2015年9月7日月曜日

「母国語」と言わなくなった

長い歴史を持つ言語が現代においても使用されていることは、その言語を使用する民族における精神文化の継承を表しているものだと思われます。

自らの意思によるものなのか外からの強制によるものであるかは別にしても、より高度な文化を取り込んだ場合にはその文化の持つ言語によってそれまでの言語が駆逐されていくことが起こります。

植民地などはその最たるものであり、文化的には劣っていたとしても武力という一面において支配した側は自らの言語を植え付けようとします。

その言語を使いこなせるかどうかは生死を分けることにもなりますので、それこそ必死に言語の習得がおこなわれることになります。


武力による侵略以外にも言語の置き換えがおこなわれることがあります。

その分野における圧倒的な力を持った言語は、その分野を利用するものにとっては理解しなければならない言語となります。

国と言語が密接に結びついていた時代では、一つの国の中で生涯を終えることが多かったために他の言語と触れる機会がほとんどありませんでした。


個人としての活動においても国単位の活動に縛られなくなったボーダレスの時代においては、より高度な必要とされる技術が言語にこだわらず手に入れることが可能となります。

ある分野での標準とされる言語が自分の母語である場合とそうでない場合を考えると、その分野における理解や影響力に大きな差が存在することになります。


海運、郵便の世界ではフランス語が世界標準の言語でした。

航空の世界では英語が世界標準の言語になっています。

それまでロシア語で運用されていたロシアの航空業界が、世界との共通化のために英語に切り替えを行なった当初はロシア国内で航空機事故が頻発したことは記憶に新しいことです。


そのように眺めた時には、日本語が標準語となっている国際的な分野は何一つないことがよく分かると思います。

つまり、世界と協力してその恩恵を得ようとしたりその分野で影響力を持とうとした場合には、日本語ではダメだということになるのです。

東京オリンピックの招致プレゼンテーションを覚えているでしょうか。

IOC(国際リンピック委員会)の公用語はフランス語と英語です。

公用語となっていない日本語では公式通訳すらつかないことになります。


国連の公用語は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の6言語です。

この言語同士の間では公式文書も公式通訳も行われています。

更に国連であっても実際に業務を行っている作業部会においての公用語は英語とフランス語の2言語となっています。

作業上での通訳翻訳の手間を最小にするためにも使用言語を限定する必要があるのだと思われます。


このように見ていくと、英語を習得することはとても大切なことのように思えてきます。

実際に幼児期から子供に英語を習得させようとする親がたくさんいることも事実です。

世界に対して発信したりアウトプットするときの表現方法として英語を持っていることが大きな武器になることも確かではないでしょうか。


日本語でおこなうよりも理解されやすく、翻訳もされ易いことは確かなことです。

いわゆる世界的な拡散を目的とするのであれば英語は必須ということができるでしょう。

限定的な国の言語を対象としない限り、広く世界を対象とする場合には世界の共通語という地位を確立している英語を使いこなせることが有利になることは間違いありません。


「母国語」という言葉が使われなくなってきました。

替わりに「母語」という言葉が標準的なものとなってきました。

世界での言葉が変わったわけではありません。

英語では昔も今もどちらを表す言葉も "mother tongue" です。


日本語に翻訳したときに「母国語」としてしまったのが始まりです。

"mother tongue" の原意としての使われ方を見ても「母国語」よりも「母語」の方が適しています。

つまりは、言語に対して「母国語」という捉え方が世界にはないことになります。

「国」を意識した日本独特の訳語であったということができるのではないでしょうか。


恐らくは100年以上「母国語」として使用されてきた言葉が、より原意を正確に表現するために修正されてきたということではないでしょうか。

また、「母国語」という言葉からくる意味が現実とは合わなくなってきたということではないでしょうか。

同じことがとてもたくさんの言葉について言えると思われます。


明治維新以降には西欧文化よりたくさんの言葉がなだれ込んできたために、あわてて新しい日本語をたくさん作りました。

ところが、原意を上手く表現できていない言葉がたくさんできてしまったのです。

しかも、彼らの持っている根本的な意味とは異なった感覚で作ってしまった言葉がたくさんあるのです。

それも、人としての基本的なことを表す言葉や社会制度としての根本的な事柄においてもたくさん見ることができるのです。


"right" という同じ時期に導入された民主主義の根本を表す言葉があります。

福沢諭吉がその言葉の持つ重さで日本語でへの翻訳を諦めた言葉でもあります。

「西洋事情と」いう福沢諭吉の本にそのくだりが書かれています。


"right" にたいして「権利」という日本語を充てたのが西周です。

福沢諭吉が外国語を翻訳する際によく仏教用語を使って新しい言葉を作っていたことに模倣したものです。

"speech" を「演説」、"talk" を「談話」と訳したのは福沢諭吉です。

どちらも民主主義には欠かすことのできない大切な言葉です。


その福沢諭吉は「権利」という言葉を思いついていましたが、それでも原意と違うということで翻訳を諦めていたのだと言われています。

日本語の感覚として「権利」には「権力を持って利益を得る」というニュアンスがありますし、中国語においてはまさしくこの意味でしかありません。

力を持って獲得したものである以上、より強い力によっては奪い返されるというニュアンスもあるようです。


"right" の原意は民主主義の根幹をなす言葉であり権力や力とは関係なく、もともと人に備わっているものという感覚が強いものです。

彼らの"right" と日本語の「権利」は異なったものとなってしまったまま150年が過ぎようとしています。

日本語の「権利」にはどうしても都合のいいことだけの利益的な感覚がありますので、思わず「義務」を対として置きたくなってしまうのです。

本来の"right" は理屈抜きに絶対に侵してはならない基本的に備わっているものなのです。


似たような言葉に"liberty" と"freedom" があります。

これを「自由」と翻訳したのも福沢諭吉です。

中国語由来の「自由」には「勝手気まま」と言うニュアンスがあります。


"liberty" は人としてあらゆる抑圧や制限などから解放されていることをその原意として持っていますし、これも民主主義には欠かすことのできない大切な言葉です。

"liberty" には何らかの抑圧や制限から解放された状態を表すことが多いようで、そのことに対して過去に抑圧や制限があったことがうかがえるものです。

"freedom" は学問の自由や言論の自由などという場合に使われることが多く、抑圧や制限のないことを表すことが多いです。

どちらにしても「勝手気まま」というニュアンスからは程遠いものとなっています。


日本語の「自由」は 日本語のニュアンスからすると行き過ぎを制限したり規制したりすることが可能なように思えます。

日本語における「自由」という言葉自体が持っているニュアンスが、英語における"liberty" "freedom" とは異なるものとなっているのではないでしょうか。

日本語の感覚では状況によって「自由」は制限できるものとなってしまうのです。


明治期にはこのような言葉が広辞苑一冊分にもあたる20万語を越えて作り出されたと言われています。

わたしたちが日常的に使っている漢字の熟語名詞のほとんどがこの時に生み出されたものと言ってもいいようです。
(参照:100年たって微妙なずれが現実に・・・


戦後70年ですが、社会構造は英語の社会を模倣してきましたが言語は幸いにも日本語を残し継承することができました。

しかし、日本語が持っている基本的な感覚は英語が持っている基本的感覚と多くのところでの違いが確実に存在しています。

それは、現実に生活している社会環境とそこで生活している人の持っている感覚の違いとして現れているのではないでしょうか。


英語の感覚で作られた社会を模してきた生活環境は、日本語の持っている基本的な感覚とは微妙なズレを生じていないでしょうか。

日本語は文字のない時代よりの言語を1500年以上にわたって継承し続けて現代でも使用しているのです。


言語自体が持っている感覚はその言語を使用する人において基本的な感覚として働いています。

母語として持っている言語は意識することもなくあらゆる場面において感覚として機能しています。


原意に合わせることが良いことなのかどうかはよく分かりません。

日本語に翻訳したことによって、あらゆる分野において日本独特の発展進化をしてきたことも間違のないことだと思います。

おなじ民主主義とは言っても、日本語と英語では言葉も現実的な体制や運用も異なるものとなっているのは当たり前のことです。


世界と触れることが増えてきたことによって、英語の重要さが増してきています。

同時に、英語と異なる日本語の感覚を知っておくことの重要さも増してきているのではないでしょうか。

よほど特殊な分野で活動しようとしない限りは、世界との接点のほとんどは英語でいいはずです。

英語を理解し使いこなせるようにしている活動も日本語で行なっていることを考えれば、日本語の感覚を理解しておくことは英語との感覚の違いを理解しやすくなるはずです。


母語として日本語を持っていることは、世界人としてとても貴重なことだと思います。

一番深い思考は母語でしかできない以上、そこには日本語としての感覚と特徴が知らないうちに現れてくるのです。

同時に、英語との感覚にギャップが自然に生まれるものです。

日本語を母語に持っていることはとてもすごいことだと思われます。

英語との比較において見ていくことでより鮮明になるのでしょうね。
(参照:日本語 vs 英語)

違いの分かる日本人が求められているのではないでしょうか。