文字から離れてみよう
3回にわたって「文字と言葉」について見てきました。そこでは文字は言葉につなぐための記号であることを確認してきました。
そして「言葉」という漢字が「ことば」につなぐための記号であることを見つけてきました。
(参照:文字と言葉)
漢字で表記することは、他の文字で表記することと異なって「ことば」への結びつきを難しくしていることを見てきました。
それは、文字としての漢字自体が一文字ずつ意味を持った表意文字であることと大いに関係があることでした。
そして、文字自体が意味を持っていることが本来の「ことば」を表す記号としての役割を越えて機能しているのです。
その機能は、「ことば」が本来持っている意味や感覚を補完してよりわかり易くしていることもあれば、反対に「ことば」の持っている意味や感覚を分かりにくくしている場合もあるのです。
人は文字で理解をしているのではないことを見てきました。
脳の中で文字が「ことば」として変換されることによって初めて理解されていることを、文字を持たない幼児期の「ことば」による活動で確認してきました。
漢字 → 言葉 → ことば → こと
この変換が素直に行なわれていることが理解するための活動ということになるのではないでしょうか。
文字の持っている意味が「ことば」の持っている意味を理解しようとすることを邪魔する例を挙げておきたいと思います。
必要に迫られて作られた漢字に多く見ることができるものです。
明治期に大量の外国文化を導入し、その翻訳として作った漢字にたくさん見ることができます。
「権利」という文字があります。
「言葉」としては「けんり」ということになるのでしょうか。
この言葉はもともとの日本にあった感覚ではありません。
英語のrightに対して充てられた言葉になります。
音として「けんり」と言っても「ことば」として素直に理解できるものとなってないと思われます。
漢字としての「権利」にも文字上の意味があります。
それは、「権力を持って利を得る」といった意味になります。
英語としてのrightは「権力を持って得る」ものとは大きな隔たりがあります。
いかなる権力によっても犯すことのできない、人として本来的に備わっているものという感覚がある「ことば」です。
日本語の「権利」には文字としての意味から広がってしまった「力をもって手に入れたもの」という感覚が伴ってしまっています。
したがって、別のチカラの元では制約を受けることになってしまうことになります。
「権利」から導かれる「ことば」としては「できること、やっていいこと」に近い感覚ではないでしょうか。
そのために、rightに比べると使用頻度や使用場面も多岐にわたり軽いニュアンスとなっていると思われます。
「ことば」としての「けんり」は日本語の感覚にとっては極めてあやふやなものであるがために、どうしても漢字表記をして文字としての意味に頼らざるを得ないものとなっているのではないでしょうか。
日本語としての「権利」は誰かが主張したり認めたりすることができるものとなっていますが、rightは気がついたり確かめたりするものとなっているのです。
人によっては専門分野においてこの「権利」について探求を続けており、個人的な「ことば」として「けんり」を理解している人もいると思います。
また。「権利」は日常的な暮らしの中でそれほど頻繁に使われるものではありません。
それだけ「ことば」としてのやり取りが行なわれるものとはなっていないと思われます。
一般的な暮らしの中では「ことば」として定着しているものとなっていないために、一人ひとりの日常的な「ことば」となりきっていないものだと思われます。
つまりは、「けんり」という「ことば」がなくとも日常的な暮らしにおいては困らないことになります。
個人としても「権利」に出会った時に漢字の文字的な意味だけで理解が済んでしまうことになります。
このことも「ことば」としての「けんり」がさらに定着していかない理由になるのではないでしょうか。
「生活」という漢字があります。
言葉としては「せいかつ」になるのでしょうか。
文字的な意味も分かりやすいもので「生きて活動すること」となるのではないでしょうか。
しかし、「ことば」として「せいかつ」は理解できるものになっているのでしょうか。
文字としては「生活」、言葉としては「せいかつ」になると思われますが、「ことば」として理解しているものにはなっていないのではないでしょうか。
では、生活 → せいかつ とつながってきた言葉はどのような「ことば」として理解されているのでしょうか。
ほとんどの人は「(日々の)くらし」という「ことば」で理解されているのではないでしょうか。
「くらし」という「ことば」は人が生きている「こと」を意味しているものです。
もちろん、その「こと」のすべてを表しきっているわけではありませんし、「くらし」という「ことば」から理解される事柄は一人ひとり異なることになるでしょう。
それでも「くらし」という「ことば」は日本語の感覚として誰でもが理解できるものとなっていないでしょうか。
このようにして見てくると、私たちが持っている日本語としての「ことば」は文字としての漢字が持っている意味とは異なっている場合が多いのではないでしょうか。
これは、「ことば」として文字のない時代より持っていた「やまとことば」を表記するための文字として漢語を利用してきたことに始まりがあると思われます。
「やまとことば」は音だけで成り立っていた「ことば」です。
「やまとことば」を表記するためには、その音を表記する必要があります。
漢語の音を利用して「やまとことば」を表しましたが、その漢語は文字そのものが意味を持っていました。
その文字の意味と「やまとことば」に意味が近いものについては、文字の意味を利用しながら「やまとことば」として読ませる訓読みが充てられるようになっていったと思われます。
したがって、訓読み漢字は「やまとことば」の音を表しながらも漢字の文字をもその意味として利用した日本独自のものとなりました。
漢字の音読みには「やまとことば」に当たる「ことば」がなかったのではないでしょうか。
音読み漢字には文字としての意味だけを手近に利用するために使われて、その音から導かれる言葉には「ことば」となるような意味を持たせることがなかったのではないでしょうか。
漢字は文字を組み合わせることによって造語を作るにはとても便利な文字です。
この機能を利用して明治期には広辞苑一冊にも相当する20万語以上が生み出されました。
音読み漢字が沢山利用されることになったことになります。
漢字を完全な表音文字として使用した例があります。
それが仏教典です。
もとはサンスクリット語の言葉を漢語の音を利用して表記したものであり文字としての意味は全く関係ありません。
それでも、使おうとした漢語に同じ音があれば少しでも原意に近いものを使用しようとするのは翻訳者の本能とも言えるのではないでしょうか。
結果として並んだ文字としての意味がなんとなく出来てしまう部分があることになります。
また、翻訳者によってはそのことを意識したとしても不思議ではないと思います。
文字として意味を持っている表意文字であることが、純粋な音訳を妨害していることになるのです。
日本語としての漢字が文字としての意味で邪魔しているのが音読み漢字によることは分かりやすいことだと思います。
文字としての漢字の意味を安易に利用してきたことによって、本来持っている「ことば」がゆがめられてしまったことが多いと思われます。
それは、もとから私たちが持っている「やまとことば」に対しても外来語に対しても同じことではないでしょうか。
漢字という文字から離れて「ことば」を感じる努力をすることが、まさしく日本語の感覚ではないでしょうか。
日本語の持っている基本的な感覚を漢字が邪魔しているのかもしれません。
しかも、訓読み漢字の利用という日本語の感覚を上手く表現できる手法を持ってしまっていることが、このことを隠してしまっているのではないでしょうか。
文字の裏にある「ことば」を理解することが日本語にはとても大切なことのようです。
あまりにも便利な漢字という文字による表面的な意味だけではないことが、「行間を読む」や「一を聞いて十を知る」に含まれているのかもしれません。
文字から離れてみることは現代社会では難しいことかもしれません。
しかし、言語の持っている本来的な感覚は文字にはなく「ことば」にあることが分かってきました。
文字の意味だけに押し倒される前にもう一度文字を離れた「ことば」に目を向けてみませんか。