これをうまく使ったのが、発想法としてのKJ法でありNM法であることも先回触れてきました。
(参照:日本語によるアウトプットのメリット)
つまり日本語のメリットである表現力の豊富さと表意文字である漢字の広がりを生かすためには、文字として書き出すことが一番適していることになります。
カードに書いた単語で発想したりすることよりも、手で書きながら同時に発想をしていくことが大切になるわけです。
文字からの発想力が刺激されますので、とにかく書き留めておくことが大切になります。
日本における個人の学習方法は、昔から読み書きそろばんと決まっていました。
この意味をどこまで解釈しているかということになります。
読んだものをそのままを書くと解釈している人が多いことに驚きました。
ここで言っている読むことと書くこととは、同じ対象に対していっていることではありません。
日本人の得意な「三の魔法」によって成り立っているこの言葉は、読むこと、書くこと、そろばんのすべての対象が違っていると考えたほうが理解しやすいのです。
読んだ対象を書くことではなく、読むことと書くこととそろばんの三つについて言っていることなのです。
日本語での知的活動において一番大切なことは、知的活動の対象が文字で見えるようにしておくことなのです。
絵でも記号でもありません。
文字で見えることが大切なのです。
文字を見ているときの日本人の脳は、左右の脳がともに反応していることがわかります。
西洋絵画を見ていたり、西洋音楽を聞いていたりするときは左脳はほとんど活動をしないようです。
日本語による知的活動は、日本語の環境にあるもを対象としている限りにおいては、左脳頼みになることも右脳頼みになることもなくバランスよく活動しているのです。
西洋の技術や考え方が入ってきたころより、論理に偏った左脳系の活動が増えてきたのです。
ですから、日本人には基本的には右脳のトレーニングなどは必要なかったのです。
もともとが非常にバランスの良い脳の使い方ができていたのです。
そのために、感覚的なストレスを感じることが好ない環境で、自然との対話のなかで知的活動を行なうことができたのです。
主に明治維新以降の西洋文明の急激な導入によって、感覚的な抵抗感は持ちながらも、現実的な技術を取り込み開発してきました。
それによって、かなり偏った知的活動がなされてきたと言われています。
ある種の疑問を感じながらも、新しい便利さと経済的な発展は個人にとってはとても魅力的なものでした。
その疑問も論理的なものではなく、感覚的なものであり、なんとなく本当にこれでいいのだろうかという程度であったものが、だんだんと具体的な疑問や問題として捉えられるようになってきました。
西洋文明だけで走ってきた人達には、これからどうしていいのかはわからないのです。
自然破壊が悪いとは言っても、自然との付き合い方がわからないのです。
ですから、彼らの論理では数が少なくなったら絶滅危惧種として保護する、そのためには捕獲を禁止すると言ったような極論が生まれてくるのです。
自然との共生を感覚として持つことができないのです。
自分たちの持っている論理で説明できないものに対しては、どのように対処して良いのかが分からないのです。
感性や感覚で対応することがきわめて怖いのです。
彼らは、ミサイルや原子力、拳銃は怖くはないのです。
彼らの論理で説明できる構造だから、コントロール可能だと思い込んでいるからです。
彼らは、エボラや地震はとても怖いのです。
論理で解明できないからです。
日本語の感覚では、エボラや地震は自然にあるものであり存在するものです。
予知こそできませんし、対処の仕方も完全ではありません。
それにもかかわらず、原子力の方が怖いと思っている人の方がはるかに多いのです。
日本語による知的活動は、他の言語による知的活動とはさまざまな面で異なっています。
いまや、その違いは日本語の特徴として、むしろ世界に対して誇るべきものとなっています。
その日本語による知的活動を、最も効率よく特徴づけるためには、文字としてのアウトプットが必要なのです。
単語のアウトプットによってそこから導かれる発想は、際限を知りません。
それらの単語の関係を表現する文章は、無限の表現力を持ったものであり、どんな論理をも展開することができます。
とにかく文字として、そして文章としてストプットすることが日本語による知的活動を一番有効にすることにつながります。
もっともっと書くことに目を向けたら良いかもしれませんね。
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