2015年2月26日木曜日

「二升五合」

客商売のお店に「二升五合」と書かれた張り紙を見たことがありますでしょうか。

居酒屋にも貼ってあったのを見たことがありますが、初めて見た時には何のことだかわかりませんでした。

若い人たちには分かりにくいかもしれませんね。


家庭に一升枡があったころには思い浮かぶ人多かったのかもしれませんが、これも一つの語呂合わせですね。

二升は一升枡二つのことですので「ますます」となります。

五合は一升の半分ですので半升となり「はんじょう」となります。

続けて読むと「ますます はんじょう」(増々繁盛)となって、商売繁盛を願う御守り札のような扱いのことになります。


更には、「春夏冬二升五合」というような言い方もあります。

春夏冬には秋がぬけていますので、「あきない」(商い)となって、「あきない ますます はんじょう」となるわけですね。

一ひねりされた、いかにも日本語らしい一種の言葉遊びと言えると思います。


さて、語呂合わせではありませんが二升五合を使った言葉にこんなものがあります。

「生麦大豆二升五合」(なまむぎだいずにしょうごんごう)。

一種の呪文として民間に伝わったものですが、これを唱えると難事を避けることができると言われたものだそうです。

「ますます はんじょう」を知っている人は、何とか結び付けようとしますがそれでは理解できません。


これは、弘法大師空海に与えられた御宝号である「南無大師遍照金剛」(なむたいしへんじょうこんごう)が訛って、身近なものを合わせて読んだ言葉を当てたものとなっています。

なむたいしへんじょうこんごう → なまむぎだいずにしょうごんごう、と言うわけですね。


空海(774年-835年)は平安初期の僧ですが、日本文化を語るには避けて通れない人物であり、超一流の文化人であった人です。

伝説や伝承までも含めると、空海が由来であると言われるものはとんでもなくたくさん存在しています。

一例を挙げてみますと、真言宗、ひらがな、いろは歌、曜日、ダウジング、灌漑土木、お灸、讃岐うどん、九条ネギ・・・

日本語についての探求を進めていくと、必ずどこかで出会う人でもあります。

能書家としても知られており、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。


それだけに空海にまつわることわざや慣用句も多く存在しますが、有名どころを挙げてみましょう。

「弘法も筆の誤り」
嵯峨天皇からの勅命を受けて大内裏應天門の額を書くことになった空海は、「應」の字を書いた時に一番上のマダレの点を忘れてガンダレで書いてしまいました。

当代超一流の文化人である空海が字を間違えることは誰も想像していなかったことでもあります。

この時に空海は、すでに掲げられた額を降ろすことなく、下から筆を投げつけて見事に点をつけてしまったということです。

どんな大人物であっても誤りはあるものだという意味が浸透していますが、別の意味としては大人物は間違えた時の直し方においても常人では想像もできないことをするものだという褒め言葉で使われることもあるようです。


「弘法筆を選ばず」
文字を書くことにおいて上手なものは、書く道具としての筆の良し悪しを撰ぶことをしないという意味で使われています。

しかし、弟子の真済が空海の漢詩文集として著した「性霊集」には、「弘法筆を選ぶ」として、良い筆を選ぶことができなかったのでうまく書けなかったという内容があります。


遣唐使として入唐してからの空海の実績には、多くの史料や伝聞があってかなりのことを知ることができますが、それ以前については異なる伝聞もありはっきりしていないことが多くなっています。

当事の超一級の文化人が撰ばれて遣唐使にお供をして渡ったわけですが、そもそも空海がなぜ遣唐使の一行として選ばれたのかが全くわかっていません。

空海の言葉として残っているもので、唐から帰った後で「虚しく往きて実ちて帰る」と言ったとあります。

無名の僧として唐に渡って、わずか2年の間で得たものの成果がいかに大きなものであったかを物語っているのではないでしょうか。


今の香川県善通寺市で生まれたとされており、四国における溜池の技術を広めたりした灌漑土木の知識や、いろは歌における隠し言葉と旧約聖書との関係など、どこまでが事実かわからないものまで含めるとどれだけのものがあるのでしょうか。

弘法大師の諡号は、入定後の921年に醍醐天皇から贈られたものと伝えられています。

仏教は勿論のことその源であるサンスクリット語(悉曇語、梵字)や旧約聖書にまで及んでいるその知識や、灌漑・建築における技術などを見るにあたってはどんなスーパーマンであったかと思わされるほどです。


遣唐使として渡った四隻の船のうち、第三船と第四船は難破して唐にはたどり着いていません。

正使を乗せた第一船に空海は乗っており、第二船には最澄が乗っていたと言われています。

福州長渓県赤岸鎮に漂着したものの、海賊と間違われて足止めを食っていた遣唐使一行において、大使に替わって嘆願書を書いたのが空海であったと言われています。

その文章と文字の格調の高さに驚いた長官は、長安の都に連絡を取り長期間待たされたと伝えられています。

長安の都においても、嘆願書の格調の高さにどのように待遇したらよいのかが検討されたために時間がかかったと言われています。


この一通の嘆願書がその後の唐における空海の活動に、大きな力を与えたことは間違いのなかったことでしょう。

無名の僧であった空海を見つけ出し遣唐使に加えた者が誰であったのかは、いまでは知ることができません。

空海の存在は、日本における精神文化の基盤を作り上げた原動力と言えるのではないでしょうか。




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