2016年4月26日火曜日

なぜ授業は聞かないのか

学校の授業を受けるときに聞き手である学生生徒はどんな目的を持って聞いているのでしょうか。

何らかの目的を持っていないと集中して聞こうという姿勢や内容を理解しようとする姿勢が欠けることになることは誰が考えても分かることです。

自分の将来や進学のことを考えた時に必要とされる教科とそうではない教科との比較では聞く姿勢が異なってくるのも当たり前のことになります。


高校や大学になり進学や進みたい分野が明確になってくるようになるとそれと関連する教科に対しての意識が強くなり聞こう(分かろう)とする姿勢が自然に強まります。

本人が目的として意識するのかあるいは履修すべき必須として設定されているための義務感からなのかは別にして、他の教科に比べては取り組まなければいけないという感覚が芽生えていると思われます。


社会に出てから学生時代の講義や教科を思い出してもっときちんとやっておけばよかったと思った経験はわたしだけではないと思います。

学生時代の目的は無理に持とうとすると漠然としたものとなってしまい具体的な教科やその内容にまでは思い至らないことが多いものです。

それよりも、親や教師を代表として求められていることが少しでもレベルの高い高校や大学へ進学することや世間的に言われる良い会社へ就職するために学業としての評価である成績を上げることにあります。

社会的に評価の高い大学や学部を卒業した方がよりその後の人生における選択肢が多くなることは間違いのないことだと思われます。

よほど明確な目的がない限りは東京大学や京都大学を卒業したほうが人生の選択肢が多くなっていることになります。


実社会を実感できない学生生徒に社会に出てからの目的を設定することは現実的には不可能です。

設定したところで抽象的な漠然としたものとならざるを得なくなるでしょうし、その後の経験によっても変化していくものでもあるのではないでしょうか。

それらの変化を考えれば、より選択肢が多い環境に身を置いておくことは極めて賢明な対応ということになるでしょう。

何になりたいと思っていてもとりあえず少しでもいい大学へ行っておくことが大切だと親が子どもに言い聞かせるのは当然のことだと言えるでしょう。


進学校になれば早い段階から文科系理科系のコース分けをします。

極端な場合には科目によっては全く行わない授業すらあります。

更には国公立大学私立大学のコース分けによって授業の科目数すら絞って行なっている場合もあります。

受験科目にない教科については取り組みがおろそかになるのは当然のこととなります。


学生生徒が学校へ行き学習する目的のほとんどはより良い条件での就職のためにあると言ってよいのではないでしょうか。

これ以外の目的を設定して学生生徒として活動できるのはほんの限られた人ではないでしょうか。

就職をするということはその組織に自分の時間をあずけ拘束されてその分の対価を得ることになります。

言い換えれば人生を切り売りすることに他なりません。


ほとんどの場合は通勤時間まで含めれば一日12時間以上をその組織の関係で拘束されていることになります。

睡眠時間や休日等を除けばほとんどすべての時間を提供していることになります。

学生生徒においてはそんな経験はほとんどなかったことですので、実際の社会生活が始まるとそこで初めて設定される目的がたくさん出てくることになります。

その目から見なおしたときにあらためてきちんと聞いておけばよかった授業が出てくることになります。

学生生徒の時には絶対に同じ感覚では見ることができなかったことになります。

「就職」の画像検索結果

本気で学びなおしたいと思った人はあらためて大学に入りなおしたり大学院に入ったりすることになります。

しかし、これも実際に行なうことができるのは限られた人だけであり行動できた人に限定された活動です。

実際に授業を受けいてる環境にあるときにはその授業の価値が分からないのです。

想像すらできないのです。

将来こういうことに役に立つと言われても、こういうことを実感することができないので自分のこととして考えることができないのです。


授業を選択し受けることができる環境にあるときにいかに社会と触れる機会を作って実感することができるかはとても大きな問題と思われます。

あるいは、卒業後に社会に出てからあらためて目的に応じた授業を受けることができる機会があっもいいと思われます。


その中で特に重きを置いておきたいのが日本語についてです。

国語は教科としては中学校までの呼び方になります。

高校になると現代文や古文・漢文といった呼び方になっているのではないでしょうか。


国語として日本語の共通言語を学習した後は日本語としての感覚を磨くことで社会から学ぶことができるようになることになります。

社会は国語で運用されているのではなく日本語で運用されているからです。

しかも、組織や環境によって微妙に異なった日本語によって運用されているのです。


これらの日本語をすべて把握して学ぶことは到底不可能です。

そのためには、感覚として理解できる日本語の感覚を身につけておく必要があるのです。
その感覚は国語とは微妙に異なったものとなっているのです。


社会に出て戸惑ったり適応できなかったりすることの原因のほとんどはコミュニケーションの問題です。

コミュニケーションと言えば格好よく聞こえますが所詮は日本語の問題であるということができます。


一人ひとりの日本語は毎日少しずつ変化しています。

進歩しているとは言い切れませんが毎日それぞれに異なった日本語と触れ合うことで自分自身の持っている日本語が変化していくのです。

国語よりも一回り大きなところにある日本語が社会に存在している日本語です。
国語は日本語の一部でしかないのです。

授業で使われているのはほとんどが国語の領域になります。

「国語」の画像検索結果

日本語の共通語としての国語の役割はとても大きな大切なものがありますが、社会の言語は国語ではないのです。

国語と日本語とのギャップが学生と社会のギャップになっているのではないでしょうか。


大学のゼミにおける実例研究で企業の実務者に話をしてもらった時の面白さが今でも思い出されます。

もちろん言葉を選んで話しをしてくれたのですが、それでも分からない言葉が飛び交っていました。

言葉そのものよりも分野独特の感覚による言い回しや思考はとても興味をひかれたものです。

学生生徒としては触れたことのない魅力ある日本語でした。


学生生徒に授業を聴くための目的を明確に設定させることは難しいと思います。

無理に持たせれば現実味の無い抽象的なものになると思われます。

せいぜいより良い学校に行くためにしっかり授業を受けるという漠然とした目的が精一杯ではないでしょうか。

興味を持たせるための工夫もいろいろなされているようですが、実際の社会生活や企業活動・研究活動に結びついていないのがもったいないと思います。

面白おかしい話し方で興味を引くのではなく、実社会の場面や企業活動・研究活動の場面を切り取って提示できることが大切だと思われます。


幼児期は幼児期で学童期は学童期でそれぞれ触れている社会があります。

その社会との関係を常に表現できていることが大切ではないでしょうか。

そのためには日本語力が求められますね。

国語を踏まえたうえでの日本語力はますます重要なチカラになっていくのではないでしょうか。



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