巨大な日本語は言語を学ぶことが多すぎて、言語を用いて表現する技術を学ぶ時間がほとんどないことはとても残念なことです。
反対に、未熟な表現技術であったとしても、日常生活においては全く支障がないと言ってもいいと思います。
あまりにも多彩な表現方法を持つ日本語は、推察する、咀嚼するといった表面に表れない内容を理解する必要があります。
高度な表現技術においては、目の前に見えたり聞こえたりする言葉以外に、真意を隠した表現をすることが可能です。
言葉遊びについては何回か触れてきていますが、その中でも王道ともいえる沓冠(くつかむり)は表現技術の到達点の一つと言えるのではないでしょうか。
沓冠は「くつかむり」「くつかぶり」「くつこうぶり」とも読まれます。
広辞苑によれば、「和歌や俳句の折句(おりく)の一つで、ある語句を各句の初めと終わりに一音ずつ詠み込むもの」とあります。
折句についても「日本語の言葉遊び」に触れていますので、参考にしていただきたいと思います。
(参照:日本語の言葉遊び)
簡単に言ってしまえば、短歌や俳句の中に本文とは違う言葉を忍び込ませることです。
沓冠はその忍び込ませる位置が、文節の最初と最後の両方に表れてくる、より高度なものです。
有名な沓冠を例に挙げたいと思います。
沓冠というと、必ずこのやり取りが取り上げられます。
徒然草の作者である吉田兼好(1283~1250頃)と同時代の和歌の四天王と呼ばれた頓阿(とんあ)との歌のやり取りです。
よもすすし ねさめのかりほ たまくらも まそてもあきに へたてなきかせ (兼好)
よもすずし ねざめのかりほ 手枕も ま袖も秋に へだてなきかぜ
よるもうし ねたくわかせこ はてはこす なおさりにたに しはしとひませ (頓阿)
よるもうし ねたくわがせこ はてはこず なおざりにだに しばしとひませ
秋の夜の歌のやり取りであろうことは想像ができると思いますが、沓冠を意識して読んでみたいと思います。
まずは兼好の歌から、
緑の行は上から下へ、紫の行は下から上へ読んでみると、
「よねたまへ、せにもほし」 → 「米たまえ、銭もほし」
と無心をしているのです。
これに対して頓阿は
「よねはなし、せにすこし」 → 「米はなし、銭すこし」
と米はないけど銭なら少しあるよと返しているのです。
二人だけの会話であれば、「米と銭をすこし貸してくれないか?」「米はないけど銭なら少しあるぞ」で済んでしまうはずです。
近くや周りに人がいたのか、直接言うには問題があったのか、いろいろ想像をさせてくれます。
ただし、二人の間に沓冠のルールが存在していなければ、何の意味もないただの歌になってしまいます。
歌のどこかにか、歌を詠む前後の言葉の中にか沓冠が入っていますよと言う合図がなければ分からないのではないかと思います。
言葉をしのばせる技術には「日本語の言葉遊び」でも見てきたように、様々なものがあります。
すべての人が、頻繁に使いこなしていたとは到底思えません。
歌のパターンや、前後の言葉の中に必ずや隠しているやり方を示すものがあると思われます。
歌のみを取り上げて、前後のやり取りが取り上げられていない解説は、とても残念に思います。
表向きの歌の内容とは全く違った言葉を隠して、意志の疎通を行っていたことは十分に考えられることです。
ある意味では究極の表現方法ということができるのではないでしょうか。
表の歌が素晴らしければ素晴らしいほど、その技術の巧みさが伺われることになるのでしょう。
それとも、目立ってはいけないから、敢えていい歌にはしないところまで配慮されているのかもしれないですね。
こんな技術がしっかり伝承されていくことは、とても楽しいことだと思います。
いつかは取り組んでみたいと思っている「古今伝授」の暗号にも、沢山の技術が隠されているのでしょう。
頓阿が藤原定家よりつながる古今伝授の継承者であり、その古今伝授の系統が細川幽玄につながり、天皇家に戻っていくものになります。
関ヶ原の合戦の折に、古今伝授の継承者である細川幽玄が籠城討死の危機であったところを、勅命により武士の力を押しのけて、守り切った「古今伝授」にどんな暗号が隠されているのか興味は尽きません。
皇室に戻った「古今伝授」はその後は一切世間に出ることはありません。
こんなに短い歌にいったいどれだけの表現技術が含まれているのでしょうか。