表現から「現代やまとことば」を使うといいこともわかってきました。

この「現代やまとことば」でインプットー思考ーアウトプットを回すとどうなるでしょうか。
私たちはインプットを中心に教育を受けてきていますので、アウトプットとが苦手です。
アウトプットと言ってもどうしたらいいのか分からない人もたくさんいると思います。

欧米にならってみましょうか。

アウトプット=「話すこと」「書くこと」
相手がいればアウトプットの目的のはっきりしますが、日記でもいいのではないでしょうか。

インプットー思考ーアウトプットのサイクルを回してみましょうか。


2013年10月5日土曜日

言語習得の段階とその環境(4)

先回は聞くこと・話すことについての環境がいかに整っていないかについて触れてみました。
今回は見方によってはさらにその上位の位置づけとも言える表現することについて考えてみます。



上の図は(1)でもお見せした、マズローの5段階に言語の習得過程を重ねたものです。

学習言語の習得段階までは、学校という極めて限られた社会の中で教わることのみを吸収していくインプットの段階と言えるでしょう。
欲求の段階に照らしても、帰属の欲求の段階であり、学校やクラスという組織に帰属し同化するために受け入れることが主体となります。

次の段階は承認の欲求となり、学校やクラスの中で組織の一員としての自分の存在を認めてもらいたくなります。
そのためには受け入れることとと同時に、自らの存在を知らしめるために発信し話すことが必要になります。

学習言語によって蓄えたインプットをさらに強化しながら、アウトプットをしていかなければならなくなります。
コミュニケーションのための聞くこと話すことの習得が必要になりますが、(3)で見てきたようにそのための環境は決して整っているとは言い難いところです。


そのために自己実現の欲求を満たすために必要な表現することを習得するための環境は、さらに限られたものとなっています。

表現すること自体を職業とするための専門学校や課程を選択しない限り、学校教育で表現することを習得する機会はほとんどないと言っていいでしょう。
ましてや義務教育の中においては、表現をするための言語を学習することはほとんど不可能と言えるでしょう。

学校のよっては落研(落語研究会)や演劇部などで学ぶ機会が得られることもありますが、授業としてのカリキュラムの中では難しいこととなっています。



表現することと言うとプレゼンテーションを思い浮かべる人も多いかと思います。
表現するためのテクニックとしてはプレゼンテーションは大いに参考になるところがあります。

ここで言っている表現することは、自己実現のための自分の考えや意見を自分の言葉で、さらに伝えるべき相手に合わせてアレンジしながら伝えることです。

説得すること、納得させること、共感させることではないのです。
理解してもらうことなのです。

それに対しての批判や同調は、理解した後で行われる受け手の判断です。
そのために、自分の考えや意見を精確に伝えなければなりません。
そのためには、受け手の理解の度合いを確認しながら、表現の仕方をアレンジしなければいけません。

一方的なプレゼンテーションとは全く異なるコミュニケーションの方法です。



目的は精確に伝えることです。
精確に伝わったことを確認することです。

会話をしながら精確に伝わっているかどうかを確認できる人数は、5人までが限界だという実験データがあります。
そのための訓練を専門的に受けた者でも8人までが限界だとされています。

この結果は、クリエイティブな内容を検討する会議体として一番効率がいいとされている人数と一致します。
また、これらのデータは日本語を使用したものではないので、日本語で表現した場合には同じになるのか、あるいは日本語の特徴として変化するのかは興味のあるところです。


精確に理解をしてもらうための表現を学習することは、自分で意識して行うことでしかできません。
精確に理解してもらうためには、何度も何度も相手に確認をしなければいけません。
そのためには聞くことが必要になります。

聞き方を身につけなければいけません。


私たちは、ほとんどの場合、一方的に伝えて精確に理解してもらえるだけの表現を持っていません。
受け手の理解度を把握しながら、言い方を変えてみたり、見せ方を変えてみたりしなければなりません。

その時の最後の落としどころが「やまとことば」になるのではないでしょうか。
古代の「やまとことば」ではなく、ひらがな言葉として表すことができる「現代やまことば」こそが共通言語ではないかと思います。

母語として日本語を持っている限りは、どんな分野の人であっても理解できるもの、それが「現代やまとことば」だと思います。




2013年10月4日金曜日

言語習得の段階とその環境(3)

さて、今回は学習言語の習得をほぼ完了した10歳を超えてからの段階です。
聞くこと・話すことの習得段階です。



しかし、10歳以降の段階に対応する聞くこと・話すことに関するカリキュラムが学校教育にはほとんど存在しないといえるのです。

10歳までの学習言語の習得については、ほぼ理想的なカリキュラムを持っているだけに極端に聞こえるかもしれませんが、これが現実です。

ところが、国語科の学習指導要領には全学年を通して「話すこと・聞くこと」が一番に挙げられています。
でも実際はどうでしょうか。

小学校はおろか、大学を卒業した者が会社に就職したあとで、社内でのコミュニケーションが取れないためにうつ病や新うつ病になる者がいつまでたっても減りません。
つまりは、中学校、高校、大学を通して聞くこと・話すことが身に着いていないのです。

 


言語は思考のための唯一の道具であり、コミュニケーションの道具です。

道具を持ったのはいいのですが、その道具の使い方は身に着いていないことになります。
道具を持てば使いたくなるのが人情です。
使い方がわからなくとも、手探りで使い始めるのが人間です。

拳銃を持った者は、使い方がわからなくとも撃ってみたくなるのが当たり前です。
拳銃は飾るものではなく撃つものだからです。

10歳頃までに基礎的とはいえ完成された言語を持った子供たちは、当然それを使いだすようになります。

思考に使っているうちは自分の頭の中だけですので、人に迷惑をかけることはありません。
ところが聞くこと・話すことを身につけずに言語を使うことは、使い方をわからずに銃を撃つことと同じことになります。
ましてや、
10歳を過ぎるころはいわゆる思春期として感情が不安定で揺れ動いている時期と重なります。



先生や大人では感じ取れない言語による暴力が、意識されずに行われている可能性が非常に高いのです。
小学校高学年から中学生に「いじめ」が散見され出すのは、このようなことも原因になっていると思われます。


イギリスの小学校では低学年から、自分の意見を主張し人に話すことを学びます。
彼らの文化では、話さないことは知らないこと、わかっていないことと同じことになります。

つまりは、自分から話すことができない人間は能力がないと受け取られるのです。

分かっている、理解しているのであれば、理解しているということを言葉で表現しなければ、理解できないバカだと思われるのです。


日本人に慣れていない彼らが日本人の前で話をすると、皆同じ感覚を持つそうです。
それは、こいつらバカなんじゃないのかという感覚だそうです。

発言が禁じられている場面ならばともかく、そうでない場面で黙って聞いている日本人には、理解するつもりがなない、理解できない人と思うようです。

アメリカでも小学校の速い段階から、人に対して話すことや、大勢の人前で話すことを学ぶそうです。
それをベースにディベートが話すことの中心的な教育となっていきます。


もっとも、日本語の複雑さに比べれば、彼らの言語は6歳前後にはほぼ完全に習得することができます。
小学校の早い段階から、自分の考えや思いを表現することを学ぶことができるのは、言語そのものが持つ習得のための難易度も関係あるようですね。


翻って日本では、学校教育の中での自分の考えや思いを人前で話したり、テーマに基づいて意見を出し合ったりする機会がきわめて少ないと思われます。

学校においてもクラスの枠を超えたコミュニケーションもない場合もあり、固定的なきわめて閉鎖的な人間関係の中で、あまり説明や主張を必要としない世界で生活をしています。


日本の学校教育の中で、自分の考えや意見を述べる機会は作文くらいです。

子供たちは書くことでしか、本音を語れないようになっている場合があります。
小学校高学年から中学生の間で交換日記が流行ったことがあります。
今でも行われているかもしれません。
なぜ、同じことが話し言葉でできないのでしょうか。


特に小学校高学年は、子供の発育段階から見ても、今までこもっていた守られていた環境から自己主張を始める時期です。
コントロールできない自己主張に、個人差などが加わった環境では、感受性が身に着き始めて心に鎧を持たない子供たちには厳しいものとなります。

その中での自分の心を守りながらでの表現方法が、交換日記という形を生み出したのかもしれませんね。


クラブ活動が重視されているのは、学年・年齢を越えての関係の中でコミュニケーションを取らなければいけないからです。

社会に出れば何十年という年齢差で、育った環境の全く違う、価値観の全く違う人たちとの中で生きていかなければなりません。
様々なコミュニケーションの仕方を身につけていなければ生きていけないのです。

それなのに、小学校の高学年以降大学を卒業するまでは、きわめて狭い社会の中で同じような価値観を植え付けられた人同士の関係の中で生きてきています。
自分から積極的にコミュニケーションを取らなくとも、考えていることや行動パターンはほとんど分かっている関係です。

クラス替えや進学の新クラスの時に、早期になじめない子供が増えており「いじめ」の対象になりやすいと言われています。
そんな子たちが社会に出ていって、まともなコミュニケーションが取れるでしょうか。

それを指導すべき先生たちは、社会経験がありません。
先生たちの社会経験は一般社会よりもはるかに閉鎖的な学校だけとなってしまっています。
知らないのですから指導ができるわけがありません。

このことは大学まで全く同じと言えるでしょう。
一部の学校では社会経験のある先生を採用したりしていますが、その数はとても子供たちに影響を与えられる数とは言えません。


民間の学童教育機関があります。
放課後に学童を預かったり、学校の休日に活動したりしている事業です。

そこでの中心的な活動は例外なく学年の枠を取り払った異年齢合同の共同活動です。
低年齢の子供はお兄さんお姉さんの行動や発言を見て、やり方や秩序を学びます。
高年齢の子供は小さな子たちの面倒を見ながら、待つことや個人の欲求を抑えることを学びます。

そこでは人の話を聞かないと一緒に活動ができません。
そこではみんなの前で自分の意見を述べる機会を作ります。

いま注目されている事業の一つですね。


子供たちに聞くこと・話すことをきちんと身につけてもらうためには、場を設ければいいだけです。
極めて簡単なことですが、現状ではその場をコントロールできる先生がいないのも現実なんでしょうね。

一番習得するのにふさわしい時期に、場を設けさえすれば子供たちは自然と身につけていくのです。

小学校高学年から中学校の間に、聞くこと・話すことの実践を積み重ねることこそ、自立して社会に出ていける本当の力をつけることではないでしょうか。



 
 

2013年10月3日木曜日

言語習得の段階とその環境(2)

先回は幼児期の母語習得の環境について見てみました。
今回はその次の段階としての学習言語の習得について触れてみます。


母語の基礎が5歳くらいまでに一応の完了を見ると、今度は学習するために必要な言語の習得が始まります。
実際には小学校に上がってから学習指導要領に基づくカリキュラムによって身につけていくことになります。


学習言語の習得をしながら、ベースにある母語の補強もされていくことになります。
10歳頃までの小学校中学年が終了するまでが、学習言語の習得期間と言われています。

この間の小学校のカリキュラムはよくできていると思います。
国語で学習言語の習得を進めながら、他の教科によって補助をしていくことになります。

この間の国語以外の教科は、その教科を学ぶことよりも、学習言語の習得のための教材と考えたほうが適切と思われます。
すべての教科の教科書の内容は、国語の学習状況を反映して作成されており、学習言語習得のための副教材ということができます。

読んで理解することを中心に組み立てられており、漢字の習得もこの時期に集中して行われます。
すべての教科を通じて、学習するために必要な言語を習得することが行われます。

国語以外の教科においても、専門的な知識の習得よりも、その分野独特の表現や表記方法を学ぶことが優先されます。

4年生くらいになるとそれぞれの教科において専門的な知識も登場してきますが、考えることよりも読み取ることと記憶することが重要視されていると思われます。



10歳頃までに基本的な学習言語の習得が完了します。
様々な表現に触れて理解することが中心となり、読み取りが重視されます。

読書が推奨されるのがこの頃からです。
学習言語の習得によって読んで内容を理解することができるようになってきます。

以降は本格的に教科ごとの独特の知識の取得になっていきます。
この段階頃から算数や理科の教科に理解の遅い子供が出始めます。
算数や理科の表現は専門的なものが増えて来ると同時に、今までの普通生活では使ってこなかったような表現が増えてきます。

算数の場合は、数字と記号で論理を展開していくことが増え、独特の表現も増えていきます。
理科の場合は、実験や観察に関した表現が増え、記号や文字を使った原因と結果を考える論理性が必要となってきます。
他の教科は書かれていることが理解できれば、そのまま暗記してしまえば何とかこなせますが、理科と算数はそのまま暗記しても考え方が理解できないと応用が利きません。

学習言語の習得に遅れた子供は、特に理科と算数にその影響が出てきます。
高学年になって理科や算数が苦手な子は、理科や算数を繰り返しやってもだめです。
国語をもう一度きちんとやることによって、ほとんどの場合は取り返すことができるようになります。
一番わかりやすい例は、問題文をきちんと読み取れるかどうかを見ることです。



この段階での学校における教材や教科書はかなり理想的な物になっていると思われます。
問題は、きちんと一人ひとりの理解を待って進めているかどうかです。
個人差もありますが、誕生日自体も同学年でも最長11カ月は違う場合が出てきますので、個別のケアが必要になります。

小学校の先生は教科担当ではなくクラス担当となっているのには、この辺のことも理由になっていると思われます。

特に低学年のうちは幅広い知識よりも、学習言語の習得に特化することが必要になります。
学習言語の習得ができて、初めて幅広い知識の習得が可能になるのです。


学習言語の習得は母語の形成にも影響を与え、母語をより強固なものとしていきます。
母語をベースとした学習言語の習得によって、基本的な言語の習得がほぼ完了します。
10歳頃を目途に、聞く能力、話す能力、思考する能力の基本が備わったことになります。


他の国の言語は文字の種類がほとんどの場合一種類しかないので、これほど時間はかかりません。
大体は6歳くらいで基本的な言語を身につけます。

それだけ日本語は大きくて、身につけるのが難しい言語ということができるでしょう。





2013年10月2日水曜日

言語習得の段階とその環境(1)

9月26日に友人の佐藤和則氏が主催するワンコインセミナーで、「素晴らしき日本語」と題して話をさせていただきました。

私が感じていたよりも、内容もあって楽しかったと言っていただき、懇親会ではいろいろな話になりました。


その中で日本語の習得段階と学校教育の内容のずれについて感じられている方がかなりいらっしゃいました。
どこまで考察できるか自分でも試してみたくなりましたので、何回かにわたって言語習得の段階とそれぞれの段階における現状環境とあるべき環境について触れてみたいと思います。




上の図はセミナーの時にお見せしたものです。
マズローの欲求の5段階に言語の習得が関係していることを示しています。
言語の習得がなければ、欲求を実現することはもちろんのこと、表現することすらできません。

更に帰属の欲求を越えて承認の欲求を求めるようになると、それまでこもって守っていただけの環境から自分の意思を外に対して表明することが必要になってきます。

言語の習得は脳の発達と密接に関連しています。
また、幼児期は子供の保育とも密接に関連しています。

そして、それぞの発達段階においては様々な面から考察された、最適な時期が存在します。
このことを簡単に示したものが以下です。


それぞれの専門性の立場から正確に言うと、若干のずれはあるようですが、大筋でこのような5歳刻みで理解しておけばいいようです。

まずは母語の習得から見てみましょう。
この辺は人によってかなり様々な意見があります。

生まれる前の母親のお腹にいるときから、言語を学んでいるという説もありますが、一般的には脳が容積的にも一番発達する2歳頃から4歳頃が母語習得の中心になると思われます。

母語は言語の基礎中の基礎であり、将来にわたりその個人の人間形成の基礎をつくるものです。

環境的に気をつけるべきところは、母親の精神状態です。
この時期の子供には母親の接触がすべてです。
他の者の接触は、直接的には子供の成長に影響することはありません。

父親がどんなに頑張って子供に接しても、ほとんど効果はないのです。

周りの人間は母親のサポートに徹し、母親が子供に触れる時間の確保と、その時の精神状態の安定を確保することをしなければなりません。



そうはいっても、母親を起点として周りの様子は、子供は常にインプットしています。
母親が接している人たちとの会話は子供に影響を与えます。

祖父母や近所の人たちの会話や掛けられれる声は、記憶には残ることは少ないですが、幅広い言語環境の中で暮らすことが何らかのいい影響を与えていると考えられています。


この時期にやってはいけないことがあります。

子供は生きていくための最初の段階として、言語(母語)を最優先で学習するようにできています。
そして自分の欲求に対して答えるものしか身に着かないようにできているようです。

無理に詰め込んだものは、単なる記憶としての保存はされるかもしれませんがそれだけです。
言語=思考のために使われることはありません。

これから先の言語を学ぶための基本としての母語習得の邪魔をしてはいけないのです。
欲求がないときに無理に詰め込むと、肝心の母語の習得に影響をおよぼし日本語の習得に欠陥が起こることがあります。

ですから、余計な幼児教育は一切やってはいけません。

世の中は幼児教育という名のもとにいろいろなものを商売にしようとします。
だまされてはいけません。
幼児に教育をしてはいけないのです。

特にこの時期に、覚えさせる目的で他の言語に触れさせることは避けなければいけません。

幼児期の英才教育は子供の人間形成において、弊害しかないことはいろいろな研究の結果分かってきました。
今では広く知れ渡っており、幼児の英才教育について聞くことはほとんどなくなりました。


幼児は保育をする対象です。
教育は教え込むことです、保育は環境を整えて待つことです。

幼児期にやらなければけないことは母語の習得だけです。
母語の習得は、幼児は放っておいてもやることです。

手助けできる環境は、より多くの日本語に触れさせることと、母親との言葉のコミュニケーションを楽しむことです。
教えることではありません。

そして、自然に学んでくるのを待つことです。



これができない親がとても多いです。
どうしても手を掛けてしまいます。

保育園や幼稚園においても教育的な物がたくさんあります。
何かを教育されている子がいると、自分の子が遅れていると感違いしてしまいます。
周りには教育があふれています。

この環境の中で、保育を実践して子供の学びを待つことは、よほどしっかりとした考え方を持っていないと難しいですね。


2番目以降の子供の方が、自立する能力が高いことがわかっています。
身近に手本としての兄姉がいることもありますが、上の子に比べて親が手をかけすぎないことがその理由として挙げられています。

子供が自立する能力は母語習得の段階から養われていると考えられています。


それでも子供はそれぞれの環境の中で母語を身につけていきます。
母親の言語が皆異なるように、子供の母語も一人ずつすべて異なります。
方言や言い回しを含めて、ここで身につけた母語がその子の生涯の言語の基礎になります。


母語は一つしか選べません。
海外に駐在していて、現地語と日本語の2つに子供が接している場合は、この幼児期の間に親がひとつに決めてそれに応じた環境を整える必要があります。

この時期を逃がすと、どちらを選んでもまともな言語が身に着かない可能性が高くなります。
海外生活で子供に日本語を母語として選んだんだけれど、日本の小学校に入ったらついていけなかったという話はあちこちで起きています。


母語の習得時期の様子は、日本語で言えばひらがなを学ぶ前の話し言葉だけの世界です。
ちょうど文字の無かったころの「やまとこば」で会話をしていたころと同じようなことかもしれないですね。
そういえば、赤ちゃん言葉は古代「やまとことば」と共通することが多いですね。