英語は一つひとつの単語が持っている意味や使い方がかなり厳しく限定されており、同じ文であるならば英語を母語として持っている人ならばほとんど同じ解釈が行なわれるものとなっています。
しかも言語上の意味がすべてであり言葉の意味をひっくり返すような解釈がされることをできるだけ除外しようとしている文化環境です。
ある種の論理を展開する場合にも使用される文型や単語すらほとんど定型化されたものとなっています。
したがって、個人の言語技術で優劣をつけたり巧拙を競ったりすることはほとんどありません。
使い方としての場面さえ間違わなければ良いといった語彙や用法がかなり固定化された言語となっているのです。
そのために初等教育においても言葉の意味や文の解釈について学ぶ機会は本当に短い期間しかありません。
先生の役割は、生徒のレベルにあった本を選択して読ませることが中心となります。
言語としての基本的な意味や解釈ができるようになると、言語を使用するための技術を徹底して教え込まれます。
基本的なパターンはあるのですから、使うべき場面で使うべきパターンを選択して適切に使いこなすことを学びます。
受けた教育のレベルによって使える語彙やパターンがある程度決まってしまうことになります。
会話をしてみただけでどの程度の教育レベルを身につけた人であるかとてもわかり易い基準がそこには出来上がっているのです。
それは、コミュニケーションとして自分の意思を明確に表明し相手を説得する技術になります。
対象や人数や環境を変えて初等教育から言語技術を身につけることが教育の中心となります。
言語教育で重視されるのは社会で生きていくためのクリティカルシンキングを表現できる言語技術を身につけることです。
よりレベルの高い教育を身につけた者ほど知的レベルの高い言語環境での表現力としての言語技術を身につけていくことになるのです。
表現するためのパターンが出来上がっていますので、単語としての音のとり間違いをしない限りはほとんどの人が同じ解釈をできることになります。
ネイティブの者でも映画の内容についてはしっかりと音が聞き取れて確実に理解できている部分は多くても70%程度だそうです。
残りの30%については理解できている70%からguess(推測)しているのだそうです。
そしてその推測の確度は驚くほど高いものとなっているようです。
パターン化されている表現を利用していることによる典型的な効果ではないでしょうか。
それに対して日本語は一つの単語が持っている意味があまりにもたくさんあり過ぎて使われ方もパターン化されているとは言い難いものとなっています。
その意味では語順を初めとしてかなり自由度の高い言語だということができます。
その分、決まりきったパターンが少ないためにどの様に表現しても構わない環境となっているのです。
同じ文に対しても話し方ひとつでニュアンスが変わってしまったり、極端な場合には180度正反対の意味になってしまったりすることすらあるのです。
ある程度型にはまったパターンがあるためにその中での技術の巧拙が必要になってくるのであり、自由度が高い環境にあっては技術は必要ないものとなってしまうのです。
したがって日本語の環境においては数少ない決まり切った表現パターンや自由度の高い表現の中から発信者の意図を解釈できる能力を身につけなければなりません。
この解釈力がないとコミュニケーションそのものが存在できなくなります。
結果として日本語の言語教育は文字や単語の意味を解釈することと文や文章を解釈することに重点が置かれることになります。
小学校から大学まで読解と書き取りばかりやって解釈力を磨くことしかやっていないのです。
それでも社会に出てより自由度の高い日本語の環境に放り込まれるとコミュニケーションすら取れないことが起きているのです。
歴史環境的に彼我の関係は対等並立の関係を嫌うのが日本人です。
どうしても上下あるいは主従の関係を設定して自分がどちらの位置にあるのかを確認しないと落ち着かないのです。
強者の立場になった途端に「見て覚えろ」「行間を読め」「一を聞いて十を知れ」といった相手に一方的に負担を強いる態度になってしまうのです。
反対に弱者の立場に立った途端に「かゆいところの手が届く」「先の先を読む」「最悪を想定する」といった解釈力を発揮するようになるのです。
環境が変わって立場が変わればその時に合わせてどちらも使いこなすのです。
自由度が高すぎる日本語の表現方法は文字通りの解釈をすることが必ずしも正しい理解となっていないことでもあります。
そこに込められている意図はわざと文字通りの意味とは離れていることも少なくないのです。
また、それも一つの表現技術として存在してしまうのです。
人の数だけあるいは文の数だけ表現方法があるのです。
同じ意図を伝えるために使える表現はいくらでも存在しているのです。
文字表現だけでなく話ことばとしての表現まで考えれば無限大にまで広がっていくのではないでしょうか。
それを解釈するのは大変な能力が求められることになります。
日本語における表現技術の磨き方は受け手としての解釈者の能力にあった表現を選ぶことになります。
相手の持っている言語解釈能力とパターンを理解しないといけないことになります。
事前に確認できることもあるでしょうし会話や話をしながら推測していかなければならない場合もあるでしょう。
それでも母語として日本語を持っている人ならば特に意識しなくとも同じように解釈することができる言葉や文が存在していることも確かなのです。
これらをうまく利用することも言語技術になります。
日本語の基本になっている言葉やパターンは「やまとことば」から伝統的に継承されたものが中心になっています。
それは漢字の音読みやカタカナや外来語に邪魔をされないで継承されてきた日本語の基本的な感覚となっているものでもあります。
具体的には折に触れて出てくる「現代やまとことば」で理解できるものだと思います。
(参照:「現代やまとことば」を経験する)
ことばの意味がたくさんあり文法の自由度が高い日本語はどのような表現も可能な言語となっています。
意図を伝えるためには伝えるべき相手をしっかり確認し、つたえたい意図をしっかり確認して相手が理解しやすい表現をすることが必要になります。
日本語にはこの場面にはこの単語によってこの順番で表現をするといった絶対表現パターンがないのです。
礼を失することさえ恐れなければどんな表現でも可能だと言っても言い過ぎではないかもしれません。
それを支えるために徹底した解釈力を身につけるための教育が行なわれているのではないでしょうか。
相手がどのように解釈しているのかを知らずに行う表現は自分勝手なだけでありその意図を理解してもらうことは出来ないものと思わなければなりません。
何を理解してもらいたいのかをしっかりと確認して表現をしていきたいものです。
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