2013年11月25日月曜日

学習言語(第一言語)と小学校のカリキュラム

小学校における学習言語(第一言語)の習得ためのカリキュラムは、とてもよくできていることは何度か触れてきました。(参照:言語習得の段階とその環境(2)
幼児期の言語としての母語がその役目を終えたとき、日常的に使用する言語としての学習言語に徐々に移っていくことになります。

この学習言語が一般的に言われる正しい日本語となります。
既に気づかれた通りに、正しい日本語と言われるものは、日本語として存在する言語の一部でしかありません。

位置づけとしては、方言を含めて様々な日本語を使用する人たちの共通言語と言えると思います。

義務教育の一番初めに、学習するための言語としての身につけます。
この言語は日本国のどこへ行っても通用する共通言語として、全国の小学校においてほとんど同じ教科書を使用して、同じ内容を身につけて行くことになります。




幼児期からここまでの中心言語であった母語は、脳の機能開発と学習言語を習得するための言語としての役割をほとんど終えます。
母語として残るものは、その母語使用の環境における言語的な感性だと言われています。

幼児期の活発な脳細胞の代謝と発達は、母語によって導かれた機能開発を進めながらも、激しい代謝の繰り返しによって、記憶としてはほとんど残らないことがわかっています。
幼児期の記憶がほとんどないのは、記憶媒体としての言語の習得が未熟なことよりも、脳の新陳代謝で記憶した部分がどんどんあたらしい細胞に替わっていくためになくなっていくことに依るものと分かってきました。
 
 
脳の容積が一番発達するのが2歳から5歳頃までと言われています。
10歳ころまでには2歳時点での4倍にまでなるようです。
いかに、激しい代謝が行われているか想像できるのではないでしょうか。

ものごころがついて、記憶が鮮明に残っているのは小学校の高学年以降ではないでしょうか。
幼稚園や小学校の低学年の記憶がある場合は、記憶力がついてから昔の写真等で刷り込まれた記憶がほとんどのようです。

幼児期の母語の言語数が少ないのは、長期の記憶ができないからにあります。
本当に短期間で記憶が入れ替わりますので、毎日繰り返し行われることくらいしか残っていきません。
5歳くらいでもせいぜい3日間程度の記憶だと言う研究結果もあるようです。
 
 
幼児期の英才教育や、何らかの教え込みがその間だけで終わったしまった場合には、ほとんど効果をもたらさないことは、ここに原因があると言われています。

英才教育の場合は、ほとんど毎日のように繰り返しながら10歳くらいまで続けることによって、初めてその効果があることもわかってきました。

そのためには、一番大切な言語の習得に影響が出ることもわかってきたために、ほとんど行われなくなりました。
幼児期の英才教育についてはどこかで改めて触れてみたいと思います。
 
 
下の表は代表的な公立の小学校の時間割です。
1学年を前期後期の2期に分けているパターンです。



低学年である1.2年生では教科と言えるものは国語と算数くらいですね。
あとは、生活科や音楽、図画工作、体育といったものです。
低学年ではすべての教科が学習言語の習得のために当てられていることがよくわかると思います。
 
国語は必ず毎日あります。
他の教科の教科書もすべて国語の進度に合わせて作られていますので、すべての教科で学習言語の習得を行っていると考えていいと思います。

算数においては1年生ですでに足し算、引き算が出てきます。
2年生では九九を覚えなければいけません。
この時点で算数が苦手になる子が出てきます。

これは算数の独特の表現が理解しにくいからです。
2年生くらいですと個人差も大きいですから、きちんと理解できているのかどうかは気づきにくいことです。
算数が苦手な子は、少し前からの国語をやり直すとほとんどの場合で理解できて、苦手が解消します。
いくら算数をやり直しても効果はあまりないようです。


3年生になると、社会と理科が加わってきます。
歴史的な事実や世の中のことを客観視することが求められてきます。
観察や実験から変化や原因を見つけることが求められてきます。
そのための表現に慣れないと、社会や理科が苦手になります。

国語では漢字の書き取りや語句の意味調べが中心になってきます。
そして、
4年生で基本的な学習言語の習得がほぼ終わることになります。

 
高学年になると、より多くの語彙を習得し、より高度の文を読解できるようになります。
また、文法の理解も入ってくるようになります。

この時間割にはありませんが、最近では5年生になると英語の授業が入ってきます。
高学年では国語のない日がある学校も出てきます。

小学校のカリキュラムは言語習得についてはとてもよくできた内容だと思います。
ひらがなから始まってカタカナ、漢字、ローマ字(アルファベット)までの文字を持つ日本語を、全国統一のルールに沿って身につけることができるわけです。

ところが言語の教育としては、ここで終わってしまいます。
この言語を使ってしなければいけない技術については、何の学習もありません。
言語は道具です。
この道具を使ってどうするかの技術を考えていきたいですね。

 
本当に大切なのは、道具を持たせることよりも道具の使い方ではないでしょうか。
外国の言語教育と比べて一番異なるのがこの部分ですね。

せっかく言語習得までは良くできているだけに、仕上げの部分を望むのは欲張りでしょうか。
せめて、自分の意見を伝えることと、人の意見を聞けることは言語技術として学校教育に取り組みべきではないかと思っています。