2013年12月28日土曜日

2013年に思う(3)・・・学校における言語教育

「やまとことば」、「母語」と続いたテーマは、言語という共通性を持ちながら学校における言語教育がどうなっているのかに向かいました。

きっかけは、テレビでやっていた「新型うつ病」でした。
普段の生活では全く問題ないのに、会社における組織や上司との関係においてのコミュニケーションがうまくできないためにうつ状態になってしまうものです。

新型の特徴は原因を周りに求めて自分を正当化する事です。
今までのうつ病は自分を責めて落ち込んでいくのですが、新型は仕事の時にうまくいかないことを会社や上司のせいにして、仕事の時だけ落ち込むということになります。

仕事を離れれば症状も全く出ないことが多いようです。

見方によっては単なる甘えとしか映らないために、重症化してしまう例もかなりあるようです。
特に20~30代に急増中で、クリニックによっては3ヶ月待ちというところもあるようです。


原因を探っていくと、会社に入ってからのコミュニケーションに問題がある場合が多いことがわかってきました。
それもきわめて当たり前の会社における日常会話です。

むかしは、いろいろな場面で五月病というものが取り上げられました。
4月からの新しい環境に溶け込めずに、五月の連休明けになると気力がなくなりうつ状態になっていくものです。

少し前では、新入社員が会社に馴染めずにうつ病になっていることが取り上げられていました。

やはりコミュニケーションの問題であることがわかっていました。

タイミングは、学生生活が終わって社会へ出たときに起こることがわかりました。


そんなことから学校におけるコミュニケーションの教育に目を向け見ることにしました。
ところがそこには何にもありませんでした。

他の国の言語技術の教育と比べてもほとんど何にもないことに驚きました。


基本言語としての国語の基礎は10歳くらいで完了します。
小学校の中学年ですね。

その後はほとんどの場合は受験戦争に巻き込まれていきます。
国語の世界では書き取りと読解が中心になります。
選択肢の中から正解を選ぶことがほとんどになり、意見を述べたり主張したりする場面はほとんどありません。

大学のカリキュラムでも、コミュニケーション技術については、落研や演劇部にでも所属しない限り出会うことすらありません。

 


コミュニケーションの基本は言語力です。
その次に必要なのが、その言語力に基づいた表現力(聞くこと、話すこと)です。

言語力については10歳頃までかけて、基礎力を身につけます。
その後は様々な語彙や表現に触れながら幅を広げていきます。

しかし、表現力(聞くこと、話すこと)においては大学までのカリキュラムを見てもほとんどないのです。
道具としての言語は身につけても、その言語を使っての表現技術を学校では身につけられないのです。

小学校の高学年から顕在化し始めて、中学校でピークを迎える「いじめ」は、道具としての言語を持った子供たちが、使い方がわからないまま振り回している言葉の影響が大きいのではないかと思っています。

使い方がわからずに道具として拳銃を持ってしまった状況ではないでしょうか。
どこかで撃ってしまうことになるでしょう。

こんなことから、学校における言語教育を何回かに分けて集中的に触れてきました。
(参照:国語教育の問題について

その後も、警鐘の意味を込めてたびたび登場しています。


小学校における国語(学習言語)の習得体系は、とても素晴らしい内容であり、しっかり全国的に機能しています。

しかし、道具としての言語を身につけるだけで終わってしまっているのです。

教育指導要領を作っている人たちが、学校教育という極めて狭い世界で生きている人たちです。
社会でのコミュニケーションを必要としない人たちです。
特殊な社会のみで生きている人たちに、広く一般社会での対応力を教えられるわけがないのです。

大学までは、水平的(分野別、業種別)においても垂直的(年代別、立場別)にも極めて狭い社会で生きてきており、似たような環境にいる者だけでのコミュニケーションで済んできました。
言葉にしなくとも理解できることがたくさんありました。

社会に出たら、一気に枠が外れます。
水平的も素直的にも、コミュニケーションをとらなければいけない相手が一気に拡大します。
共通言語を見つけることすら難しい相手もたくさん出てきます。


巨大企業や公務員に入った新卒が比較的組織に馴染み易いのは、環境が学校に似ているからです。
同世代が数多くおり、自分の属している職場は先生を中心に同じような仕事を同じようなレベルでしている人がたくさんいる教室のような存在です。



中小、ベンチャーでは全く異なります。
オーナー、社長以下すべての人が毎日のように立場を越えて入り乱れ、様々な業務を兼務して様々なレベルでのコミュニケーションが日々行われます。

会話の技術レベルでは全く異なるレベルと言えるでしょう。

何も教育されていない彼らに、自分で身に付けろと言っても限界があるでしょう。
学業にまじめに取り組めば取り組むほど、社会的なコミュニケーション技術は身に付かないという
おかしな結果になるのです。

現実的な提言もいくつかしていますが、具体的な内容は私の2014年の課題の一つです。

子供たちは家族の宝であると同時に、少子化の現代では社会の宝です。
彼らが自分たちの力で社会を生き抜き、変えていける力を身につけるための応援は、今の社会を作ってしまった者の責任ですね。