2016年5月18日水曜日

慣用句で伝わる言語感覚

言語の持っている独特の感覚が一番身近で感じることができるのが慣用句ではないでしょうか。

故事成句や金言・格言などとは異なって一般的な基本語による言葉の組み合わせによって表現をされて継承されてきている慣用句はまさしくその言語を母語として持っている人にとっての自然に理解できる表現パターンだと思われます。
(参照:基本語で話そう

教育的な目的やことわざなどと異なり、慣用句は一般的な当たり前の表現の中から生まれてきたものであり誰かが何かを意図して作り上げたものではない自然発生的なものと思われます。


ある環境において誰かが一度限りで使った表現が、言語感覚的にその環境にぴったりとはまったことによってそのことを表すための典型的な表現としてその後にも使われるようになったものが慣用句です。

目的をもってある種の意味を持たせるために作られた意図的な表現ではなく、偶発的に言語の持つ意味よりもその言語の感覚によって使われたものということができると思います。


そこで使われている単語についても誰もが理解できる基本語の組み合わせでありながら、それぞれの基本語が持っている意味とは異なった意味を持たせるものとなっているのが日本語の慣用句ではないでしょうか。

「手を焼く」というのも使い慣れた慣用句ですが「手を焼く」を基本語の意味のまま理解したのでは大やけどをしてしまうことになります。

やがては元の基本語のがどのような意味で使われていたのかすら分からずに慣用句だけが残っていくこともあります。

それはその言語が持っている感覚に合致しているために残っていっている貴重な表現パターンではないでしょうか。


「手を焼く」と同じような意味で使われる慣用句「手こずる」があります。

同じ「手」という基本語を使っていますが「こずる」単独については「?」となる人がほとんどではないでしょうか。

それでも無意識に使いながらも誰もが同じ感覚で理解できるものとなっているのです。


また、慣用句は故事成句やことわざのように国語的に厳密に意味を定めたものとはなっていないために、使われていく環境によって意味が変わっていく場合もあります。

時には「犬も歩けば棒に当たる」のようにほぼ正反対のことを意味するように変化していくこともあります。

出典や成り立ちがはっきりしていないことで元の意味を特定することもできないものなっているのです。


慣用句には音読み漢字が使われているものがほとんどありません。

それは、意図して作られた故事成句や金言・格言と大きく異なるところです。

基本語で成り立っていることから考えると、話し言葉の中から偶発的に生まれてきたものであると考えることが妥当だと思います。

その分、何かを狙った意図的なものよりもより基本的な話しことばとしての言語感覚によって支えられているのではないでしょうか。


「手を焼く」、うまく処理できなくて困る様子であり「もてあます」とも言い換える場面も可能な時もあります。

ことばの意味から考えても使われている意味は浮かんできませんが「手を焼く」というニュアンスがなんとなく理解できてしまうのは日本語が持っている感覚によるものではないでしょうか。

まったく別の意味のようでありながら「手」があることによってなんとなくニュアンス的に理解できてしまう不思議な表現となっているのではないでしょうか。


基本語の意味から辿っていったら誰もが理解することができない表現が、日本語を母語として持っている人には理屈抜きで同じ理解ができてしまう表現なのです。

ことわざ、金言、格言、名言、故事成句、似たようなものはたくさんありますがすべてが意図を持って作られたものです。

区別をするのも難しいものもあると思いますが、慣用句だけが誰が言い始めたか分からない自然発生的に生まれて継承されてきているものになります。

ある種の決まり文句であり挨拶のことばと同じような感覚で使われているのではないでしょうか。


意図したことで生まれた表現ではないということは、話してるうちの感覚から生まれた表現だということができます。

まさしく言語の感覚を具現化した表現なのではないでしょうか。

しかも、継承されてきているということはその表現が使われるのにふさわしい場面が頻繁にあったことを伺わせます。


汎用性の高い表現であったとしたら共通した固定的な意味が薄れてしまい音としての言葉だけが残ったのでしょうが、だれもが理解できる同じ環境における同じ意味はかなり限定的な使われ方としてしかも頻繁に使われていたのではないでしょうか。

だからこその慣用句だと思われます。


日本語以外の言語にも慣用句という表現をされるものが存在していますが、それはいくつかの単語が並んでいるものでありそれぞれの個別の単語が持っている意味を大きく外れるものではないようです。

熟語やイディオムといった呼び方の方が適切なものとなっているのではないでしょうか。


一つずつの単語がかなり幅広い意味を持っている日本語では、一つの単語の持っている意味ですら正反対の内容を表すものも少なくありません。

更には語順を筆頭にして文法的には非常に自由度が高い日本語は共通理解するためにはあまりに豊かな表現を持ちすぎているということができます。

その中で、慣用句による表現は使われている単語が基本語として日常的に親しんで広い意味を持っている言葉でありながら、慣用句としての使われ方は日本語を母語とする人には共通して理解できる共通語としての役割を持っているものとなっています。

しかも、その意味については言葉の意味としてよりも日本語そのものが持っている感覚として理解できるものとなっていると言えるのではないでしょうか。


また、慣用句には人の体の部分を表わす言葉が使われていることが多いと思われます。

その部位の形や役割を考えた時に日本語が持っている基本的な感覚とつながりがあるものがあるのかもしれません。

このあたりは今後の研究を待ちたいと思います。


例に出した「手を焼く」を初めてとして「手を出す」「手に余る」「手を変える」「手を加える」「手に入れる」「手をぬく」などいくら出てくるのではないでしょうか。

そうかと思えば極めて抽象的な概念を持つ言葉である「気(き)」も多くの慣用句を持っています。

「気を張る」「気を許す」「気をもむ」「気にする」「気が多い」「気が乗る」「気が早い」「気を抜く」「気を引く」などなど、どれをとっても日本人ならば共通して理解できる表現となっています。


話しことばとして考えてみるとすべてが「現代やまとことば」として「ひらがなことば」となっていることに気がつくのではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を経験する

「ひらがなことば」の基本語によって来上がっている慣用句はその慣用句を構成している一つひとつの言葉(単語)よりもより理解しやすい表現になっていると思われます。

誰もが同じように理解出来るからこそ共通語としての役割を継承してきているのだと思われます。


話しことばとしての口語と書き言葉としての文語は明治期から言文一致の取り組みが行なわれてきましたがいまだに完成されているわけではありません。

代表は格助詞としての「は」の読み方の「ワ」です。
(参照:同字異音も日本語らしさ

かなの五十音が定められた目的の一つに言文一致の表現を徹底することがありました。

しかし、そのかなの中に同字異音となってしまう使い方がいくつも残っていたのです。


使っている私たちはほとんど気にすることもなく言文一致だと思い込んでいないでしょうか。

これからわかるように言葉は話し言葉が基準であり、話し言葉を記録するために文字があるということになります。

話しことばとしての「ひらがなことば」をすべてひらがなで表記したのでは書かれた文章はとても読みにくいものとなってしまいます。

同様に役割の異なる漢字を話し言葉に持ち込んでしまっていることが話して伝えることを分かりにくくしているのです。


話すときにこそ活かしていきたい慣用句です。

手を尽くして慣用句を利用して話してみましょう。



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