それぞれの言語が持っている特徴は、言語で行なわれている知的活動に現れていることになります。
より広い地域や多くの民族に使用されている言語は共通語としての役割がありますので、その特徴には気がつきにくいことになります。
生まれてから死ぬまでの活動が母語の中だけで行なわれていた時代に比べると、SNSや人の流動性によって母語以外の言語に触れずに生きていくことは不可能となっています。
ましてや、情報機器に触れずに生活することが困難になっている現状では情報機器を動かすための言語に触れずに済ませることは出来なくなっています。
そのために、世界の共通語としての英語の影響力はますます強くなっていくと同時に公用語としての身分を持たない言語についてはどんどん特殊化していっているのが現状ではないでしょうか。
知的活動のための唯一のツールが言語である以上は自分の持っている母語の影響力が強いほうが何かと有利であることは間違いのないことでしょう。
しかし、すべての人の母語が同じになってしまっては知的活動における多様性が阻害されることになります。
また、同じ言語と言うカテゴリーとして扱われる英語においても地域や民族の歴史の違いにおいてイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどそれぞれ特徴のある英語となっていることも事実です。
ただし、それぞれの特徴や違いについてはお互いの日常言語のなかで理解することができる範囲であることも利点の一つと言うことができます。
その中で日本語の位置付けは日本語を母語とする社会以外ではまったく役に立たない言語であるということができます。
世界のあらゆる組織や機関においても日本語が公用語となっているものは一つもありません。
日本語での活動は公式には翻訳されないことを意味しています。
日本語による知的活動の特徴や成果を世界に知らしめるためには最低でも英語による発信をしなければ見向きもされないことになります。
英語を母語とする者には必要のない苦労を日本語を母語とする者は必要としていることになります。
日本語だけで生きていける世界は日々狭くなっていると言うことができるのではないでしょうか。
しかし、世界との接触が広まった明治期以降、日本語の中にも変化が起きています。
それは日本語と世界の公用語である英語との融合です。
それは双方向で行なわれているものとなっていますが、世界の公用語としての英語の身分は圧倒的であり日本語が英語に取り込まれている部分は極めて限られた分野の単語の域を出ていません。
それに対して日本語に取り込まれている英語は単語はおろか文法から論理まで幅広い分野にわたっています。
これは必要に応じて行なわれた自然の流れと言うことができます。
英語を母語とする者にとっては極めて特殊な一言語である日本語に触れる必要はほとんどありませんが日本語を母語とする者にとっては英語に触れることなく生活することは困難だからです。
英語の母語話者が日本語に触れる必要がある機会に比べれば日本語の母語話者が英語に触れる必要のある機会の方が圧倒的に多いことになります。
また、英語の母語話者は日本語に触れることなく生活することが当たり前のように可能ですが、日本語の母語話者は英語に触れずに生活することは困難となっているのです。
ましてや、ビジネスや観光で日本以外の国との行き来が必要な者にとっては英語による意思の疎通(コミュニケーション)能力は必須のものとなっています。
日本語話者にとっての英語の必要性は英語話者における日本語の必要性よりもはるかに高いものとなっており、現在ではレベルの問題は別にしても無くてはならないものとなっています。
ここで大切なことは母語による知的活動に勝るものはないと言うことです。
母語以外の言語でどんなに高度な思考や発想をしようとしても母語で行なう活動には及びもしないと言うことです。
それは、人としてのあらゆる機能や器官が母語を使用するために一番効率が良いように発達してきているからにほかなりません。
日本語を母語として持つ者がどんなに英語を使いこなせたとしても英語で行なう知的活動はたかが知れていると言うことになります。
日本語の母語話者が英語を身につける必要があることは、日本語で行なった知的活動を英語で表現するためのだけに必要だと言うことになります。
日本語で行なった知的活動は日本語の感覚とニュアンスの塊です。
日本語の感覚とニュアンスは日本語で表現されことによって日本語話者に伝わるものとなっていますが、他の言語話者に伝えることは大変難しいことになっています。
その日本語で行なわれた知的活動を日本語の感覚とニュアンスをもって英語で表現するために英語を学ぶ必要があります。
直訳的な翻訳をすることはネット翻訳でも自動翻訳でも可能となっており、自分の投稿が知らないうちに翻訳されて流れていることは当たり前のこととなっています。
しかし、日本語の知的活動における日本語独特の感覚については翻訳すること自体が不可能になっています。
それは、活動をしている本人が自然と使っている感覚であり言語で説明することができないものである以上、意識して言語で表現することができないものだからです。
また、その感覚を何となくわかっていてもその感覚を英語で表現するための方法を知らなければせっかく行なった日本語のでの知的活動がきちんと伝わらないものとなってしまうからです。
日本語を母語としながらも英語の日常使用には困らない程度の習得をしている人はたくさんいます。
この人対が同じテーマで日本語と英語で議論をしても同じ過程を経て同じ結論になることはありません。
その要因の一つは英語での知的活動が日本語での知的活動に及ばないことにありますし、もう一つは日本語での知的活動を同じレベルで英語で表現できないことにあります。
英語を学習する時の基本は日本語の独特の感覚を表現するための英語表現を身につけることにあります。
そこには英語独特の表現が多く現れてくることにもなります。
その学習ができるようになると、英語にするための日本語の表現が変わってくることになります。
日本語の感覚を英語に翻訳するためにふさわしい日本語としての表現をするようになるからです。
直訳されてももともとの日本語の感覚を伝えることができるような日本語による表現ができるようになるからです。
英語に直訳されることを前提になされた日本語表現と言うことができます。
これは日本語だけが使いこなせても英語だけだけが使いこなせても不可能なことになります。
日本語の難しさを考えてみれば英語話者にこれを求めることはかなり難しいことではないでしょうか。
つまりは、日本語話者が英語の表現を理解して使いこなすしかないことになります。
日本語を母語とする者がどんなに英語を使いこなすことができても英語で思考することは出来ません。
無理にやろうとすればレベルの低い知的活動とならざるを得ません。
知的活動は母語で行なうことが理想でありこれを翻訳することの方が結果としてレベルの高い知的活動を表現することができます。
日本語は文字の種類が多いことで同じ言葉であっても文字の種類を変えることで感覚が変わってしまいます。
更には表意文字としての漢字を持っていますので音としてのことばの意味以外に文字としての意味を持っていることになります。
また、語順の自由さは豊かな表現を可能にしていますが同時に文章だけでは本意が伝わり難いものともなっています。
英語と比較することで日本語の持っている特徴がわかり易いものとなってくると思います。
結果として英語を学びやすくするのではないでしょうか。
これからますます避けることができない英語との接触において、日本語としての特徴を生かしながら付き合っていきたいものです。
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