言語によっては名詞そのものに雌雄があっても表現上の区別をしないもの多く存在します。
日本語や中国語はその典型と言えるでしょう。
雌雄によって冠詞が変わったり動詞が変わったりすることはありません。
一方では、フランス語やロシア語のように名詞そのものが文法上の性を持っており、それに伴って動詞や形容詞までが変化する言語もあります。
英語はその成り立ちを見ればラテン語の影響を強く受けており本来は文法上の性があったと思われますしその名残もあります。
しかし、現在の英語は文法上の性を持たない言語として位置付けられています。
グレヴィル・コーベット (Corbett 2011) は世界257の言語について、性がいくつあるか調査しました。
それによると、性を持たない言語が約半数で145、性が二つある言語が50、三つあるのが26言語、四つが12言語、五つ以上持つ言語は24あったと報告されています。
下の地図はそのエリアの言語が文法上の性をいくつ持っているかを示したものです。
代表的な言語では、男性、女性、中性の全てを区別している言語はドイツ語、スラブ語、ラテン語などがあります。
このうちスラブ語(ロシア語、チェコ語など)は男性がさらに細分化されていています。
ラテン語から派生した言語でもフランス語、スペイン語は男性と女性の二つの区分であって中性は男性に吸収された形となっています。
ヘブライ語も男性、女性の二つの区分があります。
デンマーク語、スウェーデン語、オランダ語においては、女性と男性が融合して「通性」となっており、文法上の性は通性と中性の二種類となっています。
どの言語においても共通しているのは、実際の動物のように本来の雌雄がある対象に対しても持っている雌雄とは関係なく名詞としての文法上の性が定められており性別上の性とは区別されたものとなっています。
したがって、同じ対象物であっても言語によっては文法上の性が異なるものが数多く存在しており、文法上の性を持たない言語から見るととても複雑な様相となっています。
興味のある方はいろいろな研究が発表されていますので参考にしていただいたら面白いと思います。
ここでは、文法上の性を持つ言語が共通の特性を持っているのではないかという仮説を立ててみたいと思います。
コーベットの調査によると半数が文法上の性を持たない言語となっており、その典型が英語、中国語、日本語となっています。
言語の持っている性格を人の持っている性格としてのバースデーサイエンス(バースデーサイエンス研究所)で分類することを試してみました。
(参照:バースデーサイエンス⇒母語が決める後天的性格)
どうやら上手くいきそうです。
英語と中国語は結果重視型の性格を持った言語であり、文の構成や語彙などもそのために向いている構造となっています。
結果重視型の思考をする場合には英語や中国による展開はとてもスムースに運びます。
結果を意識した表現や、まずは結果を表現してから論理を展開するにはとても適した言語となっていることが分かります。
一方、日本語は直感重視型の性格を持った言語と言えるでしょう。
明確な論理性を表現することが苦手であり、その場その場のひらめきで話をつないでいくのには適した言語となっています。
論理構成が苦手であり浮かんでくる想いを次から次へと羅列していくことに向いている言語となっています。
そこで、文法上の性を持った言語を見てみましょう。
結論的には人柄重視型の言語と言えるのだと思われます。
それでも、文法上の性の扱い方によってその強弱があるのではないかと思われます。
明確に男性と女性の二つに分けられているものはかなりこの傾向が強い性格を持っているのではないかと思われます。
中性の言語が多かったり性の分類が多かったりするととこの傾向が弱くなっているのではないでしょうか。
人柄重視の傾向があまり強く見らない言語においては結果重視/直感重視の傾向の方が強く見られる場合もあると思われます。
言語が基本的に持っている正確や傾向があるだろうということはかなり前から感じていました。
同じことを日本語で考えたり討論したりする場合と英語でやってみたりした場合では、結論はおろか論理の展開や検証の方法まで違ってくることが分かっていたからです。
しかも、母語として持っている言語の影響は拭いがたいものがあって、ちょっと難しいことを考えると他の言語を意識していても必ず母語で行なってしまうことことになっていました。
これはかなりレベルの高いマルチリンガルの人でも同じことが起きていることが確認できています。
日本語を母語としている人がなんとか英語を使いこなして表現しようとしても、思考の過程はすべてが日本語で行なわれており最後の表現のところだけで英語に翻訳されているのが実際の行動のようです。
使い慣れたちょっとしたことは英語の感覚で対応できても、よく考えなければならないような難しいことは自然と母語で行なわれているようです。
言語はその民族の長い歴史の中で変化し削ぎ落されて現在の形になっているものです。
その民族の感覚の典型ではないでしょうか。
当然、言語によってその傾向や性格を持っていることは考えられることではないでしょうか。
生まれてからその言語に触れることによって母語となっていきます。
母語が持っている傾向や性格によって大きな影響を受けていると思われます。
人の性格や人格形成において後天的に母語の持っている影響力はとても大きなものだと言えるのではないでしょうか。
言語の持っている性格も絶対的なものではありません。
異なる言語を母語とする者同士が向き合った時に相対的に現れてくる正確や傾向が出てくるものだと思われます。
知っているだけでも使い道がありそうですね。
特に人の性格や傾向と合わさった時にはさらに顕著に出てくるのではないでしょうか。
そのために相手に合わせた言語の使い方も可能になってくると思われます。
意識しないで使っている言語だけに、その傾向にはかなり影響されているのでしょうね。
知るだけでも面白くなりそうです。
2016年2月9日火曜日
2015年8月25日火曜日
言語の特徴を知って自分を知る
人の持っている気質や傾向を形成してものには、先天的に持って生まれたものと後天的に身につけてきたものがあると思われます。
先天的に持って生まれたものについては、自分自身ではどうすることもできませんので変えることができない基本的なものと思われます。
これに大きな影響を与えるものは生まれてくるまでの親の環境ではないでしょうか。
およそ10ヶ月という期間そのおなかの中にいることになる母親の影響は一番大きなものと言えるのではないでしょうか。
似たような環境にあれば似たような気質や傾向になるであろうことは想像に難くないことです。
現代のように生活するための環境を自分で選択したり作ったりすることができなかった時代においては、より生活するための自然環境の与える影響は大きかったと思われます。
それは周りの人が与える影響よりもより生命にかかわりが深かったものと思われます。
そのために自然環境の同じような地域においては生まれた時期によって同じような傾向を示す基本的な気質が形成されていたものと思われます。
その自然環境によって、周りにいる人たちの心情的な動きも同じようなものでありその中で生まれた者たちには同じような傾向が形成されたと思われます。
自然環境を決める最大の要因は地球の動きであり宇宙における地球のポジションです。
古代よりこのことに気がついていた人類は、最古の文明においても天文学を大きな拠り所としてきました。
それぞれの文明の地域における自然環境の変化とそのサイクルを発見してきました。
やがて、それが暦となって定着していくことになります。
したがって、それぞれの地域にはその地域独特の暦とサイクルがあります。
日本は、暦ごと中国の文明からの恩恵を受けました。
地域的に近いとはいえ、自然環境のサイクルと変化は異なっています。
そのために日本としての調整がなされてきましたが、それでも基本形はかなりの部分残ったものとなっています。
地域的な特徴と暦を基準とすることよって、多くの統計が可能になりました。
人の持って生まれた気質や傾向にこれを当てはめたものが、西洋占星術であり四柱推命学です。
したがって、これらの分類は統計がおこなわれた時点での地域的や暦が基準となっているものとなっています。
勝手に自分の生活している場所で利用しようとしても、地域的なズレや暦のズレによる誤差が生じるものとなっているのです。
拠り所とする統計データも全てが同じ時期の同じ地域で集められたわけではないので、採取された時期によっては暦上の調整が必要なものが存在していると言われています。
現代の生年月日時間をそのまま利用して当てはめればよいものとは大きく違ったものとなっているようです。
全く同じ時期の環境であったとしても、ヨーロッパと中国と日本では大きく異なったものとなっています。
地域と時間が大切な軸となっており、その時点での地形と天候が人の持って生まれたもの対して大きな影響を与えているということになるのでしょう。
後天的に影響を与える最大の要素が言語だと思われます。
あらゆる知的活動のツールとなっているのが言語です。
思考活動や表現活動ができない幼児期であっても認知活動が最初にできるようになります。
これもすべて言語によるものです。
それ以降あらゆる影響を言語によって受けていくことになります。
言語化されていない影響であっても、それを受取っているのは自分のなかで言語化して受け取っているからです。
したがって、どの言語を使用しているのか、母語としてどの言語を持っているのかは自分が形成されてきた大きな要素となっているのです。
言語の大きな分類でいえば、英語、フランス語、ロシア語、中国語、アラビア語のようにある国の民族が使用する言葉としてのものもあります。
しかし、同じ英語であったとしても一人ひとりの個人が持っている英語は微妙な違いを持ったものとなっています。
それは、すべての人が全く同じ母語を持っているわけではないからです。
母語は基本的には母親から子供に伝えられる伝承言語です。
母親自身が持っている言語がすべての人で異なったものとなっています。
同じ日本語であっても一人ひとりの日本語が違っているのと同じことになります。
(参照:「母語」を伝える)
義務教育では日本語の共通語としての国語を身につけてますが、国語だけで日本語が成り立っているわけではありません。
社会に出ていけば様々な環境によって異なる言語があります。
それらの言語によって自分の言語が出来上がっていくことになります。
その個性的な母親の持っている言語が子どもに伝承されていくのです。
しかも母親の持っている言語のすべてが伝承されるわけではありません。
同じ日の同じタイミングに生まれた双子であっても、母親から伝わる母語は違ったものとなっているのです。
そうでなければ、学校と家庭という環境でほとんどすべてを共有している一卵性双生児はもっと同じような気質的な傾向を示していなければならないはずです。
後天的に形成されるあらゆる要素は言語によって最大に影響を受けていると思われます。
個人的な言語の差も必要かもしれませんが、大きな分類として日本語という言語の特徴を知っておく必要があるのではないでしょうか。
自分を知るための一番の近道ではないでしょうか。
世界の現存する言語の中でもきわめて特殊な言語として存在している日本語は、言語の持っている感覚においても数多くの特徴を有しています。
世界と触れる場面が増えてきています。
同じ現象や事象に対してどのように受け止めるのかは、それぞれの言語が持っている基本的な感覚に大きく依存します。
理屈抜きの感覚な認知活動になるからです。
その感覚が他の言語とは大きく異なっているのが日本語です。
特に先進文化圏の言語とはその感覚が対極にあると言ってもいいものとなっています。
対立を確認することから交渉が始まる言語の感覚と、対立を作らないように自分が適応して共生をしようとする言語の感覚は本質的には相容れるものとはなりません。
共生しようとする側が一方的に何とか適応しようとしますが、対立から始めたい側にとって曖昧さの塊となってしまいます。
双方がストレスを抱えてしまうことになるのです。
世界においては日本語の持っている感覚の方が特殊になります。
その分、自分を知るにはもってこいの要素でもあります。
同じ日本語のなかでの感覚の違いでしたら気がつきやすいですが、他の言語との比較における感覚の違いはなかなか気がつきにくいものです。
それでも、自分を知るための一番の近道ではないでしょうか。
恐らく、知れば知るほど面白くなると思いますよ。
そこから気がつくこともたくさんありますし、思わぬ発見もたくさんあると思います。
持って生まれた撰的要素プラス後天的な言語の要素で自分ができているとわかると、既成概念や固定概念などもこだわらなくなりますよ。
一度試してみませんか。
先天的に持って生まれたものについては、自分自身ではどうすることもできませんので変えることができない基本的なものと思われます。
これに大きな影響を与えるものは生まれてくるまでの親の環境ではないでしょうか。
およそ10ヶ月という期間そのおなかの中にいることになる母親の影響は一番大きなものと言えるのではないでしょうか。
似たような環境にあれば似たような気質や傾向になるであろうことは想像に難くないことです。
現代のように生活するための環境を自分で選択したり作ったりすることができなかった時代においては、より生活するための自然環境の与える影響は大きかったと思われます。
それは周りの人が与える影響よりもより生命にかかわりが深かったものと思われます。
そのために自然環境の同じような地域においては生まれた時期によって同じような傾向を示す基本的な気質が形成されていたものと思われます。
その自然環境によって、周りにいる人たちの心情的な動きも同じようなものでありその中で生まれた者たちには同じような傾向が形成されたと思われます。
自然環境を決める最大の要因は地球の動きであり宇宙における地球のポジションです。
古代よりこのことに気がついていた人類は、最古の文明においても天文学を大きな拠り所としてきました。
それぞれの文明の地域における自然環境の変化とそのサイクルを発見してきました。
やがて、それが暦となって定着していくことになります。
したがって、それぞれの地域にはその地域独特の暦とサイクルがあります。
日本は、暦ごと中国の文明からの恩恵を受けました。
地域的に近いとはいえ、自然環境のサイクルと変化は異なっています。
そのために日本としての調整がなされてきましたが、それでも基本形はかなりの部分残ったものとなっています。
地域的な特徴と暦を基準とすることよって、多くの統計が可能になりました。
人の持って生まれた気質や傾向にこれを当てはめたものが、西洋占星術であり四柱推命学です。
したがって、これらの分類は統計がおこなわれた時点での地域的や暦が基準となっているものとなっています。
勝手に自分の生活している場所で利用しようとしても、地域的なズレや暦のズレによる誤差が生じるものとなっているのです。
拠り所とする統計データも全てが同じ時期の同じ地域で集められたわけではないので、採取された時期によっては暦上の調整が必要なものが存在していると言われています。
現代の生年月日時間をそのまま利用して当てはめればよいものとは大きく違ったものとなっているようです。
全く同じ時期の環境であったとしても、ヨーロッパと中国と日本では大きく異なったものとなっています。
地域と時間が大切な軸となっており、その時点での地形と天候が人の持って生まれたもの対して大きな影響を与えているということになるのでしょう。
後天的に影響を与える最大の要素が言語だと思われます。
あらゆる知的活動のツールとなっているのが言語です。
思考活動や表現活動ができない幼児期であっても認知活動が最初にできるようになります。
これもすべて言語によるものです。
それ以降あらゆる影響を言語によって受けていくことになります。
言語化されていない影響であっても、それを受取っているのは自分のなかで言語化して受け取っているからです。
したがって、どの言語を使用しているのか、母語としてどの言語を持っているのかは自分が形成されてきた大きな要素となっているのです。
言語の大きな分類でいえば、英語、フランス語、ロシア語、中国語、アラビア語のようにある国の民族が使用する言葉としてのものもあります。
しかし、同じ英語であったとしても一人ひとりの個人が持っている英語は微妙な違いを持ったものとなっています。
それは、すべての人が全く同じ母語を持っているわけではないからです。
母語は基本的には母親から子供に伝えられる伝承言語です。
母親自身が持っている言語がすべての人で異なったものとなっています。
同じ日本語であっても一人ひとりの日本語が違っているのと同じことになります。
(参照:「母語」を伝える)
義務教育では日本語の共通語としての国語を身につけてますが、国語だけで日本語が成り立っているわけではありません。
社会に出ていけば様々な環境によって異なる言語があります。
それらの言語によって自分の言語が出来上がっていくことになります。
その個性的な母親の持っている言語が子どもに伝承されていくのです。
しかも母親の持っている言語のすべてが伝承されるわけではありません。
同じ日の同じタイミングに生まれた双子であっても、母親から伝わる母語は違ったものとなっているのです。
そうでなければ、学校と家庭という環境でほとんどすべてを共有している一卵性双生児はもっと同じような気質的な傾向を示していなければならないはずです。
後天的に形成されるあらゆる要素は言語によって最大に影響を受けていると思われます。
個人的な言語の差も必要かもしれませんが、大きな分類として日本語という言語の特徴を知っておく必要があるのではないでしょうか。
自分を知るための一番の近道ではないでしょうか。
世界の現存する言語の中でもきわめて特殊な言語として存在している日本語は、言語の持っている感覚においても数多くの特徴を有しています。
世界と触れる場面が増えてきています。
同じ現象や事象に対してどのように受け止めるのかは、それぞれの言語が持っている基本的な感覚に大きく依存します。
理屈抜きの感覚な認知活動になるからです。
その感覚が他の言語とは大きく異なっているのが日本語です。
特に先進文化圏の言語とはその感覚が対極にあると言ってもいいものとなっています。
対立を確認することから交渉が始まる言語の感覚と、対立を作らないように自分が適応して共生をしようとする言語の感覚は本質的には相容れるものとはなりません。
共生しようとする側が一方的に何とか適応しようとしますが、対立から始めたい側にとって曖昧さの塊となってしまいます。
双方がストレスを抱えてしまうことになるのです。
世界においては日本語の持っている感覚の方が特殊になります。
その分、自分を知るにはもってこいの要素でもあります。
同じ日本語のなかでの感覚の違いでしたら気がつきやすいですが、他の言語との比較における感覚の違いはなかなか気がつきにくいものです。
それでも、自分を知るための一番の近道ではないでしょうか。
恐らく、知れば知るほど面白くなると思いますよ。
そこから気がつくこともたくさんありますし、思わぬ発見もたくさんあると思います。
持って生まれた撰的要素プラス後天的な言語の要素で自分ができているとわかると、既成概念や固定概念などもこだわらなくなりますよ。
一度試してみませんか。
2015年8月12日水曜日
日本語が目指す究極の柔軟性
日本語の持っている基本的な感覚として、周囲や環境との「違い」を嫌うことは触れたことがあります。
(参照:「違い」を嫌う日本語感覚)
英語が持っている感覚と比較した場合には、より鮮明になってくるものだと思われます。
より多くの環境に対して影響を与えることができる他者との「違い」に大きな価値を置く英語の感覚に比べると、日本語の環境との共生を目指す感覚は対極とも言うことができるものです。
これは個人の持っている資質よりも、母語として持っている言語とその言語を使いこなして生活していく社会における基本的な感覚となっているものと思われます。
母国語という表現が実態を表していない表現として使われなくなり母語という表現に変わっていったことによって、言語の役割がより明確になってきたことも一助になっていると思われます。
言語はその言語を使ってきた民族の精神文化が反映されたものであり、またその精神文化を継承するための一番重要なツールが言語でもあります。
幼児期に親から伝承される言語である母語は自分で選ぶことができないものですが、その母語によって人としての基本的な感覚が決まってくるものとなっています。
それは、その言語を使っているだけで自然に備わってしまう感覚であり、決して意識して身につけるものではありません。
そのために、理論理屈を超えてあらゆることの判断基準の根底にあるものとなっているのではないでしょうか。
(参照:母語の習得と幼児教育)
論理的でとてもわかりやすいアメリカ型のマネジメントやコーチング理論であっても、日本語で実践する段階になるとどこかに違和感を感じてしまって上手くいかないのはそのためだと思われます。
そこは、言語としての英語の持っている基本的な感覚が前提になっているものであり、論理としては理解できても感覚としての違和感が残るものとなってしまっているからです。
同じ英語であっても、イギリス英語とアメリカ英語の感覚では違いがあるのです。
同じ英語同士ですので基本的な感覚には近いものがありますが、「違い」を大切にする彼らにとってはその微妙な違いが気になるものとなります。
共通性よりも「違い」の方に目が向きやすいのが英語の感覚ですので、更に強調されることになると思われます。
日本語は「違い」よりも「共生」の感覚を基本に持った言語となっています。
そもそも、日本語は日本の歩んできた道と共に他の言語とはかなり異なった特徴の多い言語となっています。
言語の分野では世界の孤児とも言われるように、きわめて特殊な言語となっているものです。
(参照:気づかなかった日本語の特徴)
共通性の多い者同士は「違い」に焦点が向くようになっているようであり、「違い」が大きなものには共通性に焦点が向くようになっているようです。
日本語は、共通性を見つけることが得意な感覚を持っています。
更には、周りや環境に対して適応して自らを変化させることを得意としています。
環境との共生のためには自らを変化させてでも適応していくことを行ないます。
英語に比べると日本語の感覚における「個」は決して主張することを善しとしません。
自己を主張することよりも環境に自らを合わせることを善しとする感覚となっているのです。
どちらが良いとか優れているかという問題ではありません。
言語が持っている基本的な感覚ですので、これに逆らえば違和感を感じ不快を感じることになるます。
「個」においても目指すところが変わってくるのは当然のこととなります。
強烈な「個」によって影響を与えることができる環境をより大きなものにしようとするために努力するのが英語の感覚における目指すところになります。
日本語の感覚では、どんな環境に対しても共生することができるようにあらゆることに柔軟に適応できる「個」が目指すところになります。
影響力を持ちたい環境を定めてそのために必要な能力や人脈を手に入れていくのが英語の感覚による個人の努力の方向です。
どんな環境に対しても共生ていくことができるように、あらゆることに対して適応できるように能力を身につけようとするのが日本語の感覚による個人の努力の方向です。
明確な目標があってそこに向かって最短距離で達成しようとするのが英語の感覚になります。
日々の活動のなかで適応できないものを減らしていきながら、どんな状況にも適応出益るようにしていこうとするのが日本語の感覚になります。
目標志向型の英語と状況対応型の日本語ということができると思います。
(参照:目標志向と状況対応)
日本語の基本的な感覚によると、目標志向型の対応は苦手になります。
無理に対応しようとすると違和感を感じストレスを感じることになります。
戦後アメリカ型の社会の構築を目指した日本の社会は、国家の運営から企業環境や教育環境まで目標志向型の社会になっています。
日本語の感覚に素直に従って生きていくといたるところでギャップが生じて、生活していくのが難しくなっています。
日本が世界でも類を見ない高ストレス社会であることの一因だと思われます。
この感覚が分からない世界では、いまだに目標志向型のみのアプローチで活動が合行なわれており、そこにおける状況対応型のアプローチはそれ自体が否定されるものとなっていることが多く見受けられます。
今や、アメリカ自体が目標志向型での行き詰まりを感じており、状況対応型に対する多くの理論が取り上げられてきています。
しかし、彼らの持っている基本的な感覚は目標志向型ですので理論的には理解できても上手にアプローチできていないのが現実となっています。
言葉だけ状況対応型が流行り始めているというのが現状ではないでしょうか。
日本語の持っている基本的な感覚が、究極の柔軟性が求められる時代になってきているようです。
しっかりと理解しておきたいところですね。
(参照:「違い」を嫌う日本語感覚)
英語が持っている感覚と比較した場合には、より鮮明になってくるものだと思われます。
より多くの環境に対して影響を与えることができる他者との「違い」に大きな価値を置く英語の感覚に比べると、日本語の環境との共生を目指す感覚は対極とも言うことができるものです。
これは個人の持っている資質よりも、母語として持っている言語とその言語を使いこなして生活していく社会における基本的な感覚となっているものと思われます。
母国語という表現が実態を表していない表現として使われなくなり母語という表現に変わっていったことによって、言語の役割がより明確になってきたことも一助になっていると思われます。
言語はその言語を使ってきた民族の精神文化が反映されたものであり、またその精神文化を継承するための一番重要なツールが言語でもあります。
幼児期に親から伝承される言語である母語は自分で選ぶことができないものですが、その母語によって人としての基本的な感覚が決まってくるものとなっています。
それは、その言語を使っているだけで自然に備わってしまう感覚であり、決して意識して身につけるものではありません。
そのために、理論理屈を超えてあらゆることの判断基準の根底にあるものとなっているのではないでしょうか。
(参照:母語の習得と幼児教育)
論理的でとてもわかりやすいアメリカ型のマネジメントやコーチング理論であっても、日本語で実践する段階になるとどこかに違和感を感じてしまって上手くいかないのはそのためだと思われます。
そこは、言語としての英語の持っている基本的な感覚が前提になっているものであり、論理としては理解できても感覚としての違和感が残るものとなってしまっているからです。
同じ英語であっても、イギリス英語とアメリカ英語の感覚では違いがあるのです。
同じ英語同士ですので基本的な感覚には近いものがありますが、「違い」を大切にする彼らにとってはその微妙な違いが気になるものとなります。
共通性よりも「違い」の方に目が向きやすいのが英語の感覚ですので、更に強調されることになると思われます。
日本語は「違い」よりも「共生」の感覚を基本に持った言語となっています。
そもそも、日本語は日本の歩んできた道と共に他の言語とはかなり異なった特徴の多い言語となっています。
言語の分野では世界の孤児とも言われるように、きわめて特殊な言語となっているものです。
(参照:気づかなかった日本語の特徴)
共通性の多い者同士は「違い」に焦点が向くようになっているようであり、「違い」が大きなものには共通性に焦点が向くようになっているようです。
日本語は、共通性を見つけることが得意な感覚を持っています。
更には、周りや環境に対して適応して自らを変化させることを得意としています。
環境との共生のためには自らを変化させてでも適応していくことを行ないます。
英語に比べると日本語の感覚における「個」は決して主張することを善しとしません。
自己を主張することよりも環境に自らを合わせることを善しとする感覚となっているのです。
どちらが良いとか優れているかという問題ではありません。
言語が持っている基本的な感覚ですので、これに逆らえば違和感を感じ不快を感じることになるます。
「個」においても目指すところが変わってくるのは当然のこととなります。
強烈な「個」によって影響を与えることができる環境をより大きなものにしようとするために努力するのが英語の感覚における目指すところになります。
日本語の感覚では、どんな環境に対しても共生することができるようにあらゆることに柔軟に適応できる「個」が目指すところになります。
影響力を持ちたい環境を定めてそのために必要な能力や人脈を手に入れていくのが英語の感覚による個人の努力の方向です。
どんな環境に対しても共生ていくことができるように、あらゆることに対して適応できるように能力を身につけようとするのが日本語の感覚による個人の努力の方向です。
明確な目標があってそこに向かって最短距離で達成しようとするのが英語の感覚になります。
日々の活動のなかで適応できないものを減らしていきながら、どんな状況にも適応出益るようにしていこうとするのが日本語の感覚になります。
目標志向型の英語と状況対応型の日本語ということができると思います。
(参照:目標志向と状況対応)
日本語の基本的な感覚によると、目標志向型の対応は苦手になります。
無理に対応しようとすると違和感を感じストレスを感じることになります。
戦後アメリカ型の社会の構築を目指した日本の社会は、国家の運営から企業環境や教育環境まで目標志向型の社会になっています。
日本語の感覚に素直に従って生きていくといたるところでギャップが生じて、生活していくのが難しくなっています。
日本が世界でも類を見ない高ストレス社会であることの一因だと思われます。
この感覚が分からない世界では、いまだに目標志向型のみのアプローチで活動が合行なわれており、そこにおける状況対応型のアプローチはそれ自体が否定されるものとなっていることが多く見受けられます。
今や、アメリカ自体が目標志向型での行き詰まりを感じており、状況対応型に対する多くの理論が取り上げられてきています。
しかし、彼らの持っている基本的な感覚は目標志向型ですので理論的には理解できても上手にアプローチできていないのが現実となっています。
言葉だけ状況対応型が流行り始めているというのが現状ではないでしょうか。
日本語の持っている基本的な感覚が、究極の柔軟性が求められる時代になってきているようです。
しっかりと理解しておきたいところですね。
2015年7月29日水曜日
社会と言語の融合を目指して
幕末の開国以来、初めて触れるヨーロッパ文明に圧倒された日本は、彼らの文化に追いつくためにあらゆることを模倣から始めることになりました。
それは単なる文化の模倣にとどまらず、国づくりそのものをどの国を手本として行なっていくかということでもありました。
そのために派遣された遣欧使節は途轍もなく大きな責任を背負っていたことでしょう。
ヨーロッパ列強の影響力が世界に広がる中で、植民地として彼らの支配下に組み入れられてしまうのかどうかといった分岐点でもありました。
少しでも早く彼らの影響力を排除できるだけの、対等的な国力をつけなければならなくなってしまったのです。
模倣をしながら国としての基礎力を付けている間にも実際の交渉は行なわれていくことになります。
交渉ができる人材すらも限られた者しかいなかったと思われます。
それでも何とか植民地化の危機を脱した日本は、ヨーロッパの先進文化を模倣しながらもなんとか日本文化との融合を図っていくことになります。
国としての運営の仕方や教育制度、国家の軸としての産業の育成などを中心に、世界の潮流から何とか落ちこぼれずに最後の帝国として世界へ向かっていくことになります。
太平洋戦争まで80年弱という期間の中で、列強と渡り合おうとするまでのものを作り上げてきたのです。
したがって、社会の仕組みのほとんどはヨーロッパ社会の模倣であり、情報の伝達速度も遅かったために軍需産業や国家の軸となる産業のない地方においては昔ながらの日本の文かも色濃く残っていたと思われます。
戦争という国家総動員の一大活動によって、地方までもがその機能として組み込まれていきました。
それでも、社会の構造は地方と都会では大きな開きがあったと思われます。
都会においてはヨーロッパの産業や技術を模倣した社会が定着しつつありましたが、地方では昔ながらの農業を中心とした社会が築かれていたと思われます。
太平洋戦争後の占領軍による統治においても、地方は直接的な影響を受けることはほとんどなかったと言えます。
戦後の体制として中央で決められた政策が実施されたことで影響を受けることがほとんどであり、地方における社会の構造が直接的に占領軍の影響を受けることは少なかったと思われます。
戦後は一段と情報の伝達速度が上がります。
アメリカ型の社会が構築されていくなかで、世界との交易が増えていくことによってさらにアメリカ型の構造の方が都合のいいことが分かってきます。
戦後の企業で我武者羅に世界に打って出ていく環境にあった時は、きわめて有効に機能していたのではないでしょうか。
この社会は具体的な目標を立ててその結果を達成し続けることに適した社会でした。
この感覚は、アメリカの社会の感覚そのものです。
アメリカ英語の持っている感覚そのものでもあります。
アメリカ英語はイギリス英語ともその感覚を異にしています。
他の言語のと感覚の違いから見れば小さな差だと思われますが、両者の間には同じ英語であっても感覚に違いがあるのです。
それはイギリス社会とアメリカ社会の歴史文化的な感覚の差を反映したものとなっているのです。
その差が言語の感覚の違いとして継承されていくことになります。
日本語にも独特の感覚があります。
本来ならば、この日本語独特の感覚が反映された社会が作られていくのが自然な流れです。
しかし、明治維新や太平洋戦争を経験して結果としてアメリカ型の社会を作り上げてきた日本では、言語の持っている感覚と社会の構造が合っていないものとなっているのです。
言語の感覚は人の知的活動のみならず精神活動にも大きな影響を与えいています。
その日本語の感覚持った人が一番生きる社会は、日本語の感覚を持った社会であるはずです。
戦後70年を迎えて社会の構造の基盤であるアメリカ型の感覚と精神文化の基盤である日本語の感覚との間にあるズレが現実化してきているのではないでしょうか。
(参照:言語と社会のズレ)
それは、アメリカ英語の持っている感覚と日本語が持っている言語の感覚としても反映されていることになります。
目標志向型の典型であるアメリカ英語は状況対応型の典型である日本語の感覚とは対極にあるものとなっています。
(参照:目標志向と状況対応)
明治維新における模倣先も自分たちの意思で選択した日本は、国家社会の体制や構造について押し付けられたたことはありませんでした。
太平洋戦後の戦勝国代表としてのアメリカによる統治が初めての経験だったのです。
そんな中で1500年を超えて継承された来た日本語の持っている感覚は、イギリスから移り住んで独立して250年程度の間で効率的な産業社会を作り上げたアメリカ英語とは異なった感覚を持ったものとなっているのです。
これから日本が向う方向は、日本語の感覚に合った社会への修正ではないでしょうか。
言語の感覚と社会の構図が合っていないと、そこにはストレスが生まれることになります。
言語の感覚を知ることによって、社会の構造を見直すこともできそうですね。
世界でも有数のストレス社会となっている日本は、まだまだやれることがたくさんありそうです。
それは単なる文化の模倣にとどまらず、国づくりそのものをどの国を手本として行なっていくかということでもありました。
そのために派遣された遣欧使節は途轍もなく大きな責任を背負っていたことでしょう。
ヨーロッパ列強の影響力が世界に広がる中で、植民地として彼らの支配下に組み入れられてしまうのかどうかといった分岐点でもありました。
少しでも早く彼らの影響力を排除できるだけの、対等的な国力をつけなければならなくなってしまったのです。
模倣をしながら国としての基礎力を付けている間にも実際の交渉は行なわれていくことになります。
交渉ができる人材すらも限られた者しかいなかったと思われます。
それでも何とか植民地化の危機を脱した日本は、ヨーロッパの先進文化を模倣しながらもなんとか日本文化との融合を図っていくことになります。
国としての運営の仕方や教育制度、国家の軸としての産業の育成などを中心に、世界の潮流から何とか落ちこぼれずに最後の帝国として世界へ向かっていくことになります。
太平洋戦争まで80年弱という期間の中で、列強と渡り合おうとするまでのものを作り上げてきたのです。
したがって、社会の仕組みのほとんどはヨーロッパ社会の模倣であり、情報の伝達速度も遅かったために軍需産業や国家の軸となる産業のない地方においては昔ながらの日本の文かも色濃く残っていたと思われます。
戦争という国家総動員の一大活動によって、地方までもがその機能として組み込まれていきました。
それでも、社会の構造は地方と都会では大きな開きがあったと思われます。
都会においてはヨーロッパの産業や技術を模倣した社会が定着しつつありましたが、地方では昔ながらの農業を中心とした社会が築かれていたと思われます。
太平洋戦争後の占領軍による統治においても、地方は直接的な影響を受けることはほとんどなかったと言えます。
戦後の体制として中央で決められた政策が実施されたことで影響を受けることがほとんどであり、地方における社会の構造が直接的に占領軍の影響を受けることは少なかったと思われます。
戦後は一段と情報の伝達速度が上がります。
アメリカ型の社会が構築されていくなかで、世界との交易が増えていくことによってさらにアメリカ型の構造の方が都合のいいことが分かってきます。
戦後の企業で我武者羅に世界に打って出ていく環境にあった時は、きわめて有効に機能していたのではないでしょうか。
この社会は具体的な目標を立ててその結果を達成し続けることに適した社会でした。
この感覚は、アメリカの社会の感覚そのものです。
アメリカ英語の持っている感覚そのものでもあります。
アメリカ英語はイギリス英語ともその感覚を異にしています。
他の言語のと感覚の違いから見れば小さな差だと思われますが、両者の間には同じ英語であっても感覚に違いがあるのです。
それはイギリス社会とアメリカ社会の歴史文化的な感覚の差を反映したものとなっているのです。
その差が言語の感覚の違いとして継承されていくことになります。
日本語にも独特の感覚があります。
本来ならば、この日本語独特の感覚が反映された社会が作られていくのが自然な流れです。
しかし、明治維新や太平洋戦争を経験して結果としてアメリカ型の社会を作り上げてきた日本では、言語の持っている感覚と社会の構造が合っていないものとなっているのです。
言語の感覚は人の知的活動のみならず精神活動にも大きな影響を与えいています。
その日本語の感覚持った人が一番生きる社会は、日本語の感覚を持った社会であるはずです。
戦後70年を迎えて社会の構造の基盤であるアメリカ型の感覚と精神文化の基盤である日本語の感覚との間にあるズレが現実化してきているのではないでしょうか。
(参照:言語と社会のズレ)
それは、アメリカ英語の持っている感覚と日本語が持っている言語の感覚としても反映されていることになります。
目標志向型の典型であるアメリカ英語は状況対応型の典型である日本語の感覚とは対極にあるものとなっています。
(参照:目標志向と状況対応)
明治維新における模倣先も自分たちの意思で選択した日本は、国家社会の体制や構造について押し付けられたたことはありませんでした。
太平洋戦後の戦勝国代表としてのアメリカによる統治が初めての経験だったのです。
そんな中で1500年を超えて継承された来た日本語の持っている感覚は、イギリスから移り住んで独立して250年程度の間で効率的な産業社会を作り上げたアメリカ英語とは異なった感覚を持ったものとなっているのです。
これから日本が向う方向は、日本語の感覚に合った社会への修正ではないでしょうか。
言語の感覚と社会の構図が合っていないと、そこにはストレスが生まれることになります。
言語の感覚を知ることによって、社会の構造を見直すこともできそうですね。
世界でも有数のストレス社会となっている日本は、まだまだやれることがたくさんありそうです。
2015年2月18日水曜日
異なる言語感覚はストレスを生む
母語として持っている言語感覚と異なる感覚を持つ言語に触れ続けていると、ストレスをため込んでいくことになります。
それは決して、異なった言語に触れ続けている場合だけではありません。
たとえ自分の持っている母語に翻訳されたものであったとしても、翻訳されたものの感覚が翻訳前の言語の感覚から抜け出ていない場合には起こっていることなのです。
日本語を母語として持っている人は、特に気をつけなければならないことがあります。
それは、日本語そのものが持っている感覚のなかに、理解できないものでもあっても一旦は受け入れてしまうというものがあるからです。
受け入れる段において、不自然さや違和感は感じることがあったとしても、環境的にそのまま受け入れなければならないと感じた時には、そのまま受けることができてしまうのです。
しかし、その受け入れ方は一時的なものであり、感覚として取り込んだうえで受け入れているものではありませんので、そのことに対しての不自然さや違和感が解消できない限りはストレスのもととなり続けていくのです。
日本語の持っている感覚として、その不自然さや違和感に対しては自分から適応しようとするのですが、それでも適応しきれない場合にはずっとストレスの元として残ることとなります。
日本語の持つ言語感覚は、他の先進文化圏の国の言語感覚とは対極にあると言ってもいいくらい異なっています。
素直に日本語の持っている感覚に従えば、違うと感じられるものであっても、それが環境となってしまうような教育や業務として受け入れざるを得ない場合などは、無条件で受け入れざるを得なくなります。
この言語の感覚による違いに気がついている場合には、自分の力で調整したり折り合いをつけたりすることが可能となります。
ところが、気がつかずに受け入れを続けていると知らないうちにストレスとなっていっているのです。
日本で生まれた日本語の感覚である集団における改善活動は、海外にわたってマネジメントの一手法として彼らの感覚としてのマネジメントになりました。
論理的な裏付けの苦手な日本語の感覚においては、あたかも新しいマネジメントの理論であるかのように受け入れました。
彼らの持っている言語感覚では、日本語の持っている言語感覚を無条件で受け入れることは出来ません。
そのために、彼らは彼らの感覚に合うように論理を組立ることが得意なのです。
彼らの論理は、日本語に直訳しても日本語感覚にとってもわかり易いものです。
論理そのものを理解することにおいては、日本語感覚で作り上げられた論理よりもわかり易いことが多いのではないでしょうか。
わかり易さと、感覚としての受け入れやすさとは異なります。
感覚的に異なるものは、どこかで行動に結びつかなくなります。
外国で作り上げられたマネジメントやコーチングなどの理論が、きわめて理解しやすいものであっても、感覚的に異なっているものにおいては実際の結果に結びつかないことになります。
具体的には、体系化やカテゴリー化などの分類において感覚の違いがよく現れてきます。
彼らの感覚では、中庸の感覚がありませんので、必ずどこかのカテゴリーや分類の中に属することになってきますが、日本語の感覚では明確な区分は存在しません。
完全にどちらかという感覚は、それ自体が不自然に感じてしまうのが日本語の感覚なのです。
言語自体に感覚があるわけではありません。
歴史文化や風土を通じて培われてきた感覚が、言語に反映しているのです。
言語を使うことは、どうしてもその言語の根本にある感覚が現れてしまうことになるのです。
日本語を母語とする者が、表現として英語を使う場面では、思っていた以上に言い切ってしまったり、自然に意見を強調したりして映るのはそのためでもあります。
したがって、その感覚を理解せずに言語を使いこなすことは出来ないのです。
主に母親から伝承される母語は、その言語の感覚そのものなのです。
母語として持っている言語においては、意識しなくとも自然にその言語が継承されてきた感覚が含まれているのです。
母語以外の言語で考えられた論理は、たとえ論理そのものが理解しやすいものであったとしても、感覚として理解し受け入れられるものとはなっていないのです。
母語として身についている言語同士でのコミュニケーションにおいては全く問題ありません。
分からない言葉や専門用語があったとしても、論理が理解できなくとも感覚としては、自然に受け入れることができるからです。
言語本来が持っている感覚は、それぞれの言語を母語とする者としか無条件で受け入れられないものです。
しかし、もともと言語同士の起源や言語が使われてきた文化歴史が近い場合には、持っている感覚そのものが近いことが考えられます。
大きな括りで言ってしまえば、アルファベットを使用している言語はほとんどの言語感覚が近いものがあると言えます。
現代世界の先端文明を走ってきたのは、アルファベット言語たちです。
その先端文明の一端を担いできたのが日本であることは、ノーベル賞の受賞者数も含めて世界が認めるところではないでしょうか。
その日本語の感覚は、アルファベット言語たちの感覚と大きく異なっていることは何度か検討してました。
(参照:本質的に異なる日本語と英語、言語とものの考え方 など)
それが具体的にどんな場面で出るのかは、まだまだ検証が進んでいないところではないでしょうか。
いろいろなズレが報告されていますが、それが言語の感覚の違いから来ているものであることという視点から見ているものはほとんどありません。
これからの研究や報告に頼るところではないでしょうか。
そうなった時には、言語の感覚という言葉すらがより的確なものとなっているのではないでしょうか。
それは決して、異なった言語に触れ続けている場合だけではありません。
たとえ自分の持っている母語に翻訳されたものであったとしても、翻訳されたものの感覚が翻訳前の言語の感覚から抜け出ていない場合には起こっていることなのです。
日本語を母語として持っている人は、特に気をつけなければならないことがあります。
それは、日本語そのものが持っている感覚のなかに、理解できないものでもあっても一旦は受け入れてしまうというものがあるからです。
受け入れる段において、不自然さや違和感は感じることがあったとしても、環境的にそのまま受け入れなければならないと感じた時には、そのまま受けることができてしまうのです。
しかし、その受け入れ方は一時的なものであり、感覚として取り込んだうえで受け入れているものではありませんので、そのことに対しての不自然さや違和感が解消できない限りはストレスのもととなり続けていくのです。
日本語の持っている感覚として、その不自然さや違和感に対しては自分から適応しようとするのですが、それでも適応しきれない場合にはずっとストレスの元として残ることとなります。
日本語の持つ言語感覚は、他の先進文化圏の国の言語感覚とは対極にあると言ってもいいくらい異なっています。
素直に日本語の持っている感覚に従えば、違うと感じられるものであっても、それが環境となってしまうような教育や業務として受け入れざるを得ない場合などは、無条件で受け入れざるを得なくなります。
この言語の感覚による違いに気がついている場合には、自分の力で調整したり折り合いをつけたりすることが可能となります。
ところが、気がつかずに受け入れを続けていると知らないうちにストレスとなっていっているのです。
日本で生まれた日本語の感覚である集団における改善活動は、海外にわたってマネジメントの一手法として彼らの感覚としてのマネジメントになりました。
論理的な裏付けの苦手な日本語の感覚においては、あたかも新しいマネジメントの理論であるかのように受け入れました。
彼らの持っている言語感覚では、日本語の持っている言語感覚を無条件で受け入れることは出来ません。
そのために、彼らは彼らの感覚に合うように論理を組立ることが得意なのです。
彼らの論理は、日本語に直訳しても日本語感覚にとってもわかり易いものです。
論理そのものを理解することにおいては、日本語感覚で作り上げられた論理よりもわかり易いことが多いのではないでしょうか。
わかり易さと、感覚としての受け入れやすさとは異なります。
感覚的に異なるものは、どこかで行動に結びつかなくなります。
外国で作り上げられたマネジメントやコーチングなどの理論が、きわめて理解しやすいものであっても、感覚的に異なっているものにおいては実際の結果に結びつかないことになります。
具体的には、体系化やカテゴリー化などの分類において感覚の違いがよく現れてきます。
彼らの感覚では、中庸の感覚がありませんので、必ずどこかのカテゴリーや分類の中に属することになってきますが、日本語の感覚では明確な区分は存在しません。
完全にどちらかという感覚は、それ自体が不自然に感じてしまうのが日本語の感覚なのです。
言語自体に感覚があるわけではありません。
歴史文化や風土を通じて培われてきた感覚が、言語に反映しているのです。
言語を使うことは、どうしてもその言語の根本にある感覚が現れてしまうことになるのです。
日本語を母語とする者が、表現として英語を使う場面では、思っていた以上に言い切ってしまったり、自然に意見を強調したりして映るのはそのためでもあります。
したがって、その感覚を理解せずに言語を使いこなすことは出来ないのです。
主に母親から伝承される母語は、その言語の感覚そのものなのです。
母語として持っている言語においては、意識しなくとも自然にその言語が継承されてきた感覚が含まれているのです。
母語以外の言語で考えられた論理は、たとえ論理そのものが理解しやすいものであったとしても、感覚として理解し受け入れられるものとはなっていないのです。
母語として身についている言語同士でのコミュニケーションにおいては全く問題ありません。
分からない言葉や専門用語があったとしても、論理が理解できなくとも感覚としては、自然に受け入れることができるからです。
言語本来が持っている感覚は、それぞれの言語を母語とする者としか無条件で受け入れられないものです。
しかし、もともと言語同士の起源や言語が使われてきた文化歴史が近い場合には、持っている感覚そのものが近いことが考えられます。
大きな括りで言ってしまえば、アルファベットを使用している言語はほとんどの言語感覚が近いものがあると言えます。
現代世界の先端文明を走ってきたのは、アルファベット言語たちです。
その先端文明の一端を担いできたのが日本であることは、ノーベル賞の受賞者数も含めて世界が認めるところではないでしょうか。
その日本語の感覚は、アルファベット言語たちの感覚と大きく異なっていることは何度か検討してました。
(参照:本質的に異なる日本語と英語、言語とものの考え方 など)
それが具体的にどんな場面で出るのかは、まだまだ検証が進んでいないところではないでしょうか。
いろいろなズレが報告されていますが、それが言語の感覚の違いから来ているものであることという視点から見ているものはほとんどありません。
これからの研究や報告に頼るところではないでしょうか。
そうなった時には、言語の感覚という言葉すらがより的確なものとなっているのではないでしょうか。
登録:
投稿 (Atom)















