日本語のだけを一生懸命に見ていても日本語の持っている感覚にはなかなか気がつくことは出来ません。
それは、自分だけをいくら調べてみても自分の特徴が分からないのと同じことです。
対比する何かが存在することによって、その違いとして位置づけることができるものが特徴になるからです。
また、特徴としての違いを見るのかあるいは同質性と相手の共通性を見るのかでも見方が違ってきます。
英語と日本語の目に見える違いについては何度か取り上げてきましたが、言語はその言語を使う人に感覚的なさまざまな基準を持たせている物でもあります。
(参照:日本語 vs 英語)
その感覚は、言語を使っている人においては意識することもありません。
その言語を母語として使っていることによって資質としての傾向として無意識に出来上がってきているものとなっています。
言語は歴史文化を継承してきたものであり、それぞれの環境に応じて変化してきたものです。
その言語を使う民族が生き抜いてきた環境を反映したものとなっています。
同じ言語を使っていても環境が大きく変わってくると言語そのものに影響が出てくるようになります。
やがては、同じ言語でありながらも使用されるニュアンスや意味が変わっていくようになります。
言語の分化が始まることになります。
狩猟民族として一緒に移動しながら生活をしていた人たちが、様々な地域で農耕を始めることによって定着していきました。
定着した地域によっては大きく環境が異なる場合も出てきます。
そのために使用される言葉やニュアンスが変わっていくことになります。
定着によって地域同士の交流も減っていきます。
それぞれの言語の独自化も始まっていくことになります。
英語の基本にあるのは「違い」の発見です。
彼我や対象との違いを見つけることによって議論やテーマの対象を見つけるのが英語です。
「違い」を見つけてそれを明確にすることが交渉や対話の始まりとなります。
そのためには、相互に「違い」を理解しなければなりません。
違いに対してそれぞれのこだわりがある場合に対立することになります。
「違い」を基本とする英語の感覚では対立は決して不快な状況ではありません。
交渉や議論のためには対立は必要なものであり、他者との違いを大切にする英語の感覚においては無くてはならないものとなっています。
対立の焦点を明確にし、論理によって対立する相手を説得しようとするのが英語の持っている基本的な感覚です。
対立の状況そのものに対して感情的に不快を感じる日本語の感覚とは大きく異なる部分となっています。
むしろ、複数の対象があればそこには必ず「違い」が存在し、その「違い」にこだわりがあれば必ず対立が存在することが当たり前であると考えられています。
その「違い」を明確にするために言語による正確な表現が求められることになります。
「違い」の存在をより具体的に論理的に説明できることが説得することになり、説得によって相手が納得した限定的な環境においては相手を取り込むことができることになります。
英語を母語として使っている人たちはこんなことを意識していません。
母語として英語を身につけて日常言語として使っているうちに自然と身についている感覚となっているからです。
全ての英語話者の人が同じような傾向と感覚を持っていますので、「違い」として意識することがないために取り上げられることもないのです。
そんな英語から見ると日本語の感覚は「共通性」を基本とする感覚となります。
初めての人や対象を見る時に「共通性」を探すことから始まります。
「違い」を探す場合にはどんどん具体的にしていくことによって「違い」がたくさん見つかっていきますが、「共通性」を見つける場合にはどんどん抽象化していく方向になります。
よく分かった者同士の「共通性」を見つける場合にはある程度の具体性を確保することも可能ですが、馴染みのないもの同士の「共通性」を無理にでも見つけようとすると見つかった共通性は抽象的なものとなっていきます。
日本語の感覚は対立の状態を不快に感じ何とか調和を取って共生しようとします。
そのためには「共通性」が必要なのですが、安定した状態はより多くの「共通性」を必要とします。
「共通性」をより多く探そうとすればするほど抽象度が上がっていくことになります。
日本語の感覚では「共通性」の発見が重視されますので、抽象性は二の次になります。
その結果、多少の曖昧さや論理性の欠如は併せ呑むことが可能となっているのです。
英語の「違い」と「具体性」に対しては「共通性」と「抽象性」ということができるものとなっています。
しかもその状態にいることが快となっているのです。
日本語の感覚では「共通性」を見つけるために慣れないものほど抽象度を挙げて無理にでも見つけようとするのです。
「違い」が見えていることよりも「共通性」が見えていることの方が安心できるのです。
対象が多くなればなるほど、英語は具体的なものを扱うようになります。
そうしないと「違い」が明確にならないからです。
だから、曖昧なものを嫌うのです。
無理にでも何らかの分類をして「違い」を明確にしようとするもです。
日本語は対象が多くなればなるほど、抽象的なものを扱うようになります。
そうしないと「共通性」が維持できないからです。
だから、はっきりしたこと断定的なことを避けようとするのです。
何とかして「共通性」を維持して対立を避けようとするのです。
英語に慣れるということ英語を使いこなすということは、日本語の感覚とは異なる英語のこの感覚に慣れることに他なりません。
この感覚に慣れることなく英語を使いこなすことは不可能だからです。
日本語の感覚を英語というツールを使って表現することは、英語を母語としている人にとってはよく分からない英語になってしまうのです。
英語を使っているということは自然に英語の持っている感覚に影響をされていることになるのです。
頭の中で日本語で考えたことを英語にした場合には、純粋な英語話者にとってはよく分からない英語となってしまうのはこの言語感覚が大きな影響を与えているからです。
両極端の感覚を持っていると思われる英語と日本語を比較しながら見ていくことで、日本語の特徴がより明確になっていくものと思われます。
世界の共通語となっている英語と極端に異なる日本語の感覚は、世界にとっても貴重なネタの宝庫となっているのではないでしょうか。
日本語が持っている感覚を、もっと上手に英語として伝えることができるようになりたいものですね。