日本語が文字を持たなかった時代の原始日本語のことを「古代やまとことば」と呼んでいます。
文字を持った言語として漢語がやってくる前にも、「古代やまとことば」がことばとしてかなりの数が話されていたことはその後の万葉仮名による史料でも明らかなことです。
話し言葉しかなかった「古代やまとことば」を書き表すための文字として漢語を利用しようとしたときに一番大切なことは、漢語の持っている音が文字と一対一になって固定されていることです。
利用した文字が複数の音を持っていては、音を表すための記号としては不的確なものとなってしまいます。
ところが、実際に仮名が作り出された頃には、漢語においても一つの文字に対して漢音や呉音だけではなく唐音までを含めて複数の音が導入されていました。
漢語を学んだ時期や師とした者が使っていた音の違いによって、同じ文字であっても複数の音が使われていたと思われます。
そもそも、「古代やまとことば」を表記する文字として漢語を利用しようとしたときにその技術の参考となったものが、仏教典の原典であるサンスクリット語(梵字)を漢語の音を利用して表記した方法です。
その技術を日本に持ち帰ってきたのは、唐土で悉曇を(しったん:梵語)を学習してきた代表的な僧である入唐八家(最澄、空海、円仁、常暁、円行、慧運、円珍、宗叡)と言われる者たちでした。
中でも空海は中天(中天竺:中インド)の音を伝えて真言宗悉曇の祖となり、円仁は南天(南天竺:南インド)の音を伝えて天台宗悉曇の祖となりました。
この時の僧たちが持ち帰ってきた言語が、同じ文字であっても音が違っているものがたくさんあったのです。
それは漢語の漢音・呉音・唐音だけにとどまらず、中天と南天における悉曇語においてもかなりの違いがあったのです。
その悉曇語を読むためには漢語の文字を充てて漢語の音を利用して読むことを行なうわけですから、宗派や師匠によって同じ文字が表す音が違っていることがそこらじゅうで起こっていたのです。
したがって、技術としては梵字を漢語で読むいわゆる悉曇学を学んで利用しましたが、「古代やまとことば」を漢語で表記したときには文字の違いはもちろんのこと同じ文字でも違う音がたくさんありました。
『古事記』や『万葉集』の表記にはその名残をいたるところに見ることができます。
悉曇学が五十音の基礎技術であったことは以下の資料を見てもわかるのではないでしょうか。
「アイウエオ」が梵語で表記されておりカタカナでその読み方が説明されているのです。
また、「ア」という音を出すために必要な音が下に小さく表記されているのです。
これは、梵字を利用した音を表記する技術です。
その後、諸派になっていた悉曇を総合集大成したのが天台宗の安然(841-915年)であり、その著書『悉曇蔵』(880年)は不朽の名作と言われているものとなっています。
「アイウエオ」という記号は悉曇を利用して作り出したものの、使用した漢字をそのまま残しておいてはその音を特定することが難しかったのではないかと思われます。
そのために、カタカナが音を表すための記号として作り出されたのではないでしょうか。
「ア」という記号が持っている音が「イヤ」「ウワ」で表されているのです。
五十音表の中の記号でカバーし合っていますので、そこからはみ出ることはありません。
仮名の音を同じ仮名を用いて表現しているのです。
「ア」という文字記号の音を同じカナの表記を発音記号として使っていることになります。
この表は江戸時代の元禄年間のものです。
部分的には現代と異なるものもありますが、ほとんどそのまま現代でも使えるものではないでしょうか。
この方法も悉曇学によってもたらされたものです。
この時代になると欄外の説明についても理解できる部分が多くなってきてホッとしますね。
仮名を説明するのに仮名を用いて行なうことは、簡単には思いつかないことではないでしょうか。
仮名の五十音が現代の形で定まってくるのはさらに後のことになります。
このようにして見てくると、芸術的な分野で使われていったひらがなと学術的な分野で使われていったカタカナの役割が分かるのではないでしょうか。
二つの仮名が日本語を表記できるようにしていったんですね。
そもそも「アイウエオ」の音の順番が悉曇から借用したものであり、口の中のどこから音が発せられているのかによって五十音が定められています。
悉曇を学ぶことがなければ「古代やまとことば」を表記する文字は違うものになっていたかもしれませんね。
「いろは」が記載されている現存する最古の史料は『今光明最勝王経音義』(1079年)と言われています。
そこでの「いろは」はかろうじて「ヘ」だけが仮名らしく見えるものであり、それ以外は借字としての漢字が充てられています。
同じ読み方をさせようとする異体字も掲載されたものとなっています。
「いろは」のあとには「次可濁音楷字」と書かれており濁音で使用するものが挙げられていますが、その順番は「ザジズゼゾ ダジヅデド ・・」と五音順になって記載されています。
その『今光明最勝王経音義』の最後には以下のようにカタカナの表記による「五音図」が掲載されています。
本編の締めくくりとして製作年月日とまとめを書いた紙に追加された紙の裏側に以下のような記載があります。
本文と同筆とは思われませんし、本文への書き込みとも手が違っていると思われます。
しかし、書体から判断すると本文とそれほど離れた時代ではないだろうと言われています。
「いろは」がひらがなにならなかった頃にもカタカナはすで仮名として存在していたことがうかがえます。
それを仮名と呼んでいいのかは微妙なところかもしれませんが、文字としてのカタカナはほぼ今と変わらない形で既に存在していたということは出来ると思われます。
その役割としては発音記号としての機能が大きかったと思われます。
音を表す記号としてのカタカナはひらがなよりも早くにできあがっていたものだったのでしょうね。