2015年9月18日金曜日

「ことのは」を探る

「言葉」の語源については「言(こと)」の「葉(は)」であろうと思われます。

「ことのは」が「ことば」になった過程はつかみ難いものですが、両方が使われている作品があります。

最初の仮名物語として作者不詳として伝わる「竹取物語」がそれです。


かぐや姫の昇天の項にあるのが、

「うち泣きて書くことばは、『この国に生れぬるとならば…』」であり、

蓬莱の玉の枝の項にあるのが、

「まことかと聞きて見つればことのはを飾れる玉の枝にぞありける」です。


「竹取物語」とほぼ同じ時代に作られたのが「古今和歌集」です。

編者の一人が紀貫之ですが、漢字で書かれた真名序と仮名で書かれた仮名序の二つが残っており、仮名序は彼の手によるものであろうと思われます。

その仮名序の一文の中に「ことのは」が現れます。

「やまとうたは ひとのこころを たねとして よろづのことのは とぞなりにける」


「ことのは」は更に時代をさかのぼった「万葉集」にも現れており、「言葉」「言羽」「辞」の三種類の文字が充てられています。

「竹取物語」や「古今和歌集」を素直に見てみれば、「ことのは」は「うた」であり「ことば」は書かれたものと見ることができます。

「うた」としての音が「ことのは」であり、それを文字として書いたものが「ことば」ということができるのではないでしょうか。


「こと」だけを見てみればさらに古くの「古事記」や「日本書紀」にも見ることができます。

この段階では同じ意味を表すであろうと思われる「こと」に対して「言」と「事」の二種類の漢字が充てられています。

「こと」はやまとことばとしての音ですので、漢語が持っていた音ではありません。

漢語においては「言」も「事」も「こと」という音は持っていません。


したがって、「こと」というやまとことばを表記するのに使われた「言」と「事」は文字の持っている音ではなく意味から使われたと考えることができます。

「言」と「事」はほとんど同じ使われ方をしています。

この文字を「こと」と読ませたのは日本独自の感覚によるものだと言えます。

どちらも神とのかかわりにおいて使われているるものとなっています。


やまとの人にとって神は自然そのものです。

時として人の姿を借りていることはあったとしても、自然そのものに神を感じていたことは間違いのないことだと思われます。

「古事記」の中に微かに「言」と「事」を使い分けしているのではないかと思われるヒントがありました。

それは、山上憶良と柿本人麻呂の「ことだま」の使い方の違いです。

「言霊」と「事霊」の違いとなっています。


ほとんど同じことを表現していると思われますが、神(自然)とのかかわりにおいて「やまとことば」として理解できるものが「言霊」であり感覚として感じられるものが「事霊」であると思われるのです。

ただし、かなり屁理屈的な解釈ではあります。

「言霊」も「事霊」も全く同じく神(自然)と人とのコミュニケーションだと理解した方がわかり易いことは間違いないと思われます。

「言」=「事」は文字のない時代においては当たり前の感覚だったのではないでしょうか。
(参照:「こと」(言と事)


「ことのは」に充てられた漢字も何種類かあります。

「こと」は「言」と「事」と考えることができます。

「は」は「葉」、「端」、「羽」などがあります。


「は」に充てられた漢字を見ても「は」という漢語の音を持ったものはありません。

文字の持っている意味からやまとことばの「は」として読ませるようになったものと考えられます。

「は」はそれだけでは意味を持ちにくいやまとことばだと思われます。

使われ方としては「年の端」「山の端」「木の葉」などのように、別の言葉と結びついてあるものの一部や先端や端っこを表わすものとなっています。


「〇〇のは」という表現は「〇〇の一部」ということを表していることになります。

「ことのは」という表現は「こと」の一部を表したものということになるのではないのでしょうか。


「葉」だけを見てみてもその植物がどんなものだかよく分かりません。

「葉」を詳細に見る事によって分類名や種類は調べることができるかもしれません。

しかし、それでも「葉」をきっかけとして調べることが必要になってきます。


ましてや、木としての全体像を掴むことは「葉」だけでは難しいことであり、豊かな想像力が必要となります。

そこから描ける木は、一人ひとり異なるものとなるのではないでしょうか。

人によっては木すら想像できない場合もあるのではないでしょうか。


「このとのは」は「こと」の一部を表したものにすぎません。

それが「ことのは」(「ことば」)である以上、仕方のないことなのです。

「ことのは」とは表現されている「は」から、しっかりと「こと」を見ろよということではないのでしょうか。


文字で書かれた「ことば」から感覚としての「ことのは」に結びつけて、「こと」までを理解しなさいということではないのでしょうか。

漢字という文字そのものが意味を持った表記方法持っている日本語は、漢字の持っている表面的な意味に意識が奪われがちになります。

できるだけ漢字表現を避けて直接「ことば」に結びつく表現を心掛けたいものです。

それが「現代やまとことば」として推奨する「ひらがなことば」です。


音読み漢字で表現されたものは「やまとことば」として理解するには難しいものとなっています。

しかし、意味する内容を音読み漢字を使わなくて表現することは十分に可能なことです。

「ひらがなことば」で表現してみることによって思わぬ効果があります。


「ひらがなことば」で表現しきれない漢字の言葉は、その内容そのものが自分自身で理解されていないことがよく分かるのです。

人に伝えるためには自分で理解できていることしか伝わりません。

それすらも伝え方が悪いと伝わらないことになります。


このブログでよく取りあげる言葉に「権利」というものがあります。

これを「現代やまとことば」で表現してみようとしたときに、ほとんどできない自分に気がつきました。

なぜできないのかを考えた時に、「権利」を読み方としての「ケンリ」としてしか理解していないことに気がつきました。

使用する場面や見た時の理解として「ケンリ」として理解してれば十分だったからです。


「権利」という漢字を知らない子供に「権利」ということを理解してもらえる「ことば」を自分が持っていないことに気がついたのです。

つまりは、「権利」という「ことば」を自分が理解していないことが分かったのです。

そんな「権利」をいくら使っても誰も理解できることができるわけなかったのです。


「現代やまとことば」で言い換えてみることは日本語の持っている基本的な感覚を刺激しまくります。

いつも使っている頭と違うところが熱を持ってきます。

日本語の文字としては最下位に位置し、習得する時間も一番短かった「ひらがな」が今でも日本語の一番大切な「ことば」なのです。

「ひらがな」によって日本語の感覚が維持継承されているのです。


日本語が本来持っている基本的な感覚は「ことば」として表現されているものから「こと」を理解することで成り立っているのではないでしょうか。

同じ「ことば」であっても理解する「こと」は一人ひとり異なるものとなっているものと思われます。

その「ことば」から自分とは異なる「こと」を理解していることを尊重し、その違いを感じ取っているのが日本語の感覚ではないでしょうか。


同じ「ことば」であっても自分の持っていなかった「こと」に結び付くような文学的な表現に出会った時、わくわくするような興奮感を感じることはないでしょうか。

決まりきった文字的な解釈がされている言葉がより理解しやすい「こと」につながって壊されることに快感を覚えることはないでしょうか。


言葉の遊びは知らないうちにこんな感覚を養っているような気がします。

漢字のない日本語の世界は、思った以上に素晴らしいものなのかもしれませんね。

どこかで一緒にやってみましょうか。