2015年2月25日水曜日

日本語の感覚に迫る(4)・・・自己のポジション

3回目までは、日本語の感覚が作られた根底にあるものを探ってきました。

それは、日本という国がたどってきた歴史や地理・気候の条件などから考えることができました。

他の言語の成り立ちの環境と比較したときに、生きるための脅威の対象が人による侵略ではなく自然環境であったこと、また、様々な条件により一度も侵略を受けた経験がないことが大きな影響を与えていることが分かってきました。
(参照:日本語の感覚に迫る(1)


それではこのような感覚を持っている日本語を母語とする私たちは、自己というものに対してどのような感覚を持っていることになるのでしょうか。

欧米型言語の文化においては、自己の個としての存在が至上のものでありそのことが社会の成り立ちのもととなっているものです。

現実的に彼らの感覚と一番異なったものとして現れてくる部分がここではないでしょうか。


言語としての習得のむずかしさから言えば、日本語と中国語は最たるものとなってます。

中学を卒業しても、学習した文字だけでは日刊の新聞が理解しきれないほどです。

それだけに、言語を学習する教科の時間だけでは、理解するための言語を習得するのが精一杯となってしまい、言語表現のための技術を身につける時間がほとんどないことになります。


特に日本の義務教育においては、国語教育の目的の中心が読解にあり言語で表現されたものを理解することが一番求められています。

言語技術によって表現をすることについてはほとんど触れていないのです。

欧米型言語の国の義務教育では、小学校の低学年のうちに基本的な言語の習得を完了して以降は言語の表現技術を磨くことが中心になります。

自己主張と説得のための論理技術を身につけることが、社会に出ていくために必要として求められているからです。
(参照:外国の言語教育


今まで見てきたように、日本語の感覚の中においては自己は決して絶対的なものとはなっていません。

絶対的な自然環境に対して何とか適応していこうとする存在です。

固定的な絶対自己を持っていては、環境に合わせて変化していくことができなくなるからです。

したがって日本語の感覚における自己は、環境に対してどのようにでも対応できるためにかなり流動的なものであるということができます。

流動的というよりも柔軟性があると言った方がいいのかもしれません。


日本語の感覚による自己は、絶対的なものではありませんので自分で自己を明確に認識することができません。

ましてや、自己主張する場合は明確に認識できないものを表現することになりますので、とても苦手な行為となります。

同じ認識をするのであれば、自己よりも環境を認識することの方に重きを置くことになります。

そして認識できた環境に対して、自己を適応させていきますので固定的な自己の部分は少ない方が適応しやすくなります。


欧米型言語の感覚から見ると、日本語話者は交渉事が下手だと言われることがよくあります。

それは、交渉そのものの目的が、欧米型言語の感覚による自己主張と説得によって利を得ることになっているからであり、根本的に日本語の感覚からズレていることにあります。

日本語の感覚では、全体の安定感と調和を大切にする感覚になります。

自己よりも環境の安定調和を求めます。

その結果、自己も安定と調和を手に入れることになります。

日本語の感覚で行う交渉は、彼らの感覚の交渉とは異なったものとなります。


大きな利を得ることよりも、安定と調和をより求めることになります。

経済的な価値をどこまでも追い求めることに対しては、違和感を感じることになります。

寄付や賽銭のことを浄財と呼んだりします。

一般的な財に対しては不浄なものであるとの感覚があるからです。

持ちすぎることがよくないという感覚も、日本語の感覚です。


持つことにこだわりができると、環境の変化に対応するのに足かせが増えるからです。

日本語の感覚では、究極の自己はどのような環境の変化に対しても適応して共生していくことができることです。

そのために自己の適応力を磨き上げることが道となります。

完成形はありません。

求道者としての在り方が、日本語の感覚の自己になるのではないでしょうか。


人に対してどこまでも影響力を持つ自己を求める欧米型言語の感覚と、大きく異なるところとなります。

こちらも完成形はありません。

どこまで影響力持っても限界はありませんので、果てしない力を持つことを求めることになります。

影響力を持つためのに自己を磨き上げ、環境を利用する技を磨くことになります。

際限のない自己実現を求めることになります。


どちらもどこかで満足感や達成感、あるいは挫折感やあきらめを持つことによって、ストップすることになるのではないでしょうか。

再びスイッチが入ることもあるし、それの繰り返しとなっているのではないでしょうか。


日本語の感覚による交渉は、協調と問題解決の共有によって成り立っていると思われます。

自己主張と説得でおこなうとうまくいかない例はたくさん経験しているのではないでしょうか。


小さな交渉事を考えてみれば、私たちの生活は交渉事の積み重ねとなっているのではないでしょうか。

ビジネス上の交渉事だけでなく、生活そのものが交渉の繰り返しとなっていると思われます。

日本語の感覚による交渉で自己のポジションを確認して、すっきりと気持ちよく生活していきたいですね。

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