お盆も近づいてきて帰省ラッシュのピークを迎えています。
高速道路の渋滞情報を聞いただけでもグッタリしてしまう人もいるのではないでしょうか。
私なども渋滞情報を聞いただけで出かけるのが嫌になってしまいます。
帰省先での楽しい時間を過ごしていても帰りの渋滞を考えると楽しさも半減してしまうような気がしたものです。
子供たちや妻は車で寝ていることができますが、運転者はそうはいきません。
クルーズコントロールだけでもとても助かったものですが、いよいよ自動運転の技術が目の前まで来ていますね。
本当の安全技術ではないでしょうか。
ところで、この帰省の活動が幼い子供達の日本語を磨くのにとても役に立っていたことをご存知でしたか?
母語を身に付けようとしている幼年期の子供達にとっても、ある程度国語が分かるようになった児童期の子供にとってもとても貴重な機会だったのです。
ほとんどの人の夏の帰省先は奥さんの実家ではないでしょうか。
正月はご主人の実家に行くことがあっても、夏休みには奥さんの実家へ行くことが多いのではないかと思います。
どちらの実家へ行ってもいいのですが、子供たちが小さい時ほど奥さんの実家のほうへ行きたがりませんか?
これは自然な傾向なのですね。
母親の持った言語が伝承されて子供の母語となります。
母親の親族には母親の母語の元となった言語があふれていることになります。
意識せずとも母親の言語をとおして親しさを感じることができているんですね。
小学校入学前の小さいな時には子供たちは母語を身につけている段階です。
その段階の母語のお手本はお母さんです。
母語そのものがお母さんから子供に伝承されていく言語となっています。
お母さんの言葉に触れている時が、子供たちが一番安心していられる時となっているのです。
子供が習得していく母語に父親の言語の影響はほとんどありません。
母親につながっている血族の言語は母親の言語に影響を与えてきたものです。
子供にとっては母親の言語の心地よさにつながるものとなっていると思われます。
小さな子供が同じ祖父母であっても母方のほうに親近感を持つことはとても自然なことなのです。
意識せずとも母親の言語を母語として取得していく子供にとって、母親の親族の言語はとても親しみやすいものとなっているのです。
父親の言語や父親の親族は子供の母語の習得においてはこれほどの影響はないのです。
自分の基礎言語としての母語がある程度習得できる入学前の幼児期には、子供の反応は本能的であり自然なものです。
より理想的な母語の習得のためにも母親の親族の言葉に触れることはとても良いことになります。
無理なく受け入れることができるうえに結果として母親の言語のつながるものですので、どれだけ浴びても悪影響などあるはずもありません。
むしろ、母親の言語をより深いところからフォローしてくれるものとなっていることになります。
母語の習得に際して様々な日本語に触れることはとても大切なことですが、子供にとっても受け入れやすい環境があることを知っておく必要があると思います。
祖父母や親族との接触の多い子供はほとんど接触のない子供に比べるととても豊かな日本語の言葉を母語として持っていることが分かっています。
母語の豊かさはそのままその子が持つ日本語の豊かさ国語の使われ方の豊かさにつながっていきます。
流行の言葉で言い換えれば「地頭」(じあたま)の良さにつながるものになります。
むしろ、「地頭」そのものではないでしょうか。
直接話をしなくとも耳に入ってくるだけでもいいのです。
普段の生活では子供の母語は母親からだけしか継承されていかない環境にあるものを少しでも多くのしかも親しみやすい言葉に触れることで助けることができるのです。
母親の親族だけではなく、母親の育った環境である故郷の言葉は子供にとってとても大きな影響を与える言葉となっているのです。
自分の母語や言葉がある程度固まってくる小学校高学年ころからは、母語の習得よりも持っている言葉による表現をすることのほうが中心になってきます。
その段階になると誰からの言葉についても同じように受け取ることが可能となっていることになります。
子供が小さい時にこそ夏休みに家族で出かけること、特に母親の実家や故郷へ行くことがとても大切なことになっているんですね。
渋滞の中で運転しているお父さんたちの励みになればありがたいですね。
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2017年8月13日日曜日
2016年5月31日火曜日
これからの英語の学び方
それぞれの言語が持っている特徴は、言語で行なわれている知的活動に現れていることになります。
より広い地域や多くの民族に使用されている言語は共通語としての役割がありますので、その特徴には気がつきにくいことになります。
生まれてから死ぬまでの活動が母語の中だけで行なわれていた時代に比べると、SNSや人の流動性によって母語以外の言語に触れずに生きていくことは不可能となっています。
ましてや、情報機器に触れずに生活することが困難になっている現状では情報機器を動かすための言語に触れずに済ませることは出来なくなっています。
そのために、世界の共通語としての英語の影響力はますます強くなっていくと同時に公用語としての身分を持たない言語についてはどんどん特殊化していっているのが現状ではないでしょうか。
知的活動のための唯一のツールが言語である以上は自分の持っている母語の影響力が強いほうが何かと有利であることは間違いのないことでしょう。
しかし、すべての人の母語が同じになってしまっては知的活動における多様性が阻害されることになります。
また、同じ言語と言うカテゴリーとして扱われる英語においても地域や民族の歴史の違いにおいてイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどそれぞれ特徴のある英語となっていることも事実です。
ただし、それぞれの特徴や違いについてはお互いの日常言語のなかで理解することができる範囲であることも利点の一つと言うことができます。
その中で日本語の位置付けは日本語を母語とする社会以外ではまったく役に立たない言語であるということができます。
世界のあらゆる組織や機関においても日本語が公用語となっているものは一つもありません。
日本語での活動は公式には翻訳されないことを意味しています。
日本語による知的活動の特徴や成果を世界に知らしめるためには最低でも英語による発信をしなければ見向きもされないことになります。
英語を母語とする者には必要のない苦労を日本語を母語とする者は必要としていることになります。
日本語だけで生きていける世界は日々狭くなっていると言うことができるのではないでしょうか。
しかし、世界との接触が広まった明治期以降、日本語の中にも変化が起きています。
それは日本語と世界の公用語である英語との融合です。
それは双方向で行なわれているものとなっていますが、世界の公用語としての英語の身分は圧倒的であり日本語が英語に取り込まれている部分は極めて限られた分野の単語の域を出ていません。
それに対して日本語に取り込まれている英語は単語はおろか文法から論理まで幅広い分野にわたっています。
これは必要に応じて行なわれた自然の流れと言うことができます。
英語を母語とする者にとっては極めて特殊な一言語である日本語に触れる必要はほとんどありませんが日本語を母語とする者にとっては英語に触れることなく生活することは困難だからです。
英語の母語話者が日本語に触れる必要がある機会に比べれば日本語の母語話者が英語に触れる必要のある機会の方が圧倒的に多いことになります。
また、英語の母語話者は日本語に触れることなく生活することが当たり前のように可能ですが、日本語の母語話者は英語に触れずに生活することは困難となっているのです。
ましてや、ビジネスや観光で日本以外の国との行き来が必要な者にとっては英語による意思の疎通(コミュニケーション)能力は必須のものとなっています。
日本語話者にとっての英語の必要性は英語話者における日本語の必要性よりもはるかに高いものとなっており、現在ではレベルの問題は別にしても無くてはならないものとなっています。

ここで大切なことは母語による知的活動に勝るものはないと言うことです。
母語以外の言語でどんなに高度な思考や発想をしようとしても母語で行なう活動には及びもしないと言うことです。
それは、人としてのあらゆる機能や器官が母語を使用するために一番効率が良いように発達してきているからにほかなりません。
日本語を母語として持つ者がどんなに英語を使いこなせたとしても英語で行なう知的活動はたかが知れていると言うことになります。
日本語の母語話者が英語を身につける必要があることは、日本語で行なった知的活動を英語で表現するためのだけに必要だと言うことになります。
日本語で行なった知的活動は日本語の感覚とニュアンスの塊です。
日本語の感覚とニュアンスは日本語で表現されことによって日本語話者に伝わるものとなっていますが、他の言語話者に伝えることは大変難しいことになっています。
その日本語で行なわれた知的活動を日本語の感覚とニュアンスをもって英語で表現するために英語を学ぶ必要があります。
直訳的な翻訳をすることはネット翻訳でも自動翻訳でも可能となっており、自分の投稿が知らないうちに翻訳されて流れていることは当たり前のこととなっています。
しかし、日本語の知的活動における日本語独特の感覚については翻訳すること自体が不可能になっています。
それは、活動をしている本人が自然と使っている感覚であり言語で説明することができないものである以上、意識して言語で表現することができないものだからです。
また、その感覚を何となくわかっていてもその感覚を英語で表現するための方法を知らなければせっかく行なった日本語のでの知的活動がきちんと伝わらないものとなってしまうからです。
日本語を母語としながらも英語の日常使用には困らない程度の習得をしている人はたくさんいます。
この人対が同じテーマで日本語と英語で議論をしても同じ過程を経て同じ結論になることはありません。
その要因の一つは英語での知的活動が日本語での知的活動に及ばないことにありますし、もう一つは日本語での知的活動を同じレベルで英語で表現できないことにあります。
英語を学習する時の基本は日本語の独特の感覚を表現するための英語表現を身につけることにあります。
そこには英語独特の表現が多く現れてくることにもなります。
その学習ができるようになると、英語にするための日本語の表現が変わってくることになります。
日本語の感覚を英語に翻訳するためにふさわしい日本語としての表現をするようになるからです。
直訳されてももともとの日本語の感覚を伝えることができるような日本語による表現ができるようになるからです。
英語に直訳されることを前提になされた日本語表現と言うことができます。
これは日本語だけが使いこなせても英語だけだけが使いこなせても不可能なことになります。
日本語の難しさを考えてみれば英語話者にこれを求めることはかなり難しいことではないでしょうか。
つまりは、日本語話者が英語の表現を理解して使いこなすしかないことになります。
日本語を母語とする者がどんなに英語を使いこなすことができても英語で思考することは出来ません。
無理にやろうとすればレベルの低い知的活動とならざるを得ません。
知的活動は母語で行なうことが理想でありこれを翻訳することの方が結果としてレベルの高い知的活動を表現することができます。
日本語は文字の種類が多いことで同じ言葉であっても文字の種類を変えることで感覚が変わってしまいます。
更には表意文字としての漢字を持っていますので音としてのことばの意味以外に文字としての意味を持っていることになります。
また、語順の自由さは豊かな表現を可能にしていますが同時に文章だけでは本意が伝わり難いものともなっています。
英語と比較することで日本語の持っている特徴がわかり易いものとなってくると思います。
結果として英語を学びやすくするのではないでしょうか。
これからますます避けることができない英語との接触において、日本語としての特徴を生かしながら付き合っていきたいものです。
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より広い地域や多くの民族に使用されている言語は共通語としての役割がありますので、その特徴には気がつきにくいことになります。
生まれてから死ぬまでの活動が母語の中だけで行なわれていた時代に比べると、SNSや人の流動性によって母語以外の言語に触れずに生きていくことは不可能となっています。
ましてや、情報機器に触れずに生活することが困難になっている現状では情報機器を動かすための言語に触れずに済ませることは出来なくなっています。
そのために、世界の共通語としての英語の影響力はますます強くなっていくと同時に公用語としての身分を持たない言語についてはどんどん特殊化していっているのが現状ではないでしょうか。
知的活動のための唯一のツールが言語である以上は自分の持っている母語の影響力が強いほうが何かと有利であることは間違いのないことでしょう。
しかし、すべての人の母語が同じになってしまっては知的活動における多様性が阻害されることになります。
また、同じ言語と言うカテゴリーとして扱われる英語においても地域や民族の歴史の違いにおいてイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどそれぞれ特徴のある英語となっていることも事実です。
ただし、それぞれの特徴や違いについてはお互いの日常言語のなかで理解することができる範囲であることも利点の一つと言うことができます。
その中で日本語の位置付けは日本語を母語とする社会以外ではまったく役に立たない言語であるということができます。
世界のあらゆる組織や機関においても日本語が公用語となっているものは一つもありません。
日本語での活動は公式には翻訳されないことを意味しています。
日本語による知的活動の特徴や成果を世界に知らしめるためには最低でも英語による発信をしなければ見向きもされないことになります。
英語を母語とする者には必要のない苦労を日本語を母語とする者は必要としていることになります。
日本語だけで生きていける世界は日々狭くなっていると言うことができるのではないでしょうか。
しかし、世界との接触が広まった明治期以降、日本語の中にも変化が起きています。
それは日本語と世界の公用語である英語との融合です。
それは双方向で行なわれているものとなっていますが、世界の公用語としての英語の身分は圧倒的であり日本語が英語に取り込まれている部分は極めて限られた分野の単語の域を出ていません。
それに対して日本語に取り込まれている英語は単語はおろか文法から論理まで幅広い分野にわたっています。
これは必要に応じて行なわれた自然の流れと言うことができます。
英語を母語とする者にとっては極めて特殊な一言語である日本語に触れる必要はほとんどありませんが日本語を母語とする者にとっては英語に触れることなく生活することは困難だからです。
英語の母語話者が日本語に触れる必要がある機会に比べれば日本語の母語話者が英語に触れる必要のある機会の方が圧倒的に多いことになります。
また、英語の母語話者は日本語に触れることなく生活することが当たり前のように可能ですが、日本語の母語話者は英語に触れずに生活することは困難となっているのです。
ましてや、ビジネスや観光で日本以外の国との行き来が必要な者にとっては英語による意思の疎通(コミュニケーション)能力は必須のものとなっています。
日本語話者にとっての英語の必要性は英語話者における日本語の必要性よりもはるかに高いものとなっており、現在ではレベルの問題は別にしても無くてはならないものとなっています。
ここで大切なことは母語による知的活動に勝るものはないと言うことです。
母語以外の言語でどんなに高度な思考や発想をしようとしても母語で行なう活動には及びもしないと言うことです。
それは、人としてのあらゆる機能や器官が母語を使用するために一番効率が良いように発達してきているからにほかなりません。
日本語を母語として持つ者がどんなに英語を使いこなせたとしても英語で行なう知的活動はたかが知れていると言うことになります。
日本語の母語話者が英語を身につける必要があることは、日本語で行なった知的活動を英語で表現するためのだけに必要だと言うことになります。
日本語で行なった知的活動は日本語の感覚とニュアンスの塊です。
日本語の感覚とニュアンスは日本語で表現されことによって日本語話者に伝わるものとなっていますが、他の言語話者に伝えることは大変難しいことになっています。
その日本語で行なわれた知的活動を日本語の感覚とニュアンスをもって英語で表現するために英語を学ぶ必要があります。
直訳的な翻訳をすることはネット翻訳でも自動翻訳でも可能となっており、自分の投稿が知らないうちに翻訳されて流れていることは当たり前のこととなっています。
しかし、日本語の知的活動における日本語独特の感覚については翻訳すること自体が不可能になっています。
それは、活動をしている本人が自然と使っている感覚であり言語で説明することができないものである以上、意識して言語で表現することができないものだからです。
また、その感覚を何となくわかっていてもその感覚を英語で表現するための方法を知らなければせっかく行なった日本語のでの知的活動がきちんと伝わらないものとなってしまうからです。
日本語を母語としながらも英語の日常使用には困らない程度の習得をしている人はたくさんいます。
この人対が同じテーマで日本語と英語で議論をしても同じ過程を経て同じ結論になることはありません。
その要因の一つは英語での知的活動が日本語での知的活動に及ばないことにありますし、もう一つは日本語での知的活動を同じレベルで英語で表現できないことにあります。
英語を学習する時の基本は日本語の独特の感覚を表現するための英語表現を身につけることにあります。
そこには英語独特の表現が多く現れてくることにもなります。
その学習ができるようになると、英語にするための日本語の表現が変わってくることになります。
日本語の感覚を英語に翻訳するためにふさわしい日本語としての表現をするようになるからです。
直訳されてももともとの日本語の感覚を伝えることができるような日本語による表現ができるようになるからです。
英語に直訳されることを前提になされた日本語表現と言うことができます。
これは日本語だけが使いこなせても英語だけだけが使いこなせても不可能なことになります。
日本語の難しさを考えてみれば英語話者にこれを求めることはかなり難しいことではないでしょうか。
つまりは、日本語話者が英語の表現を理解して使いこなすしかないことになります。
日本語を母語とする者がどんなに英語を使いこなすことができても英語で思考することは出来ません。
無理にやろうとすればレベルの低い知的活動とならざるを得ません。
知的活動は母語で行なうことが理想でありこれを翻訳することの方が結果としてレベルの高い知的活動を表現することができます。
日本語は文字の種類が多いことで同じ言葉であっても文字の種類を変えることで感覚が変わってしまいます。
更には表意文字としての漢字を持っていますので音としてのことばの意味以外に文字としての意味を持っていることになります。
また、語順の自由さは豊かな表現を可能にしていますが同時に文章だけでは本意が伝わり難いものともなっています。
英語と比較することで日本語の持っている特徴がわかり易いものとなってくると思います。
結果として英語を学びやすくするのではないでしょうか。
これからますます避けることができない英語との接触において、日本語としての特徴を生かしながら付き合っていきたいものです。
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2016年3月11日金曜日
日本語の豊かさの源泉
ほとんどの言語が持っている語彙の数は30万~50万程度ではないかと言われています。
一般的に知られている言語でない場合には数万語程度のものもあるようです。
多い方で見てみると日本語、ドイツ語、フランス語などが挙げられていますが、この数の中には時制の変化による動詞の不規則変化や性による変化形も含まれているようです。
英語が30万語程度と言われていますが過去形・過去分詞形の不規則変化もカウントされているようです。
日本語の場合は動詞の語尾の変化はカウントされていませんので同じ50万語と言ってもかなりニュアンスの違うものとなっているようです。
よく例に挙げられている言語の語彙数として、ネイティブ同士の会話の90%以上を理解しようとしたときにどれだけの語彙が必要かということがあります。
フランス語・・・ 2,000語(タイ語)
英語 ・・・ 3,000語
ドイツ語 ・・・ 5,000語(ロシア語、中国語、韓国語)
日本語 ・・・10,000語
これをもって言語習得の難しさと結び付ける意見もあるようですが、短絡的に言語習得の難易度には言及できないと思われます。
語彙数が多くともそこに系統だった規則性があれば習得は決して難しくはないからです。
それ以外にも言語が持っている特徴として新しい言葉のつくりやすさというものがあります。
様々な言語からどんどん語彙を導入して造語力をも兼ね備えた英語は、常に新しい語彙を生み出しています。
それぞれの言語で生まれた新しい技術や論理をすぐに取り込むことが可能な言語であることが、世界の公用語としての地位をさらに強固なものとしている理由でもあるのです。
同じように日本語はとても造語力の優れた言語となっています。
ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットと四種類の表記文字を持つ日本語は外来語の取り込みや新語の創造に無理なく対応できる言語となっているのです。
基本は漢字による文字の意味を利用した造語方法ですが、文字が固有の意味を持ってしまっていることが造語の邪魔になる場合も出てきます。
その時に音だけを生かしたものがカタカナであり、もとの言語のニュアンスを残すものがアルファベットであったりしているのです。

明治以前では、一般的な使用言語はひらがなを中心として漢字の使用はインテリ層のものとなっていました。
しかし、明治維新以降は一気にヨーロッパの先進文化を取り込む必要から広辞苑一冊に相当する20万語を越える新語が作られたのです。
この時に活躍したのが造語能力の大変に高い漢字であり外来語にそのまま対応できたカタカナだったのです。
英語が昔から持っている基本的な単語に対して接頭辞や接尾辞、連語の機能を生かして語彙を広げていったことに対して、日本語は基本語は「ひらがなことば」として残しながらひらがな以外で新しい言葉を生んでいきました。
つまりは「ひらがなことば」だけで他の言語と同等の30万語程度の語彙を持っていたことになります。
言語の持っている造語能力の高さは、他の文化を取り入れる能力の高さにも置き換えることができます。
それも、借り物の導入ではなく自分の言語の中の言葉としてアレンジしながら取り込んでしまう能力を持っていることを表しています。
造語能力が高い言語は常に世界の最新文化や技術を取り込むことができますが、自分たちが持っている独自の伝統文化や技術を同じ言語で継承していかなければいけません。
独自の文化や技術を継承する言語と新しい文化や技術を取り込んだ言語が同じ言語であればその時代時代で優位な方の言葉に淘汰されていくことが起こっていきます。
言葉としては多くの言葉を生み出すために語彙は果てしなく増えていきますが、実際に使われていく語彙はより現実的な方にシフトしていくことになるのではないでしょうか。
普通の言語は表記方法は一種類しか持っていません。
同じ言葉を表記するには一種類の表記方法しかありません。
日本語は四種類の表記方法を持っています。
ひらがな、カタカナはどんな言葉であってもすべて表記することが可能です。
漢字やアルファベットの言葉もひらがなやカタカナで表記することができます。
新しい言葉を作りながらもその役割の中心は漢字やカタカナ・アルファベットに任せておいて、独自の文化や技術はひらがなで伝統的な継承を続けていくことが可能になっているのです。
しかも、このひらがながないと日本語として成立しないのです。
漢字やアルファベットだけでは日本語として成立しないのです。
カタカナだけでも成立しますが、かつての電報のようにとても伝達効率の悪いものとなっています。
ひらがなだけでも日本語は成立しているのです。
同じ英語でもイギリス英語は歴史的な経験の長い独自の文化や技術の継承に重きを置いたものとなっています。
アメリカ英語は次から次へと世界中の新しい文化や技術を導入しながら自分たちの文化や技術を発展させ続けていくことに重きを置いた英語となっているのです。
歴史の短い新しい国として発展するために必要な機能を備えた言語であったのではないでしょうか。
また、そのように変化できるように工夫をしていったということではないでしょうか。
日本語は存在そのものがとんでもない機能を持った言語となっているようです。
こんな言語を使いこなすためには、確かに義務教育だけでは無理なのかもしれませんね。
ひらがなことばが造語されたりその使い方が磨かれ続けた舞台が和歌です。
短歌に限らず長歌や俳句なども含めた七音五音を基本とする表現方法です。
ここで生み出された表現技術が日本語の基本となっているものです。
一般的に知られている言語でない場合には数万語程度のものもあるようです。
多い方で見てみると日本語、ドイツ語、フランス語などが挙げられていますが、この数の中には時制の変化による動詞の不規則変化や性による変化形も含まれているようです。
英語が30万語程度と言われていますが過去形・過去分詞形の不規則変化もカウントされているようです。
日本語の場合は動詞の語尾の変化はカウントされていませんので同じ50万語と言ってもかなりニュアンスの違うものとなっているようです。
よく例に挙げられている言語の語彙数として、ネイティブ同士の会話の90%以上を理解しようとしたときにどれだけの語彙が必要かということがあります。
フランス語・・・ 2,000語(タイ語)
英語 ・・・ 3,000語
ドイツ語 ・・・ 5,000語(ロシア語、中国語、韓国語)
日本語 ・・・10,000語
これをもって言語習得の難しさと結び付ける意見もあるようですが、短絡的に言語習得の難易度には言及できないと思われます。
語彙数が多くともそこに系統だった規則性があれば習得は決して難しくはないからです。
それ以外にも言語が持っている特徴として新しい言葉のつくりやすさというものがあります。
様々な言語からどんどん語彙を導入して造語力をも兼ね備えた英語は、常に新しい語彙を生み出しています。
それぞれの言語で生まれた新しい技術や論理をすぐに取り込むことが可能な言語であることが、世界の公用語としての地位をさらに強固なものとしている理由でもあるのです。
同じように日本語はとても造語力の優れた言語となっています。
ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットと四種類の表記文字を持つ日本語は外来語の取り込みや新語の創造に無理なく対応できる言語となっているのです。
基本は漢字による文字の意味を利用した造語方法ですが、文字が固有の意味を持ってしまっていることが造語の邪魔になる場合も出てきます。
その時に音だけを生かしたものがカタカナであり、もとの言語のニュアンスを残すものがアルファベットであったりしているのです。
明治以前では、一般的な使用言語はひらがなを中心として漢字の使用はインテリ層のものとなっていました。
しかし、明治維新以降は一気にヨーロッパの先進文化を取り込む必要から広辞苑一冊に相当する20万語を越える新語が作られたのです。
この時に活躍したのが造語能力の大変に高い漢字であり外来語にそのまま対応できたカタカナだったのです。
英語が昔から持っている基本的な単語に対して接頭辞や接尾辞、連語の機能を生かして語彙を広げていったことに対して、日本語は基本語は「ひらがなことば」として残しながらひらがな以外で新しい言葉を生んでいきました。
つまりは「ひらがなことば」だけで他の言語と同等の30万語程度の語彙を持っていたことになります。
言語の持っている造語能力の高さは、他の文化を取り入れる能力の高さにも置き換えることができます。
それも、借り物の導入ではなく自分の言語の中の言葉としてアレンジしながら取り込んでしまう能力を持っていることを表しています。
造語能力が高い言語は常に世界の最新文化や技術を取り込むことができますが、自分たちが持っている独自の伝統文化や技術を同じ言語で継承していかなければいけません。
独自の文化や技術を継承する言語と新しい文化や技術を取り込んだ言語が同じ言語であればその時代時代で優位な方の言葉に淘汰されていくことが起こっていきます。
言葉としては多くの言葉を生み出すために語彙は果てしなく増えていきますが、実際に使われていく語彙はより現実的な方にシフトしていくことになるのではないでしょうか。
普通の言語は表記方法は一種類しか持っていません。
同じ言葉を表記するには一種類の表記方法しかありません。
日本語は四種類の表記方法を持っています。
ひらがな、カタカナはどんな言葉であってもすべて表記することが可能です。
漢字やアルファベットの言葉もひらがなやカタカナで表記することができます。
新しい言葉を作りながらもその役割の中心は漢字やカタカナ・アルファベットに任せておいて、独自の文化や技術はひらがなで伝統的な継承を続けていくことが可能になっているのです。
しかも、このひらがながないと日本語として成立しないのです。
漢字やアルファベットだけでは日本語として成立しないのです。
カタカナだけでも成立しますが、かつての電報のようにとても伝達効率の悪いものとなっています。
ひらがなだけでも日本語は成立しているのです。
同じ英語でもイギリス英語は歴史的な経験の長い独自の文化や技術の継承に重きを置いたものとなっています。
アメリカ英語は次から次へと世界中の新しい文化や技術を導入しながら自分たちの文化や技術を発展させ続けていくことに重きを置いた英語となっているのです。
歴史の短い新しい国として発展するために必要な機能を備えた言語であったのではないでしょうか。
また、そのように変化できるように工夫をしていったということではないでしょうか。
日本語は存在そのものがとんでもない機能を持った言語となっているようです。
こんな言語を使いこなすためには、確かに義務教育だけでは無理なのかもしれませんね。
ひらがなことばが造語されたりその使い方が磨かれ続けた舞台が和歌です。
短歌に限らず長歌や俳句なども含めた七音五音を基本とする表現方法です。
ここで生み出された表現技術が日本語の基本となっているものです。
和歌については老若男女貴賎を問わず全てひらがなで表現することが基本となっています。
自然を描写する言葉の多さや心情を表現する言葉の多さはまさしくここで磨かれつづけた恩恵であると思われます。
「もったいない」「たおやか」「さりげなく」「こころくばり」などは他の言語では表現できる言葉を持っていものばかりです。
ノーベル平和賞を受賞したケニア出身のワンガリ・マータイが提唱して広がった「もったいない」は世界の人にもこの言葉で伝わっていったのです。
言語の持っている基本的な性格としては論理的な表現や効率を重視する活用が苦手なものとなっている日本語ですが、決して対応ができないわけではないのです。
日本語で理解し思考して知的活動を行なって、英語で発信をすることが必要になってきているのではないかと思っています。

思考は言語で行なっています。
母語で行なう思考がいちばん質が高いことは間違いのないことです。
母語として日本語を持ったことを感謝してもいいのではないでしょうか。
(参照:「母国語」から「母語」へ)
これから学ぶべきことはこの素晴らしい言語である日本語の使い方と発信言語としての英語の利用の仕方ではないでしょうか。
世界への発信は日本語で行なったのではまったく理解されることはありません。
日本語で行なわれた知的活動を英語で発信する活動は、母語として日本語を持った者にしか出来ない活動になります。
その英語は日本語で考えらえた英語でいいのではないでしょうか。
そこでは、英語の持っている造語力が生かされると思います。
豊かな日本語を生かすためには発信しなければなりません。
世界の言語の中でも英語と日本語は際立って高い造語力を持った言語だと思われます。
英語はそれ自体が造語と共に新しい言葉に替わっていくものです。
日本語は「ひらがな」という歴史を継承してきた言語を基本として、新しい文化や技術を取り込む造語力をさらに別枠で持った言語となっているのです。
アプローチすべきは日本語の方からではないでしょうか。
そのために英語の表現を学ぶことは悪いことではないと思います。
言語として学ぶのではなく表現するための一手法として持っておくことは必要なことになってきているのではないでしょうか。
ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
自然を描写する言葉の多さや心情を表現する言葉の多さはまさしくここで磨かれつづけた恩恵であると思われます。
「もったいない」「たおやか」「さりげなく」「こころくばり」などは他の言語では表現できる言葉を持っていものばかりです。
ノーベル平和賞を受賞したケニア出身のワンガリ・マータイが提唱して広がった「もったいない」は世界の人にもこの言葉で伝わっていったのです。
言語の持っている基本的な性格としては論理的な表現や効率を重視する活用が苦手なものとなっている日本語ですが、決して対応ができないわけではないのです。
日本語で理解し思考して知的活動を行なって、英語で発信をすることが必要になってきているのではないかと思っています。
思考は言語で行なっています。
母語で行なう思考がいちばん質が高いことは間違いのないことです。
母語として日本語を持ったことを感謝してもいいのではないでしょうか。
(参照:「母国語」から「母語」へ)
これから学ぶべきことはこの素晴らしい言語である日本語の使い方と発信言語としての英語の利用の仕方ではないでしょうか。
世界への発信は日本語で行なったのではまったく理解されることはありません。
日本語で行なわれた知的活動を英語で発信する活動は、母語として日本語を持った者にしか出来ない活動になります。
その英語は日本語で考えらえた英語でいいのではないでしょうか。
そこでは、英語の持っている造語力が生かされると思います。
豊かな日本語を生かすためには発信しなければなりません。
世界の言語の中でも英語と日本語は際立って高い造語力を持った言語だと思われます。
英語はそれ自体が造語と共に新しい言葉に替わっていくものです。
日本語は「ひらがな」という歴史を継承してきた言語を基本として、新しい文化や技術を取り込む造語力をさらに別枠で持った言語となっているのです。
アプローチすべきは日本語の方からではないでしょうか。
そのために英語の表現を学ぶことは悪いことではないと思います。
言語として学ぶのではなく表現するための一手法として持っておくことは必要なことになってきているのではないでしょうか。
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2016年1月27日水曜日
「母国語」から「母語」へ
「母国語」という言葉やニュアンスは日本語独特のものであることを知っているだろうか?
日本語の解釈としては、「母国の言語」というニュアンスもあるし「母なる国語」というニュアンスもあるのではないかと思います。
そもそも「国語」というニュアンスは日本が生み出したものであり、もともとの漢語にはなかった感覚です。
日本語が生み出した「国語」という言葉が漢字使用国においてその国の公式言語としての意味合いで使われるようになったものです。
日本人にとっては日本という国と日本語という言語はとても近しい関係にあり母なる国という感覚とともに、母国語という言葉に対して違和感を感じることはほとんどないのではないかと思われます。
試しに、「母国語」を英語で表現してみるとどうなるでしょうか。
native languageであったりmother tongueであったりするのではないでしょうか。
国という感覚がある言葉は一切登場しないことが分かるのではないでしょうか。
学校教科においても「国語」に当たる表現がありません、日本語の「国語」に当たるものとしてはEnglishとしてあるだけです。
つまりは、日本語における「国語」という感覚がないのです。
実は世界の言語感覚の中でも日本語だけが持っている感覚なのです。
世界の言語の感覚では「国」と「言語」が結び付くことはほとんどないのです。
それは、日本が帝国主義の時代に大東亜共栄圏構想によって行なってきたアジア進出を見てみるとよく分かるのではないでしょうか。
日本本土自体は幸運にも侵略をされた経験がありませんが、アジア諸国は日本による侵略を受けてきているのです。
その時の統治の結果として漢字や日本語が彼らの中に植え付けられており、日本語の感覚が広がっていることになります。
したがって世界の中でも侵略や開拓といった異文化の導入が激しかった地域においては国と言語が全く結びつきがなく存在しているために、「国語」といった感覚がないものだとも思われます。
国としての存在が必要になってきたときに公用語として指定されたものが「母国語」の感覚に一番近いのではないでしょうか。
人の動きや企業の活動においては最早物理的な国境は存在しない時代になってきました。
そんな、時代になってきて「母国語」という言葉自体が陳腐なものとして聞こえるようになってきたのではないでしょうか。
最近では、native languageやmother tongueについては「母国語」ではなく「母語」と訳されることが多くなってきました。
「国」という感覚を離れて存在する「母語」の感覚は、その言語を話す民族の存在を表わすものとして尊重されているものです。
持っている言語を守るために戦いが起こったり人が死んだりした経験から、国連では「国際母語デー」を定めています。
(参照:国際母語デー 2月21日)
「母国語」というよりは「母語」と表現した方がその言語を持っている人に対しての役割をより適切に示しているように思われます。
言語が持つ役割が単なるコミュニケーションのためのツールではないことが研究されてきたことと無縁ではないと思われます。
2000年以上の歴史を持ちながらも現代に継承されて日常生活で使用されている言語である日本語は、数多くの存在の危機と環境適応を経てとても大きな言語となって受け継がれています。
(参照:日本語の危機(明治維新))
そのために、日本語のすべてを理解し持っている人は存在しないのではないでしょうか。
それは、言語としての日本語を専門的に研究している学者であっても決して例外ではないと思われます。
それでも言語の一面の役割として社会のルールを共有するための共通理解のためのツールとしての機能が有ります。
法治国家においては法律をどのように表現するかがとても重要なことになりますし、法律はすべての人が同じ理解をできなければ法律としての機能が果たせません。
一部の法律家だけの間の共通解釈では法律としての役には立たないのです。
古い法律で解釈が現代に合わなくなってきたものなどについては、その解釈についての公式なものが必要になってくるのはそのためです。
裁判において法律適用よりも条文の解釈の方が問題になることが多いのもそのためです。
大きな日本語のなかの共通解釈のために必要な言葉と共通の意味を与えたものが「国語」であるということができます。
持って生まれた時より親から受け継ぐ言語である「母語」は、親の持っている解釈であり感覚を受け継ぐものです。
それは必ずしも「国語」ではありません。
共通理解のための言語とはなっていないのです。
そのために、義務教育において「国語」が必要になってきているのです。
しかも日本語においては「国語」自体があまりにも大きいために、中学を卒業をしても日刊新聞が読解できないようなことが起こっているのです。
そのように見てくると、一人ひとりの持っている「母語」としての日本語はかなりバラエティに富んだものとなっていると思われます。
それは、方言や家柄と言ったものだけでは説明しきれないものです。
更にその「母語」が経験を積み重ねることによって変更上書きをされていくことになります。
学生時代にはそれほど大きな違いがなかった生活環境も、社会に出ていくと環境の変化は大きなものとなります。
社会生活が長くなればなるほど一人ひとりが持っている言語にも違いが大きくなります。
自分の原点であり自分そのものである「母語」は、自分の経験とともに変化していくものでもあります。
バイリンガルとしての第二言語も、それを理解し使いこなしているのは「母語」によって行なっていることであり、第二言語による知的活動はどんなに頑張っても「母語」による知的活動にははるかに及ばないことが分かっています。
(参照:バイリンガルの知能は低い?)
他の言語に比べて際立った特徴の多い日本語を「母語」として持っていること自体で、あらゆる活動において影響を受けている感覚が他の言語を「母語」とした人たちと異なっているのです。
ボーダーレスの現代にこそ日本語を「母語」として持っていることが最も生かされるのではないでしょうか。
「母語」が日本語であることを理解して上手く使いたいものですね。
日本語の解釈としては、「母国の言語」というニュアンスもあるし「母なる国語」というニュアンスもあるのではないかと思います。
そもそも「国語」というニュアンスは日本が生み出したものであり、もともとの漢語にはなかった感覚です。
日本語が生み出した「国語」という言葉が漢字使用国においてその国の公式言語としての意味合いで使われるようになったものです。
日本人にとっては日本という国と日本語という言語はとても近しい関係にあり母なる国という感覚とともに、母国語という言葉に対して違和感を感じることはほとんどないのではないかと思われます。
試しに、「母国語」を英語で表現してみるとどうなるでしょうか。
native languageであったりmother tongueであったりするのではないでしょうか。
国という感覚がある言葉は一切登場しないことが分かるのではないでしょうか。
学校教科においても「国語」に当たる表現がありません、日本語の「国語」に当たるものとしてはEnglishとしてあるだけです。
つまりは、日本語における「国語」という感覚がないのです。
実は世界の言語感覚の中でも日本語だけが持っている感覚なのです。
世界の言語の感覚では「国」と「言語」が結び付くことはほとんどないのです。
それは、日本が帝国主義の時代に大東亜共栄圏構想によって行なってきたアジア進出を見てみるとよく分かるのではないでしょうか。
日本本土自体は幸運にも侵略をされた経験がありませんが、アジア諸国は日本による侵略を受けてきているのです。
その時の統治の結果として漢字や日本語が彼らの中に植え付けられており、日本語の感覚が広がっていることになります。
したがって世界の中でも侵略や開拓といった異文化の導入が激しかった地域においては国と言語が全く結びつきがなく存在しているために、「国語」といった感覚がないものだとも思われます。
国としての存在が必要になってきたときに公用語として指定されたものが「母国語」の感覚に一番近いのではないでしょうか。
人の動きや企業の活動においては最早物理的な国境は存在しない時代になってきました。
そんな、時代になってきて「母国語」という言葉自体が陳腐なものとして聞こえるようになってきたのではないでしょうか。
最近では、native languageやmother tongueについては「母国語」ではなく「母語」と訳されることが多くなってきました。
「国」という感覚を離れて存在する「母語」の感覚は、その言語を話す民族の存在を表わすものとして尊重されているものです。
持っている言語を守るために戦いが起こったり人が死んだりした経験から、国連では「国際母語デー」を定めています。
(参照:国際母語デー 2月21日)
「母国語」というよりは「母語」と表現した方がその言語を持っている人に対しての役割をより適切に示しているように思われます。
言語が持つ役割が単なるコミュニケーションのためのツールではないことが研究されてきたことと無縁ではないと思われます。
2000年以上の歴史を持ちながらも現代に継承されて日常生活で使用されている言語である日本語は、数多くの存在の危機と環境適応を経てとても大きな言語となって受け継がれています。
(参照:日本語の危機(明治維新))
そのために、日本語のすべてを理解し持っている人は存在しないのではないでしょうか。
それは、言語としての日本語を専門的に研究している学者であっても決して例外ではないと思われます。
それでも言語の一面の役割として社会のルールを共有するための共通理解のためのツールとしての機能が有ります。
法治国家においては法律をどのように表現するかがとても重要なことになりますし、法律はすべての人が同じ理解をできなければ法律としての機能が果たせません。
一部の法律家だけの間の共通解釈では法律としての役には立たないのです。
古い法律で解釈が現代に合わなくなってきたものなどについては、その解釈についての公式なものが必要になってくるのはそのためです。
裁判において法律適用よりも条文の解釈の方が問題になることが多いのもそのためです。
大きな日本語のなかの共通解釈のために必要な言葉と共通の意味を与えたものが「国語」であるということができます。
持って生まれた時より親から受け継ぐ言語である「母語」は、親の持っている解釈であり感覚を受け継ぐものです。
それは必ずしも「国語」ではありません。
共通理解のための言語とはなっていないのです。
そのために、義務教育において「国語」が必要になってきているのです。
しかも日本語においては「国語」自体があまりにも大きいために、中学を卒業をしても日刊新聞が読解できないようなことが起こっているのです。
そのように見てくると、一人ひとりの持っている「母語」としての日本語はかなりバラエティに富んだものとなっていると思われます。
それは、方言や家柄と言ったものだけでは説明しきれないものです。
更にその「母語」が経験を積み重ねることによって変更上書きをされていくことになります。
学生時代にはそれほど大きな違いがなかった生活環境も、社会に出ていくと環境の変化は大きなものとなります。
社会生活が長くなればなるほど一人ひとりが持っている言語にも違いが大きくなります。
自分の原点であり自分そのものである「母語」は、自分の経験とともに変化していくものでもあります。
バイリンガルとしての第二言語も、それを理解し使いこなしているのは「母語」によって行なっていることであり、第二言語による知的活動はどんなに頑張っても「母語」による知的活動にははるかに及ばないことが分かっています。
(参照:バイリンガルの知能は低い?)
他の言語に比べて際立った特徴の多い日本語を「母語」として持っていること自体で、あらゆる活動において影響を受けている感覚が他の言語を「母語」とした人たちと異なっているのです。
ボーダーレスの現代にこそ日本語を「母語」として持っていることが最も生かされるのではないでしょうか。
「母語」が日本語であることを理解して上手く使いたいものですね。
2016年1月25日月曜日
母語が決める後天的性格
興味のままに言語についてアンテナを張って来るといろいろな分野に及んでいくことになります。
曲つくりの歌詞に関心を持ったのがきっかけだったのですが、様々なテーマについて広がっていきました。
本人が興味を持っていると不思議とその種の情報が集まってくることも何度か経験しています。
今回も同様のことが起きました。
母語として持った言語が後天的な人の性格を決める最大の要素ではないかと考えて、関連する情報を集め始めたところ今回も決定的な情報に出会うことができました。
人の正確を決める要因として後天的なものとして最大の影響を与えるものが言語(母語)であることが分かってくると、どうしても先天的な影響についても考えざるを得なくなってきます。
つまりは、後天的な要因だけではなく持って生まれた要素があるのではないかと言うことになります。
それを見つけるためにいろいろな情報に当たっていました。
生まれたばかりの子どもはどこでどんな親であろうとも持っている能力については変わらないことも分かってきました。
母語から伝承された母語を認識し使いこなすために一番効率の良いように脳を初めとするあらゆる器官が発達していくことも分かってきました。
その中で今回出会ったのがバースデーサイエンス(株式会社バースデーサイエンス研究所)という考え方でした。
簡単に言ってしまえば誕生日によって持って生まれた性格や基本的な傾向がある程度決まっていると言うものです。
ある種の占いや宗教的なものと思われるかもしれませんが、西洋占星術や四柱推命学などと同じような起源を持つと言うこともできます。
西洋占星術や四柱推命学は占いと言うよりもある種の統計学的な要素を多く含んでいるものであり、科学的な根拠は明確になってはいませんがある母数に対しての傾向を示すものとしては現実に広く利用されているものとなっています。
これらのことに心理学的なデータの統計を中心に考慮したものがバースデーサイエンスということができます。
統計心理学などという表現もあるようです。
風水、気質学、動物占い、星占い、などの生年月日を基準にした統計はそのほとんどの起源がインド占星術か四柱推命学を基本としているようです。
日本で考えた場合には動物占いが一番適していると思って、そこでの分類や傾向が言語ついてもあてはまるのではないかと考えていたところです。
(参照:占いと言語)
そこで見つけた、目標志向型と状況対応型の分類は言語においてもかなり有効なものであることが分かっていました。
今回のバースデーサイエンスにおいては、これがさらにわかり易く明確になったものと思われます。
その中には、物事に取り組む傾向としての目標志向型/状況対応型も考慮されています。
その内容についてはHPにて確認いただきたいと思います。
きちんと講座を受けたわけではありませんので、ここでの説明は省きますが、結果重視型・人柄重視型・直感重視型の三分類による三竦みの構図は納得感の高いものではないでしょうか。
ただし、私の場合は誕生日(生年月日)によって性格が決まっていると言う考え方自体に疑問を持っています。
生まれ出る日の必然性に理由がつかないからです。
私の考えでは、誕生日を観ることによってその原点である精子と卵子の結合のタイミングを推定しているのではないかと思っています。
出産時の子どもに与えるあらゆる影響よりも、受精時のタイミングで与えられる影響の方がはるかに大きいのではないかと思っているからです。
出産時の子どもは既に受精時に決められたものでしかないのではないかと言うことです。
余りにも小さな精子と卵子の出会い結合においては、ささやかな要素や環境の変化であっても結果として大きな影響を与えているのではないかと考えているからです。
その出会いと結合が人として生まれくることにおける先天的な要因のほとんどを決めているのではないでしょうか。
生年月日はその結果のひとつであり、精子と卵子の出会い結合に比べれば影響ははるかに小さいものと言えないでしょうか。
つまりは、生年月日による人の性格や傾向の統計分は結果を見ていることであり、その要因は受精時の環境にこそあるのではないでしょうか。
受精のタイミングを正確に知ることは素人には難しいことでもありますし記録もありません。
出生のタイミングは生年月日だけではなく時間までもが記録にも残っていますし一大イベントとして忘れることのできない日付として記憶されています。
人の妊娠期間はほぼ一定ですが、実際の出生日については個人差や妊娠期間の経過状況によって異なるものでもあります。
妊娠期間中の母体から受ける影響も決して小さなものではないと思われますが、それは受精卵が細胞分裂を繰り返して行くための栄養の補給であり細胞そのものを変化させるものではないと思われます。
先天的な要因はやはり細胞そのものの元となる精子と卵子に存在するものではないでしょうか。
実生活の中でも論理的な判断基準とは別に自然に無意識的に選んでしまう傾向は誰にでもあります。
その傾向を統計学的に分類したものは、科学的な根拠がなくとも自分や人を知るうえで大いに役に立つものとなっているのではないでしょうか。
それは、後天的な言語による知的活動で抑制されたり強化されたりするものとなっていると思われます。
持って生まれた先天的な性格や傾向に後天的に言語が持っている性格や傾向が経験に伴って影響を与えていくことになっているのだと思われます。
理屈抜きに心地の良い関係などはこれらのことが大きな要素になっているのではないでしょうか。
言語の性格や傾向を考える時にどうしても先天的な要素を考えざるを得ない場面が来ます。
同じような言語環境にある人が、これだけ異なった性格や傾向を示すことが実際にはあります。
しかし、ある種の言語を母語とする人たちに共通の性格や傾向がみられることも間違いのないことでしょう。
民族的な特徴と言うのは、生活の拠点としている地理や気候もその要素だと思われますがそれ以上に母語として持っている言語が一番大きな要素ではないでしょうか。
経験を重ねて言語の持つ影響が大きくなってくると、場面や環境に応じた表面的な対応はかなりのことができるようになります。
しかし、何かの時の瞬時の判断においては持っている性格や傾向が理屈抜きに無意識のうちに反映されることが起こります。
言語の経験が少ないうちに見られる性格や傾向はずっとどこかで影響を与えているのでしょうね。
相手に合わせた言語を見つけようとすることを考えると、こんなことも手掛かりになるのでしょうね。
一つ間違えると怪しいことへの導きととらえられそうですが、できるだけ統計学的なことを強調して参考として観ておくことが大事ではないでしょうか。
これだけにのめり込むことはないと思いますが、人の中で生きている以上はとても役に立つ情報であることは間違いのないことだと思いますよ。
曲つくりの歌詞に関心を持ったのがきっかけだったのですが、様々なテーマについて広がっていきました。
本人が興味を持っていると不思議とその種の情報が集まってくることも何度か経験しています。
今回も同様のことが起きました。
母語として持った言語が後天的な人の性格を決める最大の要素ではないかと考えて、関連する情報を集め始めたところ今回も決定的な情報に出会うことができました。
人の正確を決める要因として後天的なものとして最大の影響を与えるものが言語(母語)であることが分かってくると、どうしても先天的な影響についても考えざるを得なくなってきます。
つまりは、後天的な要因だけではなく持って生まれた要素があるのではないかと言うことになります。
それを見つけるためにいろいろな情報に当たっていました。
生まれたばかりの子どもはどこでどんな親であろうとも持っている能力については変わらないことも分かってきました。
母語から伝承された母語を認識し使いこなすために一番効率の良いように脳を初めとするあらゆる器官が発達していくことも分かってきました。
その中で今回出会ったのがバースデーサイエンス(株式会社バースデーサイエンス研究所)という考え方でした。
簡単に言ってしまえば誕生日によって持って生まれた性格や基本的な傾向がある程度決まっていると言うものです。
ある種の占いや宗教的なものと思われるかもしれませんが、西洋占星術や四柱推命学などと同じような起源を持つと言うこともできます。
西洋占星術や四柱推命学は占いと言うよりもある種の統計学的な要素を多く含んでいるものであり、科学的な根拠は明確になってはいませんがある母数に対しての傾向を示すものとしては現実に広く利用されているものとなっています。
これらのことに心理学的なデータの統計を中心に考慮したものがバースデーサイエンスということができます。
統計心理学などという表現もあるようです。
風水、気質学、動物占い、星占い、などの生年月日を基準にした統計はそのほとんどの起源がインド占星術か四柱推命学を基本としているようです。
日本で考えた場合には動物占いが一番適していると思って、そこでの分類や傾向が言語ついてもあてはまるのではないかと考えていたところです。
(参照:占いと言語)
そこで見つけた、目標志向型と状況対応型の分類は言語においてもかなり有効なものであることが分かっていました。
今回のバースデーサイエンスにおいては、これがさらにわかり易く明確になったものと思われます。
その中には、物事に取り組む傾向としての目標志向型/状況対応型も考慮されています。
その内容についてはHPにて確認いただきたいと思います。
きちんと講座を受けたわけではありませんので、ここでの説明は省きますが、結果重視型・人柄重視型・直感重視型の三分類による三竦みの構図は納得感の高いものではないでしょうか。
ただし、私の場合は誕生日(生年月日)によって性格が決まっていると言う考え方自体に疑問を持っています。
生まれ出る日の必然性に理由がつかないからです。
私の考えでは、誕生日を観ることによってその原点である精子と卵子の結合のタイミングを推定しているのではないかと思っています。
出産時の子どもに与えるあらゆる影響よりも、受精時のタイミングで与えられる影響の方がはるかに大きいのではないかと思っているからです。
出産時の子どもは既に受精時に決められたものでしかないのではないかと言うことです。
余りにも小さな精子と卵子の出会い結合においては、ささやかな要素や環境の変化であっても結果として大きな影響を与えているのではないかと考えているからです。
その出会いと結合が人として生まれくることにおける先天的な要因のほとんどを決めているのではないでしょうか。
生年月日はその結果のひとつであり、精子と卵子の出会い結合に比べれば影響ははるかに小さいものと言えないでしょうか。
つまりは、生年月日による人の性格や傾向の統計分は結果を見ていることであり、その要因は受精時の環境にこそあるのではないでしょうか。
受精のタイミングを正確に知ることは素人には難しいことでもありますし記録もありません。
出生のタイミングは生年月日だけではなく時間までもが記録にも残っていますし一大イベントとして忘れることのできない日付として記憶されています。
人の妊娠期間はほぼ一定ですが、実際の出生日については個人差や妊娠期間の経過状況によって異なるものでもあります。
妊娠期間中の母体から受ける影響も決して小さなものではないと思われますが、それは受精卵が細胞分裂を繰り返して行くための栄養の補給であり細胞そのものを変化させるものではないと思われます。
先天的な要因はやはり細胞そのものの元となる精子と卵子に存在するものではないでしょうか。
実生活の中でも論理的な判断基準とは別に自然に無意識的に選んでしまう傾向は誰にでもあります。
その傾向を統計学的に分類したものは、科学的な根拠がなくとも自分や人を知るうえで大いに役に立つものとなっているのではないでしょうか。
それは、後天的な言語による知的活動で抑制されたり強化されたりするものとなっていると思われます。
持って生まれた先天的な性格や傾向に後天的に言語が持っている性格や傾向が経験に伴って影響を与えていくことになっているのだと思われます。
理屈抜きに心地の良い関係などはこれらのことが大きな要素になっているのではないでしょうか。
言語の性格や傾向を考える時にどうしても先天的な要素を考えざるを得ない場面が来ます。
同じような言語環境にある人が、これだけ異なった性格や傾向を示すことが実際にはあります。
しかし、ある種の言語を母語とする人たちに共通の性格や傾向がみられることも間違いのないことでしょう。
民族的な特徴と言うのは、生活の拠点としている地理や気候もその要素だと思われますがそれ以上に母語として持っている言語が一番大きな要素ではないでしょうか。
経験を重ねて言語の持つ影響が大きくなってくると、場面や環境に応じた表面的な対応はかなりのことができるようになります。
しかし、何かの時の瞬時の判断においては持っている性格や傾向が理屈抜きに無意識のうちに反映されることが起こります。
言語の経験が少ないうちに見られる性格や傾向はずっとどこかで影響を与えているのでしょうね。
相手に合わせた言語を見つけようとすることを考えると、こんなことも手掛かりになるのでしょうね。
一つ間違えると怪しいことへの導きととらえられそうですが、できるだけ統計学的なことを強調して参考として観ておくことが大事ではないでしょうか。
これだけにのめり込むことはないと思いますが、人の中で生きている以上はとても役に立つ情報であることは間違いのないことだと思いますよ。
2015年11月17日火曜日
共通性の発見で安心する日本語感覚
日本語を母語として持っている人の感覚として、お互いの違いを見つけることよりも共通性を見つけることに意識が向くことが挙げられます。
ささやかなことでも共通性が見つかるとそれをきっかけに急に親しくなった感覚を持ってしまうことがよくあります。
出身地や生まれ年などは典型的な例ですね。
初めて出会った人に対しての恐怖や不安感は誰にでもあるものですが、その対象を認識するのに二つの感覚があると思われます。
一つは、できるだけ味方として認識しようとする感覚であり、もう一つは敵として認識しようとする感覚です。
これはその民族が生きてきた精神文化に大きく影響を受けていることだと思われます。
その精神文化が大きく反映されているものがその民族が母語として継承してきた言語になります。
したがって、母語として持っている言語の違いは単なる語彙や文法や文字種による違いよりもその言語が継承されてきた精神文化による感覚の違いに大きく現れていることになります。
母語として持っている言語の違いは人としての感覚の違いとなって現れていることになります。
人の知的活動のすべてが言語によって行なわれているために、人のあらゆる活動はその言語の持っている感覚によって影響を受けていることになります。
そのひとつの表れが、初めて出会った人に対する不安を解消するときの活動にも現れているのではないでしょうか。
初めて出会った人を味方として認識しようとする感覚は、他の民族などからの侵略によって皆殺しなどの生死の危険をあまり経験したことのない言語に現れています。
共同体的な活動の歴史が長く、生死に対する最大の恐怖が自然環境でありその変化に対して共同して対応してきた言語の感覚になります。
外部からの侵略を受けずに来た島国や他の民族との交渉を絶ってきた民族の言語に見られる傾向になります。
人は最大の恐怖である自然に立ち向かうための協力者であるという感覚が根底にあるのではないでしょうか。
一方、初めて出会った人を敵として認識しようとする感覚は、他民族による侵略や皆殺しの経験をしてきた言語に見られる傾向です。
「人を見たら泥棒と思え」の極端な感覚となるのではないでしょうか。
同じ人に対しても、敵か味方かの判断は瞬間的に生死を左右こととなります。
そのために、安全策としてまずは敵として認識することの方が生き残る可能性が高くなります。
いったん敵として認識するとその次に行なわれることは、彼我の力の比較です。
どこが違っていてどちらの方が優位にあるのかと言うことになります。
この判断を間違えると生き残れる可能性が低くなってしまいます。
敵と認識する以上は戦うことが前提となります。
こちらの優位にあることで戦うことの方が生き残る可能性が高くなります。
どこからどう見ても相手の方の優位しか見つけられない場合は、戦うことよりも逃げることの方が生き残る可能性が高くなります。
したがって、初めての出会いにおいて敵と認識する感覚を持った言語では、互いの違いに焦点が行くことになります。
その違いに対してどちらが優位であるのかを判断することを感覚として持っていることになります。
日本語の感覚は相手に対して共通性を見つける感覚です。
そこには程度の差がありません。
差を知る必要がないのです。
共通性の発見によって味方としての認識をしたいからです。
そして共通性が見つかることによって味方としての認識をして安心をしたいからです。
日本の戦後の社会は戦勝国の欧米の感覚を持って作られてきました。
教育も同じようにように欧米の感覚を植え込まれてきました。
しかし幸いにも言語は日本語のままだったのです。
これが現実社会と個人の感覚とのギャップを内在することになったのです。
社会や教育で欧米の感覚を押し付けられても、そもそも持っていいる基本的な感覚が異なっているのです。
無理に合わせようとすれば精神的なストレスとなっていくのです。
共通性を見つけて安心して共同して活動していくことに対して一番安心して取り組める感覚を持っているところに、差別化による競争意識と個別優位性の基準を持ってきても安心して取り組めないのです。
味方と認識したくて取り組みますので、相手を理解することにおいてはとても得意なことになります。
したがって、社会の構造も教育の体系も理解して取り組むことは出来るのです。
しかし、持っている基本的な感覚が異なりますので最後の活動のところでは否定することになるのか、それができない環境であるならばイヤイヤ従うことになるのです。
一緒、同じと言う感覚がもたらす安心感は、欧米型の言語感覚では理解できないのです。
反対に彼らは、相手に対して絶対な優位いにいるという安心感は何物にも勝る感覚となっているのです。
日本語の感覚によるボランティアは共感による共同体活動に駆り立てられる感覚が中心となっているのです。
だから、ボランティア応援には一切の差別感覚がなく共同作業が可能となっているのです。
彼らの言語感覚におけるボランティアは、優位にいる者による施しなのです。
ボランティアを受ける側に対して明らかに優位にいるという感覚からなされる行為になっているのです。
そこには、地位や名誉や経済的な面やいろいろな基準が存在しています。
人が亡くなった場合においても、日本語の感覚では残された遺族の悲しみを共有共感することから始まります。
彼らの多くは自分よりもの不幸になった者に対して相対的優位な立場にいることから始まるのです。
いい悪いではないのです。
母語として持っている言語の基本的な感覚がそうなっているのです。
優位を明らかにするための基準や論理は単純明確です。
とてもわかり易いものです。
だから彼らの論理はわかり易く、日本語になっても理解できます。
ところが、その基本的な感覚が大きく異なっていますので、理解できても日本語の感覚では彼らと同じ行動にはならないのです。
欧米での新しい論理や伝統的な考え方が日本にも紹介されてきますが、とても理解しやすいものがほとんどです。
しかし、日本語の感覚による行動には合わないのです。
無理に合わせていくとストレスがたまっていき破綻することになります。
盛んに取り入れられた欧米型の経営やマネジメント手法が今は見る影もありませんね。
無理やり根付かせた企業では、産業医やカウンセリングの出番が多すぎて困っているところもあるようです。
母語としての言語が持っている感覚は生涯変わるものではありません。
自分自身の生涯の感覚です。
気づいているのといないのでは大きな違いとなってきそうですね。
ささやかなことでも共通性が見つかるとそれをきっかけに急に親しくなった感覚を持ってしまうことがよくあります。
出身地や生まれ年などは典型的な例ですね。
初めて出会った人に対しての恐怖や不安感は誰にでもあるものですが、その対象を認識するのに二つの感覚があると思われます。
一つは、できるだけ味方として認識しようとする感覚であり、もう一つは敵として認識しようとする感覚です。
これはその民族が生きてきた精神文化に大きく影響を受けていることだと思われます。
その精神文化が大きく反映されているものがその民族が母語として継承してきた言語になります。
したがって、母語として持っている言語の違いは単なる語彙や文法や文字種による違いよりもその言語が継承されてきた精神文化による感覚の違いに大きく現れていることになります。
母語として持っている言語の違いは人としての感覚の違いとなって現れていることになります。
人の知的活動のすべてが言語によって行なわれているために、人のあらゆる活動はその言語の持っている感覚によって影響を受けていることになります。
そのひとつの表れが、初めて出会った人に対する不安を解消するときの活動にも現れているのではないでしょうか。
初めて出会った人を味方として認識しようとする感覚は、他の民族などからの侵略によって皆殺しなどの生死の危険をあまり経験したことのない言語に現れています。
共同体的な活動の歴史が長く、生死に対する最大の恐怖が自然環境でありその変化に対して共同して対応してきた言語の感覚になります。
外部からの侵略を受けずに来た島国や他の民族との交渉を絶ってきた民族の言語に見られる傾向になります。
人は最大の恐怖である自然に立ち向かうための協力者であるという感覚が根底にあるのではないでしょうか。
一方、初めて出会った人を敵として認識しようとする感覚は、他民族による侵略や皆殺しの経験をしてきた言語に見られる傾向です。
「人を見たら泥棒と思え」の極端な感覚となるのではないでしょうか。
同じ人に対しても、敵か味方かの判断は瞬間的に生死を左右こととなります。
そのために、安全策としてまずは敵として認識することの方が生き残る可能性が高くなります。
いったん敵として認識するとその次に行なわれることは、彼我の力の比較です。
どこが違っていてどちらの方が優位にあるのかと言うことになります。
この判断を間違えると生き残れる可能性が低くなってしまいます。
敵と認識する以上は戦うことが前提となります。
こちらの優位にあることで戦うことの方が生き残る可能性が高くなります。
どこからどう見ても相手の方の優位しか見つけられない場合は、戦うことよりも逃げることの方が生き残る可能性が高くなります。
したがって、初めての出会いにおいて敵と認識する感覚を持った言語では、互いの違いに焦点が行くことになります。
その違いに対してどちらが優位であるのかを判断することを感覚として持っていることになります。
日本語の感覚は相手に対して共通性を見つける感覚です。
そこには程度の差がありません。
差を知る必要がないのです。
共通性の発見によって味方としての認識をしたいからです。
そして共通性が見つかることによって味方としての認識をして安心をしたいからです。
日本の戦後の社会は戦勝国の欧米の感覚を持って作られてきました。
教育も同じようにように欧米の感覚を植え込まれてきました。
しかし幸いにも言語は日本語のままだったのです。
これが現実社会と個人の感覚とのギャップを内在することになったのです。
社会や教育で欧米の感覚を押し付けられても、そもそも持っていいる基本的な感覚が異なっているのです。
無理に合わせようとすれば精神的なストレスとなっていくのです。
共通性を見つけて安心して共同して活動していくことに対して一番安心して取り組める感覚を持っているところに、差別化による競争意識と個別優位性の基準を持ってきても安心して取り組めないのです。
味方と認識したくて取り組みますので、相手を理解することにおいてはとても得意なことになります。
したがって、社会の構造も教育の体系も理解して取り組むことは出来るのです。
しかし、持っている基本的な感覚が異なりますので最後の活動のところでは否定することになるのか、それができない環境であるならばイヤイヤ従うことになるのです。
一緒、同じと言う感覚がもたらす安心感は、欧米型の言語感覚では理解できないのです。
反対に彼らは、相手に対して絶対な優位いにいるという安心感は何物にも勝る感覚となっているのです。
日本語の感覚によるボランティアは共感による共同体活動に駆り立てられる感覚が中心となっているのです。
だから、ボランティア応援には一切の差別感覚がなく共同作業が可能となっているのです。
彼らの言語感覚におけるボランティアは、優位にいる者による施しなのです。
ボランティアを受ける側に対して明らかに優位にいるという感覚からなされる行為になっているのです。
そこには、地位や名誉や経済的な面やいろいろな基準が存在しています。
人が亡くなった場合においても、日本語の感覚では残された遺族の悲しみを共有共感することから始まります。
彼らの多くは自分よりもの不幸になった者に対して相対的優位な立場にいることから始まるのです。
いい悪いではないのです。
母語として持っている言語の基本的な感覚がそうなっているのです。
優位を明らかにするための基準や論理は単純明確です。
とてもわかり易いものです。
だから彼らの論理はわかり易く、日本語になっても理解できます。
ところが、その基本的な感覚が大きく異なっていますので、理解できても日本語の感覚では彼らと同じ行動にはならないのです。
欧米での新しい論理や伝統的な考え方が日本にも紹介されてきますが、とても理解しやすいものがほとんどです。
しかし、日本語の感覚による行動には合わないのです。
無理に合わせていくとストレスがたまっていき破綻することになります。
盛んに取り入れられた欧米型の経営やマネジメント手法が今は見る影もありませんね。
無理やり根付かせた企業では、産業医やカウンセリングの出番が多すぎて困っているところもあるようです。
母語としての言語が持っている感覚は生涯変わるものではありません。
自分自身の生涯の感覚です。
気づいているのといないのでは大きな違いとなってきそうですね。
このイベントは必見です!
2015年9月7日月曜日
「母国語」と言わなくなった
長い歴史を持つ言語が現代においても使用されていることは、その言語を使用する民族における精神文化の継承を表しているものだと思われます。
自らの意思によるものなのか外からの強制によるものであるかは別にしても、より高度な文化を取り込んだ場合にはその文化の持つ言語によってそれまでの言語が駆逐されていくことが起こります。
植民地などはその最たるものであり、文化的には劣っていたとしても武力という一面において支配した側は自らの言語を植え付けようとします。
その言語を使いこなせるかどうかは生死を分けることにもなりますので、それこそ必死に言語の習得がおこなわれることになります。
武力による侵略以外にも言語の置き換えがおこなわれることがあります。
その分野における圧倒的な力を持った言語は、その分野を利用するものにとっては理解しなければならない言語となります。
国と言語が密接に結びついていた時代では、一つの国の中で生涯を終えることが多かったために他の言語と触れる機会がほとんどありませんでした。
個人としての活動においても国単位の活動に縛られなくなったボーダレスの時代においては、より高度な必要とされる技術が言語にこだわらず手に入れることが可能となります。
ある分野での標準とされる言語が自分の母語である場合とそうでない場合を考えると、その分野における理解や影響力に大きな差が存在することになります。
海運、郵便の世界ではフランス語が世界標準の言語でした。
航空の世界では英語が世界標準の言語になっています。
それまでロシア語で運用されていたロシアの航空業界が、世界との共通化のために英語に切り替えを行なった当初はロシア国内で航空機事故が頻発したことは記憶に新しいことです。
そのように眺めた時には、日本語が標準語となっている国際的な分野は何一つないことがよく分かると思います。
つまり、世界と協力してその恩恵を得ようとしたりその分野で影響力を持とうとした場合には、日本語ではダメだということになるのです。
東京オリンピックの招致プレゼンテーションを覚えているでしょうか。
IOC(国際リンピック委員会)の公用語はフランス語と英語です。
公用語となっていない日本語では公式通訳すらつかないことになります。
国連の公用語は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の6言語です。
この言語同士の間では公式文書も公式通訳も行われています。
更に国連であっても実際に業務を行っている作業部会においての公用語は英語とフランス語の2言語となっています。
作業上での通訳翻訳の手間を最小にするためにも使用言語を限定する必要があるのだと思われます。
このように見ていくと、英語を習得することはとても大切なことのように思えてきます。
実際に幼児期から子供に英語を習得させようとする親がたくさんいることも事実です。
世界に対して発信したりアウトプットするときの表現方法として英語を持っていることが大きな武器になることも確かではないでしょうか。
日本語でおこなうよりも理解されやすく、翻訳もされ易いことは確かなことです。
いわゆる世界的な拡散を目的とするのであれば英語は必須ということができるでしょう。
限定的な国の言語を対象としない限り、広く世界を対象とする場合には世界の共通語という地位を確立している英語を使いこなせることが有利になることは間違いありません。
「母国語」という言葉が使われなくなってきました。
替わりに「母語」という言葉が標準的なものとなってきました。
世界での言葉が変わったわけではありません。
英語では昔も今もどちらを表す言葉も "mother tongue" です。
日本語に翻訳したときに「母国語」としてしまったのが始まりです。
"mother tongue" の原意としての使われ方を見ても「母国語」よりも「母語」の方が適しています。
つまりは、言語に対して「母国語」という捉え方が世界にはないことになります。
「国」を意識した日本独特の訳語であったということができるのではないでしょうか。
恐らくは100年以上「母国語」として使用されてきた言葉が、より原意を正確に表現するために修正されてきたということではないでしょうか。
また、「母国語」という言葉からくる意味が現実とは合わなくなってきたということではないでしょうか。
同じことがとてもたくさんの言葉について言えると思われます。
明治維新以降には西欧文化よりたくさんの言葉がなだれ込んできたために、あわてて新しい日本語をたくさん作りました。
ところが、原意を上手く表現できていない言葉がたくさんできてしまったのです。
しかも、彼らの持っている根本的な意味とは異なった感覚で作ってしまった言葉がたくさんあるのです。
それも、人としての基本的なことを表す言葉や社会制度としての根本的な事柄においてもたくさん見ることができるのです。
"right" という同じ時期に導入された民主主義の根本を表す言葉があります。
福沢諭吉がその言葉の持つ重さで日本語でへの翻訳を諦めた言葉でもあります。
「西洋事情と」いう福沢諭吉の本にそのくだりが書かれています。
"right" にたいして「権利」という日本語を充てたのが西周です。
福沢諭吉が外国語を翻訳する際によく仏教用語を使って新しい言葉を作っていたことに模倣したものです。
"speech" を「演説」、"talk" を「談話」と訳したのは福沢諭吉です。
どちらも民主主義には欠かすことのできない大切な言葉です。
その福沢諭吉は「権利」という言葉を思いついていましたが、それでも原意と違うということで翻訳を諦めていたのだと言われています。
日本語の感覚として「権利」には「権力を持って利益を得る」というニュアンスがありますし、中国語においてはまさしくこの意味でしかありません。
力を持って獲得したものである以上、より強い力によっては奪い返されるというニュアンスもあるようです。
"right" の原意は民主主義の根幹をなす言葉であり権力や力とは関係なく、もともと人に備わっているものという感覚が強いものです。
彼らの"right" と日本語の「権利」は異なったものとなってしまったまま150年が過ぎようとしています。
日本語の「権利」にはどうしても都合のいいことだけの利益的な感覚がありますので、思わず「義務」を対として置きたくなってしまうのです。
本来の"right" は理屈抜きに絶対に侵してはならない基本的に備わっているものなのです。
似たような言葉に"liberty" と"freedom" があります。
これを「自由」と翻訳したのも福沢諭吉です。
中国語由来の「自由」には「勝手気まま」と言うニュアンスがあります。
"liberty" は人としてあらゆる抑圧や制限などから解放されていることをその原意として持っていますし、これも民主主義には欠かすことのできない大切な言葉です。
"liberty" には何らかの抑圧や制限から解放された状態を表すことが多いようで、そのことに対して過去に抑圧や制限があったことがうかがえるものです。
"freedom" は学問の自由や言論の自由などという場合に使われることが多く、抑圧や制限のないことを表すことが多いです。
どちらにしても「勝手気まま」というニュアンスからは程遠いものとなっています。
日本語の「自由」は 日本語のニュアンスからすると行き過ぎを制限したり規制したりすることが可能なように思えます。
日本語における「自由」という言葉自体が持っているニュアンスが、英語における"liberty" "freedom" とは異なるものとなっているのではないでしょうか。
日本語の感覚では状況によって「自由」は制限できるものとなってしまうのです。
明治期にはこのような言葉が広辞苑一冊分にもあたる20万語を越えて作り出されたと言われています。
わたしたちが日常的に使っている漢字の熟語名詞のほとんどがこの時に生み出されたものと言ってもいいようです。
(参照:100年たって微妙なずれが現実に・・・)
戦後70年ですが、社会構造は英語の社会を模倣してきましたが言語は幸いにも日本語を残し継承することができました。
しかし、日本語が持っている基本的な感覚は英語が持っている基本的感覚と多くのところでの違いが確実に存在しています。
それは、現実に生活している社会環境とそこで生活している人の持っている感覚の違いとして現れているのではないでしょうか。
英語の感覚で作られた社会を模してきた生活環境は、日本語の持っている基本的な感覚とは微妙なズレを生じていないでしょうか。
日本語は文字のない時代よりの言語を1500年以上にわたって継承し続けて現代でも使用しているのです。
言語自体が持っている感覚はその言語を使用する人において基本的な感覚として働いています。
母語として持っている言語は意識することもなくあらゆる場面において感覚として機能しています。
原意に合わせることが良いことなのかどうかはよく分かりません。
日本語に翻訳したことによって、あらゆる分野において日本独特の発展進化をしてきたことも間違のないことだと思います。
おなじ民主主義とは言っても、日本語と英語では言葉も現実的な体制や運用も異なるものとなっているのは当たり前のことです。
世界と触れることが増えてきたことによって、英語の重要さが増してきています。
同時に、英語と異なる日本語の感覚を知っておくことの重要さも増してきているのではないでしょうか。
よほど特殊な分野で活動しようとしない限りは、世界との接点のほとんどは英語でいいはずです。
英語を理解し使いこなせるようにしている活動も日本語で行なっていることを考えれば、日本語の感覚を理解しておくことは英語との感覚の違いを理解しやすくなるはずです。
母語として日本語を持っていることは、世界人としてとても貴重なことだと思います。
一番深い思考は母語でしかできない以上、そこには日本語としての感覚と特徴が知らないうちに現れてくるのです。
自らの意思によるものなのか外からの強制によるものであるかは別にしても、より高度な文化を取り込んだ場合にはその文化の持つ言語によってそれまでの言語が駆逐されていくことが起こります。
植民地などはその最たるものであり、文化的には劣っていたとしても武力という一面において支配した側は自らの言語を植え付けようとします。
その言語を使いこなせるかどうかは生死を分けることにもなりますので、それこそ必死に言語の習得がおこなわれることになります。
武力による侵略以外にも言語の置き換えがおこなわれることがあります。
その分野における圧倒的な力を持った言語は、その分野を利用するものにとっては理解しなければならない言語となります。
国と言語が密接に結びついていた時代では、一つの国の中で生涯を終えることが多かったために他の言語と触れる機会がほとんどありませんでした。
個人としての活動においても国単位の活動に縛られなくなったボーダレスの時代においては、より高度な必要とされる技術が言語にこだわらず手に入れることが可能となります。
ある分野での標準とされる言語が自分の母語である場合とそうでない場合を考えると、その分野における理解や影響力に大きな差が存在することになります。
海運、郵便の世界ではフランス語が世界標準の言語でした。
航空の世界では英語が世界標準の言語になっています。
それまでロシア語で運用されていたロシアの航空業界が、世界との共通化のために英語に切り替えを行なった当初はロシア国内で航空機事故が頻発したことは記憶に新しいことです。
そのように眺めた時には、日本語が標準語となっている国際的な分野は何一つないことがよく分かると思います。
つまり、世界と協力してその恩恵を得ようとしたりその分野で影響力を持とうとした場合には、日本語ではダメだということになるのです。
東京オリンピックの招致プレゼンテーションを覚えているでしょうか。
IOC(国際リンピック委員会)の公用語はフランス語と英語です。
公用語となっていない日本語では公式通訳すらつかないことになります。
国連の公用語は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の6言語です。
この言語同士の間では公式文書も公式通訳も行われています。
更に国連であっても実際に業務を行っている作業部会においての公用語は英語とフランス語の2言語となっています。
作業上での通訳翻訳の手間を最小にするためにも使用言語を限定する必要があるのだと思われます。
このように見ていくと、英語を習得することはとても大切なことのように思えてきます。
実際に幼児期から子供に英語を習得させようとする親がたくさんいることも事実です。
世界に対して発信したりアウトプットするときの表現方法として英語を持っていることが大きな武器になることも確かではないでしょうか。
日本語でおこなうよりも理解されやすく、翻訳もされ易いことは確かなことです。
いわゆる世界的な拡散を目的とするのであれば英語は必須ということができるでしょう。
限定的な国の言語を対象としない限り、広く世界を対象とする場合には世界の共通語という地位を確立している英語を使いこなせることが有利になることは間違いありません。
「母国語」という言葉が使われなくなってきました。
替わりに「母語」という言葉が標準的なものとなってきました。
世界での言葉が変わったわけではありません。
英語では昔も今もどちらを表す言葉も "mother tongue" です。
日本語に翻訳したときに「母国語」としてしまったのが始まりです。
"mother tongue" の原意としての使われ方を見ても「母国語」よりも「母語」の方が適しています。
つまりは、言語に対して「母国語」という捉え方が世界にはないことになります。
「国」を意識した日本独特の訳語であったということができるのではないでしょうか。
恐らくは100年以上「母国語」として使用されてきた言葉が、より原意を正確に表現するために修正されてきたということではないでしょうか。
また、「母国語」という言葉からくる意味が現実とは合わなくなってきたということではないでしょうか。
同じことがとてもたくさんの言葉について言えると思われます。
明治維新以降には西欧文化よりたくさんの言葉がなだれ込んできたために、あわてて新しい日本語をたくさん作りました。
ところが、原意を上手く表現できていない言葉がたくさんできてしまったのです。
しかも、彼らの持っている根本的な意味とは異なった感覚で作ってしまった言葉がたくさんあるのです。
それも、人としての基本的なことを表す言葉や社会制度としての根本的な事柄においてもたくさん見ることができるのです。
"right" という同じ時期に導入された民主主義の根本を表す言葉があります。
福沢諭吉がその言葉の持つ重さで日本語でへの翻訳を諦めた言葉でもあります。
「西洋事情と」いう福沢諭吉の本にそのくだりが書かれています。
"right" にたいして「権利」という日本語を充てたのが西周です。
福沢諭吉が外国語を翻訳する際によく仏教用語を使って新しい言葉を作っていたことに模倣したものです。
"speech" を「演説」、"talk" を「談話」と訳したのは福沢諭吉です。
どちらも民主主義には欠かすことのできない大切な言葉です。
その福沢諭吉は「権利」という言葉を思いついていましたが、それでも原意と違うということで翻訳を諦めていたのだと言われています。
日本語の感覚として「権利」には「権力を持って利益を得る」というニュアンスがありますし、中国語においてはまさしくこの意味でしかありません。
力を持って獲得したものである以上、より強い力によっては奪い返されるというニュアンスもあるようです。
"right" の原意は民主主義の根幹をなす言葉であり権力や力とは関係なく、もともと人に備わっているものという感覚が強いものです。
彼らの"right" と日本語の「権利」は異なったものとなってしまったまま150年が過ぎようとしています。
日本語の「権利」にはどうしても都合のいいことだけの利益的な感覚がありますので、思わず「義務」を対として置きたくなってしまうのです。
本来の"right" は理屈抜きに絶対に侵してはならない基本的に備わっているものなのです。
似たような言葉に"liberty" と"freedom" があります。
これを「自由」と翻訳したのも福沢諭吉です。
中国語由来の「自由」には「勝手気まま」と言うニュアンスがあります。
"liberty" は人としてあらゆる抑圧や制限などから解放されていることをその原意として持っていますし、これも民主主義には欠かすことのできない大切な言葉です。
"liberty" には何らかの抑圧や制限から解放された状態を表すことが多いようで、そのことに対して過去に抑圧や制限があったことがうかがえるものです。
"freedom" は学問の自由や言論の自由などという場合に使われることが多く、抑圧や制限のないことを表すことが多いです。
どちらにしても「勝手気まま」というニュアンスからは程遠いものとなっています。
日本語の「自由」は 日本語のニュアンスからすると行き過ぎを制限したり規制したりすることが可能なように思えます。
日本語における「自由」という言葉自体が持っているニュアンスが、英語における"liberty" "freedom" とは異なるものとなっているのではないでしょうか。
日本語の感覚では状況によって「自由」は制限できるものとなってしまうのです。
明治期にはこのような言葉が広辞苑一冊分にもあたる20万語を越えて作り出されたと言われています。
わたしたちが日常的に使っている漢字の熟語名詞のほとんどがこの時に生み出されたものと言ってもいいようです。
(参照:100年たって微妙なずれが現実に・・・)
戦後70年ですが、社会構造は英語の社会を模倣してきましたが言語は幸いにも日本語を残し継承することができました。
しかし、日本語が持っている基本的な感覚は英語が持っている基本的感覚と多くのところでの違いが確実に存在しています。
それは、現実に生活している社会環境とそこで生活している人の持っている感覚の違いとして現れているのではないでしょうか。
英語の感覚で作られた社会を模してきた生活環境は、日本語の持っている基本的な感覚とは微妙なズレを生じていないでしょうか。
日本語は文字のない時代よりの言語を1500年以上にわたって継承し続けて現代でも使用しているのです。
言語自体が持っている感覚はその言語を使用する人において基本的な感覚として働いています。
母語として持っている言語は意識することもなくあらゆる場面において感覚として機能しています。
原意に合わせることが良いことなのかどうかはよく分かりません。
日本語に翻訳したことによって、あらゆる分野において日本独特の発展進化をしてきたことも間違のないことだと思います。
おなじ民主主義とは言っても、日本語と英語では言葉も現実的な体制や運用も異なるものとなっているのは当たり前のことです。
世界と触れることが増えてきたことによって、英語の重要さが増してきています。
同時に、英語と異なる日本語の感覚を知っておくことの重要さも増してきているのではないでしょうか。
よほど特殊な分野で活動しようとしない限りは、世界との接点のほとんどは英語でいいはずです。
英語を理解し使いこなせるようにしている活動も日本語で行なっていることを考えれば、日本語の感覚を理解しておくことは英語との感覚の違いを理解しやすくなるはずです。
母語として日本語を持っていることは、世界人としてとても貴重なことだと思います。
一番深い思考は母語でしかできない以上、そこには日本語としての感覚と特徴が知らないうちに現れてくるのです。
同時に、英語との感覚にギャップが自然に生まれるものです。
日本語を母語に持っていることはとてもすごいことだと思われます。
英語との比較において見ていくことでより鮮明になるのでしょうね。
(参照:日本語 vs 英語)
違いの分かる日本人が求められているのではないでしょうか。
日本語を母語に持っていることはとてもすごいことだと思われます。
英語との比較において見ていくことでより鮮明になるのでしょうね。
(参照:日本語 vs 英語)
違いの分かる日本人が求められているのではないでしょうか。
2015年8月25日火曜日
言語の特徴を知って自分を知る
人の持っている気質や傾向を形成してものには、先天的に持って生まれたものと後天的に身につけてきたものがあると思われます。
先天的に持って生まれたものについては、自分自身ではどうすることもできませんので変えることができない基本的なものと思われます。
これに大きな影響を与えるものは生まれてくるまでの親の環境ではないでしょうか。
およそ10ヶ月という期間そのおなかの中にいることになる母親の影響は一番大きなものと言えるのではないでしょうか。
似たような環境にあれば似たような気質や傾向になるであろうことは想像に難くないことです。
現代のように生活するための環境を自分で選択したり作ったりすることができなかった時代においては、より生活するための自然環境の与える影響は大きかったと思われます。
それは周りの人が与える影響よりもより生命にかかわりが深かったものと思われます。
そのために自然環境の同じような地域においては生まれた時期によって同じような傾向を示す基本的な気質が形成されていたものと思われます。
その自然環境によって、周りにいる人たちの心情的な動きも同じようなものでありその中で生まれた者たちには同じような傾向が形成されたと思われます。
自然環境を決める最大の要因は地球の動きであり宇宙における地球のポジションです。
古代よりこのことに気がついていた人類は、最古の文明においても天文学を大きな拠り所としてきました。
それぞれの文明の地域における自然環境の変化とそのサイクルを発見してきました。
やがて、それが暦となって定着していくことになります。
したがって、それぞれの地域にはその地域独特の暦とサイクルがあります。
日本は、暦ごと中国の文明からの恩恵を受けました。
地域的に近いとはいえ、自然環境のサイクルと変化は異なっています。
そのために日本としての調整がなされてきましたが、それでも基本形はかなりの部分残ったものとなっています。
地域的な特徴と暦を基準とすることよって、多くの統計が可能になりました。
人の持って生まれた気質や傾向にこれを当てはめたものが、西洋占星術であり四柱推命学です。
したがって、これらの分類は統計がおこなわれた時点での地域的や暦が基準となっているものとなっています。
勝手に自分の生活している場所で利用しようとしても、地域的なズレや暦のズレによる誤差が生じるものとなっているのです。
拠り所とする統計データも全てが同じ時期の同じ地域で集められたわけではないので、採取された時期によっては暦上の調整が必要なものが存在していると言われています。
現代の生年月日時間をそのまま利用して当てはめればよいものとは大きく違ったものとなっているようです。
全く同じ時期の環境であったとしても、ヨーロッパと中国と日本では大きく異なったものとなっています。
地域と時間が大切な軸となっており、その時点での地形と天候が人の持って生まれたもの対して大きな影響を与えているということになるのでしょう。
後天的に影響を与える最大の要素が言語だと思われます。
あらゆる知的活動のツールとなっているのが言語です。
思考活動や表現活動ができない幼児期であっても認知活動が最初にできるようになります。
これもすべて言語によるものです。
それ以降あらゆる影響を言語によって受けていくことになります。
言語化されていない影響であっても、それを受取っているのは自分のなかで言語化して受け取っているからです。
したがって、どの言語を使用しているのか、母語としてどの言語を持っているのかは自分が形成されてきた大きな要素となっているのです。
言語の大きな分類でいえば、英語、フランス語、ロシア語、中国語、アラビア語のようにある国の民族が使用する言葉としてのものもあります。
しかし、同じ英語であったとしても一人ひとりの個人が持っている英語は微妙な違いを持ったものとなっています。
それは、すべての人が全く同じ母語を持っているわけではないからです。
母語は基本的には母親から子供に伝えられる伝承言語です。
母親自身が持っている言語がすべての人で異なったものとなっています。
同じ日本語であっても一人ひとりの日本語が違っているのと同じことになります。
(参照:「母語」を伝える)
義務教育では日本語の共通語としての国語を身につけてますが、国語だけで日本語が成り立っているわけではありません。
社会に出ていけば様々な環境によって異なる言語があります。
それらの言語によって自分の言語が出来上がっていくことになります。
その個性的な母親の持っている言語が子どもに伝承されていくのです。
しかも母親の持っている言語のすべてが伝承されるわけではありません。
同じ日の同じタイミングに生まれた双子であっても、母親から伝わる母語は違ったものとなっているのです。
そうでなければ、学校と家庭という環境でほとんどすべてを共有している一卵性双生児はもっと同じような気質的な傾向を示していなければならないはずです。
後天的に形成されるあらゆる要素は言語によって最大に影響を受けていると思われます。
個人的な言語の差も必要かもしれませんが、大きな分類として日本語という言語の特徴を知っておく必要があるのではないでしょうか。
自分を知るための一番の近道ではないでしょうか。
世界の現存する言語の中でもきわめて特殊な言語として存在している日本語は、言語の持っている感覚においても数多くの特徴を有しています。
世界と触れる場面が増えてきています。
同じ現象や事象に対してどのように受け止めるのかは、それぞれの言語が持っている基本的な感覚に大きく依存します。
理屈抜きの感覚な認知活動になるからです。
その感覚が他の言語とは大きく異なっているのが日本語です。
特に先進文化圏の言語とはその感覚が対極にあると言ってもいいものとなっています。
対立を確認することから交渉が始まる言語の感覚と、対立を作らないように自分が適応して共生をしようとする言語の感覚は本質的には相容れるものとはなりません。
共生しようとする側が一方的に何とか適応しようとしますが、対立から始めたい側にとって曖昧さの塊となってしまいます。
双方がストレスを抱えてしまうことになるのです。
世界においては日本語の持っている感覚の方が特殊になります。
その分、自分を知るにはもってこいの要素でもあります。
同じ日本語のなかでの感覚の違いでしたら気がつきやすいですが、他の言語との比較における感覚の違いはなかなか気がつきにくいものです。
それでも、自分を知るための一番の近道ではないでしょうか。
恐らく、知れば知るほど面白くなると思いますよ。
そこから気がつくこともたくさんありますし、思わぬ発見もたくさんあると思います。
持って生まれた撰的要素プラス後天的な言語の要素で自分ができているとわかると、既成概念や固定概念などもこだわらなくなりますよ。
一度試してみませんか。
先天的に持って生まれたものについては、自分自身ではどうすることもできませんので変えることができない基本的なものと思われます。
これに大きな影響を与えるものは生まれてくるまでの親の環境ではないでしょうか。
およそ10ヶ月という期間そのおなかの中にいることになる母親の影響は一番大きなものと言えるのではないでしょうか。
似たような環境にあれば似たような気質や傾向になるであろうことは想像に難くないことです。
現代のように生活するための環境を自分で選択したり作ったりすることができなかった時代においては、より生活するための自然環境の与える影響は大きかったと思われます。
それは周りの人が与える影響よりもより生命にかかわりが深かったものと思われます。
そのために自然環境の同じような地域においては生まれた時期によって同じような傾向を示す基本的な気質が形成されていたものと思われます。
その自然環境によって、周りにいる人たちの心情的な動きも同じようなものでありその中で生まれた者たちには同じような傾向が形成されたと思われます。
自然環境を決める最大の要因は地球の動きであり宇宙における地球のポジションです。
古代よりこのことに気がついていた人類は、最古の文明においても天文学を大きな拠り所としてきました。
それぞれの文明の地域における自然環境の変化とそのサイクルを発見してきました。
やがて、それが暦となって定着していくことになります。
したがって、それぞれの地域にはその地域独特の暦とサイクルがあります。
日本は、暦ごと中国の文明からの恩恵を受けました。
地域的に近いとはいえ、自然環境のサイクルと変化は異なっています。
そのために日本としての調整がなされてきましたが、それでも基本形はかなりの部分残ったものとなっています。
地域的な特徴と暦を基準とすることよって、多くの統計が可能になりました。
人の持って生まれた気質や傾向にこれを当てはめたものが、西洋占星術であり四柱推命学です。
したがって、これらの分類は統計がおこなわれた時点での地域的や暦が基準となっているものとなっています。
勝手に自分の生活している場所で利用しようとしても、地域的なズレや暦のズレによる誤差が生じるものとなっているのです。
拠り所とする統計データも全てが同じ時期の同じ地域で集められたわけではないので、採取された時期によっては暦上の調整が必要なものが存在していると言われています。
現代の生年月日時間をそのまま利用して当てはめればよいものとは大きく違ったものとなっているようです。
全く同じ時期の環境であったとしても、ヨーロッパと中国と日本では大きく異なったものとなっています。
地域と時間が大切な軸となっており、その時点での地形と天候が人の持って生まれたもの対して大きな影響を与えているということになるのでしょう。
後天的に影響を与える最大の要素が言語だと思われます。
あらゆる知的活動のツールとなっているのが言語です。
思考活動や表現活動ができない幼児期であっても認知活動が最初にできるようになります。
これもすべて言語によるものです。
それ以降あらゆる影響を言語によって受けていくことになります。
言語化されていない影響であっても、それを受取っているのは自分のなかで言語化して受け取っているからです。
したがって、どの言語を使用しているのか、母語としてどの言語を持っているのかは自分が形成されてきた大きな要素となっているのです。
言語の大きな分類でいえば、英語、フランス語、ロシア語、中国語、アラビア語のようにある国の民族が使用する言葉としてのものもあります。
しかし、同じ英語であったとしても一人ひとりの個人が持っている英語は微妙な違いを持ったものとなっています。
それは、すべての人が全く同じ母語を持っているわけではないからです。
母語は基本的には母親から子供に伝えられる伝承言語です。
母親自身が持っている言語がすべての人で異なったものとなっています。
同じ日本語であっても一人ひとりの日本語が違っているのと同じことになります。
(参照:「母語」を伝える)
義務教育では日本語の共通語としての国語を身につけてますが、国語だけで日本語が成り立っているわけではありません。
社会に出ていけば様々な環境によって異なる言語があります。
それらの言語によって自分の言語が出来上がっていくことになります。
その個性的な母親の持っている言語が子どもに伝承されていくのです。
しかも母親の持っている言語のすべてが伝承されるわけではありません。
同じ日の同じタイミングに生まれた双子であっても、母親から伝わる母語は違ったものとなっているのです。
そうでなければ、学校と家庭という環境でほとんどすべてを共有している一卵性双生児はもっと同じような気質的な傾向を示していなければならないはずです。
後天的に形成されるあらゆる要素は言語によって最大に影響を受けていると思われます。
個人的な言語の差も必要かもしれませんが、大きな分類として日本語という言語の特徴を知っておく必要があるのではないでしょうか。
自分を知るための一番の近道ではないでしょうか。
世界の現存する言語の中でもきわめて特殊な言語として存在している日本語は、言語の持っている感覚においても数多くの特徴を有しています。
世界と触れる場面が増えてきています。
同じ現象や事象に対してどのように受け止めるのかは、それぞれの言語が持っている基本的な感覚に大きく依存します。
理屈抜きの感覚な認知活動になるからです。
その感覚が他の言語とは大きく異なっているのが日本語です。
特に先進文化圏の言語とはその感覚が対極にあると言ってもいいものとなっています。
対立を確認することから交渉が始まる言語の感覚と、対立を作らないように自分が適応して共生をしようとする言語の感覚は本質的には相容れるものとはなりません。
共生しようとする側が一方的に何とか適応しようとしますが、対立から始めたい側にとって曖昧さの塊となってしまいます。
双方がストレスを抱えてしまうことになるのです。
世界においては日本語の持っている感覚の方が特殊になります。
その分、自分を知るにはもってこいの要素でもあります。
同じ日本語のなかでの感覚の違いでしたら気がつきやすいですが、他の言語との比較における感覚の違いはなかなか気がつきにくいものです。
それでも、自分を知るための一番の近道ではないでしょうか。
恐らく、知れば知るほど面白くなると思いますよ。
そこから気がつくこともたくさんありますし、思わぬ発見もたくさんあると思います。
持って生まれた撰的要素プラス後天的な言語の要素で自分ができているとわかると、既成概念や固定概念などもこだわらなくなりますよ。
一度試してみませんか。
2015年8月21日金曜日
人を作る言語
幼児期における母語習得の大切さについては、幾度となく触れてきました。
(参照:母語の習得と幼児教育)
子ども自身で母語を選択することができない以上、親の担っている役割はとてつもなく大きいということができます。
知的活動の基本となる機能が出来上がるまでは、親によって作られる母語習得の環境が大きな影響を与えます。
持って生まれた人としての傾向があるとすれば、それを表現するのも行動するのもすべて言語によるサポートがなければなりません。
持って生まれたものは自然に発現されるわけではなく、発現するためのツールとしての言語を習得して初めて発現することができるようになります。
そこでは言語自体が持っている傾向や感覚に大きく影響を受けることになることは避けることができなくなります。
持って生まれた性格的なものや気質的なものは同じであったとしても、母語として持った言語によって基本的な性格や傾向が異なってくるのは当然のこととなります。
生年月日や時間までを含めて持って生まれた傾向や気質を知ろうとすることは学問的にもありますし、占術的にも数多く存在しています。
占い的な要素は別にしても、歴史的に統計学的なアプローチで行われてきたことに大きく二つのことがあると思われます。
一つが西洋占星術でありもう一つが四柱推命学です。
両者ともに、身近なところでは占いとして扱われていますが、統計学的にその傾向を分類したものとなっているものです。
生年月日を基準として行う性格分析については、ほとんどのものがこのどちらかをベースとしたものとなっています。
統計学的なアプローチですから、必ず例外は存在しますし傾向を示すものとして扱えばとても便利なものです。
ただし、そのまま利用するには元のデータが取得された環境と比べて注意すべきことが二点ほどあります。
一点はもともとのデータが所得された地域とのちがいによるものであり、もう一点は分類が実施された時期との暦や時差による調整が必要になることです。
どちらも天文学的な変化を基軸として捉えられた期間を分類の基準としていますので、地域や時間的なズレによって及ぼされる影響が異なることを考慮しておかなければいけません。
西暦による生年月日だけを基準にして統計に当てはめてしまうとズレが出てしまうことになります。
そこには、元の統計データを西暦に読み替えるかあるいは現在の西暦を元データの時代の暦に読み替える調整が必要になります。
また、地域による影響の違いも元のデータが集められた地域時代との調整をしなければなりません。
ヨーロッパにおける占星術と中国における四柱推命が同じ生年月日であっても内容が異なってくるのは当たり前のことなのです。
現代の西暦に合わせて、しかも日本という地域に合わせて調整された分類やデータは決して多くはありません。
一般的に簡単に目にすることができる生年月日による分類ではほとんど調整が行なわれていないと思ったら間違いないと思います。
先天的に持った傾向に対して、後天的に一番大きな影響を与えるものが言語ということができるでしょう。
ひとたび言語を身につけた以上は、あらゆることが言語を通して習得されていくからです。
視覚や触覚で習得したとしても、そのことを認識するためには必ず言語が関与しているからです。
視覚で習得した情報を対象物として認識するのは言語がなければできない活動ですし、触覚として得た情報を認識するにも言語によって認識されていることになります。
その言語にもそれぞれの言語によって独特の感覚や傾向があったとしたら、人の持っている感覚に対してほとんどすべてのことに対して影響を与えているのではないのでしょうか。
そこには、先天的に持っている気質や傾向すらも修正してしまうくらいの力があると思われます。
更には、言語による教育によってこの影響は一段と強いものとなっています。
ある種の刷り込みと言ってもいいもではないでしょうか。
同じ日本語を母語としていると言っても、人によって母語として持っている日本語が異なります。
それは、母語が母親から伝承された言語であり、母親の持っている日本語が一人ひとり異なるからです。
全く同じ環境に育った者であっても持っている母語においては微妙な違いがあることが分かっています。
同じ日に生まれた双子であっても、母語においては微妙な差があることが分かっています。
もちろん、他者と比較したら遥かに小さな差であることは間違いないようです。
もの心がついて基本的な教育を受けて言語による表現ができるようになるまでに身についた言語による影響が一番大きなものと言えます。
基本的な性格や傾向はこの間に作られているということができるのではないでしょうか。
義務教育期間を中心とした学童生徒の間に作られていることになります。
画一的な国語による教育を受けながらも、個性としては母語や持って生まれたものや生活環境によって差ができているものと思われます。
しかし、日本語(国語)という同一言語における環境は間違いなくある種の傾向を作っているものだと思われます。
しかも、人の性格や傾向の基本的な感覚を作っていく時期に家庭や学校で触れている言語の影響は計り知れないものがあると思われます。
総論的に言うならば、日本人としての特徴を作っているのがこの時期であると言えるのではないでしょうか。
社会に出て独立していまえば、それぞれの環境における必要な言語が出てきますし、学校という統一的な環境に比べるとより多様な環境となってきます。
そのためにそれぞれの環境において必要な能力や知識も生活も異なってきますので、傾向として捉えることは難しくなると思われます。
しかし、学童生徒の間に造られた傾向は類似性の高い環境における基本的な傾向として基盤として常に根底に存在していると思われます。
日本語の持っている基本的な感覚を知ることは、まさしく日本人としての基本的な傾向を知ることになるのではないでしょうか。
社会に出てからの知的活動は、生きていくためあるいは稼ぐために必要な具体的な活動です。
その根本にある知的活動は一人ひとりがある種の傾向を持って、それ以前にできあがっていると思われます。
現実社会で生きていくためには、新たな経験と共に修正を加えてパターンを見つけて対応していくことになると思われますが、基本的な知的活動の傾向は変わらないものだと思います。
これと異なる活動をしなければならなくなった時に、ストレスを感じるのでありそれでもやらなければならないときにモチベーションが必要になってくるのではないでしょうか。
日本語の持っている基本的な感覚の傾向と異なったことが求められる社会を作ってきてしまったたのではないでしょうか。
世界のなかで社会的にストレスを抱えた人の割合が圧倒的に高い日本は、日本語という元が持っている感覚とあまりにも違うことが多すぎる社会を作ってきたと思われます。
日本語の基本的な感覚からすると大きな変化には抵抗があります。
現状に何とか自分が適応して共生していこうとするのが日本語の持っている基本的な感覚です。
それからすると、社会を変化させていくことはとてつもない労力を伴うことになります。
社会を是として自分を否として、自分の方を修正しようとするのが日本語の持っている基本的な感覚です。
ヨーロッパやアメリカの模倣を始めてからわずか150年程度しかたっていないのです。
それ以前には1500年以上に及ぶ日本語感覚による社会が継承されていたのです。
少なくとも、言語の持っている基本的な感覚とはそれほど乖離していない社会だっと思われます。
(参照:社会と言語の融合を目指して)
明治維新に始まった西欧社会の模倣は、それでも何とか日本に取り込みながら新しい言葉をたくさん作りながら自分の物として社会を作ってきました。
太平洋戦争後は、自分の物とは全く違った社会を作らされてきました。
しかし、その効率性と経済性はある面では世界標準であり、そこでの努力によってその分野だけにおいては世界での地位を確保してきました。
しかし、それは言語の基本的な感覚としては、日本語の対極にある英語という言語の持っている感覚だったのです。
しかも同じ英語であってもイギリス英語はまだ日本語に近い感覚を持ったものですが、アメリカ英語という日本語の対極にある感覚だったのです。
世界の共通語が英語になっていますので、英語との接触を回避することは出来ません。
しかし、英語と触れる時に日本語との感覚の違いを意識する必要があると思います。
言語の感覚の違いは、その言語を使用する人において発現しています。
その言語を使用する民族の社会において発現しています。
その言語を使用して行なわれている知的活動において発現しています。
英語との接触を避けることができない以上、日本語の感覚との違いについては知っておくことが必須となっているのではないでしょうか。
いま、あらためて日本語を見直してみる機会が来ているのではないでしょうか。
自分自身の変えることのできない基本的な感覚を形成した言語としての観点から見直したときに、今後のヒントとなることがたくさん見つかる気がしています。
自分を知る上でも一番いい方法のような気がしています。
社会的にストレスを抱えていることのほとんどのことが言語感覚と実社会のズレで説明できてしまうのは偶然ではないと思っているのですが・・・。
(参照:母語の習得と幼児教育)
子ども自身で母語を選択することができない以上、親の担っている役割はとてつもなく大きいということができます。
知的活動の基本となる機能が出来上がるまでは、親によって作られる母語習得の環境が大きな影響を与えます。
持って生まれた人としての傾向があるとすれば、それを表現するのも行動するのもすべて言語によるサポートがなければなりません。
持って生まれたものは自然に発現されるわけではなく、発現するためのツールとしての言語を習得して初めて発現することができるようになります。
そこでは言語自体が持っている傾向や感覚に大きく影響を受けることになることは避けることができなくなります。
持って生まれた性格的なものや気質的なものは同じであったとしても、母語として持った言語によって基本的な性格や傾向が異なってくるのは当然のこととなります。
生年月日や時間までを含めて持って生まれた傾向や気質を知ろうとすることは学問的にもありますし、占術的にも数多く存在しています。
占い的な要素は別にしても、歴史的に統計学的なアプローチで行われてきたことに大きく二つのことがあると思われます。
一つが西洋占星術でありもう一つが四柱推命学です。
両者ともに、身近なところでは占いとして扱われていますが、統計学的にその傾向を分類したものとなっているものです。
生年月日を基準として行う性格分析については、ほとんどのものがこのどちらかをベースとしたものとなっています。
統計学的なアプローチですから、必ず例外は存在しますし傾向を示すものとして扱えばとても便利なものです。
ただし、そのまま利用するには元のデータが取得された環境と比べて注意すべきことが二点ほどあります。
一点はもともとのデータが所得された地域とのちがいによるものであり、もう一点は分類が実施された時期との暦や時差による調整が必要になることです。
どちらも天文学的な変化を基軸として捉えられた期間を分類の基準としていますので、地域や時間的なズレによって及ぼされる影響が異なることを考慮しておかなければいけません。
西暦による生年月日だけを基準にして統計に当てはめてしまうとズレが出てしまうことになります。
そこには、元の統計データを西暦に読み替えるかあるいは現在の西暦を元データの時代の暦に読み替える調整が必要になります。
また、地域による影響の違いも元のデータが集められた地域時代との調整をしなければなりません。
ヨーロッパにおける占星術と中国における四柱推命が同じ生年月日であっても内容が異なってくるのは当たり前のことなのです。
現代の西暦に合わせて、しかも日本という地域に合わせて調整された分類やデータは決して多くはありません。
一般的に簡単に目にすることができる生年月日による分類ではほとんど調整が行なわれていないと思ったら間違いないと思います。
先天的に持った傾向に対して、後天的に一番大きな影響を与えるものが言語ということができるでしょう。
ひとたび言語を身につけた以上は、あらゆることが言語を通して習得されていくからです。
視覚や触覚で習得したとしても、そのことを認識するためには必ず言語が関与しているからです。
視覚で習得した情報を対象物として認識するのは言語がなければできない活動ですし、触覚として得た情報を認識するにも言語によって認識されていることになります。
その言語にもそれぞれの言語によって独特の感覚や傾向があったとしたら、人の持っている感覚に対してほとんどすべてのことに対して影響を与えているのではないのでしょうか。
そこには、先天的に持っている気質や傾向すらも修正してしまうくらいの力があると思われます。
更には、言語による教育によってこの影響は一段と強いものとなっています。
ある種の刷り込みと言ってもいいもではないでしょうか。
同じ日本語を母語としていると言っても、人によって母語として持っている日本語が異なります。
それは、母語が母親から伝承された言語であり、母親の持っている日本語が一人ひとり異なるからです。
全く同じ環境に育った者であっても持っている母語においては微妙な違いがあることが分かっています。
同じ日に生まれた双子であっても、母語においては微妙な差があることが分かっています。
もちろん、他者と比較したら遥かに小さな差であることは間違いないようです。
もの心がついて基本的な教育を受けて言語による表現ができるようになるまでに身についた言語による影響が一番大きなものと言えます。
基本的な性格や傾向はこの間に作られているということができるのではないでしょうか。
義務教育期間を中心とした学童生徒の間に作られていることになります。
画一的な国語による教育を受けながらも、個性としては母語や持って生まれたものや生活環境によって差ができているものと思われます。
しかし、日本語(国語)という同一言語における環境は間違いなくある種の傾向を作っているものだと思われます。
しかも、人の性格や傾向の基本的な感覚を作っていく時期に家庭や学校で触れている言語の影響は計り知れないものがあると思われます。
総論的に言うならば、日本人としての特徴を作っているのがこの時期であると言えるのではないでしょうか。
社会に出て独立していまえば、それぞれの環境における必要な言語が出てきますし、学校という統一的な環境に比べるとより多様な環境となってきます。
そのためにそれぞれの環境において必要な能力や知識も生活も異なってきますので、傾向として捉えることは難しくなると思われます。
しかし、学童生徒の間に造られた傾向は類似性の高い環境における基本的な傾向として基盤として常に根底に存在していると思われます。
日本語の持っている基本的な感覚を知ることは、まさしく日本人としての基本的な傾向を知ることになるのではないでしょうか。
社会に出てからの知的活動は、生きていくためあるいは稼ぐために必要な具体的な活動です。
その根本にある知的活動は一人ひとりがある種の傾向を持って、それ以前にできあがっていると思われます。
現実社会で生きていくためには、新たな経験と共に修正を加えてパターンを見つけて対応していくことになると思われますが、基本的な知的活動の傾向は変わらないものだと思います。
これと異なる活動をしなければならなくなった時に、ストレスを感じるのでありそれでもやらなければならないときにモチベーションが必要になってくるのではないでしょうか。
日本語の持っている基本的な感覚の傾向と異なったことが求められる社会を作ってきてしまったたのではないでしょうか。
世界のなかで社会的にストレスを抱えた人の割合が圧倒的に高い日本は、日本語という元が持っている感覚とあまりにも違うことが多すぎる社会を作ってきたと思われます。
日本語の基本的な感覚からすると大きな変化には抵抗があります。
現状に何とか自分が適応して共生していこうとするのが日本語の持っている基本的な感覚です。
それからすると、社会を変化させていくことはとてつもない労力を伴うことになります。
社会を是として自分を否として、自分の方を修正しようとするのが日本語の持っている基本的な感覚です。
ヨーロッパやアメリカの模倣を始めてからわずか150年程度しかたっていないのです。
それ以前には1500年以上に及ぶ日本語感覚による社会が継承されていたのです。
少なくとも、言語の持っている基本的な感覚とはそれほど乖離していない社会だっと思われます。
(参照:社会と言語の融合を目指して)
明治維新に始まった西欧社会の模倣は、それでも何とか日本に取り込みながら新しい言葉をたくさん作りながら自分の物として社会を作ってきました。
太平洋戦争後は、自分の物とは全く違った社会を作らされてきました。
しかし、その効率性と経済性はある面では世界標準であり、そこでの努力によってその分野だけにおいては世界での地位を確保してきました。
しかし、それは言語の基本的な感覚としては、日本語の対極にある英語という言語の持っている感覚だったのです。
しかも同じ英語であってもイギリス英語はまだ日本語に近い感覚を持ったものですが、アメリカ英語という日本語の対極にある感覚だったのです。
世界の共通語が英語になっていますので、英語との接触を回避することは出来ません。
しかし、英語と触れる時に日本語との感覚の違いを意識する必要があると思います。
言語の感覚の違いは、その言語を使用する人において発現しています。
その言語を使用する民族の社会において発現しています。
その言語を使用して行なわれている知的活動において発現しています。
英語との接触を避けることができない以上、日本語の感覚との違いについては知っておくことが必須となっているのではないでしょうか。
いま、あらためて日本語を見直してみる機会が来ているのではないでしょうか。
自分自身の変えることのできない基本的な感覚を形成した言語としての観点から見直したときに、今後のヒントとなることがたくさん見つかる気がしています。
自分を知る上でも一番いい方法のような気がしています。
社会的にストレスを抱えていることのほとんどのことが言語感覚と実社会のズレで説明できてしまうのは偶然ではないと思っているのですが・・・。
2015年3月17日火曜日
お母さんになるための日本語(3)・・・日本語の感覚
子どもが生まれてから、子どもに伝える言葉に気を付けようとしても、日々の育児の多忙さのなかで言語を意識して使うことはほとんど困難なことになってしまうのではないでしょうか。
どうしても日常的に使っている言葉が出てしまうことになります。
しかも幼児期は、母親の言葉を聞き分ける力が本能的にありますので、直接の語りかけや触れ合いだけでなく、離れたところであっても母親の言葉を聞き分けてしまいます。
そのためには、子どもが生まれる前から日常的に、子どもに伝えるべき言語を意識して使って習慣化しておかなければなりません。
生まれてから、このような言語を使おうと思っていても、実際には普段使っている言語しか使えなくなってしまいます。
育児の多忙さは、精神的にも大きな負担となって母親にのしかかってきます。
子どもとの直接的な触れ合いは、そのほとんどが母親の役割となりますので、それ以外の家事に関することなどで家族のサポートを得られるようにしておきたいものです。
母が日々心穏やかに暮らして子どもに接することが、子どもの安心安全の状況のためには一番大切なことになります。
母親が心の平静を失っている場合には、子どもはそれを感覚として受け止めてしまいとても不安定な状態になってしまうのです。
心穏やかな状態を維持して子どもに接することで、絶対的な安心安全の環境を初めて作ることが可能になります。
子どもの健全な発達のためには、何と言っても母親との間のこのような信頼関係が大前提となります。
その次に、大切になってくるのが五感を使ったあらゆるコミュニケーションです。
その中でも、直接的な触れ合いと語りかけは最たるものとなります。
言語による特徴は、その言語を使う人において現れます。
そしてその特徴は、4歳までにどの言語で育ったかによって決定してしまうことが半世紀以上も前には解明されています。
その言語が母語と言われるものなのです。
日本語は、他の言語と比べた時に直接の言語以外の感覚を多く求められるものとなっています。
人を理解することにおいて、「一を聞いて十を知る」や「行間を読む」「以心伝心」など、非言語による理解を前提としていることもある言語となっているのです。
そのためには、日本語が持っている基本的な感覚までも言語を通じて伝えていかなければならないのです。
日本語の持っているこの感覚は、日本語話者でなければわからない感覚であり、歴史文化のなかで「古代やまとことば」より受け継がれてきた感覚ということができます。
つまりは、その頃より受け継がれている言葉や文字にその感覚が多く含まれていることになります。
海外の新しい文化や技術を取り込んで作られた言葉や外来語には、日本語の言語外の基本的な感覚があまり含まれていないことになります。
そうは言っても、明らかな外来語はさておき、日本語に翻訳されて定着した言葉と昔ながらの言葉との区別は簡単には尽きません。
そのために、先回も指摘した「現代やまとことば」として、ひらがなと訓読み漢字による表現を心掛けていただきたいのです。
ひらがなは、漢字から生まれたものですが、そのもととなる音は文字のない時代から存在した「古代やまとことば」から受け継がれているものです。
「古代やまとことば」を文字として表すために、漢字の音を利用してひらがなが生み出されたのです。
新しい文化や技術は、ほとんどが漢字の音読みの熟語として作り出されたものです。
したがって、音読み漢字の熟語を本当に理解できているかどうかは、その言葉をひらがなと訓読み漢字で言い換えることができるかどうかですぐに分かります。
試しに、身近な言葉でやってみてください。
自分では理解していたつもりでも、いざとなるとなかなか出来ないものがたくさん出てくるのではないでしょうか。
特に、明治維新以降に造られた和製漢字と呼ばれるものは、当たり前に使っていますが、ひらがなで言い換えるにはとても難しいもののとなっています。
例えば、権利、義務、自由、保障、検証、哲学、論理、などはひらがなにうまく言い換えられますか?
すんなり、ひらがなで言い換えることができる言葉は、しっかりと自分の言葉として理解しており人にも説明できるものとなっている言葉です。
どんな言葉でもひらがなで置き換えるためには、その言葉が持つ感覚までも理解することが求められるのです。
狭い国土の中でも人が住めるエリアは本当に限られた部分しかない日本は、どこにいても生きていく環境がほとんど同じようなものであり、その感覚においても、侵略されたことのない単一民族として言語同様にかなりの共通性を持っています。
同じ言語を使いながらも、あまりにも広い地域に分散して生活環境も大きく異なっており、数多くの侵略によって生命の危機を繰り返してきた中国のような国では、言語に対する感覚も地域によってかなりの差が存在してしまいます。
同じ中国語とはいっても、その言語の感覚による違いが方言に現れており、方言の数は数えきれないほどとなっています。
日本の方言とは異なり、方言が異なるとほとんど意味が通じない状況となっています。
文字にした時に初めて通じるものとなっているのです。
また、「現代やまとことば」はひらがなと訓読み漢字で構成されますので、音としてはすべてがひらがなになります。
ひらがなは、日本語の共通語として国語の最初に身につける、日本人であればだれもが同じ理解ができる言語です。
ひらがな言葉で表現をし理解をすることが、日本語としての一番基本的なものとなるのです。
幼児との会話においては、誰でも自然とひらがな言葉が多くなります。
一方で赤ちゃん言葉となってしまうものもあります。
無理に赤ちゃん言葉に合わせる必要はないのです。
母親が「現代やまとことば」で語り掛けてあげることが、子どもに日本語の基本的な感覚を伝承していくことになるのです。
ぜひ、子どもが生まれる前に「現代やまとことば」に慣れていただきたいと思います。
出来るならば、「現代やまとことば」で日記などを書いていくといい習慣ができるのではないでしょうか。
わずか、3~4年の間で子どもの知的活動の基本が決まってしまいます。
せめて、できる限るのことはしておきたいですね。
・最新のイベントはこちらから
・ご意見ご感想、ご感想ご要望はこちらから
【日本語のチカラ】イベントや資料のご案内をしています。
どうしても日常的に使っている言葉が出てしまうことになります。
しかも幼児期は、母親の言葉を聞き分ける力が本能的にありますので、直接の語りかけや触れ合いだけでなく、離れたところであっても母親の言葉を聞き分けてしまいます。
そのためには、子どもが生まれる前から日常的に、子どもに伝えるべき言語を意識して使って習慣化しておかなければなりません。
生まれてから、このような言語を使おうと思っていても、実際には普段使っている言語しか使えなくなってしまいます。
育児の多忙さは、精神的にも大きな負担となって母親にのしかかってきます。
子どもとの直接的な触れ合いは、そのほとんどが母親の役割となりますので、それ以外の家事に関することなどで家族のサポートを得られるようにしておきたいものです。
母が日々心穏やかに暮らして子どもに接することが、子どもの安心安全の状況のためには一番大切なことになります。
母親が心の平静を失っている場合には、子どもはそれを感覚として受け止めてしまいとても不安定な状態になってしまうのです。
心穏やかな状態を維持して子どもに接することで、絶対的な安心安全の環境を初めて作ることが可能になります。
子どもの健全な発達のためには、何と言っても母親との間のこのような信頼関係が大前提となります。
その次に、大切になってくるのが五感を使ったあらゆるコミュニケーションです。
その中でも、直接的な触れ合いと語りかけは最たるものとなります。
言語による特徴は、その言語を使う人において現れます。
そしてその特徴は、4歳までにどの言語で育ったかによって決定してしまうことが半世紀以上も前には解明されています。
その言語が母語と言われるものなのです。
日本語は、他の言語と比べた時に直接の言語以外の感覚を多く求められるものとなっています。
人を理解することにおいて、「一を聞いて十を知る」や「行間を読む」「以心伝心」など、非言語による理解を前提としていることもある言語となっているのです。
そのためには、日本語が持っている基本的な感覚までも言語を通じて伝えていかなければならないのです。
日本語の持っているこの感覚は、日本語話者でなければわからない感覚であり、歴史文化のなかで「古代やまとことば」より受け継がれてきた感覚ということができます。
つまりは、その頃より受け継がれている言葉や文字にその感覚が多く含まれていることになります。
海外の新しい文化や技術を取り込んで作られた言葉や外来語には、日本語の言語外の基本的な感覚があまり含まれていないことになります。
そうは言っても、明らかな外来語はさておき、日本語に翻訳されて定着した言葉と昔ながらの言葉との区別は簡単には尽きません。
そのために、先回も指摘した「現代やまとことば」として、ひらがなと訓読み漢字による表現を心掛けていただきたいのです。
ひらがなは、漢字から生まれたものですが、そのもととなる音は文字のない時代から存在した「古代やまとことば」から受け継がれているものです。
「古代やまとことば」を文字として表すために、漢字の音を利用してひらがなが生み出されたのです。
新しい文化や技術は、ほとんどが漢字の音読みの熟語として作り出されたものです。
したがって、音読み漢字の熟語を本当に理解できているかどうかは、その言葉をひらがなと訓読み漢字で言い換えることができるかどうかですぐに分かります。
試しに、身近な言葉でやってみてください。
自分では理解していたつもりでも、いざとなるとなかなか出来ないものがたくさん出てくるのではないでしょうか。
特に、明治維新以降に造られた和製漢字と呼ばれるものは、当たり前に使っていますが、ひらがなで言い換えるにはとても難しいもののとなっています。
例えば、権利、義務、自由、保障、検証、哲学、論理、などはひらがなにうまく言い換えられますか?
すんなり、ひらがなで言い換えることができる言葉は、しっかりと自分の言葉として理解しており人にも説明できるものとなっている言葉です。
どんな言葉でもひらがなで置き換えるためには、その言葉が持つ感覚までも理解することが求められるのです。
狭い国土の中でも人が住めるエリアは本当に限られた部分しかない日本は、どこにいても生きていく環境がほとんど同じようなものであり、その感覚においても、侵略されたことのない単一民族として言語同様にかなりの共通性を持っています。
同じ言語を使いながらも、あまりにも広い地域に分散して生活環境も大きく異なっており、数多くの侵略によって生命の危機を繰り返してきた中国のような国では、言語に対する感覚も地域によってかなりの差が存在してしまいます。
同じ中国語とはいっても、その言語の感覚による違いが方言に現れており、方言の数は数えきれないほどとなっています。
日本の方言とは異なり、方言が異なるとほとんど意味が通じない状況となっています。
文字にした時に初めて通じるものとなっているのです。
また、「現代やまとことば」はひらがなと訓読み漢字で構成されますので、音としてはすべてがひらがなになります。
ひらがなは、日本語の共通語として国語の最初に身につける、日本人であればだれもが同じ理解ができる言語です。
ひらがな言葉で表現をし理解をすることが、日本語としての一番基本的なものとなるのです。
幼児との会話においては、誰でも自然とひらがな言葉が多くなります。
一方で赤ちゃん言葉となってしまうものもあります。
無理に赤ちゃん言葉に合わせる必要はないのです。
母親が「現代やまとことば」で語り掛けてあげることが、子どもに日本語の基本的な感覚を伝承していくことになるのです。
ぜひ、子どもが生まれる前に「現代やまとことば」に慣れていただきたいと思います。
出来るならば、「現代やまとことば」で日記などを書いていくといい習慣ができるのではないでしょうか。
わずか、3~4年の間で子どもの知的活動の基本が決まってしまいます。
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2015年3月16日月曜日
お母さんになるための日本語(2)・・・賢い子を育てる方法
人の知的活動は言語によって行なわれてることが分かっています。
知的活動の質の高さを「賢さ」と呼ぶのであれば、「賢さ」は言語によって作られていることとなります。
一人ひとりの持っている言語が異なっていることが、「賢さ」に差が出る大きな要因だと思われます。
専門家というのは、一種の「賢さ」の典型と思われますが、専門家とは専門とする分野における言語をよりたくさん持っていて使うことができる人ということができます。
「賢さ」で評価されることは、決して人としてのすべてではないと思いますが、より賢いと評価される方が生きていくうえで有利であることは間違いのないことのようです。
その典型が、学歴になるのではないでしょうか。
より高学歴で社会から賢いと評価される大学とそうでない大学では、大学卒業時の進路においてその選択肢に明らかに差ができているのが現実です。
学歴の評価に対しては批判的な意見もありますが、実社会では明らかな差別となっていることも現実ではないでしょうか。
大学に対する評価はそのまま、高校以下の学校のついても同じようについて回ることになります。
社会に出てからの個人としての生き方において、どこまで学歴が影響してくるかは分かりませんが、初めて社会に出ていく就職においては学歴によって現実的に多きな差があることは誰もが認めることでしょう。
東京大学を卒業した者と名前を聞いたこともない私立の大学を卒業した者とでは、明らかに就職における選択肢に差があります。
誰しもが、できるだけ自分に利のある選択肢を求めることになりますので、できる限り社会的に評価の高い大学を目指すこととなります。
やりたいことや専門性が明らかでない者ほど、より多くの選択肢を求めることになります。
そのためには少しでも良い学歴を追い求めることになります。
本当の「賢さ」は自力で社会を生き抜いていく力であることは、誰もがわかっているのですが、その力を身につけることなく社会に出てく現状では社会から評価されている大学に入学し卒業することが「賢さ」の基準となっていると思われます。
そのための関門を通り抜ける力のことを「賢い」として表現しているのだと思います。
そうは言っても、この「賢さ」も知的活動であることに変わりはありません。
とりあえずは、分かりやすくするために、より社会から評価されている大学に入学する力を「賢さ」と呼ぶことにしましょう。
もっとわかり易く言えば、難しい大学の入学試験に合格する能力と言ってもいいかもしれません。
そのほとんどが、認知能力と記憶力に頼っていることは明白なのですが、それでも知的活動の一部あることに変わりはありません。
社会で生き抜いていくための能力と難しい大学に合格するために必要な能力は異なっているのに、親としては社会を生き抜いていく能力よりも大学に合格する能力の方を重視してしまうことになります。
大学を出すまでが親の仕事であり、自分で稼ぐことを始めてからは自力で社会を生きていくというルールがいつの間にか出来上がってしまっているようです。
したがって、「賢い」子どもに育てるためには認知力と記憶力を高めればいいことになります。
社会を生き抜いていくために必要な能力の基本が、思考力と表現力であることに比べるとかなりのギャップがありますが、これが現実だと思われます。
大学卒業し、社会生活を始めるまでの「賢い」という評価が、社会を生き抜いていくときにはほとんど役に立たなくなるのは、このせいだと思われます。
それでも、初めて社会に出た時の選択が、その後の社会生活において大きな影響を与えることから考えれば、「賢さ」の追及は仕方のないことなのかもしれません。
見てきたように「賢さ」の基本はすべて知的活動です。
つまりは言語による活動となっているのです。
「賢さ」を作り上げるのは、子どもの基礎言語としての母語をどのように形成していくかが大きな影響力を持っています。
母語は、母親からの伝承言語であり、子どもが選んだり自発的に学んだりできるものではありません。
母親が持っている言語がすべてであり、その一部が母語として子どもに伝承されることになります。
短大卒で家事見習いから結婚して子供を持った母親と、大卒で就職して社会人生活を10年も送って子どもを持った母親では、持っている言語にかなりの差があることになります。
社会経験の長い方が沢山の言葉を持っていますが、それがそのまま子どもに伝わるわけではありません。
また、社会経験で身につけた言語は、専門用語化したものが多くなりますので、共通語としての国語からはかなりかけ離れた言語となっています。
子どもとの接し方によっても、伝わる言語に大きな差が出ます。
早めに職場に復帰して、幼児期に子どもとの接触時間が少ない場合は、母親の持っている言語の伝わり方が少なくなります。
特に、生まれてから18ヶ月は母親との接触しかできませんので、ここで語りかけることや触れ合うことがとても大切だと言われています。
常に母親と接していることによる、絶対的な安心安全の感覚が健全な発達の最大の要素だと言われています。
子どもが生まれてから言語を身につけても役に立ちません。
その前に、本を読むことが一番現実的な方法だと言えるでしょう。
妊娠中に読む本は、深い思考を必要とするようなものは向きません。
思考に集中できる環境にないからです。
もう一つは文字や文を書くことです。
日記的な物でもいいのではないでしょうか。
ただし、書き方があります。
できるだけ、漢字の音読み熟語を使わないように書きます。
つまりは、ひらがなと漢字の訓読みだけで書くようにするのです。
すぐには難しいことになりますので、音読み熟語を使った場合にはひらがなで言い換えてみることがいい訓練になります。
思わず出てきてしまう、音読みの熟語はひらがな言葉で言い換えることでより鮮明な理解につながっていきます。
アルファベットやアラビア数字もなるべく使わないようにします。
この表現が日本語のエキスなのです。
意識をしなくとも、ひらがなと訓読み漢字で書く練習をしていると、日本語の基本的な感覚が磨かれるのです。
この感覚を、子どもに伝えることが「賢さ」につながるのです。
(参照:「現代やまとことば」)
子どもが生まれてしまってからでは難しいことになります。
そして、できることならば、日常生活における会話もできるだけ音読み熟語を使わないようにすることができるともっと効果が上がることでしょう。
母語の伝承は、具体的には言葉によって行われていますが、そこで伝承されているのが言語としての感覚になると思われます。
それぞれの言語のが持っている独特の感覚を伝えるために、言語の伝承が行なわれていると思われます。
幼児期健忘によって、具体挺幼児期言葉をほとんど失っても基本的な言語感覚が残っていると考えられています。
(参照:幼児期健忘について)
これが、そのあとの学習言語である国語の習得へと素直につながっていくこととなります。
次回は、母語としての具体的な言語の伝え方に焦点を当ててみたいと思います。
・最新のイベントはこちらから
・ご意見ご感想、ご感想ご要望はこちらから
【日本語のチカラ】イベントや資料のご案内をしています。
知的活動の質の高さを「賢さ」と呼ぶのであれば、「賢さ」は言語によって作られていることとなります。
一人ひとりの持っている言語が異なっていることが、「賢さ」に差が出る大きな要因だと思われます。
専門家というのは、一種の「賢さ」の典型と思われますが、専門家とは専門とする分野における言語をよりたくさん持っていて使うことができる人ということができます。
「賢さ」で評価されることは、決して人としてのすべてではないと思いますが、より賢いと評価される方が生きていくうえで有利であることは間違いのないことのようです。
その典型が、学歴になるのではないでしょうか。
より高学歴で社会から賢いと評価される大学とそうでない大学では、大学卒業時の進路においてその選択肢に明らかに差ができているのが現実です。
学歴の評価に対しては批判的な意見もありますが、実社会では明らかな差別となっていることも現実ではないでしょうか。
大学に対する評価はそのまま、高校以下の学校のついても同じようについて回ることになります。
社会に出てからの個人としての生き方において、どこまで学歴が影響してくるかは分かりませんが、初めて社会に出ていく就職においては学歴によって現実的に多きな差があることは誰もが認めることでしょう。
東京大学を卒業した者と名前を聞いたこともない私立の大学を卒業した者とでは、明らかに就職における選択肢に差があります。
誰しもが、できるだけ自分に利のある選択肢を求めることになりますので、できる限り社会的に評価の高い大学を目指すこととなります。
やりたいことや専門性が明らかでない者ほど、より多くの選択肢を求めることになります。
そのためには少しでも良い学歴を追い求めることになります。
本当の「賢さ」は自力で社会を生き抜いていく力であることは、誰もがわかっているのですが、その力を身につけることなく社会に出てく現状では社会から評価されている大学に入学し卒業することが「賢さ」の基準となっていると思われます。
そのための関門を通り抜ける力のことを「賢い」として表現しているのだと思います。
そうは言っても、この「賢さ」も知的活動であることに変わりはありません。
とりあえずは、分かりやすくするために、より社会から評価されている大学に入学する力を「賢さ」と呼ぶことにしましょう。
もっとわかり易く言えば、難しい大学の入学試験に合格する能力と言ってもいいかもしれません。
そのほとんどが、認知能力と記憶力に頼っていることは明白なのですが、それでも知的活動の一部あることに変わりはありません。
社会で生き抜いていくための能力と難しい大学に合格するために必要な能力は異なっているのに、親としては社会を生き抜いていく能力よりも大学に合格する能力の方を重視してしまうことになります。
大学を出すまでが親の仕事であり、自分で稼ぐことを始めてからは自力で社会を生きていくというルールがいつの間にか出来上がってしまっているようです。
したがって、「賢い」子どもに育てるためには認知力と記憶力を高めればいいことになります。
社会を生き抜いていくために必要な能力の基本が、思考力と表現力であることに比べるとかなりのギャップがありますが、これが現実だと思われます。
大学卒業し、社会生活を始めるまでの「賢い」という評価が、社会を生き抜いていくときにはほとんど役に立たなくなるのは、このせいだと思われます。
それでも、初めて社会に出た時の選択が、その後の社会生活において大きな影響を与えることから考えれば、「賢さ」の追及は仕方のないことなのかもしれません。
見てきたように「賢さ」の基本はすべて知的活動です。
つまりは言語による活動となっているのです。
「賢さ」を作り上げるのは、子どもの基礎言語としての母語をどのように形成していくかが大きな影響力を持っています。
母語は、母親からの伝承言語であり、子どもが選んだり自発的に学んだりできるものではありません。
母親が持っている言語がすべてであり、その一部が母語として子どもに伝承されることになります。
短大卒で家事見習いから結婚して子供を持った母親と、大卒で就職して社会人生活を10年も送って子どもを持った母親では、持っている言語にかなりの差があることになります。
社会経験の長い方が沢山の言葉を持っていますが、それがそのまま子どもに伝わるわけではありません。
また、社会経験で身につけた言語は、専門用語化したものが多くなりますので、共通語としての国語からはかなりかけ離れた言語となっています。
子どもとの接し方によっても、伝わる言語に大きな差が出ます。
早めに職場に復帰して、幼児期に子どもとの接触時間が少ない場合は、母親の持っている言語の伝わり方が少なくなります。
特に、生まれてから18ヶ月は母親との接触しかできませんので、ここで語りかけることや触れ合うことがとても大切だと言われています。
常に母親と接していることによる、絶対的な安心安全の感覚が健全な発達の最大の要素だと言われています。
子どもが生まれてから言語を身につけても役に立ちません。
その前に、本を読むことが一番現実的な方法だと言えるでしょう。
妊娠中に読む本は、深い思考を必要とするようなものは向きません。
思考に集中できる環境にないからです。
もう一つは文字や文を書くことです。
日記的な物でもいいのではないでしょうか。
ただし、書き方があります。
できるだけ、漢字の音読み熟語を使わないように書きます。
つまりは、ひらがなと漢字の訓読みだけで書くようにするのです。
すぐには難しいことになりますので、音読み熟語を使った場合にはひらがなで言い換えてみることがいい訓練になります。
思わず出てきてしまう、音読みの熟語はひらがな言葉で言い換えることでより鮮明な理解につながっていきます。
アルファベットやアラビア数字もなるべく使わないようにします。
この表現が日本語のエキスなのです。
意識をしなくとも、ひらがなと訓読み漢字で書く練習をしていると、日本語の基本的な感覚が磨かれるのです。
この感覚を、子どもに伝えることが「賢さ」につながるのです。
(参照:「現代やまとことば」)
子どもが生まれてしまってからでは難しいことになります。
そして、できることならば、日常生活における会話もできるだけ音読み熟語を使わないようにすることができるともっと効果が上がることでしょう。
母語の伝承は、具体的には言葉によって行われていますが、そこで伝承されているのが言語としての感覚になると思われます。
それぞれの言語のが持っている独特の感覚を伝えるために、言語の伝承が行なわれていると思われます。
幼児期健忘によって、具体挺幼児期言葉をほとんど失っても基本的な言語感覚が残っていると考えられています。
(参照:幼児期健忘について)
これが、そのあとの学習言語である国語の習得へと素直につながっていくこととなります。
次回は、母語としての具体的な言語の伝え方に焦点を当ててみたいと思います。
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2015年3月15日日曜日
お母さんになるための日本語(1)・・・母語の理解
すべての言語は、お母さんと子どもの間でのコミュニケーションによって、受け継がれてきています。
子どもの方は、そんなことを意識することもできませんが、お母さんの方でも言語の受け渡しについてはほとんど意識したことはないのではないでしょうか。
子育てはとても大変な活動です。
ましてや、初めての子どものときは毎日不安と喜びのなかで、日々起こることに対応することが精一杯となってしまいます。
そんな中で、言語について考える機会を持つことはまず不可能であろうと思われます。
また、特に言語について考えなくとも、子どもは自然に言語を身につけていきます。
それは、ほとんど本能的なものと言ってもいいかもしれません。
子どもが言葉を話し始めたころの、同じ音の繰り返しやはっきりと音を発することができない頃の赤ちゃん言葉は、思わずこちらがつられて合わせてしまうような優しさを持っています。
赤ちゃんと同じような音を発してあげると、喜んだような反応をするために、一段と愛らしが感じられるころとなります。
このころであっても、既に言語による基本的な知的活動のための発達が始まっています。
子どもが生まれてからの言語環境が、その子の将来においてとんでもなく大きな影響を与えていることが分かってきています。
幼児期にしか身につけることができない言語であり、なおかつ知的活動のための基礎的な発達のほとんどを作ってしまう言語があります。
そしてその言語は、生涯書き換えることができないものであり、その子供の一生に影響を与えるものとなります。
幼児期にそのほとんどを母親の持っている言語から受け継ぐこの言語のことを、「母語」と呼んでいます。
この母語がないと人は人として生きていくことができません。
そのために、子どもは本能的にも母語を身につけるようにできています。
母親が特に意識をしなくとも、母親との接触の中から自然に母語を身につけていくのです。
しかし、この母語の身につけ方によっては、将来子どもが生きていくうえで必要のない苦労を味わわせることにもなります。
しかも、それが現実化してくるのは、学校の成績や社会生活における適合性などと言ったあらゆる知的活動を行なう頃に出てくることになります。
現実的な知的活動が行なわれる頃は、物心がつくころと言った表現で表される小学校の高学年である10歳以降のことになります。
母親がどんな言語を持っているのか、また子どもに対してどんな言語の伝え方をしていくのかが母語形成において一番大きな要素となります。
母親が意識しなくとも、生きていくために必要なことですので、子どもは本能的に言語を身につけます。
母語習得のための環境をしっかりと作ってあげることが大切になります。
その言語を理解したり、使いこなすために最適な機能となるように、体のあらゆる器官が発達していきます。
やがて、義務教育において生きていくための知識やルールとしての国語を身につけていくことになります。
母語は、国語を理解し身につけていくための言語でもあります。
国語は規則でありルールです。
全ての学習者が同じ解釈ができなければなりません。
国語は、その言語における共通語として、誰でもが同じ解釈ができるように規則正しいルールによって規定された言語です。
その国語を理解するための言語は母語です。
持っている母語によっては、国語の解釈が異なってしまうことが起きてきます。
母語として英語を持っている人が、国語として日本語を学ぶような場合が典型になります。
使っている言葉は日本語になるかもしてませんが、言語の持っている感覚や使い方が英語となってしまうのです。
もの心ついたころからは、周りの日本語話者たちとの言語感覚の違いに悩むことになります。
同じ日本語を使っていますので、原因が分かりません。
言葉としては理解できても、文章になったり解釈をしたりすると感覚がずれてくるのです。
母語と国語が異なるとよく起こることになります。
本人も家族も周りにいる者も原因が分かりませんので、本人はとんでもない疎外感を味わうことになります。
自己嫌悪や対人恐怖、鬱などになることも多くあり、言語感覚の違いに折り合いが付けられるようになるまではかなりの苦労をすることになります。
英語と日本語の様にはっきりとわかる違いであれば気が付きやすいところです。
母語は母親から受け継がれる、きわめて個性的な言語です。
母親が日本人であれば、ほとんどの場合は日本語が母語になると思われますが、日本語はとんでもなく大きな言語です。
同じ日本語であっても、通じない言語が沢山あります。
さらに日本語には、以心伝心や一を聞いて十を知るなどと言われる言語に現れていないものを理解することが多く求められます。
行間を読むなどということが典型的な物ではないでしょうか。
実際の言語として使われているもの以外にも、日本語としての感覚的なものが必要となっているのです。
一人ひとりが持っている日本語は、みんな違ったものとなっていると言ってもいいと思われます。
しかし、その差は決定的な物ではなく個性と呼ばれる程度の差となってれば、日本語の解釈上は問題がないことになります。
国語の学習においても、ルールを逸脱したり感覚としてずれたりすることはないと思われます。
それは、母親の持ってる言語が日本語である場合です。
どんな日本語であっても、日本語であれば基本的な感覚は同じところになると思われるからです。
しかし、母親が生きてきた現代の環境は、日本語のだけではありません。
義務教育においてでさえも、英語を学習してきています。
しかも、その内容はますます会話寄りになってきています。
日常生活においても、テレビやネットで他の言語に触れる機会が多くなっています。
それでも、外国語の単語を日本語の感覚のなかで一つの新しい名詞として使っているうちは大丈夫だと思われます。
言語が異なるということは、知的活動の内容が異なることになります。
わかり易く言えば、解釈の仕方や考え方や表現の仕方が異なることになります。
論理や価値観までが異なることになります。
母親がバイリンガルとなっている場合には、母語がとんでもないことになる可能性があります。
子どもは言語の区別ができませんので、両方の言語の混ざり合ったものを一つの母語として持ってしまいます。
世の中にない言語です。
とんでもない苦労することになりますね。
学習過程においては、すべてのことを母語で理解していきます。
母語で考え母語で表現していきます。
母語としては個性的であったとしても、日本語である以上は国語をきちんと学習することで、日本語としての共通語を身に付けることができます。
そして、国語がすべての日本語にとっての共通語となっているのです。
国語を身につけた段階では、国語を共通語として、母語が個性としての言語となるのです。
それでも、国語によって母語がさらに磨かれることになります。
個人にとって、国語よりも大きな日本語が母語となっていくことになります。
そのなかで、日本語の共通理解のための言語としての国語が存在することになります。
日本語感覚のしっかりした言語を、母語として子どもに伝えることが大切になります。
それは、国語が正しく理解できることにもつながりますし、日本語を母語として持つ人との共通語を持つことになるからです。
共通語を持つことは、同じ言語に対して同じ感覚を持つことを意味しています。
特殊な母語を持ってしまうと、国語に対して共通語としての理解ができなくなります。
極端なことで言ってしまうと、聞いている言葉は理解できるが、何を言いたいのかが分からないということになります。
そのことに気がつくのが物心がつくころからになります。
そうならないための母語を伝えなければなりません。
そのための母親の日本語は、今のままですとどんどん危険な方へ行ってしまうようです。
今回は、母語についての理解を中心にしてみました、。
次回は、母語として受け渡す日本語にについて見てみたいと思います。
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子どもの方は、そんなことを意識することもできませんが、お母さんの方でも言語の受け渡しについてはほとんど意識したことはないのではないでしょうか。
子育てはとても大変な活動です。
ましてや、初めての子どものときは毎日不安と喜びのなかで、日々起こることに対応することが精一杯となってしまいます。
そんな中で、言語について考える機会を持つことはまず不可能であろうと思われます。
また、特に言語について考えなくとも、子どもは自然に言語を身につけていきます。
それは、ほとんど本能的なものと言ってもいいかもしれません。
子どもが言葉を話し始めたころの、同じ音の繰り返しやはっきりと音を発することができない頃の赤ちゃん言葉は、思わずこちらがつられて合わせてしまうような優しさを持っています。
赤ちゃんと同じような音を発してあげると、喜んだような反応をするために、一段と愛らしが感じられるころとなります。
このころであっても、既に言語による基本的な知的活動のための発達が始まっています。
子どもが生まれてからの言語環境が、その子の将来においてとんでもなく大きな影響を与えていることが分かってきています。
幼児期にしか身につけることができない言語であり、なおかつ知的活動のための基礎的な発達のほとんどを作ってしまう言語があります。
そしてその言語は、生涯書き換えることができないものであり、その子供の一生に影響を与えるものとなります。
幼児期にそのほとんどを母親の持っている言語から受け継ぐこの言語のことを、「母語」と呼んでいます。
この母語がないと人は人として生きていくことができません。
そのために、子どもは本能的にも母語を身につけるようにできています。
母親が特に意識をしなくとも、母親との接触の中から自然に母語を身につけていくのです。
しかし、この母語の身につけ方によっては、将来子どもが生きていくうえで必要のない苦労を味わわせることにもなります。
しかも、それが現実化してくるのは、学校の成績や社会生活における適合性などと言ったあらゆる知的活動を行なう頃に出てくることになります。
現実的な知的活動が行なわれる頃は、物心がつくころと言った表現で表される小学校の高学年である10歳以降のことになります。
母親がどんな言語を持っているのか、また子どもに対してどんな言語の伝え方をしていくのかが母語形成において一番大きな要素となります。
母親が意識しなくとも、生きていくために必要なことですので、子どもは本能的に言語を身につけます。
母語習得のための環境をしっかりと作ってあげることが大切になります。
その言語を理解したり、使いこなすために最適な機能となるように、体のあらゆる器官が発達していきます。
やがて、義務教育において生きていくための知識やルールとしての国語を身につけていくことになります。
母語は、国語を理解し身につけていくための言語でもあります。
国語は規則でありルールです。
全ての学習者が同じ解釈ができなければなりません。
国語は、その言語における共通語として、誰でもが同じ解釈ができるように規則正しいルールによって規定された言語です。
その国語を理解するための言語は母語です。
持っている母語によっては、国語の解釈が異なってしまうことが起きてきます。
母語として英語を持っている人が、国語として日本語を学ぶような場合が典型になります。
使っている言葉は日本語になるかもしてませんが、言語の持っている感覚や使い方が英語となってしまうのです。
もの心ついたころからは、周りの日本語話者たちとの言語感覚の違いに悩むことになります。
同じ日本語を使っていますので、原因が分かりません。
言葉としては理解できても、文章になったり解釈をしたりすると感覚がずれてくるのです。
母語と国語が異なるとよく起こることになります。
本人も家族も周りにいる者も原因が分かりませんので、本人はとんでもない疎外感を味わうことになります。
自己嫌悪や対人恐怖、鬱などになることも多くあり、言語感覚の違いに折り合いが付けられるようになるまではかなりの苦労をすることになります。
英語と日本語の様にはっきりとわかる違いであれば気が付きやすいところです。
母語は母親から受け継がれる、きわめて個性的な言語です。
母親が日本人であれば、ほとんどの場合は日本語が母語になると思われますが、日本語はとんでもなく大きな言語です。
同じ日本語であっても、通じない言語が沢山あります。
さらに日本語には、以心伝心や一を聞いて十を知るなどと言われる言語に現れていないものを理解することが多く求められます。
行間を読むなどということが典型的な物ではないでしょうか。
実際の言語として使われているもの以外にも、日本語としての感覚的なものが必要となっているのです。
一人ひとりが持っている日本語は、みんな違ったものとなっていると言ってもいいと思われます。
しかし、その差は決定的な物ではなく個性と呼ばれる程度の差となってれば、日本語の解釈上は問題がないことになります。
国語の学習においても、ルールを逸脱したり感覚としてずれたりすることはないと思われます。
それは、母親の持ってる言語が日本語である場合です。
どんな日本語であっても、日本語であれば基本的な感覚は同じところになると思われるからです。
しかし、母親が生きてきた現代の環境は、日本語のだけではありません。
義務教育においてでさえも、英語を学習してきています。
しかも、その内容はますます会話寄りになってきています。
日常生活においても、テレビやネットで他の言語に触れる機会が多くなっています。
それでも、外国語の単語を日本語の感覚のなかで一つの新しい名詞として使っているうちは大丈夫だと思われます。
言語が異なるということは、知的活動の内容が異なることになります。
わかり易く言えば、解釈の仕方や考え方や表現の仕方が異なることになります。
論理や価値観までが異なることになります。
母親がバイリンガルとなっている場合には、母語がとんでもないことになる可能性があります。
子どもは言語の区別ができませんので、両方の言語の混ざり合ったものを一つの母語として持ってしまいます。
世の中にない言語です。
とんでもない苦労することになりますね。
学習過程においては、すべてのことを母語で理解していきます。
母語で考え母語で表現していきます。
母語としては個性的であったとしても、日本語である以上は国語をきちんと学習することで、日本語としての共通語を身に付けることができます。
そして、国語がすべての日本語にとっての共通語となっているのです。
国語を身につけた段階では、国語を共通語として、母語が個性としての言語となるのです。
それでも、国語によって母語がさらに磨かれることになります。
個人にとって、国語よりも大きな日本語が母語となっていくことになります。
そのなかで、日本語の共通理解のための言語としての国語が存在することになります。
日本語感覚のしっかりした言語を、母語として子どもに伝えることが大切になります。
それは、国語が正しく理解できることにもつながりますし、日本語を母語として持つ人との共通語を持つことになるからです。
共通語を持つことは、同じ言語に対して同じ感覚を持つことを意味しています。
特殊な母語を持ってしまうと、国語に対して共通語としての理解ができなくなります。
極端なことで言ってしまうと、聞いている言葉は理解できるが、何を言いたいのかが分からないということになります。
そのことに気がつくのが物心がつくころからになります。
そうならないための母語を伝えなければなりません。
そのための母親の日本語は、今のままですとどんどん危険な方へ行ってしまうようです。
今回は、母語についての理解を中心にしてみました、。
次回は、母語として受け渡す日本語にについて見てみたいと思います。
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2015年3月14日土曜日
お母さんになる準備としての日本語教室(2)
今まででにお母さんになる準備のひとつとして日本語を取り上げたものに出会ったことがあるでしょうか。
子どもが生まれた後の幼児教育としての、国語教育は私も見たことがあります。
しかし、子どもが生まれる前の母親に対して、日本語の教育が必要であるなどということは聞いたことがありませんでした。
ところが母語という人としての基本言語があることが分かって、そのことについて理解が深まるにつれて、母親の持っている言語が生まれてくる子供にとってどんなに大切なものであるかが分かってきました。
一部の誤解を承知で言ってしまえば、母親が持っている言語によって、生まれてくる子供の知的活動の限界が決まってしまうということが言えるのです。
わかり易く言えば、母親の言語によって、生まれてきた子どもの知力が決まってしまうということになります。
このことを理解していただくためには、まずは母語について理解しなければなりません。
似た言葉に、母国語というものがあります。
日本人や日本語においては、母国語の方が馴染みのある言葉となっていることでしょう。
英語においては、母国語と母語の区別がありません。
日本語のどちらの意味であっても使われる言葉は、mother tongue です。
日本語で直訳すると「母の舌」となります。
何となく母語のイメージに近い気がしますね。
どうやら英語においては、母国語という概念がきわめて薄くなっており、国籍のある国の公用語よりも個人の持っている基本言語の方が重視されています。
英語が、世界の共通語になっていくことによって、英語の持つ感覚が共通の感覚として広がってきています。
最近では、母国語について話題にすることがほとんどなくなりました。
意味のないことが分かってきたからです。
それよりも、個人の持っている基本言語としての「母語」に焦点が移ってきています。
世界の言語人口においても、母語話者としての人口が取り上げられるようになっており、母国語という言葉が消えています。
母語の役割と重要性については、ことあるたびに触れてきました。
あらゆる知識や技術の習得するための基礎力であり、あらゆる知的活動のための基礎力でもある母語はいろいろな面から人としての基本となるものです。
その母語の重要性が認識され始めたのが、海外での育児を余儀なくされた子供たちのその後の成長の記録によってです。
その中でも特に、幼児期を海外で過ごした後で義務教育を日本語で受ける場合に、日本語に対する理解に大きな差ができることが分かってきたからです。
反対に幼児期を日本で日本語環境で過ごした子供が、義務教育を海外の英語環境で過ごすことになった場合には、英語の理解においてネイティブとはそれほどの差が出ないことが分かってきました。
母語は、義務教育の前に習得する言語です。
つまりは、国語の前に身についている言語と言えます。
更に母語は、知的活動のための基礎言語であり、知的活動のためのあらゆる能力や感覚が母語を使うために幼児期において発達していくのです。
脳や聴覚、声帯や視覚までもがすべて、母語を認識し母語で思考し母語で表現するために発達していきます。
当然、母語である言語以外のものは言語であることを認識することが難しくなることになります。
言語としての成り立ちや特徴が近いものである場合には、母語でない言語に対しても理解することがしやすくなりますが、言語として孤立している言語を母語とする場合には、他の言語に対しての感覚が遠ざかることになります。
日本語は世界の中でも際立って特殊な言語となっています。
したがって、日本語を母語として持つことは、他の言語に対して言語として認識できることが難しくなることを意味します。
これは仕方のないことです。
その代り日本語として持っている特徴を生かし切れば、他の言語の持つ感覚とは異なった特徴ある知的活動ができることにもなるのです。
ここからは、お母さんになろうとしている人たちを対象とした説明をしていきたいと思います。
とくに、言語としては他の言語と比較にならないほど大きな日本語において、母語として母親から子どもに伝承できるものは限られています。
子どもが生まれるまでに、どのような日本語を持っていればよいのかなどのことについてお伝えしたいと思います。
どこまで、対象に合った表現や論理を展開できるか分かりませんが、20代の女性に対してどのような表現方法を採っていったらよいのかのテストでもあります。
お読みいただいた方は、そのような視点からもご指摘を頂けるとありがたいと思います。
タイトルは、もっとわかり易くするために「お母さんになるための日本語」としていきたいと思います。
身近に、妊娠中の方や新婚の方がいらしたら教えてあげてくださいね。
きっとお役にたてると思いますよ。
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子どもが生まれた後の幼児教育としての、国語教育は私も見たことがあります。
しかし、子どもが生まれる前の母親に対して、日本語の教育が必要であるなどということは聞いたことがありませんでした。
ところが母語という人としての基本言語があることが分かって、そのことについて理解が深まるにつれて、母親の持っている言語が生まれてくる子供にとってどんなに大切なものであるかが分かってきました。
一部の誤解を承知で言ってしまえば、母親が持っている言語によって、生まれてくる子供の知的活動の限界が決まってしまうということが言えるのです。
わかり易く言えば、母親の言語によって、生まれてきた子どもの知力が決まってしまうということになります。
このことを理解していただくためには、まずは母語について理解しなければなりません。
似た言葉に、母国語というものがあります。
日本人や日本語においては、母国語の方が馴染みのある言葉となっていることでしょう。
英語においては、母国語と母語の区別がありません。
日本語のどちらの意味であっても使われる言葉は、mother tongue です。
日本語で直訳すると「母の舌」となります。
何となく母語のイメージに近い気がしますね。
どうやら英語においては、母国語という概念がきわめて薄くなっており、国籍のある国の公用語よりも個人の持っている基本言語の方が重視されています。
英語が、世界の共通語になっていくことによって、英語の持つ感覚が共通の感覚として広がってきています。
最近では、母国語について話題にすることがほとんどなくなりました。
意味のないことが分かってきたからです。
それよりも、個人の持っている基本言語としての「母語」に焦点が移ってきています。
世界の言語人口においても、母語話者としての人口が取り上げられるようになっており、母国語という言葉が消えています。
母語の役割と重要性については、ことあるたびに触れてきました。
あらゆる知識や技術の習得するための基礎力であり、あらゆる知的活動のための基礎力でもある母語はいろいろな面から人としての基本となるものです。
その母語の重要性が認識され始めたのが、海外での育児を余儀なくされた子供たちのその後の成長の記録によってです。
その中でも特に、幼児期を海外で過ごした後で義務教育を日本語で受ける場合に、日本語に対する理解に大きな差ができることが分かってきたからです。
反対に幼児期を日本で日本語環境で過ごした子供が、義務教育を海外の英語環境で過ごすことになった場合には、英語の理解においてネイティブとはそれほどの差が出ないことが分かってきました。
母語は、義務教育の前に習得する言語です。
つまりは、国語の前に身についている言語と言えます。
更に母語は、知的活動のための基礎言語であり、知的活動のためのあらゆる能力や感覚が母語を使うために幼児期において発達していくのです。
脳や聴覚、声帯や視覚までもがすべて、母語を認識し母語で思考し母語で表現するために発達していきます。
当然、母語である言語以外のものは言語であることを認識することが難しくなることになります。
言語としての成り立ちや特徴が近いものである場合には、母語でない言語に対しても理解することがしやすくなりますが、言語として孤立している言語を母語とする場合には、他の言語に対しての感覚が遠ざかることになります。
日本語は世界の中でも際立って特殊な言語となっています。
したがって、日本語を母語として持つことは、他の言語に対して言語として認識できることが難しくなることを意味します。
これは仕方のないことです。
その代り日本語として持っている特徴を生かし切れば、他の言語の持つ感覚とは異なった特徴ある知的活動ができることにもなるのです。
ここからは、お母さんになろうとしている人たちを対象とした説明をしていきたいと思います。
とくに、言語としては他の言語と比較にならないほど大きな日本語において、母語として母親から子どもに伝承できるものは限られています。
子どもが生まれるまでに、どのような日本語を持っていればよいのかなどのことについてお伝えしたいと思います。
どこまで、対象に合った表現や論理を展開できるか分かりませんが、20代の女性に対してどのような表現方法を採っていったらよいのかのテストでもあります。
お読みいただいた方は、そのような視点からもご指摘を頂けるとありがたいと思います。
タイトルは、もっとわかり易くするために「お母さんになるための日本語」としていきたいと思います。
身近に、妊娠中の方や新婚の方がいらしたら教えてあげてくださいね。
きっとお役にたてると思いますよ。
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2015年3月13日金曜日
お母さんになる準備としての日本語教室(1)
人が持っている言語が伝承言語である母語、学習言語としての国語、環境言語である生活語の三つの要素からできていることについては、幾度となく触れてきました。
その中でも自分では選択することもできなく、ほぼ本能的に身につけていく母語によってほとんどのことが決まってしまうことについても数多く触れてきました。
(参照:知的活動と言語について など)
幼児期の4歳半ごろもまでに取得を完了してしまう母語については、その後に起こる現象である幼児期健忘とともに分からないことが多く残されていることでもあります。
(参照:幼児期健忘について)
しかし、現象面から確認できることや過去の研究などによって、人の生涯の基礎感覚になる言語であることは分かってきています。
母語の伝承は、生まれてきた子どもにはまったく本能的なことしかできませんので、親がその環境を整えてあげることしかできません。
それほど大切なものであるにもかかわらず、子どもの本能としての習得活動にまかせっきりになっているのが現状ではないでしょうか。
母親になることが分かった日からでも遅くはないので、少なくともお母さんになる準備として身につけておいてもらいたいことがあります。
子どもに言語を伝えることができるのは母親だけです。
伝える方が、その環境について意識しなければ誰も意識することはありません。
子どもが生まれてからのお母さんは、毎日の育児のなかで大変な負担がかかりますので、言語の環境について考えている余裕などありません。
子どもを持つことが分かった時から、心穏やかに過ごすことが求められます。
その時に、習得しておくべきこととして、生まれてからの言語環境について考えておくことは、精神安定上もとても良いことではないでしょうか。
何はともあれ、お母さんになることがわかっときには、母語について知っておく必要があります。
(参照:母語について知っておこう など)
母語の伝承は生まれた瞬間から始まっています。
考え方によっては、おなかにいる時から始まっているとする説すらあります。
母語は、子どもが成長していく過程におけるすべての知的活動のための基礎となる言語です。
あらゆる知識の取得や思考を行なうための、一番基本的な力になるものです。
しかも、子どもが自分の力で知的活動を行なえるようになるまでは、すべて母親との間で行われる活動によって習得されるものとなります。
ここで習得される母語が、その子の生涯に影響を与える基礎言語となるのです。
実際に子どもが言語としての対応ができすようになるには1歳半頃まで待たなければなりませんが、その時にはそれまでに子どもの中では蓄えられて発達してきたものが発現しているにすぎないのです。
生まれた瞬間から、語り掛けれられた母親の言葉がそのまま子どもの母語を形成していくのです。
実際に言語として発現して来るためには、それ以前に理解できている言語をたくさん持っていなければなりません。
それは、生まれる前のおなかにいる時の語りかけから始まっていると思っていいのではないでしょうか。
まずは、母親になる準備として、母語という言語についての理解が絶対的に必要になります。
そして、本当に生まれてからわずか4年半という期間でしか身につかない母語という言語が、人の一生を左右するものであることを理解しておくことが必要になります。
とくに、母親としては一番興味があり他者との比較や情報において惑わされる元となる幼児教育との関係において、自分のなかであるいは家族として母語についての理解をしておく必要があります。
本当に意識をして環境を整えない限り、多くの言語に触れる機会は簡単にあるからです。
テレビや雑誌だけではなく、日常の生活の中や子どもの周りのも多くの言語が飛び交っています。
時としては、家族の中でも夫婦であっても、持っている言語が違っていることさえあります。
そんな時にはさらに意識をして、子どものための言語環境をしっかり整えてあげる必要があります。
母語というものがどういうものであるのか、母語はどんな役割を持っているのかを理解することが最初にすることになります。
その次にすることが、子どもに伝承する母語をどの言語にするかということになります。
日本人同士の両親が、日本の社会のなかで、日本語だけで生活をしているような環境においては全く考える必要もなかったことになります。
両親の持っている母語が異なっていたり、海外で子育てをする環境にあったり、常に多国語が飛び交う生活環境であったりするときは、とても注意が必要になります。
子どもに伝えることができる伝承言語は、母親が持っている言語だけです。
しかも、最大限でも母親が持ている言語が限界ですが、すべてが伝わることはあり得ません。
母親が持っている言語以外の言語を子どもの母語にしようとするときは、日常生活において母親を子どもと接することから遠ざけなければなりません。
将軍が大奥で生まれた子供を、母親から取り上げ乳母によって育てるのと同じことをしないとならなくなります。
自然な形であれば、母親と子供はあらゆる面で接点が一番多いわけですから、母親の持っている言語が子どもの母語として伝承されていくことになります。
母親が、バイリンガルであったらどうなるでしょうか。
どんなに優秀なバイリンガルであっても、子どもの言語は絶対にバイリンガルにはなりません。
子どものなかで言語の区別がつかないからです。
母親がバイリンガルであり、日常的に二つの言語を使って子どもと接することは気をつけなければなりません。
母親自身は、二つの言語を区別できますが、子どもの母語としてはそれが混ざり合ったものとしての一つの言語として身についてしまうからです。
しかも、その混ざり方はどんな混ざり方になるのかわかりません。
世の中に存在しない言語を母語として持ってしまうことになります。
そうなった時の悲惨さは、想像すらできないものとなるでしょう。
母親にも母語があるのです。
バイリンガルの第二言語は、母語で理解して身につけて使えるようになっているのです。
幼児期の子どもとの接触における語りかけや会話は、単一言語である母語に徹した方がいいのです。
そこで母語としての言語を選ぶときに、母親の持っている母語以外の言語を選ぶことはとても危険な行為となります。
母語習得の4歳半までの間は、母語とする言語以外の言語には触れさせないほうがいいことになります。
幼児期に、母親との接触時間が少ないにもかかわらず、英語教室で教え込まれた子供たちの知的活動は、一般的な子供たちよりも劣っていることが報告されています。
特に4歳以前においての他の言語の教え込みは、致命的な結果を招くことが多いようです。
そんなことも、母親になるための準備としては必要なのではないでしょうか。
次の機会には、母親の持っている言語について触れてみたいと思います。
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その中でも自分では選択することもできなく、ほぼ本能的に身につけていく母語によってほとんどのことが決まってしまうことについても数多く触れてきました。
(参照:知的活動と言語について など)
幼児期の4歳半ごろもまでに取得を完了してしまう母語については、その後に起こる現象である幼児期健忘とともに分からないことが多く残されていることでもあります。
(参照:幼児期健忘について)
しかし、現象面から確認できることや過去の研究などによって、人の生涯の基礎感覚になる言語であることは分かってきています。
母語の伝承は、生まれてきた子どもにはまったく本能的なことしかできませんので、親がその環境を整えてあげることしかできません。
それほど大切なものであるにもかかわらず、子どもの本能としての習得活動にまかせっきりになっているのが現状ではないでしょうか。
母親になることが分かった日からでも遅くはないので、少なくともお母さんになる準備として身につけておいてもらいたいことがあります。
子どもに言語を伝えることができるのは母親だけです。
伝える方が、その環境について意識しなければ誰も意識することはありません。
子どもが生まれてからのお母さんは、毎日の育児のなかで大変な負担がかかりますので、言語の環境について考えている余裕などありません。
子どもを持つことが分かった時から、心穏やかに過ごすことが求められます。
その時に、習得しておくべきこととして、生まれてからの言語環境について考えておくことは、精神安定上もとても良いことではないでしょうか。
何はともあれ、お母さんになることがわかっときには、母語について知っておく必要があります。
(参照:母語について知っておこう など)
母語の伝承は生まれた瞬間から始まっています。
考え方によっては、おなかにいる時から始まっているとする説すらあります。
母語は、子どもが成長していく過程におけるすべての知的活動のための基礎となる言語です。
あらゆる知識の取得や思考を行なうための、一番基本的な力になるものです。
しかも、子どもが自分の力で知的活動を行なえるようになるまでは、すべて母親との間で行われる活動によって習得されるものとなります。
ここで習得される母語が、その子の生涯に影響を与える基礎言語となるのです。
実際に子どもが言語としての対応ができすようになるには1歳半頃まで待たなければなりませんが、その時にはそれまでに子どもの中では蓄えられて発達してきたものが発現しているにすぎないのです。
生まれた瞬間から、語り掛けれられた母親の言葉がそのまま子どもの母語を形成していくのです。
実際に言語として発現して来るためには、それ以前に理解できている言語をたくさん持っていなければなりません。
それは、生まれる前のおなかにいる時の語りかけから始まっていると思っていいのではないでしょうか。
まずは、母親になる準備として、母語という言語についての理解が絶対的に必要になります。
そして、本当に生まれてからわずか4年半という期間でしか身につかない母語という言語が、人の一生を左右するものであることを理解しておくことが必要になります。
とくに、母親としては一番興味があり他者との比較や情報において惑わされる元となる幼児教育との関係において、自分のなかであるいは家族として母語についての理解をしておく必要があります。
本当に意識をして環境を整えない限り、多くの言語に触れる機会は簡単にあるからです。
テレビや雑誌だけではなく、日常の生活の中や子どもの周りのも多くの言語が飛び交っています。
時としては、家族の中でも夫婦であっても、持っている言語が違っていることさえあります。
そんな時にはさらに意識をして、子どものための言語環境をしっかり整えてあげる必要があります。
母語というものがどういうものであるのか、母語はどんな役割を持っているのかを理解することが最初にすることになります。
その次にすることが、子どもに伝承する母語をどの言語にするかということになります。
日本人同士の両親が、日本の社会のなかで、日本語だけで生活をしているような環境においては全く考える必要もなかったことになります。
両親の持っている母語が異なっていたり、海外で子育てをする環境にあったり、常に多国語が飛び交う生活環境であったりするときは、とても注意が必要になります。
子どもに伝えることができる伝承言語は、母親が持っている言語だけです。
しかも、最大限でも母親が持ている言語が限界ですが、すべてが伝わることはあり得ません。
母親が持っている言語以外の言語を子どもの母語にしようとするときは、日常生活において母親を子どもと接することから遠ざけなければなりません。
将軍が大奥で生まれた子供を、母親から取り上げ乳母によって育てるのと同じことをしないとならなくなります。
自然な形であれば、母親と子供はあらゆる面で接点が一番多いわけですから、母親の持っている言語が子どもの母語として伝承されていくことになります。
母親が、バイリンガルであったらどうなるでしょうか。
どんなに優秀なバイリンガルであっても、子どもの言語は絶対にバイリンガルにはなりません。
子どものなかで言語の区別がつかないからです。
母親がバイリンガルであり、日常的に二つの言語を使って子どもと接することは気をつけなければなりません。
母親自身は、二つの言語を区別できますが、子どもの母語としてはそれが混ざり合ったものとしての一つの言語として身についてしまうからです。
しかも、その混ざり方はどんな混ざり方になるのかわかりません。
世の中に存在しない言語を母語として持ってしまうことになります。
そうなった時の悲惨さは、想像すらできないものとなるでしょう。
母親にも母語があるのです。
バイリンガルの第二言語は、母語で理解して身につけて使えるようになっているのです。
幼児期の子どもとの接触における語りかけや会話は、単一言語である母語に徹した方がいいのです。
そこで母語としての言語を選ぶときに、母親の持っている母語以外の言語を選ぶことはとても危険な行為となります。
母語習得の4歳半までの間は、母語とする言語以外の言語には触れさせないほうがいいことになります。
幼児期に、母親との接触時間が少ないにもかかわらず、英語教室で教え込まれた子供たちの知的活動は、一般的な子供たちよりも劣っていることが報告されています。
特に4歳以前においての他の言語の教え込みは、致命的な結果を招くことが多いようです。
そんなことも、母親になるための準備としては必要なのではないでしょうか。
次の機会には、母親の持っている言語について触れてみたいと思います。
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2015年2月5日木曜日
日本語感覚の再発見
自分自身が持っている母語が、どんな言語であるかを確認することは思った以上に難しいことです。
それは、母語を習得していた時期である幼児期の記憶が、幼児期健忘の現象によって完全にリセットされていることよって、自分では思い出すことができないからです。
(参照:母語と幼児期健忘)
また、母語の影響は、日々の知的活動における感覚として、無意識に働いている場合が多いために母語の存在そのものを具体的に感じることが難しいからでもあります。
母語は極めて個人的な言語であり、日常使用している言語の裏に隠れてしまっていることが多いために、気づきにくくなっています。
さらに、物心がつくころである10歳前後までには母語だけでの言語活動は終了しています。
物心がつくための条件である記憶の保持期間の長さやエピソード記憶と言われる記憶の仕方が定まってくるのが10歳前後となっています。
したがって10歳前後からの記憶は自身のものとして、いつ、どこで、だれとが比較的鮮明に保持されているのです。
いつ、どこで、だれと、を伴った記憶のことをエピソード記憶と呼んでいます。
それ以前の記憶は、後から写真等で植え付けられたものであり、自身の記憶としてはよほど衝撃的な体験を伴ったものでない限りほとんど残っていません。
したがって、母語を身につけて母語だけで活動していたころの記憶は、どんな人でもほとんどないことになります。
親に聞いたりして、母語習得時の環境を確認するのが精一杯ではないでしょうか。
それでも母語としての日本語の感覚がどれほど強く自分の中にあるかを、間接的に確認することはある程度できそうです。
その一つが「反対と逆」についての思考遊びです。
「賛成」の反対と言えば、無条件に出てくるものが「反対」ではないでしょうか。
学校教育でそのように教え込まれたから、「賛成」があると条件反射的に「反対」が出てくると思われます。
この「賛成」と「反対」の関係が、まさしく欧米型言語の感覚によるものなのです。
極めて狭い限定された環境における、客観的な捉え方になっているのです。
これを、日本語感覚で捉えなおすと、以下ようになるのではないでしょうか。
「合意」と「拒否」。
感覚的には、「受諾」と「拒絶」とも言いかえることができます。
欧米型言語の感覚では論理が優先しますので、「賛成」も「反対」も全く同じ現象として自己との関係を考えずに扱うことができるのです。
日本語の感覚では、「賛成」と「反対」では環境と自己との関係において、同等には扱えないものとなっているのです。
逆の発想からすると、「賛成」の逆は「無視」ということができます。
この逆の発想に、抵抗なく自然に感覚的に合うことができることが、日本語の感覚だと思われます。
「賛成」という言葉は強い言葉です。
明治以降に日本語に翻訳された言葉です。
強い言葉ですから、どうしても反対の要素を一緒に持っておきたくなるのです。
「賛成」と「反対」は、両方とも強い言葉です。
日本語の感覚はその間にあるのです。
「賛成」「反対」の強い意思の逆として、意思を表示しない「無視」の関係の方が日本語の感覚になるのです。
反対の言葉は、言い方を変えると一対になった言葉ということができます。
ある環境における両極端を表現したものということができると思います。
両極端では、その環境は一直線のものになってしまいます。
両極端の間に存在するあらゆる状況を、更に幅を持たせて領域としたものが逆の発想ではないでしょうか。
欧米型言語の感覚では、両極端のどちらかの選択が数多く存在します。
Yes or Noがその典型ではないでしょうか。
日本語の感覚では完全なYesも、完全なNoも存在しないのです。
全てが完全なYesと完全なNoの間にあるのです。
この感覚を自然に心地よく感じられる場合は、かなり日本語の感覚が染みついていると思われます。
二者択一の論理で展開される活動に、まったく不自然さや違和感を感じない場合は、かなり欧米型言語の感覚に近いものになっていると思われます。
特に、明治期以降に導入された欧米型言語の感覚による言葉については、わかり易いのではないかと思います。
「権利」という言葉があります。
どうしてもすぐに「義務」という反対語が浮かんでしまいます。
「権利」「義務」の逆として「しがらみがない」という意味では「自由」という言葉が来るかもしれません。
反対は欧米型言語の感覚ですので、一対としての熟語がすぐに見つかると思いますが、逆については日本語の感覚ですので漢字の熟語がすぐに見つかるとは限りません。
漢字を使わない表現になる場合の方が多いかもしれませんね。
こんな感覚を試してみるのも、母語としての日本語がどんな染み込み方をしているのか感じられることだと思います。
それは、母語を習得していた時期である幼児期の記憶が、幼児期健忘の現象によって完全にリセットされていることよって、自分では思い出すことができないからです。
(参照:母語と幼児期健忘)
また、母語の影響は、日々の知的活動における感覚として、無意識に働いている場合が多いために母語の存在そのものを具体的に感じることが難しいからでもあります。
母語は極めて個人的な言語であり、日常使用している言語の裏に隠れてしまっていることが多いために、気づきにくくなっています。
さらに、物心がつくころである10歳前後までには母語だけでの言語活動は終了しています。
物心がつくための条件である記憶の保持期間の長さやエピソード記憶と言われる記憶の仕方が定まってくるのが10歳前後となっています。
したがって10歳前後からの記憶は自身のものとして、いつ、どこで、だれとが比較的鮮明に保持されているのです。
いつ、どこで、だれと、を伴った記憶のことをエピソード記憶と呼んでいます。
それ以前の記憶は、後から写真等で植え付けられたものであり、自身の記憶としてはよほど衝撃的な体験を伴ったものでない限りほとんど残っていません。
したがって、母語を身につけて母語だけで活動していたころの記憶は、どんな人でもほとんどないことになります。
親に聞いたりして、母語習得時の環境を確認するのが精一杯ではないでしょうか。
それでも母語としての日本語の感覚がどれほど強く自分の中にあるかを、間接的に確認することはある程度できそうです。
その一つが「反対と逆」についての思考遊びです。
「賛成」の反対と言えば、無条件に出てくるものが「反対」ではないでしょうか。
学校教育でそのように教え込まれたから、「賛成」があると条件反射的に「反対」が出てくると思われます。
この「賛成」と「反対」の関係が、まさしく欧米型言語の感覚によるものなのです。
極めて狭い限定された環境における、客観的な捉え方になっているのです。
これを、日本語感覚で捉えなおすと、以下ようになるのではないでしょうか。
「合意」と「拒否」。
感覚的には、「受諾」と「拒絶」とも言いかえることができます。
欧米型言語の感覚では論理が優先しますので、「賛成」も「反対」も全く同じ現象として自己との関係を考えずに扱うことができるのです。
日本語の感覚では、「賛成」と「反対」では環境と自己との関係において、同等には扱えないものとなっているのです。
逆の発想からすると、「賛成」の逆は「無視」ということができます。
この逆の発想に、抵抗なく自然に感覚的に合うことができることが、日本語の感覚だと思われます。
「賛成」という言葉は強い言葉です。
明治以降に日本語に翻訳された言葉です。
強い言葉ですから、どうしても反対の要素を一緒に持っておきたくなるのです。
「賛成」と「反対」は、両方とも強い言葉です。
日本語の感覚はその間にあるのです。
「賛成」「反対」の強い意思の逆として、意思を表示しない「無視」の関係の方が日本語の感覚になるのです。
反対の言葉は、言い方を変えると一対になった言葉ということができます。
ある環境における両極端を表現したものということができると思います。
両極端では、その環境は一直線のものになってしまいます。
両極端の間に存在するあらゆる状況を、更に幅を持たせて領域としたものが逆の発想ではないでしょうか。
欧米型言語の感覚では、両極端のどちらかの選択が数多く存在します。
Yes or Noがその典型ではないでしょうか。
日本語の感覚では完全なYesも、完全なNoも存在しないのです。
全てが完全なYesと完全なNoの間にあるのです。
この感覚を自然に心地よく感じられる場合は、かなり日本語の感覚が染みついていると思われます。
二者択一の論理で展開される活動に、まったく不自然さや違和感を感じない場合は、かなり欧米型言語の感覚に近いものになっていると思われます。
特に、明治期以降に導入された欧米型言語の感覚による言葉については、わかり易いのではないかと思います。
「権利」という言葉があります。
どうしてもすぐに「義務」という反対語が浮かんでしまいます。
「権利」「義務」の逆として「しがらみがない」という意味では「自由」という言葉が来るかもしれません。
反対は欧米型言語の感覚ですので、一対としての熟語がすぐに見つかると思いますが、逆については日本語の感覚ですので漢字の熟語がすぐに見つかるとは限りません。
漢字を使わない表現になる場合の方が多いかもしれませんね。
こんな感覚を試してみるのも、母語としての日本語がどんな染み込み方をしているのか感じられることだと思います。
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