ラベル 伝える技術 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 伝える技術 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年7月29日金曜日

日本語で伝えるための技術(2)

先回は話し言葉としての日本語が「ひらがなの音」であることを確認して、一音ずつをしっかりと伝えるための技術についてお伝えしました。
(参照:日本語で伝えるための技術(1)

今回は次の段階として伝えるための言葉としてどのような言葉を選んだらよいのかということについて触れてみます。


文字によって意味を理解している言葉が多い日本語は、音としての「ひらがなの音」になった途端に意味を理解するのに苦労をすることになります。

それは聞いている方が「ひらがなの音」を聞いてから行なっている理解するための活動をよく考えてみると分かるのではないでしょうか。

自分でやっているときのことを思い出してください。


「ひらがなの音」からすぐに言葉としての意味を理解していますか。

そこには文字に置き換えるという過程が存在していませんか。

特に、同音異義語がたくさんある言葉などはどの漢字を使っている言葉なのか探していませんか。

使っている漢字を特定できたことによって意味を理解しているのではないでしょうか。


”ひらがなの音 ⇒ 文字への置き換え ⇒ 意味の理解” という過程が行なわれていることになります。

さらに、この「ひらがなの音」から文字への変換は聞いている人の中で持っている言葉で勝手に行なわれていることであり、伝えている方にはどのような変換が行なわれているのか全然わかりません。

つまり、伝えた方が意図している文字なり言葉なりに変換されている保証はまったく無いということになります。



また、伝える方が意図している言葉として発した「ひらがなの音」のアクセントや音の長短などから聞き手が同じ言葉を選んでくれる保証もありません。

伝える方が発した「ひらがなの音」が聞き手にとっては言葉の音として受け取られないこともあることになります。


「ひらがなの音」が文字に変換されたときに漢字にしなければならないから違ってしまう可能性があることになります。

「ひらがなの音」だけから文字を特定できる言葉はないのでしょうか。

そうです、音としてのひらがながそのまま言葉になっている「ひらがなことば」は間違えようがないものになります。

ひらがなでしか表記されない言葉こそ音と文字が一対一で対応しており、他に変換される候補すらないことになります。


ひらがなのすべてが一つの音しか持っていなければ間違えようがありません。

しかし、ひらがなにも使い方によって二つの音を持つものが存在しています。

例えば格助詞としての「は」や目的地や方向を表わす助詞の「へ」は、そのままの音以外に「ワ」や「エ」という音を持っています。

「わたしわ」という「ひらがなの音」は文字としての「私は」と変換されて意味が理解できていることになります。

この活動はあまりにも頻繁に行われているために話し言葉としての「わたしわ」は文字に変換しなくとも記憶されている意味に直接結びついていると思われます。


日常的に頻繁に使用している言葉においてはその変換行為が記憶されており、「ひらがなの音」から直接意味につながっているような感覚を持っているのではないでしょうか。

”ひらがなの音 ⇒ 文字への置き換え ⇒ 意味の理解”における「ひらがなの音」と「意味の理解」が直接的に記憶として結びついており、過程としての「文字への置き換え」がなくても困らない程度になっているのだと思われます。

すぐに意味を理解できない「ひらがなの音」に出会った時には確認するために文字への変換行為を改めて行っていることがよくあると思います。

同じ経験を繰り返すことによって学習されてしまい、過程が意識されることなく原因と結果が結びついて記憶されてしまうことは様々な分野でよく知られていることとなっています。


ここで種明かしをしなければいけません。

先ほど「わたしわ」は「私は」と文字になって理解しているといいました。

実はこれは文字として表記しているうえでだけのことなのです。

実は話し言葉としては、全く反対のことが起こっているのです。


文字として「わたしわ」と書いたものを見ているから意味が掴みにくいのです。

文字としての「私は」の意味は音としては「わたしわ」で理解しているのです。

口に出して言ってみてください。


音としての「わたしわ」は文字にすることなくそのまま理解しているのです。

音としての「わたしわ」は誰もが理解している純粋な日本語としての「ひらがなことば」ですので音そのものが意味を表しているのです。

ここでは話し言葉についてのことを文字で表現していますので実感としてつかみにくくなっていると思われます。

ぜひ、実際の話し言葉でも経験してみてほしいと思います。(参照:はなし方ときき方


日本語は「ことだま」と言われるようにもともとは音によって意味を持っている言語です。

そこに新しい文化としての外来語をたくさん取り込んで今の日本語が出来上がっています。

もともとの音による日本語は母語として日本語を持っている人にとっては、聞きなれていない音であってもかなりの範囲で推測ができるものとなっています。

昔からの音による日本語が「やまとことば」と言われるものです。


漢語も外来語です。

その漢語に対して文字としての意味を利用しながら「やまとことば」が持っていた音と意味を与えたものが漢字の訓読みだと理解していいと思います。

音としての「やまとことば」に表記としての漢字を加えて日本語として取り込んでいったものが訓読み漢字になります。

同じ漢字を使っていても音読みとして利用しているものは日本語として取り込まれていない外来語として文字の意味を利用しているものだということができるのです。


音読み漢字による表現はカタカナによる外来語表記と同じことになるのです。

音としては日本語になり切っていないものとなるのです。

だから「ひらがなの音」として話し言葉になったときに文字を考えないと意味が理解できなくなることがあるのです。


それでも頻繁に使われている音読み漢字は、先ほどのように文字への変換行為が省略されて音と意味が直接結びついて記憶されていることが起きているのです。

これはすべての人が同じ音に対して同じ意味を結び付けているとは限りません。

その言葉に対しての経験と使われ方がすべての人に共通とは限らないからです。


話し言葉として伝えることが適した言葉はもう分かりますね。

「ひらがなの音」が直接意味をあらわしている言葉です。
文字に変換する過程を必要としていない言葉です。

「やまとことば」はもちろんのこと、現代の日本語の中でも音としての意味を持っている言葉がたくさん存在しています。

具体的に言えば「ひらがなことば」と訓読み漢字で表すことができる言葉たちです。


これらの言葉を「現代やまとことば」と呼んでいます。

「ひらがなの音」がそのまま日本語としての意味を伝えてくれる言葉です。

「ことだま」に結びつくことができる言葉たちです。

日本語を母語とする人にとっては誰もが同じ意味を感じ取ることができる言葉です。


音読み漢字による言葉も外来語も「現代やまとことば」だけを使って説明することができます。

ひとことで言い換える必要はありません、その言葉の持っている意味やその言葉で伝えたいことを「現代やまとことば」を使って説明すればいいのです。


自分で使いたい言葉が「現代やまとことば」で説明できないということは、その言葉に対して自分の持っている日本語でしっかりとした理解ができていないことになります。

そんな言葉を使って他の人に理解してもらおうとすること自体が無理なことではないでしょうか。


限られた紙面やスペースに書かれた言葉は略語や外来語や音読み熟語が多くなってしまいます。

それらの言葉を「現代やまとことば」で置き換えたり説明したりする練習はとても役に立ちます。

日本語で伝えるための技術の二番目はしっかりと日本語になっている言葉を使うということにほかなりません。

それが「現代やまとことば」ということになるのでしょうね。


・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。

・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。


2016年7月27日水曜日

日本語で伝えるための技術(1)

母語として日本語を持っていることによって、日本語で伝える技術については意識をしなくともある程度身についてしまっていることになります。

そのために特に日本語で伝えるということを意識しなくとも日常的な言語伝達において困っているとはあまり感じることがないのではないでしょうか。

ところが、伝わっていると思っていたことが実際には伝わっていなかったり思っているのとは違った伝わり方をしていることは以外とあることです。

そのことに気がつかないのは、伝わった内容についての確認を一つひとつ行なっていないことによるものです。

たいして長くもない内容について数人で行なう伝言ゲームは、経験したことがあるのではないでしょうか。
想像もできないくらいおかしな伝わり方をしていることも少なくないと思います。


伝えるための二大手法は書くことと話すことです。

日本語が四種類の文字を持ちながら一種類の音しか持っていないことは前にも確認してきました。
(参照:四種の文字と一種の音

つまり、文字の使い分けによる意味や感覚の違いは話し言葉では表現できないことになります。

読み方が同じであれば話し言葉としては一つのものとして同じになってしまうのです。

他の言語で複数の表記文字を持っているものは数えるほどしかありませんし、日常的に使用する表現で複数文字を混用して使い分けしている言語は日本語だけだと思います。

それだけに話し言葉よりも文字として視覚に頼ることが多い言語となっていることになります。


ところが人が得ている言語情報はおよそ80%を話し言葉から得ていると言われています。

言語以外の一般的な情報についてはおよそ80%を視覚から得ていることに比べるとほとんど視覚情報に頼ることができない状況であると言えます。
(参照:言語情報は耳から

日本語を伝えるための技術として最も有効なものは伝えたい内容を文字で表記することになるのですが、ほとんどの場面ではそれが不可能であることを示していることになります。


したがって、日本語で伝えるための技術を考えるときには文字によるサポートができないことを前提として話し言葉による伝え方で考えることが必要になってきます。

仮に文字によるサポートが可能な場面があったとしたら、それはラッキーとして捉えて積極的にうまく活用すべき状況であるといえます。

他の言語と比べた時に日本語は一段と視覚情報と聴覚情報の差が大きなものとなっていることになります。


実際に言葉を理解している内容を見てみると音で理解していることよりも文字として理解していることのほうが多いことが分かるのではないでしょうか。

特に、漢字によって意味を理解している言葉については同じ音を持った言葉(同音異義語)が存在していることが多いために文字の違いで意味の違いを理解していることになります。

また、漢字自体が意味を持った文字(表意文字)であるために音(読み)よりは文字のほうが意味が伝わりやすくなっています。

同じ漢字であっても訓読みの場合はもともと日本語にあった意味を持った音の「ことば」となっているために音だけでも意味を理解することができますが、音読みの場合は音としての読みには日本語としての意味がありませんのでどうしても文字による意味の確認を必要としているのです。


話し言葉だけで音読み漢字の言葉を理解するためにはその言葉を限定するための独特の使われ方やその言葉を説明するための言葉が必要となっているのです。

文字としての確認が可能な場合はその言葉だけを見せれば理解できるのですが、話し言葉の場合はさらなる説明が必要になってくることになります。

これをさぼるときちんと伝わらないことが増えていくことになります。

同音異義語がある場合だけではなく日本語として意味ある言葉となっていない音読みについても理解しにくい音となっていることになります。


以前に見てきたように日本語が持っている音は「ひらがなの音」になります。
(参照:日本語で話していること

ひらがなもカタカナも全く同じ音となっていますので話し言葉では文字の違いがまったくなくなってしまいます。

漢字やアルファベット(ローマ字)にしてもその読み方については仮名で表記して音を表しています。

音として声に出した瞬間には「ひらがなの音」になってしまうことになります。


文字によって言葉の違いや意味の違いを理解していることが多い日本語において、実際の言語伝達はほとんどが話し言葉で行なわれている事実を踏まえて伝えるための技術を考えていきたいと思います。

一般的な言語を伝えるためのテクニックではなく日本語の特徴を確認しながら、日本語のための話して伝えるために必要な技術に特化して触れていきたいと思います。


最初の特徴はすでにキーワードとしても登場している「ひらがなの音」です。

どんな文字を使用したとしても日本語の話し言葉はすべて「ひらがなの音」として伝わります。

聞き手は「ひらがなの音」を確認することで言葉として理解することになります。


つまりは「ひらがなの音」がきちんと伝わらないと言葉として認識してもらうことができないことになります。

「ひらがなの音」をきちんと聞き分けてもらえるための話し方が必要になります。

他の言語話者が感じる日本語の聞こえ方は、低い音で単純なリズムで「ダッダッダッダ」といった太鼓をたたいているような音のようです。

言語の持っている周波数が低いことや抑揚(アクセント)があまりないことがこのような印象を与えているのではないかと思われます。
(参照:周波数から見てみた言語

それだけに言葉としての音のくくりが掴みにくく一音ずつがはっきりとしないととても分かりにくいものとなるようです。


そのためには、一音ずつをはっきりと発音する必要があるのですがボイストレーニングなどをやらなくてもできる方法がありますのでご紹介しておきたいと思います。

ライブのリハーサルなどで実際に私がやっており効果を実感している方法です。


母音である「あいうえお」だけでリハーサルを行なっているのです。

ひらがなは「ん」を除けばすべて母音で終わっている音ばかりです。

終わりの母音をしっかりと発することで音としてのキレができるのです。

歌詞を母音だけで歌ってリハーサルすると本番の歌がとても伝わりやすくなります。


すべての音が母音の形の口で終わり母音の音で終わりますので、母音だけで練習しておくととても切れの良い「ひらがなの音」として伝わるようになります。

母音は声帯をしっかりと使って喉から音を出さないと伝わりません。

子音は息の音ですのでほとんど声帯を使うことがありません。

音としての母音をしっかり出せるようにしておけば「ひらがなの音」はすべて伝わりやすくなるのです。


同じ母音でも特に奥のほうから音を出すことになる「う」「お」についてはしっかりとリハーサルをしたほうがいいと思います。

「いえあおう」の順番で音が奥になっているようですので、同じ音量のつもりでもどうしても「う」や「お」は伝わりにくくなってしまい間違いやすくなってしまうようです。


あまりにも単純なことでがっかりされたかもしれませんが、伝えているものが「ひらがなの音」であることが分かって初めて意味があるものとなっていると思います。

次回は、効果的に伝えるための言葉についての技術を見てみたいと思います。



・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。

・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。

2015年9月30日水曜日

言語で伝えることを真剣に考える

日本人の感覚としては言語で伝えることに対してあまり重きを置いていないように思われます。

「行間を読む」「以心伝心」「一を聞いて十を知る」「言葉の裏を読む」などの言語による表現では不十分だという感覚があるように思われます。

これには日本語という言語が持っている特徴も反映されていると思われますが、大きな要因としては二つのことが考えられると思います。


ひとつには、日本語による表現があまりにも豊かすぎるために言葉にされたそのままを文字通りに解釈しても相手の真意が伝わらない場合が多いことです。

精神文化としての「ことあげ」のように、自分の主張を直接的に表現することを善しとしない文化があるからです。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化

そのために、間接的な表現が多くなってしまったり、相手の感情を考慮するがために明確な表現を避けたりする場合が多いことになります。

表現の豊かさは直接的な表現を避けるために生まれてきた表現方法によるものではないでしょうか。


更に文学的な観点としては、直接的な表現よりも間接的な表現の方を評価する傾向があります。

そのためには同じ言葉や表現であっても使用される環境や前後の表現との関わりを利用して、本来の言葉が持っている意味ではないことを意図する表現になることも少なくありません。

ちょっと人に声を掛ける時に「すみません」と言うことは、日本語に慣れない人にとっては初めての人にいきなり謝ることになってしまい理解できないことになるのです。


したがって相手の真意を知るためには言語による表現を鵜呑みにしてはいけないという教訓が出来上がってしまいます。

相手の真意を知るためには言語以外のものから読み取らなくてはいけないという極めて難度の高い技が要求されることになります。

それは推し量るということであり、そのための情報をあらゆる環境から集めなければなりません。

より的確な真意を知りたいと思えば、推し量るための情報は膨大なものとなるのではないでしょうか。


もうひとつは、真意を伝える手段としては言語が最適であるにもかかわらず、その言語を正確に伝える技術が確立していないことが挙げられます。

このことは英語と比較してみるとよく分かるのではないでしょうか。

英語は、自己主張を明確にして彼我の違いを明確にすることによって成り立つ文化を背景とした言語です。


そのためには自己の主張を正確に伝えなければなりません。

しかもそれは言語よってのみ行なわれると言っていいほどです。

言語にされていなければ主張としてすら認識されないことになります。


そして、幼児期のたんなる自己主張から始まった内容は、やがて自己主張を相手に納得させるという説得という段階になります。

義務教育において徹底的に植え付けられる技術がこのための言語技術になります。

その代表がクリティカルシンキングでありパワーライティングです。
(参照:外国の言語教育アメリカの国語教育に学ぶところ


相手の主張を批判する態度で受けることで彼我の違いを明確にすることになります。

これがクリティカルシンキングです。

相手の論理に矛盾がないか、その論理のエビデンス(論拠)や論理の展開に矛盾や無理はないかを探ることになります。

これが反映されるのがパワーライティングです。

ディベートはあるテーマを設けて模擬的にこれらを行なうことの訓練に他なりません。


パワーライティングによって、標準となる説得する論理武装のための技術を学ぶのです。

この標準的な説得のための論理は個人的な会話から、裁判における論戦、判事による判決論理まですべて同じ方法で成り立っています。

学校でのパワーライティングの授業では、この技術の実践者でもある弁護士が呼ばれてワークショップを行うことも多いようです。


自己の主張があり、その主張を裏付けするエビデンスがあり、そのエビデンスから主張への論理が展開されることになります。

これらのことを事実や意見として明確に区分しながら、パラグラフ(段落)によって論理立てしていくのです。
(参照:パラグラフという感覚

受ける方は、同じ技術のなかでどれだけ相手が正確により間違いのない事実に基づいて無理のない論理によって主張しているのかを判断することになります。

それに納得したら賛成であり、納得できなければ反対というきわめてわかり易い図式になります。


相違点は論理上の矛盾点や疑問点という形で明確になりますので、説得するための段階や可能性も見えやすくなってくると思われます。

主張に納得したら説得されることになるのです。

納得したのに説得されない場合は、そのための反対主張をすることになるので新たな主張が展開されることになるのではないでしょうか。


日本語の技術には、英語のような標準的な言語技術が存在していません。

そもそも自らの主張を積極的に行なって相手を説得しようとする精神文化がありません。

説得したいときには、直接的に相手を説得することよりも何とかして相手に「うん」と言ってもらえる環境を整えていくことが中心になります。

いわゆる根回しということでしょうか。


日本語の感覚における最高の説得は、相手に説得されているとは気づかれることなく相手から全く同じ内容の申し入れをせることになります。

そのときであっても「待っていました」的な対応ではなく、勿体ぶった「そこまで言うのならお応えしましょう」的な対応を善しとしているのではないでしょうか。

これも、主張を明確にしない一つの例になると思われます。


日本語には標準的な論理構成がないのです。

それでも何らかの基準を持って判断をして行動をしていかなければなりません。

生きていくためには、何らかの形で相手を納得させ説得して対価を得ていかなければなりません。

対価を得る相手に応じた説得の方法を採らなければなりません。


そのための最大の武器が言語であることに異論はないと思います。

標準的な説得のための論理構成のない日本語においては、相手に応じた言語技術によって説得しなければならないのです。

それは、言語全体ではなく小さな環境においては出来ている場合があります。


企業における意思決定の論理や専門分野における論理構成がそれにあたるのではないでしょうか。

ただし、それはその環境の中だけにおいて通用するものであって英語のように日常的な会話から法的判断まで標準的に通用するものとはなっていないのです。

企業戦士が会社を辞めたとたんに今までの論理構成が通用しなくなるのは当たり前のことなのです。


論理で説得することの苦手な日本語は、感情によって相手を動かすことを得意としています。

感情とはきわめて個人的なものであり、一人ずつ判断基準が異なることになります。

企業においても同じことですが、何かを行動してもらおうとしたときに上下関係の上からの命令という形が一番適しているのも日本語環境の持っている特徴だと思われます。


命令されることよりも命令することの多い人の方が、「行間を読む」「以心伝心」「一を聞いて十を知る」「言葉の裏を読む」ことを求めるのは、やはりどこかで自己主張をすることに対する抵抗があるのではないでしょうか。

「業務命令だから」「上の指示だから」と言って自分の主張ではないことを強調することにもそれが現れているのではないでしょうか。


言語で伝えることを明確にするためには、自己の主張を明確にすることから始まると思われます。

そのためにエビデンスと論理構成が必要となるからです。

安保関連の国会のやり取りを聞いていても「こいつらバカか」と思うようなことがあまりにも多すぎます。

あの環境の中における論理だけなのだと思います。

しかも、極めて汎用性のない独特の環境と言えるのではないでしょうか。


個人としての生活においても純粋な日本語の環境の中だけで生きていくことは難しくなっていると思います。

日本語という世界でも類を見ない特殊な言語環境にいる私たちは、他の言語環境を真似しても感覚として身につけることは不可能です。

しかし、日本語の環境を理解するためには他の言語環境を知ることが大切です。

違いを見つけることにとって確認することができるからです。


日本語という言語を使いながらも言語で伝えきることを考えないといけないのではないでしょうか。

相手に応じた言語技術は簡単には見つからないかもしれんません。

でも、本気で伝えよう真剣に説得しようとしたときに初めて伝え方を考えるのではないでしょうか。

マニュアルではできません。


標準的な言語としての論理構成を持っていないことは、ある意味ではそれだけで多様性があることにつながることだと思います。

でも、それで真意が伝わらないのであれば言語としての価値はなくなっていくのではないでしょうか。


「話せばわかる」という言葉があります。

そこで行なわれていることは決して自己主張のための論理展開ではないと思われます。

その前提としての環境の共有ではないでしょうか。

仲間としての共通環境の確認ではないでしょうか。


これだけ豊かな言語を持っていても言語で伝えきることができないことは、伝える技術の問題ではないでしょうか。

妥協をしないで本気で相手に理解してもらうための相手に応じた言語技術を使いこなしていきたいものです。