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2016年6月8日水曜日

「ことば」と「言葉」

世界には文字を持たない話し言葉だけの言語もたくさん見つけられています。

それでも、世界の文化文明を作り上げてきた言語はすべてが文字を持っていると言うことができます。

そのなかでも複数の文字を持った言語と言うものは決して多くはありません。


特別な用途に使用する場合に限らず日常的な使用においてもひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットを意識することなく使っている日本語は、世界でもきわめて珍しい言語であると言うことができます。

しかも、一番一般的であり標準的な表記方法においてさえ漢字と仮名の混合文(和漢混淆文)となっており二種類の文字が日常的に混用されていることになります。

過去においては文化の交流期や統治権の変更などによって文字が混用されていた地域もあるようですが、第二次大戦後70年を超えた現在では言語の流動性はかなり落ち着いたものとなっていると言えます。

その中でも、日常的に複数の文字を使いまわしている言語である日本語は特筆すべきものであると言えます。


言語が知的活動のための唯一のツールであることを考えてみれば、この日本語の特徴は常に日本語を母語とする者に大きな影響を与えていることになると思われます。

文字の性格を示す分類としては表音文字・表意文字(最近では表語文字とも言う)がいちばん認知されているものだと思います。

それでも現存する文字のなかで完全なる表音文字も表意文字も見つけることは出来ていないと思われます。

主要な機能としてどちらかに分類することは可能ですが少なからず他の要素も持った文字がほとんどではないでしょうか。


表音文字と言われる文字であっても文字の組み合わせによっては同じ文字であっても音が変わる例外を持っていることが多くなっています。

あえて完全な表音文字を探すとするといわゆる発音記号としての文字記号になるのではないかと思われます。

現存する文字のなかで唯一の表意文字であると言われている漢字であっても「夜露死苦」(よろしく)に代表されるような表音的な使い方は意図的であっても目に触れることが多くなっているのではないでしょうか。


言葉としての日本語を考える時にその言葉がどのような文字によって表記されるのかはそれだけで受ける感覚が違ったものとなっています。

この感覚が同じであるのならどんな文字が何種類あろうとも関係ありませんが、実際にはコピーラーターなどの言葉を商売にする人たちなどはこの感覚の違いをうまく利用することが求められていたりします。

同じ言葉に対しても文字の使い分けができることは日本語の感覚において大きな役割を持ったものとなっているということができます。

表記文字が違っただけで同じ言葉であっても感覚の違ったものとして伝えるチカラを持ったものとなっていると言うことではないでしょうか。


伝わる感覚の異なる複数の表記文字を持っている日本語ですが、話し言葉としてはその文字に対応した使い分けは可能となっているのでしょうか。

日本語の持っている音を調べてみると基本音というものが見えてきます。

仮名の50音(実際には46音)に濁音・半濁音の25音を加えた71音が基本の音だと思われます。

小さな仮名で表現されるような音便などは基本音のバリエーションとして扱うことができると思います。

世界の主要言語の中では持っている音の数は極めて少ないものとなっています。


日本語の持っている言語の音は「ひらがなの音」の一種類しかないことになります。

同じ言葉であることの認識は同じ音であることによって行なわれています。

同じ言葉を文字を変えて表記することは可能であってもその文字に合わせた音を使用することはできません。

どんな文字を使用したとしても言葉の音は同じものとなっていることになり、音となった言葉にとっては文字の違いは認識されないことになります。


話しことばと書かれた文字の感覚の違いは他の言語に比べてとても大きなものとなっていると思われます。

わかっている範囲で漢字を除く現存文字はすべてが表音文字だと言われています。

一種類の表音文字しか持たない言語は、書かれたものであっても話されたものであっても日本語ほどの大きな感覚の違いを持ったものとはなっていないことになります。

それは文字自体が意味を持たずに単に音を表すだけの表音文字であることも大きな要因となっていることになります。


日本語や中国語は文字自体が意味を持った漢字を使っていますので、話し言葉よりも漢字を用いて文字として表記した方が意味が伝わりやすいものとなっています。

そのおかげで中国ではお互いには話し言葉では意味が通じない方言がたくさん存在していても文字によって共通の理解ができるようになっているのです。

複数の文字表記の中に漢字を持っている日本語は中国語に比べるとさらに話しことばと表記言葉のギャップの大きなものとなっているのではないでしょうか。


文字を伴った言語として日本に最初に入ってきたのが漢語です。

当時の世界最先端の文明を持った言語です。

漢語を理解して使えることが世界の最先端文明に触れる近道だったのです。

政治の仕組みから生活まであらゆるものに使われていきました。

このまま漢語が日本語として定着してもおかしくなかった環境だったと思われます。

むしろ、その方が自然だったのではないかと思われます。


ところが、その最先端文明の言語である漢語を利用して文字を持たなかった話しことばだけの古代日本語(「古代やまとことば」)を表現するための文字として仮名を生み出していくことが行なわれたのです。

仮名が定着するまでは大変な労力がかかっています。

このことは、文字としての優位性を持った漢語をもってしても駆逐できないほど文字を持たない「古代やまとことば」が浸透し定着していたことを伺わせる事実です。

漢語に比べれば持っていることばもはるかに少なく利便性も低いはずの「古代やまとことば」を表記するための表音文字を、表意文字である漢語を利用することによって作り出してしまったのです。

それだけ「古代やまとことば」と漢語は感覚的にも異なったものであったことがうかがえるのではないでしょうか。


このことによって日本語の音を表す文字ができあがっていったのです。

「あいうえお」が固定化され教育に用いられるようになったのは戦後でありまだ100年もたっていません。

文字のなかった「古代やまとことば」を表記するために作られたひらがなはつい最近まで「いろは」によって継承されてきていたのです。

それが「あいうえお」に受け継がれていくことになったのです。


ひらがなは「古代やまとことば」からつながる日本語の音の感覚を伝える大切な表記文字なのです。

ひらがなでしか表記することができない「ことば」にこそ日本語本来の基本的な感覚が伝えられていることになります。

千年以上前の「ことば」を現存する「ことば」で理解することができる言語はどれだけ残っているのでしょうか。


同じ言葉であってもひらがなで表記することによって不自然さを感じるものがあると思います。

日本語の基本的な感覚に合っていない言葉と言ってもいいのではないでしょうか。

話しことばとして使うためには不向きな言葉ということができると思います。


話すことの音を意識して「やまとことば」とかかわりが深いと思われる場合には「ことば」とひらがな表記をしています。

「やまとことば」が定義が分かりずらいので、「ひらがなことば」としてその由来にかかわらず「現代やまとことば」として扱っています。

文字として書かれたもののことを「言葉」と漢字で表記しています。


表意文字である漢字が表しているのは「言葉」としての意味になります。

音読み漢字は「ことば」にはなりません。

ひらがなになった時に不自然さがあることが分かるのではないでしょうか。

この不自然さを感じることが日本語が持っている基本的な感覚ということになるのでしょう。


漢字には造語のためのとても便利な機能が有ります。

明治期に大量の外国文化の導入と富国強兵を急がなければならなかったときに役に立ったのが漢字による翻訳と造語です。

広辞苑一冊にも相当する20万語以上が作り出されたとされています。

現在使っている漢字言葉のほとんどがこの時に造り出されたものと言われています。

「明治の漢字」の画像検索結果

日本語が宿命的に持っている「ことば」と「言葉」のギャップはうっかりすれば気づかずに済んでしまいます。

意味と感覚とのギャップでもあると言うことができると思います。

「ことば」の意味と「言葉」の意味の二重構造が日本語の特徴かもしれないですね。

言語の持っている感覚は「ことば」の方なのですが、「言葉」の意味に振り回されないようにしたものだと思います。



・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。

・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。

2015年12月8日火曜日

「ことば」の意味と文字の意味

文字は「ことば」を導くための一つの方法です。

もう一つの方法が音(発音)になります。


一般的な文字は「ことば」の音(発音)を表すための記号という役割を持っているものであり、一つひとつの文字そのものが意味を持っているものは極めて特殊な文字ということができます。

その特殊な文字の典型が日本語で使われている漢字になります。

日本語は標準的な表記が漢字とひらがなによる和漢混淆文となっています。


また、中国においては漢字だけで表記されることが標準的なものとなっています。

文字自体が意味を持っている文字のことを表意文字と呼びますが、それは発音を表わすための文字で文字自体には意味がない表音文字に対応した言葉となっています。

現存する言語のなかで表意文字は漢字だけと言われています。

表音文字の典型は発音記号ということができると思います。


相対する正反対の機能を持った言語が触れ合うと、それぞれの言語の機能が歩み寄りを見せるようになります。

表意文字である漢字においても実際の使われ方においては表音文字的な使われ方も行なわれるようになっていきますし、表音文字であるアルファベットにおいても表意文字的な使われ方も行なわれるようになっていきます。


現代の漢字はその成り立ちとしての表意文字の性格に表音文字的な使われ方も加わってきたものとなっています。

スプレー缶による落書きの「夜露死苦」で「よろしく」と読ませるようなものはまさしく漢字の表音文字的な使い方になります。


ここでは音としての「よろしく」が本来持っている「ことば」としての意味に加えて一文字ずつの漢字の持っている意味が浮かんできます。

一文字ずつが持っているアピール力は音の基本となるひらがなよりも漢字の方が勝っていますのでどうしても漢字の持っている文字としての意味にイメージが引っ張られることになります。

充て字としての漢字の使い方は音としての「ことば」が持っている意味に新しい要素を加えるものとなっていることになります。


それでも、私たちの言語の習得段階を見てみれば分かるように言語は「ことば」としての音から身につけていくことになります。

「ことば」の音を表記するために文字が発明されたことはどんな言語ついても一緒です。

したがって、文字は「ことば」の音を導くための記号となっているものです。


その過程の通りに私たちの脳が理解していることは間違いのないようです。

文字 → 音(発音) → 「ことば」の順番で理解していることになります。

音としては同じ「ことば」であっても一人ひとりが持っている意味としての解釈は異なっているものとなっています。


それは、同じ「ことば」に出会うたびに今までの経験によってできている記憶との照合が行なわれてその時々にふさわしい解釈をしようとしていることになります。

記憶との同定や違いの発見によってその「ことば」に対しての解釈が出会うたびに上書きされていくことになります。

音としては同じ「ことば」であってもその「ことば」に対しての理解や解釈は一人ひとりの「ことば」の経験によって微妙に異なったものとなっていることになります。


その「ことば」が日本語という範疇にあるものであれば、他の言語との違いよりも一人ひとりの違いがずっと小さなものとなっているだけのことです。

幼稚園や義務教育の初期頃は日常生活を含めてほとんどの人が同じような経験をしていきます。

その結果として、教えられた「ことば」やその「ことば」についての経験も似たようなものとなっており一人ひとりの差異もきわめて小さなものとなっているのです。


社会生活においては一人ひとりの生活環境が変化に富んだものとなっていくことによって、同じ「ことば」についての経験も様々なものとなっていきます。

その結果として、同じ「ことば」についての理解や解釈の差異も広がっていくことになります。


「ことば」の理解や解釈が一人ひとり異なったものであっても、その前にはすべての人が同じ音として理解できる音(発音)があることになります。

この同じ音で表現されてひらがなで理解された、「ことば」として解釈できる前のものに対して「言葉」と呼ぶことがあります。

「ことば」は解釈されたものとして一人ひとり異なるものとなりますが、「言葉」は誰もが同じものとして理解のできる具体的なものとなります。


文字 → 音(発音) → 「言葉」 → 「ことば」という理解の過程になるのではないでしょうか。

会話や話し言葉だけによる場合には文字によるサポートがないことになり、音から始まることになるのだと思われます。

漢字が使用されている場合には、音を伴わない文字だけの情報からは「ことば」が持っている理解や解釈に至る前に文字が個別に持っている意味が見えてしまうことになります。

表意文字の力であり影響力です。


この時に文字から直接得られる意味が「ことば」と同じものや密接に関わりがある者である場合には問題がありませんが、文字の意味が「ことば」の持つ意味と異なった場合にはどうなるのでしょうか。

場合によっては文字的な使い方のみが習慣化されてしまい「ことば」に至らない場合も出てきます。


私の場合の一例は「革命」という言葉がこれに当たります。

いまだに「ことば」としての解釈ができていない言葉の一つとなっています。

その割にはかなりの頻度で触れていますし使っていもいると思います。


その結果として、私が何かについて話しているときに使われる「革命」は聞いている方にとってもはっきりとしない言葉となっていると思われます。

何となくこんな場面で使えばいいのかなと言う「ことば」になっていない言葉が思った以上にたくさんあるように感じています。

しかも、比較的よく目にする言葉で見た目の漢字の文字的な意味で理解したような感覚に陥っていることが多いのではないかと思っています。


本を読んでいるとよく分かると思います。

音として捉えることができない漢字、読みが分からない漢字は「ことば」として理解することができません。

文字から意味を推測することは出来ますが、それが「ことば」として捉えられているのかどうかは分からないことになります。

しかも筆者が意図した「ことば」として解釈できているのかどうかはもっとわからないことになります。


筆者が意図した「ことば」としての理解は永遠にできないのかもしれません。

筆者が記したものは言葉であり「ことば」ではありません。

筆者が記した言葉を自分の「ことば」として読み取り理解することしかできないのではないでしょうか。


同じ本を読んでも一人ひとり受取り方が異なるのは当たり前のことなのでしょう。

文字の意味は、「ことば」の解釈を助けるものともなると思います。

しかし、「ことば」に至ることを妨げることもあるものなのです。


同じ環境で生活をしていて同じ言葉を使っていると「ことば」としての解釈にも共通性が増えてくることになります。

文字だけでのコミュニケーションでも正確性を確保できることもあると思われます。

しかし、全く同じ言語経験をしているわけではありません。

全く同じ「ことば」ではないと思われます。


自分の持っている「ことば」を伝えようと思ったら漢字は使わない方がいいということになりますね。

会話としてはひらがなの音を意識することが最良の伝達方法になります。

その音を確認するために文字をサポートとして使用することが最良の伝達方法になるのでしょうね。

100%の伝達はどんなことをしてもできないことを分かっておいた方がよさそうですね。



2015年11月2日月曜日

伝えることより理解すること

日本語は文字を持たなかった話し言葉としての原始日本語である「古代やまとことば」が基本になって発展し継承されてきた言語です。

文字のなかった「古代やまとことば」は漢語を利用しながらも仮名という表記文字を得たことによって、独自の文化を発展させるための基盤としての「やまとことば」として定着していきました。

したがって、日本語が持ち続けている言語としての感覚は、文字として目に見えるものよりも「ことば」としての音によるものの方が影響がはるかに強いことになります。

文字は「ことば」を想起させるための記号として存在しており、決して「ことば」そのものを書き表わし切れているものではありません。


文字が「ことば」の音としての部分を表しているだけのものであるならば、文字 → 音 → 「ことば」として行き着くことが当たり前の過程になりますが、私たちが使っている文字は音を表すものだけではありません。

音を表す二種類の仮名(ひらがな、カタカナ)に加えて文字そのものが意味を持っている漢字という文字を多用しています。

しかも、この漢字は仮名よりも社会的な地位が高いものとして扱われていますので表面的な体裁としてはどうしても漢字の方が前面に出てくることになります。

漢字は文字自体が意味を持ってしまっていますので、文字 → 意味とダイレクトに見えるものから解釈してしまうことが多くなります。


文字の本来の役割である「ことば」のもつ意味にたどり着かいないことが多くなってしまうのです。

文字の成り立ちを見てみれば分かるように、日本語においては文字は「ことば」の音としての面を表記するための記号として生まれたものです。

音によって導かれた「ことば」によって初めて意味を解釈できるものです。


したがって音読み漢字の音からは「ことば」を導くことができません。

そんな音は「やまとことば」にはないからです。

音読み漢字は外国語として「やまとことば」に翻訳するか、あるいは固有名詞としてそのまま外国語の音として解釈しておくことになります。


このことを邪魔しているのが漢字が表意文字として文字だけで意味を持っていることです。

一文字ずつの漢字の意味は「やまとことば」で表すことができます。

しかし、その意味は漢字が持っている外国語としての音読みとしての音とは何の関係のもないものとなっています。


漢字を多用することで、また音としての「ことば」よりも書かれた文字と触れる機会の方が圧倒的に多い環境において、表面的な文字としての意味だけの理解で済ませてしまうことが多くなっていないでしょうか。

文字を発明したのは持っている「ことば」の音を表記する記号を作るためでした。

そのために表意文字である漢字を苦労しながら表音文字として利用しました。

その上、意味を持たせないようにするために元の字形が分からないような省略をして純粋な表音文字としたのです。

それが仮名です。


それは、「ことば」の一つの要素である音を表記することによって「ことば」を導き出して、その「ことば」によって解釈しようとする試みではなかったでしょうか。

文字と音は「ことば」へ導くためのツールであり「ことば」によって初めて理解できるものとなるのではないのでしょうか。


そのことは、表記する手段もなかったころに漢語の音を利用して「やまとことば」表記し始めた万葉仮名による『古事記』や『日本書紀』という初期の記録においても「ことだま」や「ことあげ」として触れられています。
(参照:「ことだま」と「ことあげ」)

そこでは、自らが意思を持って発することを善しとせず、意思を持って発することができるのは神のみであるとしています。

そして、神の発する意思を感じるために「ことだま」として「ことば」として受け取ることができるものに込められたことを解釈することが書かれています。


日本語の成り立ちそのものが、自己主張をしたり説得したりするものではなく「ことば」を聞き取り相手の意思を解釈するためのものであったと思われます。

その「ことば」は文字を与えられたことによって1500年以上の間変わることなく現代に継承されてきています。


自己主張や説得には不向きな言語が日本語なのです。

したがって、外国文化の模倣によって作り上げられた自己主張や説得が必要な社会では、そのことが得意な外国の言語である漢字やアルファベットが多用されるようになるのです。


意見や主張が苦手な言語で表現された内容は、理解することも難しいことになります。

しかし、情緒的な事柄について表現することにおいてはきわめて豊かな表現方法を持っています。

それは、受け取る側でも理解しやすいことになります。


自己主張や説得が苦手な言語は発信者の言いたいことが理解しにくい言語でもあります。

そのためには、受け取る側の理解しようとする努力が必要になります。

受け止めて理解しようとする行動がない場合には、一方的な主張や説得はほとんど理解されないことになります。

結果として主張や説得そのものが相手にとって理解しにくいものであることになってしまいます。


そこには、発信者側にも受け取る側を理解しようとする活動がない限り、受取る側も理解しようとする活動ができないことになります。

それは少なくとも相手に対して役に立つことでない限り受け入れられないことになってしまいます。

日本語を用いての活動における基本は、単なる自己主張は誰にも理解されないということになります。


一方的な論理の展開は、どんなにそれが正しくともわかり易くとも表面的に理解してもらえたとしても納得してもらうことは出来ないことになります。

日本語での活動においては、正しさや正確さよりも相手の役に立つことや相手の感情に寄り添うことの方が理解し受け入れてもらえるのです。

何が相手の役に立つのかが分からないと、日本語による活動の環境が整わないことになります。

他の言語の使用国に比べて圧倒的に新規顧客の獲得が難しいのは日本語が原因であることが大きいと思われます。


日本語自体が伝えることに対して不向きな言語だと思われます。

それだけに、より一層相手を理解しようとする活動がないと表面的な関係で終わることが多くなってしまうのではないでしょうか。

批判をすることは自己主張以外の何物でもありません。

とにかく理解することに徹すことが、日本語の環境の中では一番効果的であると思われます。

相手を理解しようとする活動を具体的に相手にもわかるように行なうことが、日本語環境のなかで一番有効な活動のようですね。


2015年10月29日木曜日

「ことば」が行動を変える

同じ言葉を使っていると行動までが同じようになってくることは先回も述べました。
(参照:行動を変えるための「ことば」)

使っている言葉が聞きなれない言葉であってその新鮮さが感じられるうちは、しっかり言葉を理解して解釈しようとします。


漢字で表現されている言葉の場合には、その言葉を理解する過程としてまず文字としての意味を考えることが行なわれます。

それは漢字という文字が一文字ずつが意味を持った文字となっている表意文字であることから自然に行われることとなります。


「起床」という言葉があります。

漢字で表現されていますので、この言葉の解釈が自分の中ではっきりしていない場合には「起床」という文字としての漢字の意味を考えることになります。

二つの漢字からできていますので「おきる(起きる)」と「とこ(床)」を文字から解釈します。

この二文字の関係を見ることによって「とこ(床)からおきる(起きる)」ことであろうという文字的な解釈ができることになります。

表意文字である漢字が持っている意味からしたら間違いのない解釈ではないでしょうしょうか。

いわゆる辞書的な解釈ということができると思います。


ところが「起床」という言葉と接する機会や自分が使っている場面がある程度限定されてくる場合があります。

この言葉を聞かいない日もあれば、あるいは聞いたり使ったりしている場面が同じような環境であることが起きてきます。


すると、「起床」という言葉の持っている文字的な意味ではなく実際に使われている場面での意味合いがその場面に適したように変わっていくことが起こります。

私の中では、「起床」は「床から起きること」よりも「朝目覚めること」としての解釈の方が勝った言葉となっています。

「起床」という言葉としての意味の中にはどこにも朝に結び付くものはないにもかかわらずこのようになってしまうのです。


それほど頻繁に使われている言葉ではない「起床」ですが、時としては家族を朝起こすときには「起床!」といって声を掛けることもあります。

「早く起きろ」と言っていることですね。


実は、ここで行われている解釈の過程がとても重要なことになっているのです。

「起床」(キショウ)という音読み漢字の熟語では私たちはその実際の意味を解釈できていないのです。

文字的な意味を解釈するという最初の行為にあたっても「床から起きること」として、一文字ずつを訓読みとしての日本語である「ひらがな」にしなければ理解できないのです。


わかり易く言ってしまえば、音読み漢字の熟語は日本語の姿を借りた外国語なのです。

漢字の音読みは日本語になっていない言葉なのです。

最近できた読み方では「注する」(チュウする)や「滅ずる」(ゲンずる)、「断ずる」(ダンずる)などのような使い方もありますが、そこには元の慣れ親しんだ訓読みがあるから成り立つようになったものです。

元の訓読みの言葉としての意味である「ことば」を示すための新しい日本語表記の方法の一つなのです。


文字そのものが意味を持っていない表音文字においてはこのようなことは存在しません。

表音文字には発音としての一音ずつを表す記号としての役割しかありませんので、文字から意味を推測することができないからです。


表音文字の代表として「カタカナ」で見てみるとわかるのではないでしょうか。

「キショウ」と書かれた文字字体からその意味するところを解釈することは不可能です。

音としての「キショウ」からは「起床」だけでなく「気象」や「希少」「記章」「気性」などたくさんの言葉が相当してしまい、カタカナの文字だけからでは適切な解釈をすることができません。

それはひらがなにしても同じことです。


日本語の意味は「ことば」になって初めて解釈できるものとなっています。

漢字の音読みを訓読み置き換えることが第一歩です。

これによって日本語の本来の音である「ひらがな」に置き換わります。

そして「ひらがな」に置き換わった音から実際の場面として相応しい解釈としての「ことば」として理解する必要があります。


もともと文字を持たなかった「古代やまとことば」に充て字として文字を借りてきたのが漢語(漢字)でした。

それは二種類の仮名として日本独特の表音文字を作り上げました。

しかし、新しい言葉を作ったり組み合わせたりするには漢字はとんでもなく便利なものでした。

表面的な文字上の意味を使いまわすことによって明治期には広辞苑一冊にも相当する20万語を超える言葉を生み出してきました。


その結果、表意文字という漢字の使われ方が表音文字としてのと使われ方もしていくようになったのです。

本来の漢字が持っている文字通りの解釈とは異なった「ことば」として解釈しなければならないことが多くなってきたのです。

漢字の持っている一文字ずつの意味は、その漢字を訓読み漢字として理解してなければ解釈できません。

訓読み漢字がない場合には他の「ひらがなことば」で解釈しなければ理解できません。

まさしく漢文の訓読解釈以外のなにものでもありません。

訓読したうえで初めて解釈することが可能になるのです。


音読み漢字で作られた言葉は訓読み=ひらがな言葉に置き換えられて初めて日本語として解釈できるものとなっているのです。

「ひらがな言葉」のもとは「やまとことば」です。

「やまとことば」を文字として表すためにできたものが仮名ですので、「ひらがな言葉」の原点は「やまとことば」になります。


普段使っている言葉を変えれば行動が自然に変わっていきます。

同じ言葉を使い続けることによって、行動が限られてしまいます。


「ことば」を変てみることは思っている以上に行動を変えるために効果の上がることです。

それもすべての基準となっている母語がいちばんよく働くための「ことば」にすることがさらに効果を高めることになります。

母語が日本語である以上、その母語が一番効果的に働くのは「ひらがな言葉」によってなのです。


まずは、「ひらがな言葉」に置き換えて使ってみることによって変化を感じてみませんか。

「ひらがな言葉」というとなんとなくレベルが低く感じられる人もいると思いますので、「現代やまとことば」と置き換えてもらったらいいと思います。

文字として表記するときには漢字の訓読みを使ってもいいと思います。

その意味も込めて「ひらがな言葉」ではなく「現代やまとことば」と呼んでいます。


それでもおなじ「ことば」を使い続けるとパターン化された行動になってくことがありますので、意識して言葉を変えてみることが必要になります。

表面的な言葉がそのまま行動に結びつくようなパターンは知的活動の老化を生むことになります。

老夫婦の間で「あれ」「それ」でそのまま固定化された行動ができるようになっていることは、決して知的活動のためには良いことではありません。

面倒くさいことが知的活動を刺激することだったんですね。


さて、今日もしっかり新しい「ことば」で説明をしてあげましょう。


2015年10月28日水曜日

行動を変えるための「ことば」

毎日同じような生活環境のなかで同じような行動を繰り返している人は思った以上に多いのではないでしょうか。

自分では気づかないうちにそこで同じような刺激に対して同じような反応が繰り返されているために、条件反射的な行動が行なわれていることがよくあります。


習慣化するということは出来るだけ意志のチカラを使うことなく条件反射的にできるようにするということに他なりません。

意識して習慣化しようとしなくとも同じような環境において同じような刺激に対して同じような反応を繰り返していれば自然に習慣化されてしまいます。

このような習慣のことを悪習慣と言ったり悪癖と言ったりすることもありますね。


ここで言われている意志のチカラとは思考することであり判断することであると思われます。

人は思考したり判断したりしているだけでは具体的に変化することはありません。

その結果としての行動をすることによって初めて周囲に対して影響を与えることができて変化が起こる可能性が出てきます。

やってみようと思っていても行動につながっていなければ全く変わっていないことになります。


毎日の生活環境において同じような言葉ばかり使われている場合は、その言葉によって行なわれる思考や判断が同じような結論になることが多くなります。

言葉が新鮮な刺激を保っているうちは新しい思考や判断がなされることもありますが、同じ言葉が続いていくと思考や判断が省略され結果としての行動だけ同じことが行なわれるようになります。

このことを規則正しい行動や規範などと言って歓迎する向きもあります。

その環境にふさわしい基準行動として強制的に求める場合すらありますが、本来の知的活動が省略されてしまってパターン化していることになります。


長い時間このような環境にあることによって出来上がってしまった条件反射に対して、「仕事に慣れてきた」「仕事ができるようになった」という評価を与えることも決して少なくありません。

自社の独特の環境における決められた行動に対して、教育という名のもとに条件反射ができるように求められることもあります。

状況によってはこれを善しとする場面も実生活においては少なくないと思われます。


このことが増えていくと、「なぜ、どうして」という知的活動の中心機能である思考や自分の判断による行動がどんどん少なくなっていきます。

そこで行なわれる行動は条件に対して「こなす」ための行動であり、過去と同じことをトレースするだけのことになってしまいます。

パターン化された固定概念となるわけですが、自分でも気がつかないうちに出来上がってしまっているものが思った以上にたくさんあると思われます。


思考しないことや判断をしないことが習慣化されてしまいますと、その方が楽になってしまい脳が「快」と感じるようになってしまいます。

更に進んでしっかりとした深い思考をしたり論理や感情に基づいて自分なりの判断をすることに対して面倒だと思うようになると脳が「不快」と感じるようになってしまいます。

固定化された組織や環境の中でパターン化された活動を求められている人は、知らないうちにこのような現象に陥っていることがあります。

休日においてすら決まりきったパターンで過ごしていると更に拍車をかけることになると思われます。


肉体的な条件反射とは異なって、知的な刺激に対して認知しているものが言語です。

具体的には「ことば」として認知することによって初めて知的な刺激として受け止めることができることになります。

単なる文字としての言葉と異なり、音として持っている感覚としての意味を「ことば」としてひらがなで表記しています。


日本語での表記は多くの場合、漢字が使用されています。

漢字というものは一文字一文字が意味を持っているために音としての「ことば」を表すためには不適なものとなっています。

音としての「ことば」よりも見た目の文字としての意味が先に受け取られてしまうようになっているのです。

見た目の文字としての意味が「ことば」のほかに存在してしまっているからです。


意味が分からない漢字や熟語に出会うと、文字的に分解したり文字的な意味から推測することが行なわれてしまいます。

その方が見た目的にも簡単だからです。

日本語の本来の意味である「ことば」は、話し言葉の音によって導かれてきたものです。

その音を表すための記号として使った文字である漢字が、文字として意味を持ったものであるために表面的には文字によって理解できてしまうことができるのです。

しかも、その理解はほとんどの場合は「ことば」として持っている意味とは一致していることがありません。


文字(漢字)によって表現された表面的な意味を持ったものを「言葉」として、本来的な意味としての「ことば」と区別して使用しています。

同じ言葉を使っている限り簡単には行動が変わりません。

慢性的な環境で慢性的な活動が行われている場合には、使われている言葉も同じようなもとなっています。

知的な刺激としての入力が同じようなものである限り、アウトプットとしての行動を変えることは容易なことではありません。


見慣れないインプットに対しては否が応でも思考せざるを得ません。

まずは認知するための知的活動がいろいろな方向からなされることになります。

そのためには今までの経験による固定概念が役にたつ場合もありますが、それ以外の情報も動員されていくことになります。

そしてどのような「ことば」として認知されるかによって、それ以降の知的活動が変わってきます。
(参照:言語技術と思考技術)

知的活動は最後の行動に結び付くことによって変化が起こる可能性が生まれます。

自分自身で変化を感じることはとても難しいことです。

自分の起こした行動によって、周囲が変化したことによって初めて自分の行動が変わったことに気がつくからです。

周囲を変化できない行動は、基本的には行動そのものに変化がないことになります。


行動を変えるためには自分が使う「ことば」を変えることが一番の近道になります。

今までと違う言葉を使うことによって、今までと違う「ことば」を感じることができます。

違う「ことば」は黙っていても今までと違う思考と判断を呼んできます。

それが初めて今までと違う行動をする可能性につながるのです。


同じような言葉を使って同じような生活をしていると、その活動自体がとても自然で楽に感じるようになります。

いわゆる決まりきったパターンの生活というやつです。

楽に感じるということは脳が「快」と感じ始めていることになります。


人の脳は5%て程度しか使われていないということはよく言われることですが、同じ刺激に対して反応がパターン化されることによってさらに使用される部分が減っていると思われます。

常に新しい刺激を与えることによってより活性化させることが可能なのではないでしょうか。


新しい刺激を与えるためには同じ行動をしていたのでは難しいことになります。

新しい刺激を与えるためには行動が変わらなければならいと思われます。

そのためのきっかけは、刺激に変化をつけることが大切だと思われます。


言語で認識できて初めて知的活動としての認知になりますので、様々な目新しい言語としての刺激が活動を活性化させることにつながります。

同じことであっても言葉を変えて認知するようにすることで新しい刺激として受け取ることができるようになります。

あたり前に受け止めている言葉に変化をつけることによって新しい刺激として認知するようにすることです。


文字としての言葉は表面的なものであり、音としての「ことば」にするためにはひらがなで表現することが必要になります。

この響きが日本語が持っている刺激として一番大切なものだと思われます。


母語として日本語を持っている私たちは日本語の響きが最高の刺激になり最高の知的活動を促すことになります。

文字としての刺激に慣れ過ぎてマンネリ化してしまった結果の行動を変化させるためには、言葉を変化させた結果としての新しい「ことば」による刺激が効果的になるようです。

それによって得られた判断を固定概念で否定することなく行動に結び付けることで、変化が生まれてくると思われます。


結果としての変化が現状に比べて良い方向に行こうとも悪い方向に行こうとも関係ないのです。

変わることが大切になります。

良い方であるのか悪い方向であるのかは固定概念による判断になるのでどちらでもいいことです。


変化の癖をつけることで悪い方向だと思ったらすぐに変化をさせることが可能になります。

インプットとしての言葉を変えることで「ことば」をかけて行動を変えることがスムースにできるようになるのではないでしょうか。



2015年9月29日火曜日

日本語を理解している「ことば」

"文字と言葉"でみてきたように、言語は文字ではなく「ことば」で理解していることが分かりました。
(参照:文字と言葉)

それは、文字のわからない幼児が「ことば」によってコミュニケーションができていることからもわかると思います。


文字は「ことば」へ導くための記号であると言われるのも、このように考えれば理解しやすいことではないでしょうか。

「ことば」は音でできているものです。


「ことば」を文字にすると漢字で「言葉」と書くことが多くなります。

しかし、「言葉」という文字(記号)はあまりにも一般化してしまい持っている意味が拡大しまったために、「書き言葉」というような表現でも使われることがあります。

これ自体も一般化してしまったために「言葉」という文字が自体が「書き言葉」までを含めた意味を持ってしまっているのが現状ではないでしょうか。


今ここでは文字による表現をしていますので、「言葉」と書いてしまうと「書き言葉」なのか音としての「ことば」なのかの判断が分かりにくくなってしまいます。

したがって、音としての「ことば」であることを明確にするために敢えてひらがなで「ことば」と表現することにしています。


このように見ていくと文字は「ことば」を理解するためのきっかけとしての記号であることが明確になってくるのではないでしょうか。

一般的な言語においては、文字は「ことば」を導くための記号であり文字に意味はありません。

意味を持っているのは「ことば」であり、音としてのその「ことば」によって理解をしていることになります。


ところが日本語の持っている文字の一種である漢字は、世界中で利用されている文字のなかで唯一意味を持っている文字(表意文字)と言われているものです。

漢字が一部の人だけに使われている専門的な特殊な文字であれば問題になることもないと思われますが、日常的に使われている表現が漢字かな交じりの文章となっているために特に意識をすることもなく使用されていると思われます。

平安中期以降の仮名文学の隆盛はこどもや女性を中心として仮名による表現を大いに広めたことが想像されます。

仮名だけによる表現は、音としての「ことば」がそのまま記号として表現されたものとなっちたために、今よりもずっと理解され易かったのではないかと思われます。

漢字を使うことは大人としての素養の備わったものとしての判断基準の一つではなかったかと思われます。

どれだけの漢字を使いこなすことができるのかということが教養としての高さを示していたのではないかと思われます。


文字そのものが意味を持ってしまっていることは、決して悪いことではありません。

それよりも文字そのものが書道として絵画や音楽、彫刻などと同じレベルで芸術として評価されてる大きな要因ではないでしょうか。

しかし、文字そのものが意味を持ってしまっていることが音としての「ことば」へ導くための妨げとなることがあることもあるのではないでしょうか。


文字として表記された漢字の持っている意味が、「ことば」として理解される意味と全く同じ場合にはとてつもない強力な効果を発揮することになると思われます。

漢字での表現であったとしても訓読みによる表現の場合は、直接的に「ことば」の持っている音に結びついています。

それは、文字で書かれたその言葉よりも先に「ことば」が存在しており、その「ことば」を表記する記号としてその漢字を利用したからです。


「かく」という「ことば」があります。

文字のなかった時代より使われてきた「やまとことば」です。

「やまとことば」での「かく」は動作を表した「ことば」です。

とても広い意味で使われた「ことば」であることが分かります。


「かく」を漢字で表記したものがたくさんあります。

書く、描く、画く、掻く、欠くなどがあります。

それぞれの文字が漢字としての意味を持ったものとなっています。

その意味は、「ことば」としての「かく」をより具体的にした意味となっていないでしょうか。

「やまとことば」としての「かく」が使われた場面を想像できるものになっていないでしょうか。


書く、描く、画くなどは同じような動作を表すものですが対象によって使い分けを要求される文字となります。

それは文字自体が持っている意味によってなされることになります。

掻く、欠くが存在することによって「ことば」としての「かく」をより理解しやすくなっているのではないでしょうか。

漢字の訓読みには文字としての意味があることによって「ことば」の理解を助ける効果もあるのではないでしょうか。


ところが音読み漢字になると「ことば」に導かれることが難しくなります。

日本語の持っている「ことば」は漢字の音読みでは表現することができないのです。

漢字が純粋に記号として使用されている例が、地名や人名です。

この場合は、「ことば」を表現している訳ではありません。

特定の場所や人を表わすための記号として機能していることになります。


それでも文字としての漢字は意味を持っていますので、修善寺と表現されれば「そういうお寺があったのかな」とイメージをさせることができてしまいます。

田中さんと言えば「田んぼの中の方に住んでいた先祖は農家かな」とイメージをさせることができてしまいます。

場所や人を特定するためにはまったく関係のないイメージになります。


明治期に作られた言葉に「権利」というものがあります。

文明開化、富国強兵政策によって早急に西欧文明に追いつかなければならなかった頃に作られた言葉です。

この言葉によって革命がおきたり戦争がおきたりするような大切な言葉でした。


英語のrightを翻訳した言葉です。

もともと日本語にはなかった「ことば」です。

福沢諭吉がこの言葉を日本語にすることは出来ないと言って諦めた言葉です。

福沢諭吉はこの時期にたくさんの翻訳語を創り出しました。

その多くは仏教用語として使われていた言葉を利用していました。

speech → 演説、talk → 談話という翻訳を作ったのも彼です。


福沢諭吉が翻訳を諦めたrightに「権利」という言葉を充てなのが西周だと言われています。

音読み漢字はもともと日本語がもっていた「ことば」ではありません。

漢語が持っていた言葉であり表現です。


それでも、日本語が持っていた「ことば」として使用できるものには訓読みとして使われていったのではないでしょうか。

音読み漢字の熟語であっても特定の場所や人や物を表す名詞は具体的な対象とともにそのものを表す記号として使われていったのではないでしょうか。


ところが明治期に入ってきた文化は具体的なものや技術だけではかなったのです。

民主主義としての考え方や哲学的な分野、科学分野でも抽象的なことが多く入ってきました。

政治や法律などの様々な概念が入ってきました。

新しく大量の言葉が必要になったことは想像に難くありません。


もともとの日本語の「ことば」になかったものがたくさん入ってきたのです。

これらを表面的に理解するためには漢字という意味を持った文字はとても便利でした。

もとの「ことば」が持っているニュアンスの一部でもその文字が表現できるのであれば喜んで使われたのではないでしょうか。

一般の人には分かり難い概念であっても、漢字表記によって文字の意味から何となくこんなことではないのかという理解ができてしまったと思われます。

本来の「ことば」が持つ意味を理解することなしに翻訳された漢字による文字の意味が独り歩きする環境があったと思われます。

しかも、急いで彼らの文化を取り込んで対等の交渉ができるようにならなければ、列強による侵略を食い止めることができないという切羽詰まった事情もあったと思われます。

訳語を作っていった人たちは教養レベルの高い人たちですが、じっくりとニュアンスを確認しているような余裕はなかったのだと思われます。


夏目漱石は、そんなに急いで文化を導入してどうするんだという批判をしていましたが、最終的には彼自身が膨大な訳語を生み出していきました。

この時期に生み出された言葉は広辞苑一冊にも相当する20万語を越えていたと言われています。

一部は和製漢語として漢語の本国への逆輸入もされていきました。

現代中国の発展は日本からの和製漢語による効果が大きかったとも言われています。


現代日本における漢字言葉の多くもこの時に作られたものです。
(参照:輸出された日本漢字)

しかし、これらの言葉のほとんどは日本語の「ことば」ではなかったのです。

150年を経て、現代日本語の「ことば」となったものもあるのでしょうか。


それらの言葉の持つ本来の「ことば」は、日本語の「ことば」で説明されなければならなかったのではないでしょうか。

安易に置かれた音読み漢字による言葉は、文字としての意味があたかも「ことば」のように理解されてしまったのではないでしょうか。


「権利」という言葉は文字の意味では「権力を持って利を得る」ということになるのではないでしょうか。

出来る限りひらがな「ことば」でこれを説明すると「ちからによってみずからのためになることをえる」とでもなるのではないでしょうか。

本来のrightが持っているものはどんなチカラによっても侵したり得たりするものではないと思われます。


「権利」を口にするとなんとなく後ろめたく感じてしまったり、どうしても「義務」と一緒に扱いたくなってしまうのは、本来の持っている感覚が日本語の「ことば」になっていないからではないでしょうか。

「権利」はrightとは違う日本独自のものとなって存在しているのではないでしょうか。

外国語でもなければ、日本語の「ことば」でもない言葉として存在しているのではないでしょうか。


日本語は表記文字の多さもあって、とんでもない数の言葉を持った言語となっています。

しかし、その日本語を理解しているのは「ことば」によって行なっているのではないでしょうか。

自分が使える「ことば」がどれくらいあるのでしょうか。


漢字を「ことば」で理解するための努力が必要なのではないでしょうか。

音読み漢字を訓読み漢字に読み替えて理解することはその一歩だと思われます。

そこからその漢字が表したい「ことば」を見つけることが必要なのではないでしょうか。


ひらがな「ことば」で表現してみることはとても大切なことだと思います。

これができないとその「ことば」を理解していることにはならないと思います。

日本語としての使える「ことば」になっていないのだと思います。


「現代やまとことば」としてひらがなによる言い換えを通して、日本語としての理解ができると思われます。

折に触れてやってみたいことですね。





2015年9月24日木曜日

「現代やまとことば」が導くもの

日本語の持っている基本的な感覚は文字のない時代から継承されている「やまとことば」によって作られていると思われます。

この基本的な感覚を知るのに邪魔しているものがあります。

そのおかげで、現代日本語からは日本語が持っている基本的な感覚が見えに難くなっていると思われるのです。


それは明治期に大量に作られた音読み漢字の熟語ではないでしょうか。

「ことば」が「ことのは」から来ており、音として「ことば」として認知していることについては幾度か触れてきました。
(参照:「ことのは」を探る)

日本語の「ことば」としての基本になっている音は、漢語のいわゆる音読みの音ではなく「やまとことば」として独自の言語として継承されてきたひらがなことばであり漢字の訓読みことばであったのです。


明治期には西欧の先端文明や技術を取り入れるために大量の言葉が生み出されました。

広辞苑一冊にも相当する20万語以上が生み出されたと言われています。

そのほとんどが漢字の熟語として翻訳されました。

これらの漢字(熟語)は和製漢字として中国へも逆輸出され、近代中国の発展に大きく貢献してきました。
(参照:和製漢字のチカラ)


現在使われている世界中の文字のなかで唯一の表意文字と言われる漢字は、文字自体が意味を持ったものとなっています。

文字の持っている意味とその文字によって表わされる「ことば」の意味が同じ場合は全く問題がないと思われます。

ところが明治期に行なわれた西欧文化の導入は、とてつもないスピードを持って行なわれました。

一日でも早く西欧の文化技術に追いついて対等の交渉ができるようにならないと植民地となる危機でもあったからです。


そのために外国語として持っている原意と微妙に異なった意味を持った漢字が充てられていることが少なくありませんでした。

鎖国によってほとんど海外の情報に触れることがなかった人たちが感じた外国語の感覚や意味は、受けた人の分野や能力によってさまざまな解釈がされたのではないでしょうか。

同じ言葉についても軍事、貿易、政治、文学の世界ではそれぞれ異なった解釈がされたとしても何の不思議もありません。


もともと「やまとことば」として存在していた言葉であれば、そのまま使われたと思われます。

「やまとことば」としての言葉がないために新しい言葉を生み出さなければならなかったのではないでしょうか。

言葉を作ることにかけては漢字はとても便利な文字です。


対象とするものの特徴の一部やイメージを表すことができる文字を充てることで、その文字を構成する音で言葉を作ることができるからです。

そこでは、日常的に馴染みの薄かった仏教の専門用語や他の漢字からの借用も多く行なわれました。


とくに熟語の構成は以下のようにかなり自由度があるために非常にたくさんの言葉が生まれることになりました。

ア、同じような意味の漢字を重ねたもの         {岩石、生活}
イ、反対または対応の意味を表す字を重ねたもの   {高低、上下}
ウ、上の字が下の字を修飾しているもの         {洋画、新車}
エ、下の字が上の字の目的語・補語になっているもの {着席、投資}
オ、上の字が下の字の意味を打ち消しているもの   {非常、無限}


「やまとことば」としての理解をしようとするときに邪魔な存在になるのが漢字の持っている文字としての意味となっていることが多いのです。

漢字から「やまとことば」としての感覚を読み取る場合には、漢字 → 言葉 → ことば(ことのは)→ こと、を行なう必要があります。
(参照:文字と言葉)

「ことば」(ことのは)への変換は音読み漢字からは出来ません。

漢字を訓読みとして理解してひらがな言葉にしなければならないからです。

この「ひらがなことば」としての音が「やまとことば」が本来持っている音なのです。


日本語が持っている感覚を共有するためには「ひらがなことば」で理解する必要があるのです。

この作業は、実際にやってみるととても難しいことが分かります。

いかに、「ことば」としての意味をしっかりと理解しないで音読み熟語を使っているのかがよく分かります。

音読み熟語を「ひらがなことば」で説明してみればいいことなのですが、意外とこれができないのです。


ひらがなで説明しているつもりが思わず他の漢字の音読みを使っていたり、説明しているうちに自分で理解していないことが分かってきたりします。

音読み熟語を「ひらがなことば」にするには、まずは使われている漢字をすべて訓読みで読んでみることです。

そして、その訓読みが元の「ことば」をしっかりと現わしているのかどうかを確認することが大切になります。


現在使われている「ひらがなことば」が明治以前から使われていた「やまとことば」かどうかは判断は難しいです。

明治以降に作られた言葉であっても「ひらがなことば」として定着しているものはあります。

これらは現代的な「やまとことば」としてもいいのではないでしょうか。


つまりは、現在日常的に使用されている「ひらがなことば」は「現代やまとことば」と見てもいいのではないでしょうか。

「現代やまとことば」のヒントは漢字の訓読みです。

訓読み漢字は確かに文字としての漢字を利用してますが音としては「現代やまとことば」だからです。


文字としての漢字が示している意味と、その「ことば」が持っている意味が異なっている熟語がたくさん存在しています。

漢字で表現された表面的な意味で済んでしまう場面もたくさんあります。

文字が意味を持っていますので何かを表す記号としてはとてもわかり易いものになっていることが多くあります。

そこには、「ことば」として持っている意味や感覚を必要としていない場面ではとても有効に働きます。


効率を重視し生産性と精度を求める場面においては、専門用語として共通理解がしやすいものとなっているのかもしれません。

でも、それは「ことば」ではないのです。

効率を重視し生産性と精度を求める典型的な場面が軍隊です。

軍隊で使用される言葉はすべての人が同じ理解をできなければなりません。

たった一つのことを表すための専門用語としての記号である必要があるのです。

これは「ことば」ではありません。

精神文化の対極にあるものではないでしょうか。


日本語の理解は「ことば」によってなされているものと言えるのではないでしょうか。

「ことば」として理解するためにはひらがなとして理解する必要があると思われます。

そのきっかけとしての訓読み漢字は、漢語と「やまとことば」の翻訳そのものだと思われます。

文字だけ見れば漢字(漢語)です。

音だけ聞けば「やまとことば」です。


ほとんどの訓読み漢字はひらがなの送り仮名を伴っているのも「ひらがなことば」を意識できることになりますね。

「現代やまとことば」を駆使することによって、日本語の基本的な感覚に触れることができるのではないでしょうか。

「現代やまとことば」で説明された内容は抵抗なく素直に理解できるものとなっています。

賛否や批判はそのあとに生まれる活動ですので、理解できることがまず一歩目となるのではないでしょうか。

「わかり易く説明してください」と言うことは「現代やまとことばで説明してください」と言っていることではないのでしょうか。


「現代やまとことば」、かなり利用価値がありそうですね。




2015年9月17日木曜日

文字と言葉(4)

文字から離れてみよう

3回にわたって「文字と言葉」について見てきました。

そこでは文字は言葉につなぐための記号であることを確認してきました。

そして「言葉」という漢字が「ことば」につなぐための記号であることを見つけてきました。
(参照:文字と言葉)


漢字で表記することは、他の文字で表記することと異なって「ことば」への結びつきを難しくしていることを見てきました。

それは、文字としての漢字自体が一文字ずつ意味を持った表意文字であることと大いに関係があることでした。

そして、文字自体が意味を持っていることが本来の「ことば」を表す記号としての役割を越えて機能しているのです。


その機能は、「ことば」が本来持っている意味や感覚を補完してよりわかり易くしていることもあれば、反対に「ことば」の持っている意味や感覚を分かりにくくしている場合もあるのです。

人は文字で理解をしているのではないことを見てきました。

脳の中で文字が「ことば」として変換されることによって初めて理解されていることを、文字を持たない幼児期の「ことば」による活動で確認してきました。


漢字 → 言葉 → ことば → こと


この変換が素直に行なわれていることが理解するための活動ということになるのではないでしょうか。


文字の持っている意味が「ことば」の持っている意味を理解しようとすることを邪魔する例を挙げておきたいと思います。

必要に迫られて作られた漢字に多く見ることができるものです。

明治期に大量の外国文化を導入し、その翻訳として作った漢字にたくさん見ることができます。


「権利」という文字があります。

「言葉」としては「けんり」ということになるのでしょうか。

この言葉はもともとの日本にあった感覚ではありません。

英語のrightに対して充てられた言葉になります。


音として「けんり」と言っても「ことば」として素直に理解できるものとなってないと思われます。

漢字としての「権利」にも文字上の意味があります。

それは、「権力を持って利を得る」といった意味になります。


英語としてのrightは「権力を持って得る」ものとは大きな隔たりがあります。

いかなる権力によっても犯すことのできない、人として本来的に備わっているものという感覚がある「ことば」です。

日本語の「権利」には文字としての意味から広がってしまった「力をもって手に入れたもの」という感覚が伴ってしまっています。

したがって、別のチカラの元では制約を受けることになってしまうことになります。


「権利」から導かれる「ことば」としては「できること、やっていいこと」に近い感覚ではないでしょうか。

そのために、rightに比べると使用頻度や使用場面も多岐にわたり軽いニュアンスとなっていると思われます。

「ことば」としての「けんり」は日本語の感覚にとっては極めてあやふやなものであるがために、どうしても漢字表記をして文字としての意味に頼らざるを得ないものとなっているのではないでしょうか。

日本語としての「権利」は誰かが主張したり認めたりすることができるものとなっていますが、rightは気がついたり確かめたりするものとなっているのです。

人によっては専門分野においてこの「権利」について探求を続けており、個人的な「ことば」として「けんり」を理解している人もいると思います。

また。「権利」は日常的な暮らしの中でそれほど頻繁に使われるものではありません。

それだけ「ことば」としてのやり取りが行なわれるものとはなっていないと思われます。

一般的な暮らしの中では「ことば」として定着しているものとなっていないために、一人ひとりの日常的な「ことば」となりきっていないものだと思われます。

つまりは、「けんり」という「ことば」がなくとも日常的な暮らしにおいては困らないことになります。


個人としても「権利」に出会った時に漢字の文字的な意味だけで理解が済んでしまうことになります。

このことも「ことば」としての「けんり」がさらに定着していかない理由になるのではないでしょうか。


「生活」という漢字があります。

言葉としては「せいかつ」になるのでしょうか。

文字的な意味も分かりやすいもので「生きて活動すること」となるのではないでしょうか。

しかし、「ことば」として「せいかつ」は理解できるものになっているのでしょうか。


文字としては「生活」、言葉としては「せいかつ」になると思われますが、「ことば」として理解しているものにはなっていないのではないでしょうか。

では、生活 → せいかつ とつながってきた言葉はどのような「ことば」として理解されているのでしょうか。

ほとんどの人は「(日々の)くらし」という「ことば」で理解されているのではないでしょうか。


「くらし」という「ことば」は人が生きている「こと」を意味しているものです。

もちろん、その「こと」のすべてを表しきっているわけではありませんし、「くらし」という「ことば」から理解される事柄は一人ひとり異なることになるでしょう。

それでも「くらし」という「ことば」は日本語の感覚として誰でもが理解できるものとなっていないでしょうか。


このようにして見てくると、私たちが持っている日本語としての「ことば」は文字としての漢字が持っている意味とは異なっている場合が多いのではないでしょうか。

これは、「ことば」として文字のない時代より持っていた「やまとことば」を表記するための文字として漢語を利用してきたことに始まりがあると思われます。



「やまとことば」は音だけで成り立っていた「ことば」です。

「やまとことば」を表記するためには、その音を表記する必要があります。

漢語の音を利用して「やまとことば」を表しましたが、その漢語は文字そのものが意味を持っていました。


その文字の意味と「やまとことば」に意味が近いものについては、文字の意味を利用しながら「やまとことば」として読ませる訓読みが充てられるようになっていったと思われます。

したがって、訓読み漢字は「やまとことば」の音を表しながらも漢字の文字をもその意味として利用した日本独自のものとなりました。


漢字の音読みには「やまとことば」に当たる「ことば」がなかったのではないでしょうか。

音読み漢字には文字としての意味だけを手近に利用するために使われて、その音から導かれる言葉には「ことば」となるような意味を持たせることがなかったのではないでしょうか。


漢字は文字を組み合わせることによって造語を作るにはとても便利な文字です。

この機能を利用して明治期には広辞苑一冊にも相当する20万語以上が生み出されました。

音読み漢字が沢山利用されることになったことになります。


漢字を完全な表音文字として使用した例があります。

それが仏教典です。

もとはサンスクリット語の言葉を漢語の音を利用して表記したものであり文字としての意味は全く関係ありません。


それでも、使おうとした漢語に同じ音があれば少しでも原意に近いものを使用しようとするのは翻訳者の本能とも言えるのではないでしょうか。

結果として並んだ文字としての意味がなんとなく出来てしまう部分があることになります。

また、翻訳者によってはそのことを意識したとしても不思議ではないと思います。


文字として意味を持っている表意文字であることが、純粋な音訳を妨害していることになるのです。

日本語としての漢字が文字としての意味で邪魔しているのが音読み漢字によることは分かりやすいことだと思います。

文字としての漢字の意味を安易に利用してきたことによって、本来持っている「ことば」がゆがめられてしまったことが多いと思われます。


それは、もとから私たちが持っている「やまとことば」に対しても外来語に対しても同じことではないでしょうか。

漢字という文字から離れて「ことば」を感じる努力をすることが、まさしく日本語の感覚ではないでしょうか。

日本語の持っている基本的な感覚を漢字が邪魔しているのかもしれません。


しかも、訓読み漢字の利用という日本語の感覚を上手く表現できる手法を持ってしまっていることが、このことを隠してしまっているのではないでしょうか。

文字の裏にある「ことば」を理解することが日本語にはとても大切なことのようです。

あまりにも便利な漢字という文字による表面的な意味だけではないことが、「行間を読む」や「一を聞いて十を知る」に含まれているのかもしれません。


文字から離れてみることは現代社会では難しいことかもしれません。

しかし、言語の持っている本来的な感覚は文字にはなく「ことば」にあることが分かってきました。

文字の意味だけに押し倒される前にもう一度文字を離れた「ことば」に目を向けてみませんか。