2016年4月28日木曜日

言葉がかけるバイアス

言葉をたくさん持っている方が何かを認知しようとしたときにより正確な認知ができるものだと思っていました。

そうであればより多くの言葉を持っている言語の方がより正確な表現や理解が可能であるということになります。

ところが言葉を持っていることでその言葉によって認知に対してのバイアスがかかってしまっていることがあることが分かりました。


言語はそれぞれの使用民族における歴史文化の影響を強く受けていますので、言語によって多くの言葉を持っている領域や分野が異なったものとなっています。

例えば人が移動する行動を速さで分けた言葉は、日本語では「歩く」「走る」といった二種類の基本語で区別されますが英語ではそれに相当する run, walk以外にも jog, sprint, dashなどの基本語が存在して日常的に区別されています。

「歩く」「走る」といった日本語の感覚は英語を母語として持っている人の感覚としてはより細かく日常的に無意識に五段階に区別されていることになります。


人が移動している姿を見て日本語話者は「歩く」か「走る」かという認知で区分けしてみていることになります。

同じ状況を見ても英語話者は瞬時に run, walk,jog, sprint, dashのいずれであるのかを認知していることになります。

カテゴリ認知(範疇認知)という言い方もあるようですが、母語として持っている言語の基本語においては意識することなく感覚的にそのカテゴリを当てはめて認知しているという考え方です。


具体的なモノや行動について基本語として設けられている区分としてのカテゴリは、類似のモノや行動を認知するときにどうしても持っているカテゴリに当てはめようとする力が働いているようです。

基本語として存在している言葉で行なわれているカテゴリ分けについてはその言語全体の特徴を表すものとして考えることができます。


しかし、カテゴリに完全に一致するわけではない基本語で区分されたカテゴリの中間に位置付けされるようなモノや行動はどの様に認知されているのでしょうか。

それは、二種類の方法が存在していると思われます。

ひとつは、その言語文化が持つ一般的な感覚としてどちらへ包含するかが暗黙の了解となっているような場合です。


日本語の感覚では「進め」を示す信号の色は「青」と呼ばれます。

幼児であっても「赤とまれ、青すすめ」といって信号を学んでいます。
 
英語の感覚においては「進め」を示す信号の色は green(緑)であり決して blue(青)と呼ばれることはありません。

どちらの言語においても green(緑)も blue(青)も基本語として日常的に使用している言葉です。

これは、それぞれの言語文化において感覚的に継承されてきている認知の仕方ではないでしょうか。


もうひとつは、個人の経験にもとずいて微妙な位置にあるモノについてのカテゴリを決めている場合です。

人が移動するいろいろな速度を写した映像を見ながら「歩く」か「走る」かの判断をしてもらうと日本語話者はほとんど皆が同じような段階で区分をしていきますが、本当に微妙なラインになると個人的な感覚で判断が異なってきます。

英語話者の場合は walkから dashまでの五段階もありますが、ほとんどの人が同じ判断を示すことになります。

それでも本当に微妙なラインでは個人的な感覚でどちらのカテゴリに入れるかが分かれることになります。


全体が二段階になっている日本語と五段階になっている英語では初めからその精度については差があるものということができるのではないでしょうか。

「歩く」と walkについてはどちらの言語話者においてもほとんど同じ速度であり感覚的にも同じ行動であると言ってもいいカテゴリであることが実験の結果で分かっています。

したがって日本語の「走る」が英語においては四段階に区分されていることになります。

四種類の基本語があることによって、認知をしようとした段階で既にバイアスがかかっていることになることにならないでしょうか。


ここまではそれぞれの言語における絶対的な共通語ともいえる基本語におけるカテゴリで見てきましたので、母語としてその言語を持っている人同士にはほとんど同じ感覚でのバイアスであるためにお互いの違和感はないと思われます。

専門分野や社会環境が異なるということは持っている言葉が異なっていたり多かったりすることになります。

一人ひとりの持っている言葉も厳密に言えばすべて異なっているものです。

その言葉は相手が持っているカテゴリとは異なったカテゴリを作っている可能性があります。

その言葉によって認識する段階で既にバイアスがかかっていることがあります。

「どっち?」の画像検索結果

何かを認知しようとするときにはその何かに関連するカテゴリのどれかに分類区分をしようとした言葉に影響を受けることになっていきます。

完全合致として適する言葉がなければより近いと思われるカテゴリに引っ張られることになります。

言葉を持っていることによって対象物を認知する方向がその言葉によって引っ張られていることがあるのです。

持っている言葉が違うということは同じ対象に対しても認知の仕方が違っている可能性があることになります。


共通語、標準語、基本語などの色々な言い方がありますが同じ言葉であってもそれぞれの人が持っている意味が異なっている言葉も決して少なくありません。

同じ言葉を使っていることで正確なコミュニケーションができている感覚になってしまうことはとても怖いことだと思います。


日本語の共通語としては国語がその役割を果たしていると思われますが、いったん社会に出てしまえば国語だけでは生活すらできないことが分かると思います。

日本語の語彙の豊富さと表現の豊かさは他の言語の及ばないところにあるほどのものですが、それだけに共通理解のためにコミュニケーションのためには難しさが伴うものとなっています。

「現代やまとことば」がそのために一助になるのではないかと考えています。

日本語の原点にまで続くことができる「現代やまとことば」は基本語としての役割も持っていると思われます。

いろいろな場面で試していきたいと思います。


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