母語として持っている言語感覚と異なる感覚を持つ言語に触れ続けていると、ストレスをため込んでいくことになります。
それは決して、異なった言語に触れ続けている場合だけではありません。
たとえ自分の持っている母語に翻訳されたものであったとしても、翻訳されたものの感覚が翻訳前の言語の感覚から抜け出ていない場合には起こっていることなのです。
日本語を母語として持っている人は、特に気をつけなければならないことがあります。
それは、日本語そのものが持っている感覚のなかに、理解できないものでもあっても一旦は受け入れてしまうというものがあるからです。
受け入れる段において、不自然さや違和感は感じることがあったとしても、環境的にそのまま受け入れなければならないと感じた時には、そのまま受けることができてしまうのです。
しかし、その受け入れ方は一時的なものであり、感覚として取り込んだうえで受け入れているものではありませんので、そのことに対しての不自然さや違和感が解消できない限りはストレスのもととなり続けていくのです。
日本語の持っている感覚として、その不自然さや違和感に対しては自分から適応しようとするのですが、それでも適応しきれない場合にはずっとストレスの元として残ることとなります。
日本語の持つ言語感覚は、他の先進文化圏の国の言語感覚とは対極にあると言ってもいいくらい異なっています。
素直に日本語の持っている感覚に従えば、違うと感じられるものであっても、それが環境となってしまうような教育や業務として受け入れざるを得ない場合などは、無条件で受け入れざるを得なくなります。
この言語の感覚による違いに気がついている場合には、自分の力で調整したり折り合いをつけたりすることが可能となります。
ところが、気がつかずに受け入れを続けていると知らないうちにストレスとなっていっているのです。
日本で生まれた日本語の感覚である集団における改善活動は、海外にわたってマネジメントの一手法として彼らの感覚としてのマネジメントになりました。
論理的な裏付けの苦手な日本語の感覚においては、あたかも新しいマネジメントの理論であるかのように受け入れました。
彼らの持っている言語感覚では、日本語の持っている言語感覚を無条件で受け入れることは出来ません。
そのために、彼らは彼らの感覚に合うように論理を組立ることが得意なのです。
彼らの論理は、日本語に直訳しても日本語感覚にとってもわかり易いものです。
論理そのものを理解することにおいては、日本語感覚で作り上げられた論理よりもわかり易いことが多いのではないでしょうか。
わかり易さと、感覚としての受け入れやすさとは異なります。
感覚的に異なるものは、どこかで行動に結びつかなくなります。
外国で作り上げられたマネジメントやコーチングなどの理論が、きわめて理解しやすいものであっても、感覚的に異なっているものにおいては実際の結果に結びつかないことになります。
具体的には、体系化やカテゴリー化などの分類において感覚の違いがよく現れてきます。
彼らの感覚では、中庸の感覚がありませんので、必ずどこかのカテゴリーや分類の中に属することになってきますが、日本語の感覚では明確な区分は存在しません。
完全にどちらかという感覚は、それ自体が不自然に感じてしまうのが日本語の感覚なのです。
言語自体に感覚があるわけではありません。
歴史文化や風土を通じて培われてきた感覚が、言語に反映しているのです。
言語を使うことは、どうしてもその言語の根本にある感覚が現れてしまうことになるのです。
日本語を母語とする者が、表現として英語を使う場面では、思っていた以上に言い切ってしまったり、自然に意見を強調したりして映るのはそのためでもあります。
したがって、その感覚を理解せずに言語を使いこなすことは出来ないのです。
主に母親から伝承される母語は、その言語の感覚そのものなのです。
母語として持っている言語においては、意識しなくとも自然にその言語が継承されてきた感覚が含まれているのです。
母語以外の言語で考えられた論理は、たとえ論理そのものが理解しやすいものであったとしても、感覚として理解し受け入れられるものとはなっていないのです。
母語として身についている言語同士でのコミュニケーションにおいては全く問題ありません。
分からない言葉や専門用語があったとしても、論理が理解できなくとも感覚としては、自然に受け入れることができるからです。
言語本来が持っている感覚は、それぞれの言語を母語とする者としか無条件で受け入れられないものです。
しかし、もともと言語同士の起源や言語が使われてきた文化歴史が近い場合には、持っている感覚そのものが近いことが考えられます。
大きな括りで言ってしまえば、アルファベットを使用している言語はほとんどの言語感覚が近いものがあると言えます。
現代世界の先端文明を走ってきたのは、アルファベット言語たちです。
その先端文明の一端を担いできたのが日本であることは、ノーベル賞の受賞者数も含めて世界が認めるところではないでしょうか。
その日本語の感覚は、アルファベット言語たちの感覚と大きく異なっていることは何度か検討してました。
(参照:本質的に異なる日本語と英語、言語とものの考え方 など)
それが具体的にどんな場面で出るのかは、まだまだ検証が進んでいないところではないでしょうか。
いろいろなズレが報告されていますが、それが言語の感覚の違いから来ているものであることという視点から見ているものはほとんどありません。
これからの研究や報告に頼るところではないでしょうか。
そうなった時には、言語の感覚という言葉すらがより的確なものとなっているのではないでしょうか。