2015年10月29日木曜日

「ことば」が行動を変える

同じ言葉を使っていると行動までが同じようになってくることは先回も述べました。
(参照:行動を変えるための「ことば」

使っている言葉が聞きなれない言葉であってその新鮮さが感じられるうちは、しっかり言葉を理解して解釈しようとします。


漢字で表現されている言葉の場合には、その言葉を理解する過程としてまず文字としての意味を考えることが行なわれます。

それは漢字という文字が一文字ずつが意味を持った文字となっている表意文字であることから自然に行われることとなります。


「起床」という言葉があります。

漢字で表現されていますので、この言葉の解釈が自分の中ではっきりしていない場合には「起床」という文字としての漢字の意味を考えることになります。

二つの漢字からできていますので「おきる(起きる)」と「とこ(床)」を文字から解釈します。

この二文字の関係を見ることによって「とこ(床)からおきる(起きる)」ことであろうという文字的な解釈ができることになります。

表意文字である漢字が持っている意味からしたら間違いのない解釈ではないでしょうしょうか。

いわゆる辞書的な解釈ということができると思います。


ところが「起床」という言葉と接する機会や自分が使っている場面がある程度限定されてくる場合があります。

この言葉を聞かいない日もあれば、あるいは聞いたり使ったりしている場面が同じような環境であることが起きてきます。


すると、「起床」という言葉の持っている文字的な意味ではなく実際に使われている場面での意味合いがその場面に適したように変わっていくことが起こります。

私の中では、「起床」は「床から起きること」よりも「朝目覚めること」としての解釈の方が勝った言葉となっています。

「起床」という言葉としての意味の中にはどこにも朝に結び付くものはないにもかかわらずこのようになってしまうのです。


それほど頻繁に使われている言葉ではない「起床」ですが、時としては家族を朝起こすときには「起床!」といって声を掛けることもあります。

「早く起きろ」と言っていることですね。


実は、ここで行われている解釈の過程がとても重要なことになっているのです。

「起床」(キショウ)という音読み漢字の熟語では私たちはその実際の意味を解釈できていないのです。

文字的な意味を解釈するという最初の行為にあたっても「床から起きること」として、一文字ずつを訓読みとしての日本語である「ひらがな」にしなければ理解できないのです。


わかり易く言ってしまえば、音読み漢字の熟語は日本語の姿を借りた外国語なのです。

漢字の音読みは日本語になっていない言葉なのです。

最近できた読み方では「注する」(チュウする)や「滅ずる」(ゲンずる)、「断ずる」(ダンずる)などのような使い方もありますが、そこには元の慣れ親しんだ訓読みがあるから成り立つようになったものです。

元の訓読みの言葉としての意味である「ことば」を示すための新しい日本語表記の方法の一つなのです。


文字そのものが意味を持っていない表音文字においてはこのようなことは存在しません。

表音文字には発音としての一音ずつを表す記号としての役割しかありませんので、文字から意味を推測することができないからです。


表音文字の代表として「カタカナ」で見てみるとわかるのではないでしょうか。

「キショウ」と書かれた文字字体からその意味するところを解釈することは不可能です。

音としての「キショウ」からは「起床」だけでなく「気象」や「希少」「記章」「気性」などたくさんの言葉が相当してしまい、カタカナの文字だけからでは適切な解釈をすることができません。

それはひらがなにしても同じことです。


日本語の意味は「ことば」になって初めて解釈できるものとなっています。

漢字の音読みを訓読み置き換えることが第一歩です。

これによって日本語の本来の音である「ひらがな」に置き換わります。

そして「ひらがな」に置き換わった音から実際の場面として相応しい解釈としての「ことば」として理解する必要があります。


もともと文字を持たなかった「古代やまとことば」に充て字として文字を借りてきたのが漢語(漢字)でした。

それは二種類の仮名として日本独特の表音文字を作り上げました。

しかし、新しい言葉を作ったり組み合わせたりするには漢字はとんでもなく便利なものでした。

表面的な文字上の意味を使いまわすことによって明治期には広辞苑一冊にも相当する20万語を超える言葉を生み出してきました。


その結果、表意文字という漢字の使われ方が表音文字としてのと使われ方もしていくようになったのです。

本来の漢字が持っている文字通りの解釈とは異なった「ことば」として解釈しなければならないことが多くなってきたのです。

漢字の持っている一文字ずつの意味は、その漢字を訓読み漢字として理解してなければ解釈できません。

訓読み漢字がない場合には他の「ひらがなことば」で解釈しなければ理解できません。

まさしく漢文の訓読解釈以外のなにものでもありません。

訓読したうえで初めて解釈することが可能になるのです。


音読み漢字で作られた言葉は訓読み=ひらがな言葉に置き換えられて初めて日本語として解釈できるものとなっているのです。

「ひらがな言葉」のもとは「やまとことば」です。

「やまとことば」を文字として表すためにできたものが仮名ですので、「ひらがな言葉」の原点は「やまとことば」になります。


普段使っている言葉を変えれば行動が自然に変わっていきます。

同じ言葉を使い続けることによって、行動が限られてしまいます。


「ことば」を変てみることは思っている以上に行動を変えるために効果の上がることです。

それもすべての基準となっている母語がいちばんよく働くための「ことば」にすることがさらに効果を高めることになります。

母語が日本語である以上、その母語が一番効果的に働くのは「ひらがな言葉」によってなのです。


まずは、「ひらがな言葉」に置き換えて使ってみることによって変化を感じてみませんか。

「ひらがな言葉」というとなんとなくレベルが低く感じられる人もいると思いますので、「現代やまとことば」と置き換えてもらったらいいと思います。

文字として表記するときには漢字の訓読みを使ってもいいと思います。

その意味も込めて「ひらがな言葉」ではなく「現代やまとことば」と呼んでいます。


それでもおなじ「ことば」を使い続けるとパターン化された行動になってくことがありますので、意識して言葉を変えてみることが必要になります。

表面的な言葉がそのまま行動に結びつくようなパターンは知的活動の老化を生むことになります。

老夫婦の間で「あれ」「それ」でそのまま固定化された行動ができるようになっていることは、決して知的活動のためには良いことではありません。

面倒くさいことが知的活動を刺激することだったんですね。


さて、今日もしっかり新しい「ことば」で説明をしてあげましょう。