2013年10月13日日曜日

言葉の向こうにあるもの

人が言葉を口にしたり文字にしたりするときは、何らの欲求を満たそうとしての行動であることがわかっています。

無意識下における行動は別にして、独り言にしても日記にしても意識がある場合においては何らかの欲求を満たそうとするための行動となります。

独り言の場合は、自分の考えていることを整理したいという欲求を満たしたい行動であることが多いようです。


その欲求自体を本人が意識して理解しているかどうかは微妙なところがあると思います。

特にその欲求のレベルが、マズローの言うところの生存の欲求に近いところになると、欲求をというよりも条件反射的に言葉を発することになります。

瞬間的に驚いた時に発する「おっ」という声や、痛さに呻く「う~」という声も、条件反射的ですが、危険や痛みを知ってもらいたい気づいてほしいという欲求に基づくものと言えます。



欲求がないときや欲求をあきらめたときに、人は言葉や文字を必要としなくなります。

欲求はきわめて私的な個人的な内容のものとなります。

欲求は目的とは異なります。

世界平和を目的とした行動であってもあっても、欲求から見ればその行動に自分が参加したり指導したりしたいということになります。


言葉にしたり文書にしたりする行為が、個人の欲求を満たすための行動であると理解できるとその意図をつかむことがやりやすくなります。

これは企業や社会・公的機関においても同じであり、それぞれの社会的・社内的立場に基づいた上でのきわめて私的な欲求を満たすために発せられているとこになります。

企業や公的機関における手続き的な内容であったとしても、その手続き命じたり行ったりすることは、個人的な立場の保全や権威保全の欲求によるものとなります。


このことが理解できてくると、相手の求めていることは言葉を理解することの外にあることが多いと分かってきます。

言葉を理解して、内容を把握することはもちろん大切なことです。

しかし、その言葉が欲求を満たすために発せられていると分かれば、どうして欲しいのかはおのずから見えてきます。

言葉の意味や内容を理解することよりも、何をしてほしくてこの言葉を発しているのかに気がつくようになります。


感覚的にこれができる人がいます。

企業的・社会的に立場の弱い人に多いです。

表現はよくないですが、最下層の人々の中に多くいるようです。

最下層の少し上の層は、さらにその上の欲求に対応しなければいけないので、自分の欲求はブレにブレます。

最下層の人たちは、その人たちの欲求をまともに浴びることになりますので、一つひとつの言葉や指示に対応していたらきりがありません。

言葉や指示の向こう側にある欲求をつかんで、うまく対応をする必要が出てきます。

学校では教えてくれない能力ですね。


でも、母語や日本人の感性には「一を聞いて十を知る」「以心伝心」「目を見ればわかる」などの表現があるように、この能力が伝承されているのです。

あまり使っていないだけだと思います。

使い方を教わっていないだけだと思います。


社会的な立場が高いほど、個人的な欲求と立場からくる欲求が重なってきます。

オーナー社長の場合はかなりの割合で、事業経営的な欲求と個人的な欲求が重なってきます。

個人的な欲求に含まれる事業経営的な欲求が多くなります。

どんなに大きな企業であっても、サラリーマン社長であれば、事業経営的な欲求と個人的な欲求は離れています。

建前と本音がかなり露骨に見てきますね。



人が持つ欲求を満たそうとして何かを表現するときは、相手に何らかの行動をしてほしいことが多くなります。

ただ単に、自分の知識を発表したいだけの欲求もありますが、きわめて希なことと言えるでしょう。

人は、事実や理論では動きません。

欲求を満たしたくて行動することですから、相手に満たす行動をしてもらうために言葉や文字を発することになります。


何をしてほしくて、今の表現をしているのかを見ているとテレビの記者会見でも面白い場面がたくさんあります。

ひどい場合は、責任回避のみが欲求となってしまっていて、公開言い訳の場になっていることもありますね。

マスコミに「この人たちは頑張って対応した、責任はないだろう。」と書いてほしければ、それなりの表現の仕方があるのですが、恥ずかしいですね。



どのようにしたら、相手が自分の望む行動をしてくれる表現ができるのか?

この辺が次のテーマになりますね。