2016年1月27日水曜日

「母国語」から「母語」へ

「母国語」という言葉やニュアンスは日本語独特のものであることを知っているだろうか?

日本語の解釈としては、「母国の言語」というニュアンスもあるし「母なる国語」というニュアンスもあるのではないかと思います。

そもそも「国語」というニュアンスは日本が生み出したものであり、もともとの漢語にはなかった感覚です。

日本語が生み出した「国語」という言葉が漢字使用国においてその国の公式言語としての意味合いで使われるようになったものです。


日本人にとっては日本という国と日本語という言語はとても近しい関係にあり母なる国という感覚とともに、母国語という言葉に対して違和感を感じることはほとんどないのではないかと思われます。

試しに、「母国語」を英語で表現してみるとどうなるでしょうか。

native languageであったりmother tongueであったりするのではないでしょうか。

国という感覚がある言葉は一切登場しないことが分かるのではないでしょうか。

学校教科においても「国語」に当たる表現がありません、日本語の「国語」に当たるものとしてはEnglishとしてあるだけです。


つまりは、日本語における「国語」という感覚がないのです。

実は世界の言語感覚の中でも日本語だけが持っている感覚なのです。

世界の言語の感覚では「国」と「言語」が結び付くことはほとんどないのです。


それは、日本が帝国主義の時代に大東亜共栄圏構想によって行なってきたアジア進出を見てみるとよく分かるのではないでしょうか。

日本本土自体は幸運にも侵略をされた経験がありませんが、アジア諸国は日本による侵略を受けてきているのです。

その時の統治の結果として漢字や日本語が彼らの中に植え付けられており、日本語の感覚が広がっていることになります。


したがって世界の中でも侵略や開拓といった異文化の導入が激しかった地域においては国と言語が全く結びつきがなく存在しているために、「国語」といった感覚がないものだとも思われます。

国としての存在が必要になってきたときに公用語として指定されたものが「母国語」の感覚に一番近いのではないでしょうか。

人の動きや企業の活動においては最早物理的な国境は存在しない時代になってきました。

そんな、時代になってきて「母国語」という言葉自体が陳腐なものとして聞こえるようになってきたのではないでしょうか。


最近では、native languageやmother tongueについては「母国語」ではなく「母語」と訳されることが多くなってきました。

「国」という感覚を離れて存在する「母語」の感覚は、その言語を話す民族の存在を表わすものとして尊重されているものです。

持っている言語を守るために戦いが起こったり人が死んだりした経験から、国連では「国際母語デー」を定めています。
(参照:国際母語デー 2月21日


「母国語」というよりは「母語」と表現した方がその言語を持っている人に対しての役割をより適切に示しているように思われます。

言語が持つ役割が単なるコミュニケーションのためのツールではないことが研究されてきたことと無縁ではないと思われます。


2000年以上の歴史を持ちながらも現代に継承されて日常生活で使用されている言語である日本語は、数多くの存在の危機と環境適応を経てとても大きな言語となって受け継がれています。
(参照:日本語の危機(明治維新)

そのために、日本語のすべてを理解し持っている人は存在しないのではないでしょうか。

それは、言語としての日本語を専門的に研究している学者であっても決して例外ではないと思われます。


それでも言語の一面の役割として社会のルールを共有するための共通理解のためのツールとしての機能が有ります。

法治国家においては法律をどのように表現するかがとても重要なことになりますし、法律はすべての人が同じ理解をできなければ法律としての機能が果たせません。

一部の法律家だけの間の共通解釈では法律としての役には立たないのです。


古い法律で解釈が現代に合わなくなってきたものなどについては、その解釈についての公式なものが必要になってくるのはそのためです。

裁判において法律適用よりも条文の解釈の方が問題になることが多いのもそのためです。


大きな日本語のなかの共通解釈のために必要な言葉と共通の意味を与えたものが「国語」であるということができます。

持って生まれた時より親から受け継ぐ言語である「母語」は、親の持っている解釈であり感覚を受け継ぐものです。

それは必ずしも「国語」ではありません。

共通理解のための言語とはなっていないのです。


そのために、義務教育において「国語」が必要になってきているのです。

しかも日本語においては「国語」自体があまりにも大きいために、中学を卒業をしても日刊新聞が読解できないようなことが起こっているのです。


そのように見てくると、一人ひとりの持っている「母語」としての日本語はかなりバラエティに富んだものとなっていると思われます。

それは、方言や家柄と言ったものだけでは説明しきれないものです。

更にその「母語」が経験を積み重ねることによって変更上書きをされていくことになります。

学生時代にはそれほど大きな違いがなかった生活環境も、社会に出ていくと環境の変化は大きなものとなります。

社会生活が長くなればなるほど一人ひとりが持っている言語にも違いが大きくなります。


自分の原点であり自分そのものである「母語」は、自分の経験とともに変化していくものでもあります。

バイリンガルとしての第二言語も、それを理解し使いこなしているのは「母語」によって行なっていることであり、第二言語による知的活動はどんなに頑張っても「母語」による知的活動にははるかに及ばないことが分かっています。
(参照:バイリンガルの知能は低い?


他の言語に比べて際立った特徴の多い日本語を「母語」として持っていること自体で、あらゆる活動において影響を受けている感覚が他の言語を「母語」とした人たちと異なっているのです。

ボーダーレスの現代にこそ日本語を「母語」として持っていることが最も生かされるのではないでしょうか。

「母語」が日本語であることを理解して上手く使いたいものですね。