ひらがなが「やまとことば」を守り継承してきたことは分かってきました。
では、日本語の原点ともいえる漢語が入ってくる前の文字のない時代の「古代やまとことば」はどこから生まれたのでしょうか。
「やまとことば」の語源と思われる言葉が存在します。
これを調べるには膨大な時間が必要だったと思いますが貴重な研究成果です。
どうやら「やまとことば」に一番影響を与えていたのはイスラエル語(ヘブライ語)のようです。
神の選民と言われるユダヤのことばであり、旧約聖書の言葉そのものです。
詳細は別にしても、イスラエル語が語源であろうと思われる「やまとことば」が3,000語を越えるそうです。
しかも、書く、住む、歩く、掘る、泣く、などのきわめて基本的な動きを表す言葉や、神、主、供物、お札、などの神事を表す言葉が多く含まれます。
外来語として、一部の言葉を持ってきたというにはあまりに多すぎます。
基本言語としてイスラエル語があったと考えたほうがよさそうですね。
古代アッシリアに国を追われたユダヤの民は、イザヤの子孫に率いられて東へ向かいます。
聖書(イザヤ書24 章25 節)にあるのは以下の内容です。
「東で神をあがめ、海の島々(海沿いの国)でイスラエルの神、主の名をあがめよ」
東の果ての島へ行って、国を作れと言っているのです。
そして何世代にもわたる、東の島への旅が始まります。
イスラエルの滅亡と日本の皇統の始まりを重ね合わせたとき、また日本におけるイネによる弥生の文化の広がりを重ねたときに、時代が綺麗に説明がつくのはどういうわけでしょうか。
イスラエルの北の十支族が国を追われてから60年後に日本の皇統が始まっています。
西アジアからスタートし、各地で文化・技術を提供しながら東の島に着いた第一陣が、国を作り上げるのにふさわしい期間ではないでしょうか。
国づくりが一段落すると、国の礎が求められます。
歴史上の事実ではあるが多くを語られないことに、泰氏の帰化についての記述があります。
一番無理のない説明を加えると、一世紀以上にわたり最新の文化と技術と持った集団がやってきて国に仕えて力を尽くしました。
その数は人口学的にも100万人を越えると言われています。
漢語の導入はこの時期に重なります。
秦氏という、もともと漢語を使いこなしていた大陸から来た人々がいたからこその導入定着だったと思われます。
秦氏が携わっていた領域で漢語が公用語となっていったことは想像に難くありません。
言葉だけが導入されることはありません。
先進の法律を含めて、政治体制や文化技術的なものの導入に際して必要に迫られて、その国の言葉が導入されます。
その秦氏も西アジアから東に向けて移動してきたと言われています。
高度な技術を持ち中国の発展に大きく寄与したと言われています。
一節では秦の始皇帝は目が青くユダヤの血を引いていたとすら言われています。
第一陣が東の島に着いた後も、続々と東に向かったユダヤの民は各地で世代を重ね混血となりながらも秦氏として日本にたどり着いたと考えられます。
「やまと」という言葉があります。
漢字では「大和」「日本」「倭」などと様々な字があること自体、話し言葉としての音が先にあったものであることは明白だと思われます。
この「やまと」と言う言葉はヘブライ語の聖書の後半にあるアラム語で説明がつくそうです。
「やまと」の「ヤ」は神の称号として数千年にわたり世界で使われている言葉だそうです。
「まと」は「マト」、「ウマト」としてアラム語で「人民」の意味になるそうです。
つまり「やまと」は「神の民」を意味する言葉となります。
イスラエルでは「神の民」はユダヤ人を形容するときにつける言葉です。
「神の民であるユダヤ人」となります。
何故、「やまと」という言葉が日本にあるのでしょうか、どこからきたのでしょうか。
「やまと」という言葉に威厳や神聖さを感じるのはどうしてでしょうか?
東の国を目指したユダヤの人々は、高度な技術を持ちながら自らの国は持ちませんでした。
目的地とした東の島においても、自らが王となることはありませんでした。
東にわたる途中の国々で、技術を提供しその国を歴史に残る国にしました。
そして、さらに東に渡るためのルートを確保したのです。
侵略は一切していません。
武力競争における侵略と征服の歴史の中でなぜ、こんなことができたのでしょうか。
その感性が私たちに引き継がれているのでしょうか。
じっくりと調べてみたいことですね。