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2015年10月29日木曜日

「ことば」が行動を変える

同じ言葉を使っていると行動までが同じようになってくることは先回も述べました。
(参照:行動を変えるための「ことば」

使っている言葉が聞きなれない言葉であってその新鮮さが感じられるうちは、しっかり言葉を理解して解釈しようとします。


漢字で表現されている言葉の場合には、その言葉を理解する過程としてまず文字としての意味を考えることが行なわれます。

それは漢字という文字が一文字ずつが意味を持った文字となっている表意文字であることから自然に行われることとなります。


「起床」という言葉があります。

漢字で表現されていますので、この言葉の解釈が自分の中ではっきりしていない場合には「起床」という文字としての漢字の意味を考えることになります。

二つの漢字からできていますので「おきる(起きる)」と「とこ(床)」を文字から解釈します。

この二文字の関係を見ることによって「とこ(床)からおきる(起きる)」ことであろうという文字的な解釈ができることになります。

表意文字である漢字が持っている意味からしたら間違いのない解釈ではないでしょうしょうか。

いわゆる辞書的な解釈ということができると思います。


ところが「起床」という言葉と接する機会や自分が使っている場面がある程度限定されてくる場合があります。

この言葉を聞かいない日もあれば、あるいは聞いたり使ったりしている場面が同じような環境であることが起きてきます。


すると、「起床」という言葉の持っている文字的な意味ではなく実際に使われている場面での意味合いがその場面に適したように変わっていくことが起こります。

私の中では、「起床」は「床から起きること」よりも「朝目覚めること」としての解釈の方が勝った言葉となっています。

「起床」という言葉としての意味の中にはどこにも朝に結び付くものはないにもかかわらずこのようになってしまうのです。


それほど頻繁に使われている言葉ではない「起床」ですが、時としては家族を朝起こすときには「起床!」といって声を掛けることもあります。

「早く起きろ」と言っていることですね。


実は、ここで行われている解釈の過程がとても重要なことになっているのです。

「起床」(キショウ)という音読み漢字の熟語では私たちはその実際の意味を解釈できていないのです。

文字的な意味を解釈するという最初の行為にあたっても「床から起きること」として、一文字ずつを訓読みとしての日本語である「ひらがな」にしなければ理解できないのです。


わかり易く言ってしまえば、音読み漢字の熟語は日本語の姿を借りた外国語なのです。

漢字の音読みは日本語になっていない言葉なのです。

最近できた読み方では「注する」(チュウする)や「滅ずる」(ゲンずる)、「断ずる」(ダンずる)などのような使い方もありますが、そこには元の慣れ親しんだ訓読みがあるから成り立つようになったものです。

元の訓読みの言葉としての意味である「ことば」を示すための新しい日本語表記の方法の一つなのです。


文字そのものが意味を持っていない表音文字においてはこのようなことは存在しません。

表音文字には発音としての一音ずつを表す記号としての役割しかありませんので、文字から意味を推測することができないからです。


表音文字の代表として「カタカナ」で見てみるとわかるのではないでしょうか。

「キショウ」と書かれた文字字体からその意味するところを解釈することは不可能です。

音としての「キショウ」からは「起床」だけでなく「気象」や「希少」「記章」「気性」などたくさんの言葉が相当してしまい、カタカナの文字だけからでは適切な解釈をすることができません。

それはひらがなにしても同じことです。


日本語の意味は「ことば」になって初めて解釈できるものとなっています。

漢字の音読みを訓読み置き換えることが第一歩です。

これによって日本語の本来の音である「ひらがな」に置き換わります。

そして「ひらがな」に置き換わった音から実際の場面として相応しい解釈としての「ことば」として理解する必要があります。


もともと文字を持たなかった「古代やまとことば」に充て字として文字を借りてきたのが漢語(漢字)でした。

それは二種類の仮名として日本独特の表音文字を作り上げました。

しかし、新しい言葉を作ったり組み合わせたりするには漢字はとんでもなく便利なものでした。

表面的な文字上の意味を使いまわすことによって明治期には広辞苑一冊にも相当する20万語を超える言葉を生み出してきました。


その結果、表意文字という漢字の使われ方が表音文字としてのと使われ方もしていくようになったのです。

本来の漢字が持っている文字通りの解釈とは異なった「ことば」として解釈しなければならないことが多くなってきたのです。

漢字の持っている一文字ずつの意味は、その漢字を訓読み漢字として理解してなければ解釈できません。

訓読み漢字がない場合には他の「ひらがなことば」で解釈しなければ理解できません。

まさしく漢文の訓読解釈以外のなにものでもありません。

訓読したうえで初めて解釈することが可能になるのです。


音読み漢字で作られた言葉は訓読み=ひらがな言葉に置き換えられて初めて日本語として解釈できるものとなっているのです。

「ひらがな言葉」のもとは「やまとことば」です。

「やまとことば」を文字として表すためにできたものが仮名ですので、「ひらがな言葉」の原点は「やまとことば」になります。


普段使っている言葉を変えれば行動が自然に変わっていきます。

同じ言葉を使い続けることによって、行動が限られてしまいます。


「ことば」を変てみることは思っている以上に行動を変えるために効果の上がることです。

それもすべての基準となっている母語がいちばんよく働くための「ことば」にすることがさらに効果を高めることになります。

母語が日本語である以上、その母語が一番効果的に働くのは「ひらがな言葉」によってなのです。


まずは、「ひらがな言葉」に置き換えて使ってみることによって変化を感じてみませんか。

「ひらがな言葉」というとなんとなくレベルが低く感じられる人もいると思いますので、「現代やまとことば」と置き換えてもらったらいいと思います。

文字として表記するときには漢字の訓読みを使ってもいいと思います。

その意味も込めて「ひらがな言葉」ではなく「現代やまとことば」と呼んでいます。


それでもおなじ「ことば」を使い続けるとパターン化された行動になってくことがありますので、意識して言葉を変えてみることが必要になります。

表面的な言葉がそのまま行動に結びつくようなパターンは知的活動の老化を生むことになります。

老夫婦の間で「あれ」「それ」でそのまま固定化された行動ができるようになっていることは、決して知的活動のためには良いことではありません。

面倒くさいことが知的活動を刺激することだったんですね。


さて、今日もしっかり新しい「ことば」で説明をしてあげましょう。


2014年12月12日金曜日

日本語による知的活動

先回も見たように、日本語による知的活動は、書き出すことによってその特徴が生かされるようになっています。

これをうまく使ったのが、発想法としてのKJ法でありNM法であることも先回触れてきました。
(参照:日本語によるアウトプットのメリット

つまり日本語のメリットである表現力の豊富さと表意文字である漢字の広がりを生かすためには、文字として書き出すことが一番適していることになります。

カードに書いた単語で発想したりすることよりも、手で書きながら同時に発想をしていくことが大切になるわけです。


文字からの発想力が刺激されますので、とにかく書き留めておくことが大切になります。

日本における個人の学習方法は、昔から読み書きそろばんと決まっていました。

この意味をどこまで解釈しているかということになります。


読んだものをそのままを書くと解釈している人が多いことに驚きました。

ここで言っている読むことと書くこととは、同じ対象に対していっていることではありません。

日本人の得意な「三の魔法」によって成り立っているこの言葉は、読むこと、書くこと、そろばんのすべての対象が違っていると考えたほうが理解しやすいのです。

読んだ対象を書くことではなく、読むことと書くこととそろばんの三つについて言っていることなのです。


日本語での知的活動において一番大切なことは、知的活動の対象が文字で見えるようにしておくことなのです。

絵でも記号でもありません。

文字で見えることが大切なのです。


文字を見ているときの日本人の脳は、左右の脳がともに反応していることがわかります。

西洋絵画を見ていたり、西洋音楽を聞いていたりするときは左脳はほとんど活動をしないようです。

日本語による知的活動は、日本語の環境にあるもを対象としている限りにおいては、左脳頼みになることも右脳頼みになることもなくバランスよく活動しているのです。


西洋の技術や考え方が入ってきたころより、論理に偏った左脳系の活動が増えてきたのです。

ですから、日本人には基本的には右脳のトレーニングなどは必要なかったのです。

もともとが非常にバランスの良い脳の使い方ができていたのです。


そのために、感覚的なストレスを感じることが好ない環境で、自然との対話のなかで知的活動を行なうことができたのです。

主に明治維新以降の西洋文明の急激な導入によって、感覚的な抵抗感は持ちながらも、現実的な技術を取り込み開発してきました。

それによって、かなり偏った知的活動がなされてきたと言われています。


ある種の疑問を感じながらも、新しい便利さと経済的な発展は個人にとってはとても魅力的なものでした。

その疑問も論理的なものではなく、感覚的なものであり、なんとなく本当にこれでいいのだろうかという程度であったものが、だんだんと具体的な疑問や問題として捉えられるようになってきました。

西洋文明だけで走ってきた人達には、これからどうしていいのかはわからないのです。

自然破壊が悪いとは言っても、自然との付き合い方がわからないのです。


ですから、彼らの論理では数が少なくなったら絶滅危惧種として保護する、そのためには捕獲を禁止すると言ったような極論が生まれてくるのです。

自然との共生を感覚として持つことができないのです。

自分たちの持っている論理で説明できないものに対しては、どのように対処して良いのかが分からないのです。

感性や感覚で対応することがきわめて怖いのです。


彼らは、ミサイルや原子力、拳銃は怖くはないのです。

彼らの論理で説明できる構造だから、コントロール可能だと思い込んでいるからです。

彼らは、エボラや地震はとても怖いのです。

論理で解明できないからです。


日本語の感覚では、エボラや地震は自然にあるものであり存在するものです。

予知こそできませんし、対処の仕方も完全ではありません。

それにもかかわらず、原子力の方が怖いと思っている人の方がはるかに多いのです。


日本語による知的活動は、他の言語による知的活動とはさまざまな面で異なっています。

いまや、その違いは日本語の特徴として、むしろ世界に対して誇るべきものとなっています。

その日本語による知的活動を、最も効率よく特徴づけるためには、文字としてのアウトプットが必要なのです。


単語のアウトプットによってそこから導かれる発想は、際限を知りません。

それらの単語の関係を表現する文章は、無限の表現力を持ったものであり、どんな論理をも展開することができます。

とにかく文字として、そして文章としてストプットすることが日本語による知的活動を一番有効にすることにつながります。


もっともっと書くことに目を向けたら良いかもしれませんね。





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2014年12月11日木曜日

日本語によるアウトプットのメリット

他の言語に比べて、日本語が大きく異なっている点が二つあります。

一つは、漢字という表意文字を持っている点です。

漢字は、現在使用されている言語文字のなかで、唯一残っている表意文字だと言われています。

この点だけで言えば、同じく漢字を使っている中国語にも当てはまることでもあります。

むしろ、漢字においては中国語の方が使い慣れているのかもしれません。


それでも日本語においては、漢字に対しても音読みと訓読みを持っており、言語学の世界でも漢字を産んだのは中国語であっても漢字を生かしたは日本語であるとまで言われています。

訓読み漢字は読み仮名や送り仮名の存在とともに日本語独特のものとなっています。


二つ目は表記文字の種類の多さです。

日常的に使っている文字だけでも、同じ言葉を書き表すのに、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットなどの使い分けを行っています。

文字の種類の違いだけでも、その言葉における感覚やニュアンスの違いを表現できるものとなっているのです。


それに対して、話し言葉としての日本語は、持っている音はひらがなの音だけであり、基本の音だけで言えば46音しかありません。

濁音、半濁音、撥音、拗音などのすべての音を数え上げても150音までには至らないのではないでしょうか。

世界の文明の先端を担っている言語の中では、きわめて音数の少ない言語となっています。


つまりは、日本語は話し言葉よりも文字として書いた時の方が、日本語としての特徴が明確になることになります。

書いてアウトプットすることの方が、話してアウトプットすることよりもより日本語の特徴を生かした活動ができることになります。

そこで、単語によるアウトプットと文章によるアウトプットで見てみたいと思います。


日本人の好きな発想法やアイデア出しに、KJ法やNM法があります。

実はこれは他の言語話者の間ではあまり行われません。

日本語だから知的活動において効果が発揮できる方法なのです。

どちらの方法も日本人が考え出したものであり、発明者の頭文字を取ったものとなっていることは既にご存知のことと思います。


どちらも書きだすことが主体になっているものです。

単語を書き出すことをきっかけとして、発想やアイデアを広げていくものですが、書き出される単語がすべてのキーとなります。

表意文字である漢字は、一文字ずつが意味を持っていますので、書き出されることによってその言葉が持っている意味以外の文字への連想がとてもしやすくできています。

もとの意味があって、それを表すために書き出しているのですが、そこから広がる発想は漢字そのものの持つイメージ的な意味から同じ漢字を使った言葉まで、かなりの範囲にわたっていきます。

拡散思考や発想を助けるためにはとても有効な方法となっています。

個別の言葉に対して持っているイメージは、一人ひとり異なりますので、同じ言葉でも種類の違う文字で書きだすと、参加している人がそれぞれ違ったイメージを持つことができるのです。

他の言語の文字は表音文字ですので、いわば発音記号みたいなものです。

文字そのものに意味がありませんので、言葉としての音の方に意味があるために、書き出してみたところで日本語ほどイメージとしての広がりがないのです。

誰が書いても同じことであり、せいぜい綴りのミス発見くらいしか役に立ちません。


単語の書き出しによる、言葉のイメージの拡散によって存在している環境は、それぞれの言葉の関係が考慮されていない場です。

精神的にも落ち着かない場となっています。

拡散だけが行われた状態であって、広がりきった状態となっています。


ここで登場するのが文章になります。

単語をつないで文章としたものが、関係性の表示であり論理の展開となっているのです。

一番よく行なわれていることは、単語として並んだ漢字やカタカナやアルファベットをひらがなの動詞と助詞で結び付ける活動です。

論理性を重視する場合には、数学記号である「+、-、×、=」などを使うこともあるのではないでしょうか。


論理の前段階として、よくやることがあります。

グループ化やカテゴライズなどと呼ばれている作業です。

ただ、枠で囲ってみたり、並び変えてみたりすることもあるようですが、どういう基準で分けているのかを明示しておかないと役に立たなくなります。


バラバラなインプットとして蓄積されていた単語たちが、様々な刺激によって導き出されきてアウトプットされます。

そのアウトプットに対して、最初の関係性であるグループ化が確認されていきます。

するとバラバラだったインプットの蓄積が、より関係性を持ったためにコンパクトになってくるのです。

さらにコンパクトになったグループ同士の関係性が発見され確認されていきます。

すると論理性があらわてきますので、グループ間に関係が生まれてきます。

全体としてさらにコンパクトになっていきます。


こうなると、全体像としての図式化も、要素間の関係性の図式化も可能になってきます。

日本語によるアウトプットはここまでの活動が、きわめてスムースに行われるのです。


アイデアフラッシュとしての単語のアウトプットから始まったものは、関係性を確認された論理になっていくのです。

しかもどの段階においても、特に意識することもなく自然に行なわれていくのです。

この時に大切なのは、一人の作業ではなく共同の作業だということです。


つまりは、言語に対する感覚も感性も異なる人同士がいることを忘れてはいけないのです。

拡散しきったと思う感覚が一人ひとり異なるのです。

グループ化したいと思うタイミングが一人ひとり異なるのです。

まだやりたいと思う感覚もあれば、もういやだと思う感覚が同時に存在するのです。


グループ化の基準も論理の展開も、一人ひとり異なるのです。

それがわかっていないと、やっても意味のないことになってしまうのです。

実際のアウトプットにおいては、参加させたことの実績が欲しいがためのアウトプットであったり、ある程度決められた後の合意形成のためのアウトプットであったりすることが非常に多くなっています。


少なくとも知的活動においては同等のレベルにある者同士で、異なる分野を持った者たちのアウトプットが一番適したものとなります。

ここでの活動は、報告するためのものではありません。

そこに参加している人たちのためのものです。

その過程や結果は、参加者以外には役に立たないものです。


日本語のチカラを存分に使ったアウトプットによって、知的活動をより質の高いものとしていきたいですね。




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2014年6月1日日曜日

知的活動と言語について(3)・・・表現活動

今回は二つの知的活動である「認知活動」「思考活動」に続いて、日本人が一番苦手な「表現活動」についてです。

母親からの伝承言語である「母語」によって開発される「認知活動」や、主に義務教育において学習言語である「国語」によって開発される「思考活動」に比べると、中心となる能力開発の場が定まっていないのが「表現活動」です。

三つの知的活動のなかで、他者とのコミュニケーションにおける役割が一番大きいものが「表現活動」です。


コミュニケーションの基本は、自分が「認識」したことや「思考」したことを、正確に相手に伝えることにあります。

それにもかかわらず、義務教育の後半における「国語」の授業内容や試験の内容は、語彙の増強のための漢字の書き取りと多彩な文章に対する読解が繰り返されるだけで、実用的な表現を磨く内容はほとんどありません。

学習言語としての共通語である「国語」の強化は行われていきますが、「国語」を使っての「表現活動」に必要な言語技術は身につける場面がないのです。


本来ならば、5歳頃までに基礎言語である「母語」によって「認知活動」を身につけ、10歳頃までに学習言語である「国語」で「思考活動」を身につけながら「認知活動」をさらに磨いてきた後に、「表現活動」を身につける環境が必要となります。

小学校の高学年になってくると、日記をつけ始めたり、漫画を描き始めたり、詩を書き始めたり、交換日記を始めたり、授業以外の学校生活の中でも「表現活動」が自然発生的に起きてきているのです。

10歳から15歳頃までの期間は、タイミング的にも身についている能力的にも「表現活動」を身につける最適な時期と言えるのではないでしょうか。


10歳までの基本的な学習言語を取得した後も、義務教育の間はさらに高度な学習言語の習得が続きます。

人が持っている言語は、半本能的に幼児期に身につけていく母親からの伝承言語としての「母語」。

知識や理論・規則などを身につけていくための学習言語としての「国語」。

そして、一般生活や社会生活・専門分野などにおいて後天的に身につけていく環境言語としての「生活語」の三種類があります。


中学校までは、生活の場の中心は学校と家庭です。

授業で扱われているのは「国語」がほとんどであっても、学校生活の授業以外の場面では環境言語である「生活語」や「母語」が使われている方が多いと思われます。

高等教育の専門分野や社会に出ていくようになると、環境言語が大きなウエイトを占めるようになります。

専門家と言うのはその分野で持っている言語の多い人のことを差す言葉ではないでしょうか。


「表現活動」の目的はさまざまですが、その一つに相手に正確に理解してもらうことがあります。

そのためには、表現に使う言葉に対して相手がどのような意味として理解するのかを知っておかなければなりません。

特に「母語」は同じ言葉でも一人ずつ持っている意味が違うと思った方がいいものですし、環境言語においては同じ環境にいる者でないと意味が違う場合も多々あります。

正しく理解してもらおうと思えば思うほど、相手と自分との環境の違いや持っている言語の違いを考慮しなければなりません。


「表現活動」の基本は自分の伝えたい内容を、相手の持っている言葉で表現することになります。

ある種の翻訳をする活動と言えます。

また、伝える内容によっては、相手に理解してもらいたい正確さの度合いが異なってきます。

さらには、口頭で伝えるのか文字や文章で伝えるのかの手段の選択も考慮に入れなければいけません。


社会に出ても、活動範囲の狭い人は持っている言語も少ないですし、ほとんど同じような環境にいる人との接触しかありませんので、伝えるべき相手の人が持っている言語も自分の持っているものとほとんど変わりません。

そのような環境では、相手の言語のことを考えることはほとんどないと思われます。

せいぜい、年齢や役職・立場の違いを考慮すればよい程度のことになるでしょう。

それすらできずに社会に出ていく人が多いことは、教育体制にも問題があるのではないでしょうか。


同じ言葉を使うときであっても、語順や前後の言葉の選択までもが考慮すべき対象となってきます。

日本語の持つ表現の豊かさは、正確さを伝えようとするときにはかえって邪魔になる場合があります。

同音異義語がたくさんありますので、同じ言葉だと思って間違えた理解をすることも頻繁に発生していると思った方がよさそうです。

自分が伝えようと思った内容は、正確に自分の理解している通りに伝わっていることはまずありえないことだと思ったいたほうがよさそうです。


それにもかかわらず、大学卒業時においてもほとんど「表現活動」のための言語技術を身につけないまま社会に出ていくことになります。

会社に入ってコミュニケーションが取れないためにうつ病になる者があとを絶ちません。


相手の持っている言語がわかっていなかったり、不特定多数の人に対してまず理解してもらうことをしたいときに使える言語があります。

誰でもが習って身につけてきた共通語です。

そうです、「国語」です。

それもなるべく最初のころに身につけた基礎的な言語のほうが有効です。


「国語」の一番初めは「ひらがな」です。

ひらがな言葉で伝えることが、一番多くに人に理解してもらえる方法です。

ひらがな言葉で伝えると言うことは、漢字の音読み言葉を使わないと言うことです。

現実の場面ではどうしても音読み漢字を使わなければならない場面も出てくると思われますが、その時には音読み漢字を使ったあとで、ひらがな言葉で説明しなおすことです。


漢字の音読みが、同音異義語の宝庫になっているところです。

ひらがな言葉には同音異義語は極めて少なくなっています。

ひらがな言葉の同音異義語は、そのほとんどが動詞です。

訓読み漢字としては多くの漢字が当てはまったとしても、基本的な動作を表す言葉としてはひらがな言葉の方が広い意味を持っているために理解がしやすくなります。

例えば「かく」は、訓読み漢字としては「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などがあります。

「かく」はこれらの漢字の意味をすべて包括した意味を持っているひらがな言葉であって、動作としては漢字で表記するよりもわかりやすいものとなっているのではないでしょうか。

文字を示せる環境があるのであれば、「かく」と言いながら訓読み漢字を書き出せば、より正確な理解を得ることができるでしょう。


学会での発表や専門家相手の表現の場合は、どんなに人数が多くとも伝える相手の持っている言語がわかりますので、それに合わせた表現をする言語技術での対応が必要となります。

ひらがな言葉の多用はかえって評価を落とすことになるでしょう。


社会へ出てからのコミュニケーションにおいて一番大切なのは「表現活動」になります。

いわゆるアウトプットです。

「認知活動」「思考活動」はインプットと内部活動です。

「認知活動」と「思考活動」においても共同や協力の場面においては、「表現活動」による共有作業のための確認が必要になります。


世界の他の国の人に比べて、日本人がアウトプットとしての自己表現やアピールが下手だと言われる理由がここにあります。

「表現活動」のための言語技術を身につけていないのです。

学ぶ機会がほとんどないのです。


彼らが、学習言語としての彼らの言語での「国語」を身につけるのは、小学校の低学年で完了します。

そのあとは、自己表現や議論・ディベートのための言語技術を義務教育で身につけていきます。

日本語は、彼らの言語に比べると文字の種類や語彙を含めて、とてつもなく大きな言語です。

その分、「国語」についても身につけるのに期間が必要になります。

基本的な習得だけでも10歳くらいまでかかっています。

したがって、義務教育はおろか学校教育の期間中ずっと、語彙の強化とより多くの文章体の読解に明け暮れることになります。


おそらく世界で最も豊富な表現を持つ言語を持ちながら、その使いかたを身につけることなく社会へ出ていくことになっているのです。

社会で求められてる能力は、その使い方である「表現活動」であるにもかかわらず、このような状況になっているのです。

小学校高学年から中学生にかけての期間に、何とか「表現活動」のための言語技術を習得できる環境を作りたいですね。

高校以降の入学試験でも取り組まれるようにしていかないと定着はしないと思われます。


なぜか、この期間が英語学習にとってとても重要な期間に充てられていることが気になります。

しっかりとした日本語を身につけてからの方が、英語の習得も効率がいいことはすでにほとんどの人がわかっていることです。

英語の授業がさらに低学年から実施されようとしているしている状況ですが、本当に必要なのはどちらなのか、よく考えていきたいですね。






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2014年5月31日土曜日

知的活動と言語について(2)・・・思考活動

先回は、知的活動の最初の段階としての「認知活動」が、5歳頃までに伝承言語である「母語」によってその基礎的なことが身についてくることを見てきました。

今回は次の段階としての「思考活動」についてみてみたいと思います。


思考ができるためには、思考するための知識が必要になります。

この知識を身につけるためには言語が必要になりますが、幼児期に身につけた伝承言語である「母語」ではあまりにも私的な言語であり、知識として決まった意味のある内容を理解するには同じ意味を理解できるための共通語が必要になります。

思考するための知識を身につけるために必要な言語を、学習言語と呼びます。

決まりきったルールや法則・成り立ちなどを学習するには、皆が同じ言葉で同じ意味を理解していないとなりません。

そのために身につけていく学習言語が「国語」です。


「国語」はそれぞれの言語において存在します。

一般的な理解としては、義務教育において人として生きていくために必要な知識を身につけるための共通語と思えばいいのではないでしょうか。

日本においては小学校一年生から義務教育として「国語」を習い始めます。

低学年の間は、知識を身につけるための言語としての「国語」の習得が中心になりますので、思考する能力はまだほとんどありません。

すべての教科を通じて、学習言語を身につけている期間と考えていいのではないでしょうか。

「国語」は、それぞれの言語の中でもできる限り個人的な理解に基づく意味を排除した、規則的なルールで成り立っている共通言語と言うことができます。

一般的に社会で使用されている日本語よりも、より厳格なルールである文法や限定的な意味の語彙よって構成された共通語と言えます。


それでも一年生から独立した教科として「算数」があります。

「国語」自体の習得がほとんどできていない一年生のうちから、その「国語」で書かれた教科書を中心にして論理としての知識の基本となる「算数」を学ぶことになります。

「1+1=2」を理解するのも言語で理解していきます。

そして論理としての「1+1」が「=2」であることを知識として学んで身につけていくのです。


低学年のうちは、知識を学ぶための学習言語の習得すらできていない段階にもかかわらず、論理の基本としての「算数」を「国語」で学んでいかなければならないのです。

「算数」の教科書や先生の話で使われている「国語」の理解が遅れると、いわゆる「算数が苦手」になるのです。

「算数」についても理科や社会のように、ある程度学習言語の習得が進んだ小学校三年生頃より取り組めばより理解しやすいのかもしれません。

それにもかかわらず、小学校一年生から独立教科として「算数」があることは、思考活動のために必要な重要な知識であることの証明でもあります。


知識を身につけていくために必要な基本的な学習言語の習得ができるのが、10歳頃であると言われています。

それ以前から少しずつ、身につけた知識を使って思考することができすようになっていきますが、目に見えて思考活動ができるようになってくるのがこのころです。

独立した専門教科も増えてきて、学習言語の習得度合いに合わせた形で、それぞれの教科に応じた「国語」による知識の習得が進んでいきます。


小学校の高学年以降の義務教育においては、習得された基礎的な学習言語によって、さらに高度な学習言語の習得とその言語による知識の習得をしていきます。

学習効果の結果を確認する試験の内容も、それまでは知識を習得し覚えているかどうかの記憶力が中心であったものから、少しずつ思考活動が求められる内容になっていきます。


学習言語の習得が進むにしたがって、使用する言語のほとんどが学習言語になっていきますが、一番ベースにある「母語」は無意識のうちに使用するできる言語として知的活動をスムースに機能させる言語として定着していきます。

基礎的な学習言語の習得ができてくると、認知活動における共同性もできるようになってきます。

一般に言われる、「物心がついてくる」「考えることができる」ようになるのが10歳頃です。

基礎的な学習言語が習得できて、言語を使った認知活動・思考活動ができるようになった頃ということができるのではないでしょうか。

幼児期に比べると記憶の保持期間も長くなり、10歳頃には2週間程度の記憶保持ができているようです。


この学習言語の習得がスムースに始められるためには、伝承言語である「母語」によって、そのための下地ができていなければなりません。

学習言語を早目に学んでも身につかないことは、さまざまな機関で報告されています。

「母語」は言葉としての記憶がほとんど残らないことも知られています。

「母語」によって発達した機能の中に、日本語としての言語感覚が含まれているのではないかと言われています。


学習言語の習得段階で全くわからない古い言葉に出会った時に、なんとなくこんなことを言いたいのではないかと感じることがあると思います。

この感覚が、「母語」によって身についている言語感覚ではないでしょうか。

「母語」によって開発され習得してきた認知活動の能力は、学習言語の習得によってさらに磨かれていくことになります。

単なる認知活動に加えて、思考活動をするための認知活動ができるようになっていくのです。


「国語」を習得しただけでは「1+1」は「いち たす いち」になってしまいます。

「国語」によって「算数」を習得することによって「1+1」は「=2」になる知識を理論として身につけていくのです。

義務教育で習得していく知識は、人として生きていくために必要な基本的な共通知識です。

したがって、自分だけ違ったものとなっていては社会で生きていくことにおいて不都合が生じます。


共通の知識として、同じ言葉で同じ理解ができるようにするために学習言語としての「国語」があります。

そのために、すべての教科の教科書に使用されている「国語」のレベルは、原則として、その時点までの「国語」の学習で習得完了しているレベルで書かれています。

基礎的な学習言語の習得が完了した10歳以降については、習得した「国語」を駆使したさらに高度な知識・理論を習得していきます。

身につけた知識・論理によって思考活動が行なえるようになっていきます。


「国語」においてもさまざまな文章に触れることによって、論理の展開を習得していきます。

高学年になると語彙の増強とともに、様々な種類の文章の読解力が習得されていきます。

各教科における独特の知識や論理も増えてくることによって、一気に思考活動の能力が磨かれていくことになります。

問いかけに対して記憶している知識をそのまま返すのではなく、「なぜか」「どうしてか」などの理由を付けることができるようにないます。

答えに対しての理論付けとして「~だから」が使えるようになります。


時間や距離・人との関係のなどの知識がついてくることによって、記憶についても「いつ、どこで、だれと」が明確になった記憶ができるようになってきます。

このような記憶のことをエピソード記憶と言います。

それまでのぼやっとした、どんなことがあったかという記憶から、より正確さを持った記憶を持つことができるようになります。

この記憶自体も言語によって行われているのですね。


知識が習得されるにつれて、いろいろな判断基準を持つことができるようになります。

比較したり、順番を付けたりすることができるようになるのはこのころからです。


言語を習得していますので話すこともできますが、この段階では相手の理解を意識した話し方はできません。

「認知活動」「思考活動」は個人の理解だけでも成り立つ活動です。

相手に伝える、理解してもらうための「表現活動」はさらなる習得を必要とすることになります。







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2014年5月30日金曜日

知的活動と言語について(1)・・・認知活動

人の知的活動が言語によってなされていることは疑う余地のないことですが、「知的活動」も「言語」も抽象的な言葉となっているために実感としてはつかみにくくなっています。

このことについてはいろいろな言い方がなされています。

いくつか挙げてみましょう。

「言語は思考のための唯一の道具である。」
「言語の限界が思考の限界である。」
「思考は言語によってなされている。」

知的活動の代表として「思考」を挙げていることが多いようです。

それぞれについて、少しですが掘り下げてみると若干わかりやすくなるのではないでしょうか。


まずは「知的活動」から見てみましょう。

知的活動は大きく三つの活動に分けることができます。

認知活動、思考活動、表現活動の三つです。

これらの活動のすべてが言語によってなされています。


個人でこれらの活動を行なっている場合もあれば、人と一緒に行っている場合もあります。

社会生活を営んでいると言うことは、人と協力して知的活動を行なっていることにほかなりませんので、知的活動を行なうことの基本は人と協力して行うことであると言うことができるのではないでしょうか。

一般に言われるコミュニケーション能力とはこのことを差していると思われます。


認知活動とは、対象を自分の持っている言語で理解する行為になります。

一人で行っているときは、自分だけの独特の理解でも構いませんが、共同・協力のもとに行う認知活動は、共通の理解ができなければなりません。

そのためには、同じ意味を持つ共通の言語によって同じ理解をすることが必要になります。


同じ言葉であっても、人によってその言葉の意味は微妙に異なっていることがあります。

認知活動において正確さが必要になればなるほど、対象を理解しようとするときの言葉の定義の共有が大切になります。

言葉は一般的になればなるほどいろいろな意味を持つようになります。

持っている意味の多い言葉や、意味の広い言葉による共有は正確さの妨げになります。

専門家同士が正確さを求めて認知活動を共有するときには、意味が限定された専門用語が多くなるのが当たり前のことになります。


知的活動の発達・成長の段階も、認知活動から始まります。

まずは、対象を認知することからすべてが始まるからです。

言語の習得も同じことが言えます。

知るために言語が必要になります。

対象がどういうものかを理解するための言葉が必要になります。


最初の理解は、共有の前提として個人としての理解が必要になります。

自分だけが理解できればいいのですから、そのための言語は極めて個人的な言語で構わないことになります。

個人として勝手に意味を持たせている言語で構わないのです。


幼児期がまさしくこれに当たります。

誰かと認知した内容を共有する必要がないのです。

一番初めに共有する相手は、ほとんどの場合は母親になります。

最初に認知活動を共有する必要がある相手が母親になりますので、認知活動のための言語として母親の持つ言語との共有が少しずつ始まっていきます。

この時に母親から伝承される形で身につける言語が、伝承言語としての「母語」になります。


幼児期に発達する知的活動ためのあらゆる器官が、この「母語」を最適に使えるようになるために発達していきます。

脳は勿論のこと、言葉を発する声帯や、言葉を受取る聴覚なども「母語」を最適に使うことができるように発達してき、反対にそのために不必要な機能は発達しなかったり退化したりしていくことになります。

日本語を「母語」として習得してく場合には、母音を発生しやすいように声帯が発達していきますし、英語を「母語」として習得していく場合には舌や口腔の動きが子音を派生しやすいように発達していくことになります。

この段階の言語は日本語や英語と言っても、母親の言語の伝承形ですから、母親が持っている個人的な言語が「母語」として受け渡されていくことになります。


認知活動のために言語を習得していっている段階ですので、認知活動自体もまだまだこれから習得していくところです。

知的活動のために必要な各器官の発達は、体の成長に伴って基本的なところまででも15歳くらいまでかかると言われています。

世界中の義務教育が定めている期間とほぼ合致するのは、こんなことも影響しているのかもしれないですね。


「母語」によって認知活動の経験を積みながら、知的活動のための本当に必要な基礎的な部分ができてくるのが5歳頃だと言われています。

この段階ではまだ思考活動や意志を持った表現活動ははほとんどできていません。

生きていくために最低限必要な認知活動を、母親との共通語によって何とか始められるようになった段階と言えるのではないでしょうか。


4歳頃になれば、「母語」を原動力としていろいろなものが認知できるようになってきます。

いくら個人的な言語だとは言っても母親の言語も日本語である以上、他の人が使っている日本語との共通性はかなりの範囲であります。

このころの子どもたちは、認知活動のために身につけた「母語」を話すことができますが、知的活動のための他の能力が身についていませんので、思考や表現をしているわけではありません。

自分が認知していることを話したり、本能の求めに応じて認知したものを欲しがったりしているだけのことです。


言語で認知することがしっかりできるようになるまでの補助として、さまざまな器官の感覚が敏感に働いています。

言語以外での情報をもっともたくさん感じているのが幼児期になります。

言語の習得が進むのに比例して、他の感覚による情報の収集が減っていくことになります。

そのかわり、言語の習得が進むにつれて、知的活動のための機能がどんどん発達し磨かれていくことになるわけです。


この時期に母親が持っている言語と違うものを教え込んだりすると、母親との認知の共有ができないことが増えてきます。

母親がバイリンガルであれば問題ありませんが、そうでない場合は幼児期の多言語の教え込みは、一番大切な母親との触れ合いに障害となることがありますので注意が必要です。

この段階でしっかり母親との一体感である認知の共有ができないと、将来的な学校生活や社会生活での活動に影響が出る可能性が高くなります。

一番大切な言語において、周りの人と違う感覚を長い間味わって苦しんだ例が報告されています。


すべてのことが母親との共有・一体感から始まります。

5歳までの環境で、その人の知的活動の能力が決まってくると言うことは、教育者だけでなくあらゆる分野で言われていることです。

この期間に何かを教え込まなくてはいけないと勘違いされる場面もあるようですが、そうでないことはお分かりただけると思います。

知的活動のすべての基礎が、幼児期の母親からの伝承言語である「母語」にあることを知っていただきたいと思います。







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