一つは、漢字という表意文字を持っている点です。
漢字は、現在使用されている言語文字のなかで、唯一残っている表意文字だと言われています。
この点だけで言えば、同じく漢字を使っている中国語にも当てはまることでもあります。
むしろ、漢字においては中国語の方が使い慣れているのかもしれません。
それでも日本語においては、漢字に対しても音読みと訓読みを持っており、言語学の世界でも漢字を産んだのは中国語であっても漢字を生かしたは日本語であるとまで言われています。
訓読み漢字は読み仮名や送り仮名の存在とともに日本語独特のものとなっています。
二つ目は表記文字の種類の多さです。
日常的に使っている文字だけでも、同じ言葉を書き表すのに、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットなどの使い分けを行っています。
文字の種類の違いだけでも、その言葉における感覚やニュアンスの違いを表現できるものとなっているのです。
それに対して、話し言葉としての日本語は、持っている音はひらがなの音だけであり、基本の音だけで言えば46音しかありません。
濁音、半濁音、撥音、拗音などのすべての音を数え上げても150音までには至らないのではないでしょうか。
世界の文明の先端を担っている言語の中では、きわめて音数の少ない言語となっています。
つまりは、日本語は話し言葉よりも文字として書いた時の方が、日本語としての特徴が明確になることになります。
書いてアウトプットすることの方が、話してアウトプットすることよりもより日本語の特徴を生かした活動ができることになります。
そこで、単語によるアウトプットと文章によるアウトプットで見てみたいと思います。
日本人の好きな発想法やアイデア出しに、KJ法やNM法があります。
実はこれは他の言語話者の間ではあまり行われません。
日本語だから知的活動において効果が発揮できる方法なのです。
どちらの方法も日本人が考え出したものであり、発明者の頭文字を取ったものとなっていることは既にご存知のことと思います。
どちらも書きだすことが主体になっているものです。
単語を書き出すことをきっかけとして、発想やアイデアを広げていくものですが、書き出される単語がすべてのキーとなります。
表意文字である漢字は、一文字ずつが意味を持っていますので、書き出されることによってその言葉が持っている意味以外の文字への連想がとてもしやすくできています。
もとの意味があって、それを表すために書き出しているのですが、そこから広がる発想は漢字そのものの持つイメージ的な意味から同じ漢字を使った言葉まで、かなりの範囲にわたっていきます。
拡散思考や発想を助けるためにはとても有効な方法となっています。
個別の言葉に対して持っているイメージは、一人ひとり異なりますので、同じ言葉でも種類の違う文字で書きだすと、参加している人がそれぞれ違ったイメージを持つことができるのです。
他の言語の文字は表音文字ですので、いわば発音記号みたいなものです。
文字そのものに意味がありませんので、言葉としての音の方に意味があるために、書き出してみたところで日本語ほどイメージとしての広がりがないのです。
誰が書いても同じことであり、せいぜい綴りのミス発見くらいしか役に立ちません。
単語の書き出しによる、言葉のイメージの拡散によって存在している環境は、それぞれの言葉の関係が考慮されていない場です。
精神的にも落ち着かない場となっています。
拡散だけが行われた状態であって、広がりきった状態となっています。
ここで登場するのが文章になります。
単語をつないで文章としたものが、関係性の表示であり論理の展開となっているのです。
一番よく行なわれていることは、単語として並んだ漢字やカタカナやアルファベットをひらがなの動詞と助詞で結び付ける活動です。
論理性を重視する場合には、数学記号である「+、-、×、=」などを使うこともあるのではないでしょうか。
論理の前段階として、よくやることがあります。
グループ化やカテゴライズなどと呼ばれている作業です。
ただ、枠で囲ってみたり、並び変えてみたりすることもあるようですが、どういう基準で分けているのかを明示しておかないと役に立たなくなります。
バラバラなインプットとして蓄積されていた単語たちが、様々な刺激によって導き出されきてアウトプットされます。
そのアウトプットに対して、最初の関係性であるグループ化が確認されていきます。
するとバラバラだったインプットの蓄積が、より関係性を持ったためにコンパクトになってくるのです。
さらにコンパクトになったグループ同士の関係性が発見され確認されていきます。
すると論理性があらわてきますので、グループ間に関係が生まれてきます。
全体としてさらにコンパクトになっていきます。
こうなると、全体像としての図式化も、要素間の関係性の図式化も可能になってきます。
日本語によるアウトプットはここまでの活動が、きわめてスムースに行われるのです。
アイデアフラッシュとしての単語のアウトプットから始まったものは、関係性を確認された論理になっていくのです。
しかもどの段階においても、特に意識することもなく自然に行なわれていくのです。
この時に大切なのは、一人の作業ではなく共同の作業だということです。
つまりは、言語に対する感覚も感性も異なる人同士がいることを忘れてはいけないのです。
拡散しきったと思う感覚が一人ひとり異なるのです。
グループ化したいと思うタイミングが一人ひとり異なるのです。
まだやりたいと思う感覚もあれば、もういやだと思う感覚が同時に存在するのです。
グループ化の基準も論理の展開も、一人ひとり異なるのです。
それがわかっていないと、やっても意味のないことになってしまうのです。
実際のアウトプットにおいては、参加させたことの実績が欲しいがためのアウトプットであったり、ある程度決められた後の合意形成のためのアウトプットであったりすることが非常に多くなっています。
少なくとも知的活動においては同等のレベルにある者同士で、異なる分野を持った者たちのアウトプットが一番適したものとなります。
ここでの活動は、報告するためのものではありません。
そこに参加している人たちのためのものです。
その過程や結果は、参加者以外には役に立たないものです。
日本語のチカラを存分に使ったアウトプットによって、知的活動をより質の高いものとしていきたいですね。
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