2015年8月31日月曜日

論理の漢字、感情のひらがな

同じことを伝えようとするにも、伝えた相手にどのように受け取ってもらいのかによって伝え方が変わってきます。

起きている現象を伝えて事実として認識してもらうための伝え方と、伝えたことによって相手に何らかの行動を起こしてほしい場合では、伝え方が異なってくることになります。

基本的にはどんな言語であっても変わらないことだと思われますが、日本語を母語とする場合には特に行動を起こすための動機が論理的な理解よりも感情的な刺激の方が強いためにより伝え方が大切になってきます。


これも英語との比較において考えてみると分かりやすいと思います。

英語の場合は行動するための基準として、感情に依る動機よりも論理的な納得性・正当性を重視する傾向にあります。

これは歴史文化的に継承されてきた言語が持っている基本的な傾向であると言えます。

感情を押し殺してでも論理性による説得や納得を重視することが基本的なスタイルであり教育なのです。

そうして来ないと社会が維持できなかったと思われます。


したがって、英語を母語とする社会においては感情に基づいた行動を論理性よりも優先することになると、日本語を母語とする社会よりも批判を受けることが多くなります。

行動するための基準として論理性を一番においていますので、社会生活においても論理性に基づく判断が大きな要素を占めています。

感情に基づく判断もあることは認めていますし感覚としては持っていますが、それは論理的な判断を邪魔するものとして扱われています。

行動判断の基準として論理性を重視するように教育を受け、社会の基準を作っているのです。


その代り論理性での納得やよりしっかりとした論理性によって説得された場合の行動はわかり易いものとなっています。

そこで起される行動は感情的な判断に左右されないものとなっているのです。

説得され納得した内容に対して論理的にしっかりとした否定ができなければ受け入れるしかないからです。


英語には、事実を伝えたり論理を展開するための言葉や表現はたくさんありますが、個人の感情を表現するものが日本語ほど多くはありません。

英語で書かれた物語を見てみても、日本語の物語のように主人公の感情の変化を詳細に追った様な作品はほとんどありません。

状況と事実を綴ったものが多くなっています。

論理性を重視しようとするために、感情的な判断があったとしてもそこには論理的な納得が必要となっているのです。


日本語を母語とする人の行動に対する傾向は感情によることが多くなっています。

論理的にどんなに正しくとも周りの意見がすべて同意しようとも、感情的に受け入れられない場合は行動に移さないのです。

賛否を決する場合であっても、論理性を自分で納得して判断しているわけではないので、決せられたことに従った行動を採るとは限らないのです。


感情的な判断の基準は脳がどのように感じるかであり、判断の基準は「快か不快か」になります。

「快」の典型が「好き」であり「楽しい」「面白い」になります。

日本語が持っている基本的な感覚は感情による行動動機です。


純粋に独自の熟成を遂げてきた日本の感覚と言語は明治期において一気に外部の接触を始めることになります。
(参照:明治が生んだ新日本語

それは論理によって作り上げられた文化と技術でした。

新しい文化と技術は新しい日本語を作ることによって日本に取り込まれていきました。

もともと持っていた中心的な言語であるひらがなは文化歴史的な感覚を継承されてきたものです。


西欧文化を中心に取り込んできた先端文明に対応するために作られた言葉は広辞苑一冊分の20万語を越えていたと言われています。

そのほとんどが漢字の新しい組み合わせや新しい読みによって作られたものでした。

感情表現を得意としたひらがなによる日本語の感覚に、漢字による論理性を重視た感覚を取り込もうとしたのです。


したがって、論理性を重視した内容を表現するためには漢字を多用することの方が適していることになります。

事実を認識もらったり論理を理解してもらうためには漢字を中心とした表現の方が向いています。

ひらがなを多用するよりも理解のしやすい論理のはっきりした表現をすることが可能になります。


しかし、理解はしやすくとも行動に結びつく理解にはつながりにくいものとなっています。

漢字を多用した表現は決して感情を動かす表現とはならないからです。

日本語の感覚においては、論理を理解することとその論理に基づいて行動を起こすこととは全く異なることとなっているのです。


欧米言語は相手を説得し理解させるための言語です。

説得され納得した内容は、感情に依る動機よりもより強い行動を起こすための動機となっているのです。

したがって論理的に納得した内容については行動に結びつかないことえお非難されることになるのです。


日本語の感覚においては、論理的に納得することと行動を起こすことが結び付いていないので、理解した内容を行動に起こさないことを非難されても何とも感じることはありません。

漢字を多用することで表現されたものは、具体性もあり論理性もわかり易いものになります。

ひらがな言葉やひらがなが多用される表現では、論理性が分かりにくいものになりますし具体性が欠けるものとなります。


ところが人に行動を起こしてもらおうとするときには、論理性や納得性があまり関係ないことは一般にはあまり知られていません。

欧米型の教育を受けてきた私たちは、論理性によって判断をするような教育を受けてきています。

しかし、日本語が持っている基本的な感覚は行動するための動機は感情によることの方が強くなっているのです。


相手に何かの行動を起こしてほしいと思っている場面で、状況や起こしてほしい行動について論理的に説得しようとすることがよく行われています。

ほとんどの場面で失敗しているのではないでしょうか。

日本語の感覚では論理では動かないのです。


ひらがな言葉と訥々と語られるひらがな表現は分かりにくさを伴いながらも感情を動かされることがたびたびあります。

受取る人によってもどのような感情を動かされるのかは分かりにくいものです。

それでもひとたび何らかの感情が動かされると他の種類の感情も動かされやすくなります。

感情として受け入れていいという準備ができるからだと思われます。


詐欺被害などでだまされた内容を聞かされると、どうしてそんなことで行動をしてしまうのか理解できないことがたくさんあります。

それは論理性で考えているからです。

日本語が持ってい基本的な感覚が、行動するための動機として論理性よりも感情の方が強くなっているからなのです。


環境と共生することを目的とする日本語の基本的な感覚は、どのような環境においても自分を適応させることを中心に考えます。

相手を変えることよりも自分を適応させて共生していこうとするのです。

究極の個人としての在り方は、どのような環境においても適応できる能力を持った自分であり自在なのです。

あらゆる環境に対して力を及ぼそうとすることを究極の個人として求める欧米型言語の感覚とは対極にあるものと言えます。


論理性を共有するためには漢字を多用することにとって可能となります。

行動を共有するためにはひらがなによる表現を心掛けることでより可能性が高まることになります。

ひらがなの持っている感覚が日本語の持っている基本的な感覚です。


漢語を基にして日本語の文字ができたことは間違いないようですが、漢字がこんなにたくさん使われるようになったのは明治以降のわずか150年足らずのことなのです。

1500年を超えるに日本語の歴史にとってはつい最近のことでしかないと思われます。

日本語の持っている基本的な感覚はひらがなによって形成され継承されてきたものと言えます。

漢字の持っている感覚は純粋な日本語的な感覚を理解するには排除した方がいい場面もたくさんあるようです。


自然や事象を表現することで心情や感情を表現する技法を磨いてきた日本語の感覚は、表面的な表現では理解することが難しい言語となっています。

言語で表現することをすべてとしている欧米型言語の感覚に対応するためには、漢字によって適応していくことの方が向いていることになるのでしょう。


日本語はひらがなだけですべてを表現する音は可能ですが、漢字だけでは表現することができません。

ひらがなが日本語の基本的な感覚を形成している一つの証でもあります。

どれだけ漢字で表現をしてみようとしても、語尾の変化や接続詞などの論理性を形成するための表現はひらがなに頼らざるを得ないのです。


その中でも論理性を求める時の表現として漢字を多用することはいまや当たり前のように行われていることと思われます。

しかし、行動をしてもらおうと思う時にひらがな中心の表現は、話し言葉だけに係らずに有効に使えることだと思われます。

人は、興奮してくるとどんどん論理性で説得しようとしていきます。

冷静になって、ひらがな言葉でつないでいくことが効果が高いのでしょうね。