眺めているだけでも面白くて、あっという間に時間が過ぎてしまいます。
地形や気候は絶対的なものであり、人の判断や伝聞よりもはるかに信用に足るものです。
地形から見ることができる歴史の断面は、伝えられている歴史とは「?」となってしまうことや、疑問に思うことが沢山でてきます。
その一つが、忠臣蔵における吉良屋敷の移転です。
高家筆頭という職を自ら辞した吉良上野介義央は、家督を養嫡男(内孫)の左兵衛に譲ることになります。
その後、赤穂浪士による仇討ちの噂が広がり始めるころに、まさしく討ち入りをしてくださいという場所に移転を命ぜられるのです。
この当時に自分の意志で住居を移動できる武家はいません。
ましてや吉良家は旗本であり、朝廷対応の総責任者として幕府においても特別な地位にあったものです。
その住居は、江戸城外堀の内側である城郭内に位置していました。
手に入れた元禄六年の地図は、忠臣蔵(元禄15年)の10年近く前のものであり、吉良家の城郭内の屋敷が明確に記載されています。
下の図は、江戸城を入れた位置関係がみられるようにしたものです。
細かくて見られないと思いますので、吉良屋敷がわかるものをその下に添付します。
著作権上、どこまで許されるのかわかりませんが、参考ということで載せてみました。
赤い枠の矢印のところに「吉良上ヅケ」と記されています。
外堀に掛かっている橋の名前が読み取れますので、現在の場所のどのあたりになるかよくわかると思います。
吉良屋敷のところに掛かっている橋が、鍛冶橋です。
青枠の矢印で示したところはこの地図では記載がありませんが、右側が北町奉行所、左側が南町奉行所になります。
北町奉行所のところの掛かっている橋が呉服橋であり、南町奉行所のところに掛かっている橋が数寄屋橋であることがよくわかると思います。
吉良家の周りの屋敷を見ても、松平、酒井、井伊、大久保、などの徳川親族や親藩の名前ばかりです。
両奉行所に挟まれた、しかも江戸城の城郭内にあるこんな屋敷に、討ち入りなどできるわけがありませんね。
それこそ江戸中の行政、警察、裁判のすべてを管轄する奉行所が、そのメンツにかけても許すわけがありません。
江戸城本丸松の廊下の刃傷事件が、元禄14年3月のことです。
そのわずか半年後には、吉良家は屋敷を移されています。
移された先は、両国橋を渡った本所です。
両国橋は隅田川(荒川)に掛かったたった一つの橋で、二つの国(江戸・武蔵の国と下総の国)にまたがった橋という意味です。
つまりは、両国橋の対岸は江戸ではなかったところです。
やがて、江戸に集中する人口に対処するために、江戸に組み入れられていきますが、元禄の時代においては、幕府や大名の船着き場としての倉庫街であったところです。
上の地図の右下に見えるのが両国橋です。
元禄六年(1693年)では、まだ明暦の大火(1657年)の大勢の焼死者を埋葬するための本所回向院が設置されていません。
両国橋を渡った、地図の一番下のところに回向院が建てられることになります。
吉良屋敷は、なんとその回向院のすぐ隣に移転させられたのです。
それを機に、上野介夫人の冨子が家を出ていったという説もあります。
このあたりの川沿いは、朝昼こそ荷揚げや荷出しの人足がいますが、ほとんど人通りのない倉庫街となっているところです。
しかも大人数で討ち入りがなされたところで、迷惑をこうむるような家もありません。
まさしく討ち入りのためには、これ以上ない場所となっています。
討ち入りの終わった赤穂浪士は、堂々と両国橋を渡っていきました。
事前の打ち合わせどおりなのでしょう、八丁堀を迂回していきます。
八丁堀を素通りされては、幕府は面目が立ちませんので、迂回する約束ができていたと思われます。
赤穂浪士の隊列は東海道を進み、高輪の大木戸の番所すらも何の咎めもなく通り抜けています。
そして堂々とその先にある泉岳寺へと向かっていったのです。
このことだけからも、どの様に考えても幕府による積極的な援助があったとしか考えることができません。
本来ならば、幕府の裁定に文句をつけ、武家諸法度を破った大罪人の集団です。
この集団を、幕府が表裏で積極的に援助した理由は、「徳川家と吉良家」を参照いただきたいと思います。
(参照:徳川家と吉良家)
地図が出てくると現実感がぐっと湧いてくるとともに、さらなる妄想も広がります。
楽しいですね。
「日本語のチカラ」がEラーニングで格安に受講できます。
ブログの内容についてのご相談・お問合せを無料でお受けしています。
お気軽にご連絡ください。