"文字と言葉"でみてきたように、言語は文字ではなく「ことば」で理解していることが分かりました。
(参照:文字と言葉)
それは、文字のわからない幼児が「ことば」によってコミュニケーションができていることからもわかると思います。
文字は「ことば」へ導くための記号であると言われるのも、このように考えれば理解しやすいことではないでしょうか。
「ことば」は音でできているものです。
「ことば」を文字にすると漢字で「言葉」と書くことが多くなります。
しかし、「言葉」という文字(記号)はあまりにも一般化してしまい持っている意味が拡大しまったために、「書き言葉」というような表現でも使われることがあります。
これ自体も一般化してしまったために「言葉」という文字が自体が「書き言葉」までを含めた意味を持ってしまっているのが現状ではないでしょうか。
今ここでは文字による表現をしていますので、「言葉」と書いてしまうと「書き言葉」なのか音としての「ことば」なのかの判断が分かりにくくなってしまいます。
したがって、音としての「ことば」であることを明確にするために敢えてひらがなで「ことば」と表現することにしています。
このように見ていくと文字は「ことば」を理解するためのきっかけとしての記号であることが明確になってくるのではないでしょうか。
一般的な言語においては、文字は「ことば」を導くための記号であり文字に意味はありません。
意味を持っているのは「ことば」であり、音としてのその「ことば」によって理解をしていることになります。
ところが日本語の持っている文字の一種である漢字は、世界中で利用されている文字のなかで唯一意味を持っている文字(表意文字)と言われているものです。
漢字が一部の人だけに使われている専門的な特殊な文字であれば問題になることもないと思われますが、日常的に使われている表現が漢字かな交じりの文章となっているために特に意識をすることもなく使用されていると思われます。
平安中期以降の仮名文学の隆盛はこどもや女性を中心として仮名による表現を大いに広めたことが想像されます。
仮名だけによる表現は、音としての「ことば」がそのまま記号として表現されたものとなっちたために、今よりもずっと理解され易かったのではないかと思われます。
漢字を使うことは大人としての素養の備わったものとしての判断基準の一つではなかったかと思われます。
どれだけの漢字を使いこなすことができるのかということが教養としての高さを示していたのではないかと思われます。
文字そのものが意味を持ってしまっていることは、決して悪いことではありません。
それよりも文字そのものが書道として絵画や音楽、彫刻などと同じレベルで芸術として評価されてる大きな要因ではないでしょうか。
しかし、文字そのものが意味を持ってしまっていることが音としての「ことば」へ導くための妨げとなることがあることもあるのではないでしょうか。
文字として表記された漢字の持っている意味が、「ことば」として理解される意味と全く同じ場合にはとてつもない強力な効果を発揮することになると思われます。
漢字での表現であったとしても訓読みによる表現の場合は、直接的に「ことば」の持っている音に結びついています。
それは、文字で書かれたその言葉よりも先に「ことば」が存在しており、その「ことば」を表記する記号としてその漢字を利用したからです。
「かく」という「ことば」があります。
文字のなかった時代より使われてきた「やまとことば」です。
「やまとことば」での「かく」は動作を表した「ことば」です。
とても広い意味で使われた「ことば」であることが分かります。
「かく」を漢字で表記したものがたくさんあります。
書く、描く、画く、掻く、欠くなどがあります。
それぞれの文字が漢字としての意味を持ったものとなっています。
その意味は、「ことば」としての「かく」をより具体的にした意味となっていないでしょうか。
「やまとことば」としての「かく」が使われた場面を想像できるものになっていないでしょうか。
書く、描く、画くなどは同じような動作を表すものですが対象によって使い分けを要求される文字となります。
それは文字自体が持っている意味によってなされることになります。
掻く、欠くが存在することによって「ことば」としての「かく」をより理解しやすくなっているのではないでしょうか。
漢字の訓読みには文字としての意味があることによって「ことば」の理解を助ける効果もあるのではないでしょうか。
ところが音読み漢字になると「ことば」に導かれることが難しくなります。
日本語の持っている「ことば」は漢字の音読みでは表現することができないのです。
漢字が純粋に記号として使用されている例が、地名や人名です。
この場合は、「ことば」を表現している訳ではありません。
特定の場所や人を表わすための記号として機能していることになります。
それでも文字としての漢字は意味を持っていますので、修善寺と表現されれば「そういうお寺があったのかな」とイメージをさせることができてしまいます。
田中さんと言えば「田んぼの中の方に住んでいた先祖は農家かな」とイメージをさせることができてしまいます。
場所や人を特定するためにはまったく関係のないイメージになります。
明治期に作られた言葉に「権利」というものがあります。
文明開化、富国強兵政策によって早急に西欧文明に追いつかなければならなかった頃に作られた言葉です。
この言葉によって革命がおきたり戦争がおきたりするような大切な言葉でした。
英語のrightを翻訳した言葉です。
もともと日本語にはなかった「ことば」です。
福沢諭吉がこの言葉を日本語にすることは出来ないと言って諦めた言葉です。
福沢諭吉はこの時期にたくさんの翻訳語を創り出しました。
その多くは仏教用語として使われていた言葉を利用していました。
speech → 演説、talk → 談話という翻訳を作ったのも彼です。
福沢諭吉が翻訳を諦めたrightに「権利」という言葉を充てなのが西周だと言われています。
音読み漢字はもともと日本語がもっていた「ことば」ではありません。
漢語が持っていた言葉であり表現です。
それでも、日本語が持っていた「ことば」として使用できるものには訓読みとして使われていったのではないでしょうか。
音読み漢字の熟語であっても特定の場所や人や物を表す名詞は具体的な対象とともにそのものを表す記号として使われていったのではないでしょうか。
ところが明治期に入ってきた文化は具体的なものや技術だけではかなったのです。
民主主義としての考え方や哲学的な分野、科学分野でも抽象的なことが多く入ってきました。
政治や法律などの様々な概念が入ってきました。
新しく大量の言葉が必要になったことは想像に難くありません。
もともとの日本語の「ことば」になかったものがたくさん入ってきたのです。
これらを表面的に理解するためには漢字という意味を持った文字はとても便利でした。
もとの「ことば」が持っているニュアンスの一部でもその文字が表現できるのであれば喜んで使われたのではないでしょうか。
一般の人には分かり難い概念であっても、漢字表記によって文字の意味から何となくこんなことではないのかという理解ができてしまったと思われます。
本来の「ことば」が持つ意味を理解することなしに翻訳された漢字による文字の意味が独り歩きする環境があったと思われます。
しかも、急いで彼らの文化を取り込んで対等の交渉ができるようにならなければ、列強による侵略を食い止めることができないという切羽詰まった事情もあったと思われます。
訳語を作っていった人たちは教養レベルの高い人たちですが、じっくりとニュアンスを確認しているような余裕はなかったのだと思われます。
夏目漱石は、そんなに急いで文化を導入してどうするんだという批判をしていましたが、最終的には彼自身が膨大な訳語を生み出していきました。
この時期に生み出された言葉は広辞苑一冊にも相当する20万語を越えていたと言われています。
一部は和製漢語として漢語の本国への逆輸入もされていきました。
現代中国の発展は日本からの和製漢語による効果が大きかったとも言われています。
現代日本における漢字言葉の多くもこの時に作られたものです。
(参照:輸出された日本漢字)
しかし、これらの言葉のほとんどは日本語の「ことば」ではなかったのです。
150年を経て、現代日本語の「ことば」となったものもあるのでしょうか。
それらの言葉の持つ本来の「ことば」は、日本語の「ことば」で説明されなければならなかったのではないでしょうか。
安易に置かれた音読み漢字による言葉は、文字としての意味があたかも「ことば」のように理解されてしまったのではないでしょうか。
「権利」という言葉は文字の意味では「権力を持って利を得る」ということになるのではないでしょうか。
出来る限りひらがな「ことば」でこれを説明すると「ちからによってみずからのためになることをえる」とでもなるのではないでしょうか。
本来のrightが持っているものはどんなチカラによっても侵したり得たりするものではないと思われます。
「権利」を口にするとなんとなく後ろめたく感じてしまったり、どうしても「義務」と一緒に扱いたくなってしまうのは、本来の持っている感覚が日本語の「ことば」になっていないからではないでしょうか。
「権利」はrightとは違う日本独自のものとなって存在しているのではないでしょうか。
外国語でもなければ、日本語の「ことば」でもない言葉として存在しているのではないでしょうか。
日本語は表記文字の多さもあって、とんでもない数の言葉を持った言語となっています。
しかし、その日本語を理解しているのは「ことば」によって行なっているのではないでしょうか。
自分が使える「ことば」がどれくらいあるのでしょうか。
漢字を「ことば」で理解するための努力が必要なのではないでしょうか。
音読み漢字を訓読み漢字に読み替えて理解することはその一歩だと思われます。
そこからその漢字が表したい「ことば」を見つけることが必要なのではないでしょうか。
ひらがな「ことば」で表現してみることはとても大切なことだと思います。
これができないとその「ことば」を理解していることにはならないと思います。
日本語としての使える「ことば」になっていないのだと思います。
「現代やまとことば」としてひらがなによる言い換えを通して、日本語としての理解ができると思われます。
折に触れてやってみたいことですね。