日本語文化とアメリカ英語文化は人が言葉を発するという行動に対して同じような感覚を持っているようです。
それは、人が言葉を発するという行為を表す言葉としての基本語(日常的に使われているにもかかわらず昔から継承されている誰でもが理解できる言葉)の数を見てみればわかるのではないかと思います。
日本語の基本語は「現代やまとことば」として漢字の音読みや外来語を排除した訓読み言葉(いわゆる「ひらがなことば」)で表現されるものになります。
アメリカ英語の基本語は日本の中学校程度で習う単語だと思えばいいのではないでしょうか。
例えば人が言葉を発するという活動を表する基本語を探してみます。
日本語の基本語として代表的なものは「はなす」(話す)、「しゃべる」(喋る)、「かたる」(語る)、「のべる」(述べる)、「いう」(言う)などとなります。
これに対して、アメリカ英語の基本語は "talk", "speak", "tell", "say"などとなるのではないでしょうか。
日本語の「はなす」(話す)という言葉は日常的にその定義を意識することなく感覚的に使われているにもかかわらず、ほとんどの人がその意味するところの行為について間違えることはありません。
日本語を母語として持っている者にとっては使う場面やニュアンスについてすべての人が同じ感覚を持っている言葉ということができます。
「しゃべる」「かたる」「のべる」「いう」などと比べた場合であっても、使用する環境や状況をいちばん考慮する必要がなく広く使われている言葉が「はなす」ではないでしょうか。
「はなす」はそれ以外の言葉のすべてに置き換えが可能なほど広範なニュアンスをカバーしていると思われます。
まさしく基本語といえる使われかたをしている典型的な言葉ではないでしょうか。
「はなす」ということばは文字のなかった時代の日本語である「古代やまとことば」として存在いたものかどうかは確認ができていません。
最古の記録書物である「記紀」(古事記、日本書紀)に「はなす」という言葉を見ることはできないようです。
「記紀」(とくに古事記)においては、それまで記録するための文字がなかったために記憶力によって話し言葉として保持されていた内容を、漢語の音を使うことによって文字として記録することが試みられたものとなっています。
同じ行為を表すことばとしては「いう」が「記紀」にも使われていることは確認されています。
そこで使われている「いう」には漢字として「言」が使われていたり「云」や「曰」が使われていたりしています。
公式な記録として残したものに行き当たりばったりでその都度異なる漢字を使用するわけはありませんので、その使い方には何らかの規則性があるはずです。
「言」は人が言葉を発する行為には使われておらず神が何事かを伝える場合や神にかかわる場合に使われているようです。
人が言葉を発する行為には「云」「曰」などが使われており、時代によっては行為者の身分によって使い分けられたり他の文字が充てられたりしていきます。
「はなす」がどの時代から使われ始めたのかは定かではありませんが基本語の「ひらがなことば」として定着してきていることは疑いようがないものとなっています。
このように「古代やまとことば」であったかどうかはわからなくとも現代としては「やまとことば」として扱うことが適当であると思われる言葉があります。
外来語や漢字の音読みによる言葉を除いた「ひらがなことば」のことであり、「現代やまとことば」と呼んでいるものです。
文字のない時代より継承されてきている「古代やまとことば」はもちろんのこと、「はなす」のように「古代やまとことば」として確認ができない言葉も「現代やまとことば」として扱うことができます。
日本で生まれ、日本で定着した基本語ということができます。
分かりやすい区別としては「ひらがなことば」と漢字表記の場合の訓読みによる言葉が「現代やまとことば」であるということになります。
つまりは同じ行為を表すことばであっても「発言する」「断ずる」「意見する」などは漢字の音読みを使っている言葉であり「現代やまとことば」ではありません。
外来語である漢字の音読みを利用した言葉であり日本で生まれ育った言葉ではないからです。
(参照:「愛する」が苦手な日本人)
明治維新期に広くヨーロッパを中心に取り込んだ先進文明に学んだ言葉のほとんどは、音読み漢字によって表現されたものであり、現代日本語のかなりの部分を占めていることになります。
この時期に生み出された「やまとことば」以外の新しい日本語だけでも広辞苑一冊分の20万語を越えていると言われています。
外来語や新しい文化にかかわるニュアンスを新しい日本語として取り込んだものといえます。
人が言葉を発する行為を表す基本語は、日本語でもアメリカ英語でもほとんど同じ数であるということができます。
それらの言葉はそれぞれの言語を母語とする人たちにとっては苦労することなしに使い分けができる日常語となっています。
それぞれの基本語に対しての近いニュアンスを表す互換語が日本語と英語の間で存在していると言ってもいいのではないでしょうか。
人が言葉を発する行為に対しての感覚がどちらの文化においても近いものがあるということになると思います。
違う行為を見てみましょう。
人が移動する速さを表す基本語を考えてみます。もちろん「現代やまとことば」です。
日本語の基本語では「あるく」「はしる」の二つしかないと思います。
「かける」は本来は人以外の獣に対して使われた言葉ですのでここでは人の動作を表す言葉としては除外しています。
これに対してアメリカ英語では基本語としても"run", "walk" 以外に"jog", "sprint" が存在しています。
日本語には対応する基本語がないために複合語として表現されるものが"jog"=「小走り」, "sprint"=「全力走り」などとなっています。
"jog", "sprint"などは日本語では「はしる」の中の細分化されたカテゴリということになります。
(参照:「あるく」と「はしる」)
基本語として使用されている言葉の数によってその言語文化におけるその分野の一般的な常識レベルでの深さやこだわりを見ることができるのです。
日本文化では人が移動する速さに対して「あるく」と「はしる」の二種類の分類で十分だったことになります。
アメリカ文化では同じ行為に対して四種類・四段階の分類を必要としていたことになります。
人の生産性という文化が根付いているアメリカらしい局面が見えるのではないでしょうか。
日本語の基本語に人の話していることを「きく」という言葉があります。
明治期以降は聞くことに対して様々なレベルが求められるようになりました。
基本語は「きく」ですが、「きく」の中からの細分化を漢字で行うことがなされたのです。
「聞く」「聴く」「訊く」「効く」「利く」などの漢字が充てられていったのです。
中には行為としてはむしろ「はなす」ことに区分するべきと思われる「訊く」が含まれていることも日本文化の特徴を表しているのではないでしょうか。
アメリカ英語だと"hear", "listen" と言うことになるのでしょうね。
できるだけ基本語を使って伝えることこそ誰でもが理解できる表現ということになるのではないでしょうか。
日本語の基本語としての「現代やまとことば」はこれからますます大切になってくると思われます。
世代間の理解がどんどん難しくなってきています。
使っている言葉自体が違ってきているんでしょうね。
若い人たちは新しい言葉を生み出すことにおいては天才的です。
年配者は新しい言葉に対しては触れる機会が少なくなっていきます。
新しい言葉を理解するときにはだれでも自分の持っている基本語で理解します。
あまりにも当たり前なことってなかなか光が当たりませんね。
時には当たり前のことを振り返ることができるといいですね。
「現代やまとことば」。そんな感覚を持ってもう一度日本語を見てみると面白いと思いますよ。
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