2015年10月28日水曜日

行動を変えるための「ことば」

毎日同じような生活環境のなかで同じような行動を繰り返している人は思った以上に多いのではないでしょうか。

自分では気づかないうちにそこで同じような刺激に対して同じような反応が繰り返されているために、条件反射的な行動が行なわれていることがよくあります。


習慣化するということは出来るだけ意志のチカラを使うことなく条件反射的にできるようにするということに他なりません。

意識して習慣化しようとしなくとも同じような環境において同じような刺激に対して同じような反応を繰り返していれば自然に習慣化されてしまいます。

このような習慣のことを悪習慣と言ったり悪癖と言ったりすることもありますね。


ここで言われている意志のチカラとは思考することであり判断することであると思われます。

人は思考したり判断したりしているだけでは具体的に変化することはありません。

その結果としての行動をすることによって初めて周囲に対して影響を与えることができて変化が起こる可能性が出てきます。

やってみようと思っていても行動につながっていなければ全く変わっていないことになります。


毎日の生活環境において同じような言葉ばかり使われている場合は、その言葉によって行なわれる思考や判断が同じような結論になることが多くなります。

言葉が新鮮な刺激を保っているうちは新しい思考や判断がなされることもありますが、同じ言葉が続いていくと思考や判断が省略され結果としての行動だけ同じことが行なわれるようになります。

このことを規則正しい行動や規範などと言って歓迎する向きもあります。

その環境にふさわしい基準行動として強制的に求める場合すらありますが、本来の知的活動が省略されてしまってパターン化していることになります。


長い時間このような環境にあることによって出来上がってしまった条件反射に対して、「仕事に慣れてきた」「仕事ができるようになった」という評価を与えることも決して少なくありません。

自社の独特の環境における決められた行動に対して、教育という名のもとに条件反射ができるように求められることもあります。

状況によってはこれを善しとする場面も実生活においては少なくないと思われます。


このことが増えていくと、「なぜ、どうして」という知的活動の中心機能である思考や自分の判断による行動がどんどん少なくなっていきます。

そこで行なわれる行動は条件に対して「こなす」ための行動であり、過去と同じことをトレースするだけのことになってしまいます。

パターン化された固定概念となるわけですが、自分でも気がつかないうちに出来上がってしまっているものが思った以上にたくさんあると思われます。


思考しないことや判断をしないことが習慣化されてしまいますと、その方が楽になってしまい脳が「快」と感じるようになってしまいます。

更に進んでしっかりとした深い思考をしたり論理や感情に基づいて自分なりの判断をすることに対して面倒だと思うようになると脳が「不快」と感じるようになってしまいます。

固定化された組織や環境の中でパターン化された活動を求められている人は、知らないうちにこのような現象に陥っていることがあります。

休日においてすら決まりきったパターンで過ごしていると更に拍車をかけることになると思われます。


肉体的な条件反射とは異なって、知的な刺激に対して認知しているものが言語です。

具体的には「ことば」として認知することによって初めて知的な刺激として受け止めることができることになります。

単なる文字としての言葉と異なり、音として持っている感覚としての意味を「ことば」としてひらがなで表記しています。


日本語での表記は多くの場合、漢字が使用されています。

漢字というものは一文字一文字が意味を持っているために音としての「ことば」を表すためには不適なものとなっています。

音としての「ことば」よりも見た目の文字としての意味が先に受け取られてしまうようになっているのです。

見た目の文字としての意味が「ことば」のほかに存在してしまっているからです。


意味が分からない漢字や熟語に出会うと、文字的に分解したり文字的な意味から推測することが行なわれてしまいます。

その方が見た目的にも簡単だからです。

日本語の本来の意味である「ことば」は、話し言葉の音によって導かれてきたものです。

その音を表すための記号として使った文字である漢字が、文字として意味を持ったものであるために表面的には文字によって理解できてしまうことができるのです。

しかも、その理解はほとんどの場合は「ことば」として持っている意味とは一致していることがありません。


文字(漢字)によって表現された表面的な意味を持ったものを「言葉」として、本来的な意味としての「ことば」と区別して使用しています。

同じ言葉を使っている限り簡単には行動が変わりません。

慢性的な環境で慢性的な活動が行われている場合には、使われている言葉も同じようなもとなっています。

知的な刺激としての入力が同じようなものである限り、アウトプットとしての行動を変えることは容易なことではありません。


見慣れないインプットに対しては否が応でも思考せざるを得ません。

まずは認知するための知的活動がいろいろな方向からなされることになります。

そのためには今までの経験による固定概念が役にたつ場合もありますが、それ以外の情報も動員されていくことになります。

そしてどのような「ことば」として認知されるかによって、それ以降の知的活動が変わってきます。
(参照:言語技術と思考技術

知的活動は最後の行動に結び付くことによって変化が起こる可能性が生まれます。

自分自身で変化を感じることはとても難しいことです。

自分の起こした行動によって、周囲が変化したことによって初めて自分の行動が変わったことに気がつくからです。

周囲を変化できない行動は、基本的には行動そのものに変化がないことになります。


行動を変えるためには自分が使う「ことば」を変えることが一番の近道になります。

今までと違う言葉を使うことによって、今までと違う「ことば」を感じることができます。

違う「ことば」は黙っていても今までと違う思考と判断を呼んできます。

それが初めて今までと違う行動をする可能性につながるのです。


同じような言葉を使って同じような生活をしていると、その活動自体がとても自然で楽に感じるようになります。

いわゆる決まりきったパターンの生活というやつです。

楽に感じるということは脳が「快」と感じ始めていることになります。


人の脳は5%て程度しか使われていないということはよく言われることですが、同じ刺激に対して反応がパターン化されることによってさらに使用される部分が減っていると思われます。

常に新しい刺激を与えることによってより活性化させることが可能なのではないでしょうか。


新しい刺激を与えるためには同じ行動をしていたのでは難しいことになります。

新しい刺激を与えるためには行動が変わらなければならいと思われます。

そのためのきっかけは、刺激に変化をつけることが大切だと思われます。


言語で認識できて初めて知的活動としての認知になりますので、様々な目新しい言語としての刺激が活動を活性化させることにつながります。

同じことであっても言葉を変えて認知するようにすることで新しい刺激として受け取ることができるようになります。

あたり前に受け止めている言葉に変化をつけることによって新しい刺激として認知するようにすることです。


文字としての言葉は表面的なものであり、音としての「ことば」にするためにはひらがなで表現することが必要になります。

この響きが日本語が持っている刺激として一番大切なものだと思われます。


母語として日本語を持っている私たちは日本語の響きが最高の刺激になり最高の知的活動を促すことになります。

文字としての刺激に慣れ過ぎてマンネリ化してしまった結果の行動を変化させるためには、言葉を変化させた結果としての新しい「ことば」による刺激が効果的になるようです。

それによって得られた判断を固定概念で否定することなく行動に結び付けることで、変化が生まれてくると思われます。


結果としての変化が現状に比べて良い方向に行こうとも悪い方向に行こうとも関係ないのです。

変わることが大切になります。

良い方であるのか悪い方向であるのかは固定概念による判断になるのでどちらでもいいことです。


変化の癖をつけることで悪い方向だと思ったらすぐに変化をさせることが可能になります。

インプットとしての言葉を変えることで「ことば」をかけて行動を変えることがスムースにできるようになるのではないでしょうか。