2015年8月12日水曜日

日本語が目指す究極の柔軟性

日本語の持っている基本的な感覚として、周囲や環境との「違い」を嫌うことは触れたことがあります。
(参照:「違い」を嫌う日本語感覚

英語が持っている感覚と比較した場合には、より鮮明になってくるものだと思われます。


より多くの環境に対して影響を与えることができる他者との「違い」に大きな価値を置く英語の感覚に比べると、日本語の環境との共生を目指す感覚は対極とも言うことができるものです。

これは個人の持っている資質よりも、母語として持っている言語とその言語を使いこなして生活していく社会における基本的な感覚となっているものと思われます。

母国語という表現が実態を表していない表現として使われなくなり母語という表現に変わっていったことによって、言語の役割がより明確になってきたことも一助になっていると思われます。


言語はその言語を使ってきた民族の精神文化が反映されたものであり、またその精神文化を継承するための一番重要なツールが言語でもあります。

幼児期に親から伝承される言語である母語は自分で選ぶことができないものですが、その母語によって人としての基本的な感覚が決まってくるものとなっています。

それは、その言語を使っているだけで自然に備わってしまう感覚であり、決して意識して身につけるものではありません。

そのために、理論理屈を超えてあらゆることの判断基準の根底にあるものとなっているのではないでしょうか。
(参照:母語の習得と幼児教育


論理的でとてもわかりやすいアメリカ型のマネジメントやコーチング理論であっても、日本語で実践する段階になるとどこかに違和感を感じてしまって上手くいかないのはそのためだと思われます。

そこは、言語としての英語の持っている基本的な感覚が前提になっているものであり、論理としては理解できても感覚としての違和感が残るものとなってしまっているからです。

同じ英語であっても、イギリス英語とアメリカ英語の感覚では違いがあるのです。


同じ英語同士ですので基本的な感覚には近いものがありますが、「違い」を大切にする彼らにとってはその微妙な違いが気になるものとなります。

共通性よりも「違い」の方に目が向きやすいのが英語の感覚ですので、更に強調されることになると思われます。


日本語は「違い」よりも「共生」の感覚を基本に持った言語となっています。

そもそも、日本語は日本の歩んできた道と共に他の言語とはかなり異なった特徴の多い言語となっています。

言語の分野では世界の孤児とも言われるように、きわめて特殊な言語となっているものです。
(参照:気づかなかった日本語の特徴


共通性の多い者同士は「違い」に焦点が向くようになっているようであり、「違い」が大きなものには共通性に焦点が向くようになっているようです。

日本語は、共通性を見つけることが得意な感覚を持っています。

更には、周りや環境に対して適応して自らを変化させることを得意としています。

環境との共生のためには自らを変化させてでも適応していくことを行ないます。


英語に比べると日本語の感覚における「個」は決して主張することを善しとしません。

自己を主張することよりも環境に自らを合わせることを善しとする感覚となっているのです。

どちらが良いとか優れているかという問題ではありません。

言語が持っている基本的な感覚ですので、これに逆らえば違和感を感じ不快を感じることになるます。


「個」においても目指すところが変わってくるのは当然のこととなります。

強烈な「個」によって影響を与えることができる環境をより大きなものにしようとするために努力するのが英語の感覚における目指すところになります。

日本語の感覚では、どんな環境に対しても共生することができるようにあらゆることに柔軟に適応できる「個」が目指すところになります。


影響力を持ちたい環境を定めてそのために必要な能力や人脈を手に入れていくのが英語の感覚による個人の努力の方向です。

どんな環境に対しても共生ていくことができるように、あらゆることに対して適応できるように能力を身につけようとするのが日本語の感覚による個人の努力の方向です。


明確な目標があってそこに向かって最短距離で達成しようとするのが英語の感覚になります。

日々の活動のなかで適応できないものを減らしていきながら、どんな状況にも適応出益るようにしていこうとするのが日本語の感覚になります。

目標志向型の英語と状況対応型の日本語ということができると思います。
(参照:目標志向と状況対応


日本語の基本的な感覚によると、目標志向型の対応は苦手になります。

無理に対応しようとすると違和感を感じストレスを感じることになります。


戦後アメリカ型の社会の構築を目指した日本の社会は、国家化の運営から企業環境や教育環境まで目標志向型の社会になっています。

日本語の感覚に素直に従って生きていくといたるところでギャップが生じて、生活していくのが難しくなっています。

世界でも類を見ない高ストレス社会であることの一因だと思われます。


この感覚が分からない世界では、いまだに目標志向型のみのアプローチで活動が合行なわれており、そこにおける状況対応型のアプローチはそれ自体が否定されるものとなっていることが多く見受けられます。

今や、アメリカ自体が目標志向型での行き詰まりを感じており、状況対応型に対する多くの理論が取り上げられてきています。

しかし、彼らの持っている基本的な感覚は目標志向型ですので理論的には理解できても上手にアプローチできていないのが現実となっています。

言葉だけ状況対応型が流行り始めているというのが現状ではないでしょうか。


日本語の持っている基本的な感覚が、究極の柔軟性が求められる時代になってきているようです。

しっかりと理解しておきたいところですね。



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