2016年2月18日木曜日

話す英語、聞く日本語。

以前から英語と日本語でそれぞれの話すことと聞くことに対する感覚の違いを見つけてみたいなと思っていました。

ずっと何か手掛かりがないかなと思っていたのですが、普段使っている動詞としての基本形をいくつか目にした時に気がついたことがあります。

きっかけは英語の「聞く」に当たるhearとlistenの使い方に出会ったことでした。


わたしが中学で英語を習い始めたときはテープでネイティブの英語の発音を聞くことをヒアリング(hearing)と言っていました。

ところが自分の子どもたちが学校で英語を習い始めたころには同じことをリスニング(listening)と言っていました。

いつからこのようになったのか分かりませんが、わたしの知っている英語の感覚では主体性を持って傾聴することがlistenであり、聞こうとする意思がなくとも聞こえている状態がhearではないかと思っています。

その意味では英語の試験や授業として行なわれるネイティブの英語を聞く行為はlistenの方が相応しいのだろうなと勝手に納得していました。


hearもlistenも英語としては基本動詞であり使用頻度も高い単語となっています。

日本語としてはどちらも「きく」という基本動詞として翻訳されることになる言葉です。

人によってはhearとlistenの違いを何とか日本語でも表現しようとして「聞く」と「聴く」によって使い分けをしている人もいます。


日本語の基本動詞は「やまとことば」を源流とするひらがな言葉になりますので、「聞く」も「聴く」もさらには「訊く」「利く」「効く」もすべて同じ基本動詞「きく」から分かれたものということができます。

漢字で異なった表記ができる日本語の持っている五つの「きく」の感覚は、英語ではすべて違った基本動詞によって表現されることになります。

その中には行為としては「聞く」とは全く反対のものである「訊く」などもあり、英語ではaskとしか表現のしようがないニュアンスのものまであります。

hear, listenとaskが同じ音の基本動詞で「きく」と表現されることは、英語話者にとっては「?」以外の何物でもありません。

「listen」の画像検索結果

今度は「話す」について見てみましょう。

これは英語の基本動詞が驚くほどたくさん登場してきました。

代表格はspeak, talkですがsay, tell, state, utterやdescribe, expressなども日本語としては「話す」となるのではないでしょうか。

どこまでを基本動詞として考えるかは難しいところもありますが少なくとも「聞く」の二つよりははるかに多そうです。


「聞く」に対しては反射的に「話す」という対義語が浮かびます。

「きく」は「やまとことば」を源流とする基本動詞ですが、「はなす」は「やまとことば」に見当たらない言葉となっています。

似たような意味を持つ「やまとことば」としては「いう」(謂う、云う、言うなど)がはてはまるのかもしれません。

「はなす」は比較的新しい言葉でありますが、現在では基本語として定着したものであると言えます。


それは「はなす」から分化した漢字表記を見てみれば分かるのではないでしょうか。

「話す」の他には「放す」「離す」くらいしか思い浮かびませんし、このような意味からは「はなす」の基本動作は話をすることとあまり関係のないことのようです。


英語では「話す」ことを表す言葉がたくさんあります。

英語を母語とする国の国語(英語の国ではこんな呼び方はしませんが)の授業では一通りの言葉が身につくと言語を使っての表現する技術を段階的にずっと学習していきます。

とくに話して自分の意見を述べることを最重点においており、これができないと社会での基本生活に支障をきたすものとして位置づけされています。


これに対して日本の国語の授業では徹底的に聞いたり読んだりして理解する能力を身につけさせられます。

そのために話すことや書くことといった言語による表現技術を身につける機会がほとんどありません。

義務教育を終了しても日刊紙を読んで理解するだけのものが身につかないほど理解するのが難しい言語となっているのです。


高等教育の入学試験においても国語科の中心的な問題は漢字の読み書きと文章読解となっています。

表現することよりも理解するための能力を評価するものとなっているのです。

「新聞」の画像検索結果

これはそれぞれの言語が育ってきた文化を背景としたものであり、その文化のなかで適した言語となるべく変化していった結果、現在の言語となっているからです。

言語教育においてもそれを踏まえた教育体系となっているからだと言えます。

したがって、英語は話すことが得意であり話すことが優先され、話すことの延長に聞くことがあると言うことができます。

会話やコミュニケションにおいて理解ができなかったり誤解があったりする場合は発信者の側の責任が厳しく問われることになります。

法律や契約書にしても書かれていることがすべてであり、そこから推察できることであったとしても明確に表現されていなければ対象とならない厳しさがあります。

当然のごとく、推察として許される範囲も極めて狭いものとならざるを得ません。


対して、日本語では法律や契約書においてでも実際に書いてあることからかなりの広い範囲までが想定適用されます。

その幅はかなり大きなものとなっており、実際の裁判では法令の解釈についての争いが多くなっています。

ひとたび出来上がってしまった文章であったり発信されてしまった内容は表現に修正される事が少なく解釈によって適用や運用を対応していることが多くなります。


そのために、マニュアルや手引き手順についてもかなり厳格な表現をしておかないと広い意味で解釈されることが多くなってしまいます。

反対に、かなり抽象的な表現や部分的な表現であったとしてもその鍛えられた解釈力推測力によって何とかしてしまうことも起こっています。

「行間を読む」「一を聞いて十を知る」「以心伝心」「阿吽の呼吸」はすべて解釈する側による推測力を期待しているものであり、発信者側については言及していません。


世界との接触は自分では意識していなくとも頻繁に起こっている日々となっています。

直接外国人との接触がなくともSNSやネットを介しては毎日のように行なわれていることになっているのではないでしょうか。

日本語を離れた時の外国語の基本は英語です。

いまや、世界の公用語としての立場を強固にしている言語でもあります。


よほどのことがない限り日本語を離れて最初に触れる外国語は英語になります。

また、とりあえず英語の感覚が分かってさえいればその比較によって世界の感覚を知ることも可能だと思われます。

その英語が日本語の感覚とは大きく異なったものであることは、日本語を母語とする私たちにとっては大きな問題でもあります。

日本語の感覚でそのまま世界に発信しては伝わらないことがたくさんできてしまうのです。

日本語感覚で英語に直訳しても通じないことがたくさんあるのもこれが原因ではないでしょうか。


話して説得することを重視する主体性の強い英語の感覚と、聞いて理解することを重視する受け身の意識の強い日本語の感覚は基本的な感覚において大きな違いを持ったものとなっています。

個人でも世界に対して発信することが容易になっています。

こんな感覚の違いがあることをしっかり意識しておきたいですね。






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