日本語の理解力において求められていることは、直接的に表現されていることの裏側にある本音や意図・気持ちを感じ取ることではないでしょうか。
それは、話し言葉として表現されている場合であろうとも文章として表現されている場合であろうとも同じことだと思われます。
一通りの国語の理解が出来たころに教材として取り上げられる資料は、代表的な文学小説の一部であることが多くなっています。
古典的な要素も含まれていますので、使われている言葉や文法についても通常の話し言葉とは異なった文語的な表現が存在したりしていることもあります。
第一段階としては文字通りの意味を理解することが必要ではありますが、次の段階としては筆者や主人公の気持ちや環境を理解することが求められてきます。
国語の試験の内容としては、文法や語彙といった文字通りの理解ができるための能力を試される問題と、場面や筆者の意図や感情を理解できるための能力が試される問題があります。
誰が読んでも同じように理解できる内容ならば試験として正解・不正解の対象とすることも可能ですが、それに適さない対象も数多く存在しているのではないでしょうか。
とくに、フィクションである小説などは読者によってどのように解釈しようとも決して他者から非難を受けるようなものであってはならないと思います。
有名な文学評論家などが行なった独自の解釈をあたかも国語辞典のように決まりきったものであるとして、他の解釈を否定するような態度があってはならないものだと思われます。
広い解釈とのひとつとしてそのようなものもあるという程度のものでなけでばならないと思います。
言葉や文章に触れた時にまず最初にやらなければならないことは、表現されたものを意味のあることばとして理解することになります。
その段階では、それぞれのことばの意味は確定できなくとも言葉であることを理解できることが大切になります。
聞いたことのない言葉であったとしてもぼんやりと専門用語でありそうだとかこんな物や事のことだろうなという程度で構わないことになります。
ここで行われていることは、たとえわからない言葉があったとしてもその言葉を推測する一番大きな要素はその言葉の語尾であったり付帯している助詞であったりの「ひらがな」なのです。
まったく知らない言葉であっても名詞であるのか動詞であるのかの推測は前後の「ひらがな」で行なうことができます。
「〇〇と△△」となっていれば「〇〇、△△」に比較すれば「と」があることによってかなりの推測が可能となっています。
話し言葉にしても文章として記されたものであっても、最初にことばとして認識するためのカギは「ひらがな」に頼っていることになります。
したがって、すべてひらがなで書かれた文章は言葉として認識するためのカギとしての「ひらがな」なのか、意味のあることばの一部を構成している「ひらがな」なのかがパッと分からないために読み取りにくいものとなっているのです。
文字として表現するときには「ひらがな」で意味のあることばを表現するときには、誰でもがすぐにひとつのことばであることを理解できる言葉を選択する必要があります。
文法や語彙が一通り理解できると、今度は言葉によって表現されている内容を理解しなければなりません。
その時に大切なことはそれぞれの言葉同士の関係性です。
理解できた語彙が、それぞれどのような関係になっているのかを理解することによって内容が理解できることになります。
このときにそれぞれの語彙の関係性を示しているのが助詞や接続詞などの「ひらがな」なのです。
ここでも言葉同士の関係性を理解するカギは「ひらがな」なのです。
「ひらがな」が一つ変わってしまうことによって、言葉同士の関係が変わってしまうことがたくさんあります。
このことを利用して言葉遊びが行なわれることもあります。
たった「ひらがな」一文字で主体と客体が入れ替わってしまうのが日本語です。
「てにおは」という言い方をしますが、助詞の「ひらがな」一つで言葉同士の関係は大きく変わってしまうことになります。
ことばの意味がよく分からない場合には言葉に焦点がいきますが、表現されている内容がよく分からない場合に「ひらがな」に焦点が行くことはあまりありません。
このあたりのことは感覚的に行なっていることではないでしょうか。
内容が理解できてくると、初めて筆者の意図や気持ちについて理解することが可能になってきます。
このときのカギとなるのも「ひらがな」なのです。
とくに気持を表す言葉としての形容詞はその語尾のひらがなによって気持ちが表現されていることが多くなります。
文章の終わり方も気持ちがよく現れてくるところです。
「~ではないでしょうか。」「~だと思われます。」「~でなければならない。」「~でありたい。」などの表現は発信者の気持ちが込められていることが多いと思われます。
同じことを言っているのに、自信を持って断定しているのか不安を抱えながらも断定したいのか単なる想像なのかなどは最後の語尾に現れていることが多いからです。
「人の話は最後までよく聞け」は発信者の意図や態度を見極めるための姿勢だと思われます。
単に内容を理解するだけであれば最後まで聞かなくとも可能なことではないでしょうか。
第一段階の文法・語彙の理解から発信者の意図や気持ちまでを理解する「行間を読む」ことまでのすべてにおいて、カギとなっているのは「ひらがな」なのです。
聞いたことのない分からない言葉に出会うとどうしてもその言葉自体に焦点が行ってしまいます。
そのことが理解できないことが恥かしいことだと思ってしまったりします。
ところが、その言葉を意味は分からなくとも一つの言葉として理解さえしておけばほとんどの場合は何も困ることにはなりません。
それよりも、言葉同士の関係や意図や気持ちを理解することによって、一つの言葉はどうでもよいことになっていくことが多いです。
また、言葉同士の関係や意図や気持ちを理解することによって、語彙として理解しようとしていた時には分からなかった言葉がポンと分かってくることも少なくありません。
名詞や動詞の語幹には様々な文字が使われます。
漢字、カタカナ、アルファベット、数字など日常的にはたくさんの文字で表現されています。
これらをつないで関係を作り意図を伝え気持ちを伝えているのは「ひらがな」にしかできない機能なのです。
助詞としての「てにおは」の使い方に違和感があると気持ち悪いと感じます。
「てにおは」は気持ちを動かしているんですね。
「ひらがな」を省略して名詞だけで伝えることが多くなっていませんか。
その状態で「行間を読め」と言っても無理です。
きちんと「ひらがな」を使って表現をすることで初めて伝わりやすい表現ができるのではないでしょうか。
あらためて日本語を支えているのが「ひらがな」であることが見えてきました。