2015年2月5日木曜日

日本語感覚の再発見

自分自身が持っている母語が、どんな言語であるかを確認することは思った以上に難しいことです。

それは、母語を習得していた時期である幼児期の記憶が、幼児期健忘の現象によって完全にリセットされていることよって、自分では思い出すことができないからです。
(参照:母語と幼児期健忘

また、母語の影響は、日々の知的活動における感覚として、無意識に働いている場合が多いために母語の存在そのものを具体的に感じることが難しいからでもあります。


母語は極めて個人的な言語であり、日常使用している言語の裏に隠れてしまっていることが多いために、気づきにくくなっています。

さらに、物心がつくころである10歳前後までには母語だけでの言語活動は終了しています。

物心がつくための条件である記憶の保持期間の長さやエピソード記憶と言われる記憶の仕方が定まってくるのが10歳前後となっています。

したがって10歳前後からの記憶は自身のものとして、いつ、どこで、だれとが比較的鮮明に保持されているのです。

いつ、どこで、だれと、を伴った記憶のことをエピソード記憶と呼んでいます。


それ以前の記憶は、後から写真等で植え付けられたものであり、自身の記憶としてはよほど衝撃的な体験を伴ったものでない限りほとんど残っていません。

したがって、母語を身につけて母語だけで活動していたころの記憶は、どんな人でもほとんどないことになります。

親に聞いたりして、母語習得時の環境を確認するのが精一杯ではないでしょうか。


それでも母語としての日本語の感覚がどれほど強く自分の中にあるかを、間接的に確認することはある程度できそうです。

その一つが「反対と逆」についての思考遊びです。

「賛成」の反対と言えば、無条件に出てくるものが「反対」ではないでしょうか。

学校教育でそのように教え込まれたから、「賛成」があると条件反射的に「反対」が出てくると思われます。

この「賛成」と「反対」の関係が、まさしく欧米型言語の感覚によるものなのです。


極めて狭い限定された環境における、客観的な捉え方になっているのです。

これを、日本語感覚で捉えなおすと、以下ようになるのではないでしょうか。

「合意」と「拒否」。

感覚的には、「受諾」と「拒絶」とも言いかえることができます。


欧米型言語の感覚では論理が優先しますので、「賛成」も「反対」も全く同じ現象として自己との関係を考えずに扱うことができるのです。

日本語の感覚では、「賛成」と「反対」では環境と自己との関係において、同等には扱えないものとなっているのです。

逆の発想からすると、「賛成」の逆は「無視」ということができます。


この逆の発想に、抵抗なく自然に感覚的に合うことができることが、日本語の感覚だと思われます。

「賛成」という言葉は強い言葉です。

明治以降に日本語に翻訳された言葉です。

強い言葉ですから、どうしても反対の要素を一緒に持っておきたくなるのです。

「賛成」と「反対」は、両方とも強い言葉です。

日本語の感覚はその間にあるのです。


「賛成」「反対」の強い意思の逆として、意思を表示しない「無視」の関係の方が日本語の感覚になるのです。

反対の言葉は、言い方を変えると一対になった言葉ということができます。

ある環境における両極端を表現したものということができると思います。


両極端では、その環境は一直線のものになってしまいます。

両極端の間に存在するあらゆる状況を、更に幅を持たせて領域としたものが逆の発想ではないでしょうか。

欧米型言語の感覚では、両極端のどちらかの選択が数多く存在します。

Yes or Noがその典型ではないでしょうか。


日本語の感覚では完全なYesも、完全なNoも存在しないのです。

全てが完全なYesと完全なNoの間にあるのです。


この感覚を自然に心地よく感じられる場合は、かなり日本語の感覚が染みついていると思われます。

二者択一の論理で展開される活動に、まったく不自然さや違和感を感じない場合は、かなり欧米型言語の感覚に近いものになっていると思われます。


特に、明治期以降に導入された欧米型言語の感覚による言葉については、わかり易いのではないかと思います。

「権利」という言葉があります。

どうしてもすぐに「義務」という反対語が浮かんでしまいます。

「権利」「義務」の逆として「しがらみがない」という意味では「自由」という言葉が来るかもしれません。


反対は欧米型言語の感覚ですので、一対としての熟語がすぐに見つかると思いますが、逆については日本語の感覚ですので漢字の熟語がすぐに見つかるとは限りません。

漢字を使わない表現になる場合の方が多いかもしれませんね。

こんな感覚を試してみるのも、母語としての日本語がどんな染み込み方をしているのか感じられることだと思います。