幼児期における母語習得の大切さについては、幾度となく触れてきました。
(参照:母語の習得と幼児教育)
子ども自身で母語を選択することができない以上、親の担っている役割はとてつもなく大きいということができます。
知的活動の基本となる機能が出来上がるまでは、親によって作られる母語習得の環境が大きな影響を与えます。
持って生まれた人としての傾向があるとすれば、それを表現するのも行動するのもすべて言語によるサポートがなければなりません。
持って生まれたものは自然に発現されるわけではなく、発現するためのツールとしての言語を習得して初めて発現することができるようになります。
そこでは言語自体が持っている傾向や感覚に大きく影響を受けることになることは避けることができなくなります。
持って生まれた性格的なものや気質的なものは同じであったとしても、母語として持った言語によって基本的な性格や傾向が異なってくるのは当然のこととなります。
生年月日や時間までを含めて持って生まれた傾向や気質を知ろうとすることは学問的にもありますし、占術的にも数多く存在しています。
占い的な要素は別にしても、歴史的に統計学的なアプローチで行われてきたことに大きく二つのことがあると思われます。
一つが西洋占星術でありもう一つが四柱推命学です。
両者ともに、身近なところでは占いとして扱われていますが、統計学的にその傾向を分類したものとなっているものです。
生年月日を基準として行う性格分析については、ほとんどのものがこのどちらかをベースとしたものとなっています。
統計学的なアプローチですから、必ず例外は存在しますし傾向を示すものとして扱えばとても便利なものです。
ただし、そのまま利用するには元のデータが取得された環境と比べて注意すべきことが二点ほどあります。
一点はもともとのデータが所得された地域とのちがいによるものであり、もう一点は分類が実施された時期との暦や時差による調整が必要になることです。
どちらも天文学的な変化を基軸として捉えられた期間を分類の基準としていますので、地域や時間的なズレによって及ぼされる影響が異なることを考慮しておかなければいけません。
西暦による生年月日だけを基準にして統計に当てはめてしまうとズレが出てしまうことになります。
そこには、元の統計データを西暦に読み替えるかあるいは現在の西暦を元データの時代の暦に読み替える調整が必要になります。
また、地域による影響の違いも元のデータが集められた地域時代との調整をしなければなりません。
ヨーロッパにおける占星術と中国における四柱推命が同じ生年月日であっても内容が異なってくるのは当たり前のことなのです。
現代の西暦に合わせて、しかも日本という地域に合わせて調整された分類やデータは決して多くはありません。
一般的に簡単に目にすることができる生年月日による分類ではほとんど調整が行なわれていないと思ったら間違いないと思います。
先天的に持った傾向に対して、後天的に一番大きな影響を与えるものが言語ということができるでしょう。
ひとたび言語を身につけた以上は、あらゆることが言語を通して習得されていくからです。
視覚や触覚で習得したとしても、そのことを認識するためには必ず言語が関与しているからです。
視覚で習得した情報を対象物として認識するのは言語がなければできない活動ですし、触覚として得た情報を認識するにも言語によって認識されていることになります。
その言語にもそれぞれの言語によって独特の感覚や傾向があったとしたら、人の持っている感覚に対してほとんどすべてのことに対して影響を与えているのではないのでしょうか。
そこには、先天的に持っている気質や傾向すらも修正してしまうくらいの力があると思われます。
更には、言語による教育によってこの影響は一段と強いものとなっています。
ある種の刷り込みと言ってもいいもではないでしょうか。
同じ日本語を母語としていると言っても、人によって母語として持っている日本語が異なります。
それは、母語が母親から伝承された言語であり、母親の持っている日本語が一人ひとり異なるからです。
全く同じ環境に育った者であっても持っている母語においては微妙な違いがあることが分かっています。
同じ日に生まれた双子であっても、母語においては微妙な差があることが分かっています。
もちろん、他者と比較したら遥かに小さな差であることは間違いないようです。
もの心がついて基本的な教育を受けて言語による表現ができるようになるまでに身についた言語による影響が一番大きなものと言えます。
基本的な性格や傾向はこの間に作られているということができるのではないでしょうか。
義務教育期間を中心とした学童生徒の間に作られていることになります。
画一的な国語による教育を受けながらも、個性としては母語や持って生まれたものや生活環境によって差ができているものと思われます。
しかし、日本語(国語)という同一言語における環境は間違いなくある種の傾向を作っているものだと思われます。
しかも、人の性格や傾向の基本的な感覚を作っていく時期に家庭や学校で触れている言語の影響は計り知れないものがあると思われます。
総論的に言うならば、日本人としての特徴を作っているのがこの時期であると言えるのではないでしょうか。
社会に出て独立していまえば、それぞれの環境における必要な言語が出てきますし、学校という統一的な環境に比べるとより多様な環境となってきます。
そのためにそれぞれの環境において必要な能力や知識も生活も異なってきますので、傾向として捉えることは難しくなると思われます。
しかし、学童生徒の間に造られた傾向は類似性の高い環境における基本的な傾向として基盤として常に根底に存在していると思われます。
日本語の持っている基本的な感覚を知ることは、まさしく日本人としての基本的な傾向を知ることになるのではないでしょうか。
社会に出てからの知的活動は、生きていくためあるいは稼ぐために必要な具体的な活動です。
その根本にある知的活動は一人ひとりがある種の傾向を持って、それ以前にできあがっていると思われます。
現実社会で生きていくためには、新たな経験と共に修正を加えてパターンを見つけて対応していくことになると思われますが、基本的な知的活動の傾向は変わらないものだと思います。
これと異なる活動をしなければならなくなった時に、ストレスを感じるのでありそれでもやらなければならないときにモチベーションが必要になってくるのではないでしょうか。
日本語の持っている基本的な感覚の傾向と異なったことが求められる社会を作ってきてしまったたのではないでしょうか。
世界のなかで社会的にストレスを抱えた人の割合が圧倒的に高い日本は、日本語という元が持っている感覚とあまりにも違うことが多すぎる社会を作ってきたと思われます。
日本語の基本的な感覚からすると大きな変化には抵抗があります。
現状に何とか自分が適応して共生していこうとするのが日本語の持っている基本的な感覚です。
それからすると、社会を変化させていくことはとてつもない労力を伴うことになります。
社会を是として自分を否として、自分の方を修正しようとするのが日本語の持っている基本的な感覚です。
ヨーロッパやアメリカの模倣を始めてからわずか150年程度しかたっていないのです。
それ以前には1500年以上に及ぶ日本語感覚による社会が継承されていたのです。
少なくとも、言語の持っている基本的な感覚とはそれほど乖離していない社会だっと思われます。
(参照:社会と言語の融合を目指して)
明治維新に始まった西欧社会の模倣は、それでも何とか日本に取り込みながら新しい言葉をたくさん作りながら自分の物として社会を作ってきました。
太平洋戦争後は、自分の物とは全く違った社会を作らされてきました。
しかし、その効率性と経済性はある面では世界標準であり、そこでの努力によってその分野だけにおいては世界での地位を確保してきました。
しかし、それは言語の基本的な感覚としては、日本語の対極にある英語という言語の持っている感覚だったのです。
しかも同じ英語であってもイギリス英語はまだ日本語に近い感覚を持ったものですが、アメリカ英語という日本語の対極にある感覚だったのです。
世界の共通語が英語になっていますので、英語との接触を回避することは出来ません。
しかし、英語と触れる時に日本語との感覚の違いを意識する必要があると思います。
言語の感覚の違いは、その言語を使用する人において発現しています。
その言語を使用する民族の社会において発現しています。
その言語を使用して行なわれている知的活動において発現しています。
英語との接触を避けることができない以上、日本語の感覚との違いについては知っておくことが必須となっているのではないでしょうか。
いま、あらためて日本語を見直してみる機会が来ているのではないでしょうか。
自分自身の変えることのできない基本的な感覚を形成した言語としての観点から見直したときに、今後のヒントとなることがたくさん見つかる気がしています。
自分を知る上でも一番いい方法のような気がしています。
社会的にストレスを抱えていることのほとんどのことが言語感覚と実社会のズレで説明できてしまうのは偶然ではないと思っているのですが・・・。