2015年3月15日日曜日

お母さんになるための日本語(1)・・・母語の理解

すべての言語は、お母さんと子どもの間でのコミュニケーションによって、受け継がれてきています。

子どもの方は、そんなことを意識することもできませんが、お母さんの方でも言語の受け渡しについてはほとんど意識したことはないのではないでしょうか。

子育てはとても大変な活動です。

ましてや、初めての子どものときは毎日不安と喜びのなかで、日々起こることに対応することが精一杯となってしまいます。

そんな中で、言語について考える機会を持つことはまず不可能であろうと思われます。


また、特に言語について考えなくとも、子どもは自然に言語を身につけていきます。

それは、ほとんど本能的なものと言ってもいいかもしれません。

子どもが言葉を話し始めたころの、同じ音の繰り返しやはっきりと音を発することができない頃の赤ちゃん言葉は、思わずこちらがつられて合わせてしまうような優しさを持っています。

赤ちゃんと同じような音を発してあげると、喜んだような反応をするために、一段と愛らしが感じられるころとなります。


このころであっても、既に言語による基本的な知的活動のための発達が始まっています。

子どもが生まれてからの言語環境が、その子の将来においてとんでもなく大きな影響を与えていることが分かってきています。

幼児期にしか身につけることができない言語であり、なおかつ知的活動のための基礎的な発達のほとんどを作ってしまう言語があります。

そしてその言語は、生涯書き換えることができないものであり、その子供の一生に影響を与えるものとなります。


幼児期にそのほとんどを母親の持っている言語から受け継ぐこの言語のことを、「母語」と呼んでいます。

この母語がないと人は人として生きていくことができません。

そのために、子どもは本能的にも母語を身につけるようにできています。

母親が特に意識をしなくとも、母親との接触の中から自然に母語を身につけていくのです。


しかし、この母語の身につけ方によっては、将来子どもが生きていくうえで必要のない苦労を味わわせることにもなります。

しかも、それが現実化してくるのは、学校の成績や社会生活における適合性などと言ったあらゆる知的活動を行なう頃に出てくることになります。

現実的な知的活動が行なわれる頃は、物心がつくころと言った表現で表される小学校の高学年である10歳以降のことになります。


母親がどんな言語を持っているのか、また子どもに対してどんな言語の伝え方をしていくのかが母語形成において一番大きな要素となります。

母親が意識しなくとも、生きていくために必要なことですので、子どもは本能的に言語を身につけます。

母語習得のための環境をしっかりと作ってあげることが大切になります。

その言語を理解したり、使いこなすために最適な機能となるように、体のあらゆる器官が発達していきます。


やがて、義務教育において生きていくための知識やルールとしての国語を身につけていくことになります。

母語は、国語を理解し身につけていくための言語でもあります。

国語は規則でありルールです。

全ての学習者が同じ解釈ができなければなりません。


国語は、その言語における共通語として、誰でもが同じ解釈ができるように規則正しいルールによって規定された言語です。

その国語を理解するための言語は母語です。

持っている母語によっては、国語の解釈が異なってしまうことが起きてきます。

母語として英語を持っている人が、国語として日本語を学ぶような場合が典型になります。


使っている言葉は日本語になるかもしてませんが、言語の持っている感覚や使い方が英語となってしまうのです。

もの心ついたころからは、周りの日本語話者たちとの言語感覚の違いに悩むことになります。

同じ日本語を使っていますので、原因が分かりません。

言葉としては理解できても、文章になったり解釈をしたりすると感覚がずれてくるのです。

母語と国語が異なるとよく起こることになります。


本人も家族も周りにいる者も原因が分かりませんので、本人はとんでもない疎外感を味わうことになります。

自己嫌悪や対人恐怖、鬱などになることも多くあり、言語感覚の違いに折り合いが付けられるようになるまではかなりの苦労をすることになります。


英語と日本語の様にはっきりとわかる違いであれば気が付きやすいところです。

母語は母親から受け継がれる、きわめて個性的な言語です。

母親が日本人であれば、ほとんどの場合は日本語が母語になると思われますが、日本語はとんでもなく大きな言語です。

同じ日本語であっても、通じない言語が沢山あります。


さらに日本語には、以心伝心や一を聞いて十を知るなどと言われる言語に現れていないものを理解することが多く求められます。

行間を読むなどということが典型的な物ではないでしょうか。

実際の言語として使われているもの以外にも、日本語としての感覚的なものが必要となっているのです。


一人ひとりが持っている日本語は、みんな違ったものとなっていると言ってもいいと思われます。

しかし、その差は決定的な物ではなく個性と呼ばれる程度の差となってれば、日本語の解釈上は問題がないことになります。

国語の学習においても、ルールを逸脱したり感覚としてずれたりすることはないと思われます。


それは、母親の持ってる言語が日本語である場合です。

どんな日本語であっても、日本語であれば基本的な感覚は同じところになると思われるからです。


しかし、母親が生きてきた現代の環境は、日本語のだけではありません。

義務教育においてでさえも、英語を学習してきています。

しかも、その内容はますます会話寄りになってきています。

日常生活においても、テレビやネットで他の言語に触れる機会が多くなっています。


それでも、外国語の単語を日本語の感覚のなかで一つの新しい名詞として使っているうちは大丈夫だと思われます。

言語が異なるということは、知的活動の内容が異なることになります。

わかり易く言えば、解釈の仕方や考え方や表現の仕方が異なることになります。

論理や価値観までが異なることになります。


母親がバイリンガルとなっている場合には、母語がとんでもないことになる可能性があります。

子どもは言語の区別ができませんので、両方の言語の混ざり合ったものを一つの母語として持ってしまいます。

世の中にない言語です。

とんでもない苦労することになりますね。


学習過程においては、すべてのことを母語で理解していきます。

母語で考え母語で表現していきます。

母語としては個性的であったとしても、日本語である以上は国語をきちんと学習することで、日本語としての共通語を身に付けることができます。

そして、国語がすべての日本語にとっての共通語となっているのです。


国語を身につけた段階では、国語を共通語として、母語が個性としての言語となるのです。

それでも、国語によって母語がさらに磨かれることになります。

個人にとって、国語よりも大きな日本語が母語となっていくことになります。

そのなかで、日本語の共通理解のための言語としての国語が存在することになります。


日本語感覚のしっかりした言語を、母語として子どもに伝えることが大切になります。

それは、国語が正しく理解できることにもつながりますし、日本語を母語として持つ人との共通語を持つことになるからです。

共通語を持つことは、同じ言語に対して同じ感覚を持つことを意味しています。


特殊な母語を持ってしまうと、国語に対して共通語としての理解ができなくなります。

極端なことで言ってしまうと、聞いている言葉は理解できるが、何を言いたいのかが分からないということになります。

そのことに気がつくのが物心がつくころからになります。

そうならないための母語を伝えなければなりません。


そのための母親の日本語は、今のままですとどんどん危険な方へ行ってしまうようです。

今回は、母語についての理解を中心にしてみました、。

次回は、母語として受け渡す日本語にについて見てみたいと思います。


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