2015年9月30日水曜日

言語で伝えることを真剣に考える

日本人の感覚としては言語で伝えることに対してあまり重きを置いていないように思われます。

「行間を読む」「以心伝心」「一を聞いて十を知る」「言葉の裏を読む」などの言語による表現では不十分だという感覚があるように思われます。

これには日本語という言語が持っている特徴も反映されていると思われますが、大きな要因としては二つのことが考えられると思います。


ひとつには、日本語による表現があまりにも豊かすぎるために言葉にされたそのままを文字通りに解釈しても相手の真意が伝わらない場合が多いことです。

精神文化としての「ことあげ」のように、自分の主張を直接的に表現することを善しとしない文化があるからです。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化

そのために、間接的な表現が多くなってしまったり、相手の感情を考慮するがために明確な表現を避けたりする場合が多いことになります。

表現の豊かさは直接的な表現を避けるために生まれてきた表現方法によるものではないでしょうか。


更に文学的な観点としては、直接的な表現よりも間接的な表現の方を評価する傾向があります。

そのためには同じ言葉や表現であっても使用される環境や前後の表現との関わりを利用して、本来の言葉が持っている意味ではないことを意図する表現になることも少なくありません。

ちょっと人に声を掛ける時に「すみません」と言うことは、日本語に慣れない人にとっては初めての人にいきなり謝ることになってしまい理解できないことになるのです。


したがって相手の真意を知るためには言語による表現を鵜呑みにしてはいけないという教訓が出来上がってしまいます。

相手の真意を知るためには言語以外のものから読み取らなくてはいけないという極めて難度の高い技が要求されることになります。

それは推し量るということであり、そのための情報をあらゆる環境から集めなければなりません。

より的確な真意を知りたいと思えば、推し量るための情報は膨大なものとなるのではないでしょうか。


もうひとつは、真意を伝える手段としては言語が最適であるにもかかわらず、その言語を正確に伝える技術が確立していないことが挙げられます。

このことは英語と比較してみるとよく分かるのではないでしょうか。

英語は、自己主張を明確にして彼我の違いを明確にすることによって成り立つ文化を背景とした言語です。


そのためには自己の主張を正確に伝えなければなりません。

しかもそれは言語よってのみ行なわれると言っていいほどです。

言語にされていなければ主張としてすら認識されないことになります。


そして、幼児期のたんなる自己主張から始まった内容は、やがて自己主張を相手に納得させるという説得という段階になります。

義務教育において徹底的に植え付けられる技術がこのための言語技術になります。

その代表がクリティカルシンキングでありパワーライティングです。
(参照:外国の言語教育アメリカの国語教育に学ぶところ


相手の主張を批判する態度で受けることで彼我の違いを明確にすることになります。

これがクリティカルシンキングです。

相手の論理に矛盾がないか、その論理のエビデンス(論拠)や論理の展開に矛盾や無理はないかを探ることになります。

これが反映されるのがパワーライティングです。

ディベートはあるテーマを設けて模擬的にこれらを行なうことの訓練に他なりません。


パワーライティングによって、標準となる説得する論理武装のための技術を学ぶのです。

この標準的な説得のための論理は個人的な会話から、裁判における論戦、判事による判決論理まですべて同じ方法で成り立っています。

学校でのパワーライティングの授業では、この技術の実践者でもある弁護士が呼ばれてワークショップを行うことも多いようです。


自己の主張があり、その主張を裏付けするエビデンスがあり、そのエビデンスから主張への論理が展開されることになります。

これらのことを事実や意見として明確に区分しながら、パラグラフ(段落)によって論理立てしていくのです。
(参照:パラグラフという感覚

受ける方は、同じ技術のなかでどれだけ相手が正確により間違いのない事実に基づいて無理のない論理によって主張しているのかを判断することになります。

それに納得したら賛成であり、納得できなければ反対というきわめてわかり易い図式になります。


相違点は論理上の矛盾点や疑問点という形で明確になりますので、説得するための段階や可能性も見えやすくなってくると思われます。

主張に納得したら説得されることになるのです。

納得したのに説得されない場合は、そのための反対主張をすることになるので新たな主張が展開されることになるのではないでしょうか。


日本語の技術には、英語のような標準的な言語技術が存在していません。

そもそも自らの主張を積極的に行なって相手を説得しようとする精神文化がありません。

説得したいときには、直接的に相手を説得することよりも何とかして相手に「うん」と言ってもらえる環境を整えていくことが中心になります。

いわゆる根回しということでしょうか。


日本語の感覚における最高の説得は、相手に説得されているとは気づかれることなく相手から全く同じ内容の申し入れをせることになります。

そのときであっても「待っていました」的な対応ではなく、勿体ぶった「そこまで言うのならお応えしましょう」的な対応を善しとしているのではないでしょうか。

これも、主張を明確にしない一つの例になると思われます。


日本語には標準的な論理構成がないのです。

それでも何らかの基準を持って判断をして行動をしていかなければなりません。

生きていくためには、何らかの形で相手を納得させ説得して対価を得ていかなければなりません。

対価を得る相手に応じた説得の方法を採らなければなりません。


そのための最大の武器が言語であることに異論はないと思います。

標準的な説得のための論理構成のない日本語においては、相手に応じた言語技術によって説得しなければならないのです。

それは、言語全体ではなく小さな環境においては出来ている場合があります。


企業における意思決定の論理や専門分野における論理構成がそれにあたるのではないでしょうか。

ただし、それはその環境の中だけにおいて通用するものであって英語のように日常的な会話から法的判断まで標準的に通用するものとはなっていないのです。

企業戦士が会社を辞めたとたんに今までの論理構成が通用しなくなるのは当たり前のことなのです。


論理で説得することの苦手な日本語は、感情によって相手を動かすことを得意としています。

感情とはきわめて個人的なものであり、一人ずつ判断基準が異なることになります。

企業においても同じことですが、何かを行動してもらおうとしたときに上下関係の上からの命令という形が一番適しているのも日本語環境の持っている特徴だと思われます。


命令されることよりも命令することの多い人の方が、「行間を読む」「以心伝心」「一を聞いて十を知る」「言葉の裏を読む」ことを求めるのは、やはりどこかで自己主張をすることに対する抵抗があるのではないでしょうか。

「業務命令だから」「上の指示だから」と言って自分の主張ではないことを強調することにもそれが現れているのではないでしょうか。


言語で伝えることを明確にするためには、自己の主張を明確にすることから始まると思われます。

そのためにエビデンスと論理構成が必要となるからです。

安保関連の国会のやり取りを聞いていても「こいつらバカか」と思うようなことがあまりにも多すぎます。

あの環境の中における論理だけなのだと思います。

しかも、極めて汎用性のない独特の環境と言えるのではないでしょうか。


個人としての生活においても純粋な日本語の環境の中だけで生きていくことは難しくなっていると思います。

日本語という世界でも類を見ない特殊な言語環境にいる私たちは、他の言語環境を真似しても感覚として身につけることは不可能です。

しかし、日本語の環境を理解するためには他の言語環境を知ることが大切です。

違いを見つけることにとって確認することができるからです。


日本語という言語を使いながらも言語で伝えきることを考えないといけないのではないでしょうか。

相手に応じた言語技術は簡単には見つからないかもしれんません。

でも、本気で伝えよう真剣に説得しようとしたときに初めて伝え方を考えるのではないでしょうか。

マニュアルではできません。


標準的な言語としての論理構成を持っていないことは、ある意味ではそれだけで多様性があることにつながることだと思います。

でも、それで真意が伝わらないのであれば言語としての価値はなくなっていくのではないでしょうか。


「話せばわかる」という言葉があります。

そこで行なわれていることは決して自己主張のための論理展開ではないと思われます。

その前提としての環境の共有ではないでしょうか。

仲間としての共通環境の確認ではないでしょうか。


これだけ豊かな言語を持っていても言語で伝えきることができないことは、伝える技術の問題ではないでしょうか。

妥協をしないで本気で相手に理解してもらうための相手に応じた言語技術を使いこなしていきたいものです。



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