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2015年9月17日木曜日

文字と言葉(4)

文字から離れてみよう

3回にわたって「文字と言葉」について見てきました。

そこでは文字は言葉につなぐための記号であることを確認してきました。

そして「言葉」という漢字が「ことば」につなぐための記号であることを見つけてきました。
(参照:文字と言葉


漢字で表記することは、他の文字で表記することと異なって「ことば」への結びつきを難しくしていることを見てきました。

それは、文字としての漢字自体が一文字ずつ意味を持った表意文字であることと大いに関係があることでした。

そして、文字自体が意味を持っていることが本来の「ことば」を表す記号としての役割を越えて機能しているのです。


その機能は、「ことば」が本来持っている意味や感覚を補完してよりわかり易くしていることもあれば、反対に「ことば」の持っている意味や感覚を分かりにくくしている場合もあるのです。

人は文字で理解をしているのではないことを見てきました。

脳の中で文字が「ことば」として変換されることによって初めて理解されていることを、文字を持たない幼児期の「ことば」による活動で確認してきました。


漢字 → 言葉 → ことば → こと


この変換が素直に行なわれていることが理解するための活動ということになるのではないでしょうか。


文字の持っている意味が「ことば」の持っている意味を理解しようとすることを邪魔する例を挙げておきたいと思います。

必要に迫られて作られた漢字に多く見ることができるものです。

明治期に大量の外国文化を導入し、その翻訳として作った漢字にたくさん見ることができます。


「権利」という文字があります。

「言葉」としては「けんり」ということになるのでしょうか。

この言葉はもともとの日本にあった感覚ではありません。

英語のrightに対して充てられた言葉になります。


音として「けんり」と言っても「ことば」として素直に理解できるものとなってないと思われます。

漢字としての「権利」にも文字上の意味があります。

それは、「権力を持って利を得る」といった意味になります。


英語としてのrightは「権力を持って得る」ものとは大きな隔たりがあります。

いかなる権力によっても犯すことのできない、人として本来的に備わっているものという感覚がある「ことば」です。

日本語の「権利」には文字としての意味から広がってしまった「力をもって手に入れたもの」という感覚が伴ってしまっています。

したがって、別のチカラの元では制約を受けることになってしまうことになります。


「権利」から導かれる「ことば」としては「できること、やっていいこと」に近い感覚ではないでしょうか。

そのために、rightに比べると使用頻度や使用場面も多岐にわたり軽いニュアンスとなっていると思われます。

「ことば」としての「けんり」は日本語の感覚にとっては極めてあやふやなものであるがために、どうしても漢字表記をして文字としての意味に頼らざるを得ないものとなっているのではないでしょうか。

日本語としての「権利」は誰かが主張したり認めたりすることができるものとなっていますが、rightは気がついたり確かめたりするものとなっているのです。

人によっては専門分野においてこの「権利」について探求を続けており、個人的な「ことば」として「けんり」を理解している人もいると思います。

また。「権利」は日常的な暮らしの中でそれほど頻繁に使われるものではありません。

それだけ「ことば」としてのやり取りが行なわれるものとはなっていないと思われます。

一般的な暮らしの中では「ことば」として定着しているものとなっていないために、一人ひとりの日常的な「ことば」となりきっていないものだと思われます。

つまりは、「けんり」という「ことば」がなくとも日常的な暮らしにおいては困らないことになります。


個人としても「権利」に出会った時に漢字の文字的な意味だけで理解が済んでしまうことになります。

このことも「ことば」としての「けんり」がさらに定着していかない理由になるのではないでしょうか。


「生活」という漢字があります。

言葉としては「せいかつ」になるのでしょうか。

文字的な意味も分かりやすいもので「生きて活動すること」となるのではないでしょうか。

しかし、「ことば」として「せいかつ」は理解できるものになっているのでしょうか。


文字としては「生活」、言葉としては「せいかつ」になると思われますが、「ことば」として理解しているものにはなっていないのではないでしょうか。

では、生活 → せいかつ とつながってきた言葉はどのような「ことば」として理解されているのでしょうか。

ほとんどの人は「(日々の)くらし」という「ことば」で理解されているのではないでしょうか。


「くらし」という「ことば」は人が生きている「こと」を意味しているものです。

もちろん、その「こと」のすべてを表しきっているわけではありませんし、「くらし」という「ことば」から理解される事柄は一人ひとり異なることになるでしょう。

それでも「くらし」という「ことば」は日本語の感覚として誰でもが理解できるものとなっていないでしょうか。


このようにして見てくると、私たちが持っている日本語としての「ことば」は文字としての漢字が持っている意味とは異なっている場合が多いのではないでしょうか。

これは、「ことば」として文字のない時代より持っていた「やまとことば」を表記するための文字として漢語を利用してきたことに始まりがあると思われます。



「やまとことば」は音だけで成り立っていた「ことば」です。

「やまとことば」を表記するためには、その音を表記する必要があります。

漢語の音を利用して「やまとことば」を表しましたが、その漢語は文字そのものが意味を持っていました。


その文字の意味と「やまとことば」に意味が近いものについては、文字の意味を利用しながら「やまとことば」として読ませる訓読みが充てられるようになっていったと思われます。

したがって、訓読み漢字は「やまとことば」の音を表しながらも漢字の文字をもその意味として利用した日本独自のものとなりました。


漢字の音読みには「やまとことば」に当たる「ことば」がなかったのではないでしょうか。

音読み漢字には文字としての意味だけを手近に利用するために使われて、その音から導かれる言葉には「ことば」となるような意味を持たせることがなかったのではないでしょうか。


漢字は文字を組み合わせることによって造語を作るにはとても便利な文字です。

この機能を利用して明治期には広辞苑一冊にも相当する20万語以上が生み出されました。

音読み漢字が沢山利用されることになったことになります。


漢字を完全な表音文字として使用した例があります。

それが仏教典です。

もとはサンスクリット語の言葉を漢語の音を利用して表記したものであり文字としての意味は全く関係ありません。


それでも、使おうとした漢語に同じ音があれば少しでも原意に近いものを使用しようとするのは翻訳者の本能とも言えるのではないでしょうか。

結果として並んだ文字としての意味がなんとなく出来てしまう部分があることになります。

また、翻訳者によってはそのことを意識したとしても不思議ではないと思います。


文字として意味を持っている表意文字であることが、純粋な音訳を妨害していることになるのです。

日本語としての漢字が文字としての意味で邪魔しているのが音読み漢字によることは分かりやすいことだと思います。

文字としての漢字の意味を安易に利用してきたことによって、本来持っている「ことば」がゆがめられてしまったことが多いと思われます。


それは、もとから私たちが持っている「やまとことば」に対しても外来語に対しても同じことではないでしょうか。

漢字という文字から離れて「ことば」を感じる努力をすることが、まさしく日本語の感覚ではないでしょうか。

日本語の持っている基本的な感覚を漢字が邪魔しているのかもしれません。


しかも、訓読み漢字の利用という日本語の感覚を上手く表現できる手法を持ってしまっていることが、このことを隠してしまっているのではないでしょうか。

文字の裏にある「ことば」を理解することが日本語にはとても大切なことのようです。

あまりにも便利な漢字という文字による表面的な意味だけではないことが、「行間を読む」や「一を聞いて十を知る」に含まれているのかもしれません。


文字から離れてみることは現代社会では難しいことかもしれません。

しかし、言語の持っている本来的な感覚は文字にはなく「ことば」にあることが分かってきました。

文字の意味だけに押し倒される前にもう一度文字を離れた「ことば」に目を向けてみませんか。




2015年9月16日水曜日

文字と言葉(3)

文字が「文」と「字」から成り立っていることを先回見てみました。
(参照:文字と言葉(1)

今回は言葉について見ていきたいと思います。


言葉が「ことのは」から来ているものであることは様々な史料で確認できることではないでしょうか。

文字という「ことば」は文字の存在しなかった「古代やまとことば」の時代にはなかったものだと思われます。

実際の文字が文字が存在して初めて「ことば」としての「文字」が誕生したのだと思われます。


それに比べると「ことのは」は文字のない時代の「古代やまとことば」その物だと思われます。

「万葉集」にも「古今和歌集」に登場してくる「ことば」です。

古今和歌集以前の記録の表記は漢語の音を利用してやまとことばを表したものであり、いわゆる借字によるものとなっています。

同じ音を表すにも複数の漢語が用いられていたりします。


その中で「こと」を表すために使われた漢字は「言」と「事」です。

そして「ことのは」の「は」を表したものは「葉」「端」「羽」などがあります。

「ことのは」の意味していることは「こと」の一部であるということではないでしょうか。


やまとことばの原意を探るために使用されている漢字から推測していくという手法を試みています。

音だけしかなかった「古代やまとことば」に充てられた漢字は、その漢字の意味するものとかなり関係があるものであると思われます。

複数の漢字が充てられれいる場合には、それらの漢字に共通する感覚から原意を推測することが可能であると思われます。


「葉」「端」「羽」などから推測されることはある者の一部であり、しかも全体を説明し得るには難しいものと思われます。

「言」と「事」は共に神と人との関わりにおいて使用されてきた「ことば」であり、神と人との意思の疎通を意味するものであったと推測されます。
(参照:「こと」(言と事)

広い意味では神とのコミュニケーションにおいては同じことだと言ってもいいのではないでしょうか。

「ことだま」や「ことあげ」で見ることができた「こと」とおなじことが言えると思われます。


すなわち「ことのは」は「こと」のほんの一部を意味することになります。

古代のやまとことばを使っていた人たちは、「ことば」が表せることの限界を知っていたのではないでしょうか。

限界というよりも、「こと」のすべてを「ことば」で表すことは出来ないと感じていたのではないでしょうか。


現実の音としての表している「ことば」も「こと」を理解するための一部を表現しているものであることを気づいいていたのではないでしょうか。

文字はその「ことば」をさらに記号化したものである以上、「ことば」を表し切れているものではありません。

「ことば」のさらに一部を象徴的に記号化したものでしかないことになります。


「ことば」絶対的な意味を持ったものではなく「こと」を想像させるためのきっかけとしてその一部を何らかの形で表したものと言えるのではないでしょうか。

現わした部分は典型的な特徴かもしれませんしほんの一部かもしれませんしぼやっとした全体感かもしれません。

それも「こと」によってどんな部分が表されているのかわからないのではないかと思います。


「こと」が神と人とのかかわりにおいて存在していることになりますので、同じ「ことのは」で表わされるものであっても「こと」については一人ひとり異なることなります。

ましてや「言」は他の人には聞かせることなく神に対してのみ伝える本当の「こと」を意味しているものと考えられています。

結果として同じ「こと」に結びつくことはあるかもしれませんが、「ことのは」によって導かれる「こと」は環境や人によって違うのが当たり前ということになります。


現代で使用されている漢字の感覚を取り入れて「こと」のもっている広さや大きさを表現してみると以下のようになるのではないでしょうか。

文字 < 言葉 < ことば < こと


日本語は言葉だけでは伝えきれないものがあることを理解している言語です。

相手から受けた言葉を言葉通り、額面通りに受け取ることはむしろ少ないと言った方がいいかもしれません。

しかし、言葉がきっかけとして存在しなければ「こと」を理解することも不可能です。

欧米先進文化圏の現代言語は、言葉による表現を絶対的なものとして現実の言葉となったものものだけを対象としています。


文字が「ことば」を表すための記号である以上、文字だけで「こと」を理解することは不可能です。

更には、漢字という文字自体が意味を持ったものはそれだけで、文字としての意味と「ことば」としての意味の二重性を持つことになります。

「古代やまとことば」の意味するところを現代から推測するには意味の持った文字である漢字で表現することはとても役に立ちます。


しかし、「ことば」のもつ本当に伝えたいものを理解するためには文字である漢字が持っている意味が邪魔をすることが考えられます。

文字は言葉を導くための記号であることを考えて使いたいですね。

文字で考えて知的活動を行なっているように見えて、人の知的活動はすべて「ことば」で行なわれていることを再確認する必要があると思います。

その機能は、文字を知らなかった幼児期に母親から伝承された母語という「ことば」によって作られてきたものです。

「ことば」によって行なう知的活動が一番効率がよく質が高いのは当たり前なんですね。


きっかけとしての文字であることを覚えておくと何かと振り返りやすいかもしれません。

文字倒れになっている現代にこそ「ことば」についてしっかりと認知しておく必要があるのかもしれませんね。



2015年9月15日火曜日

文字と言葉(2)

人は文字を介したた言葉によって活動しています。

しかし言葉という「ことば」がどんどん拡大利用されることによって、原意から離れて言語と同じような意味で使われるようになっています。


話し言葉と書き言葉という表現があります。

ほとんどの人は何の違和感もなく受け入れられるのではないでしょうか。

言葉とは音によって表現されたものであり、同じ音であってもその音の出し方によってはその言葉に込められた意味が簿妙にニュアンスの変化するものです。


したがって「話し言葉と書き言葉」という表現では、原意からするとおかしな表現が二ヶ所あることになります。

一つ目は「話し言葉」です。

言葉が音によってできている以上話すことによって言葉となっているわけですからこの表現は二重の表現をしていることになります。

「落雷が落ちた」や「頭痛が痛い」と同じような表現ということになります。


もう一つは「書き言葉」です。

言葉は音によって表現されていることになりますので、書くことによって言葉を表現することは不可能です。

「書き言葉」という表現自体が言葉の原意からするとあり得ないことになります。


では、「話し言葉と書き言葉」をできるだけ「ことば」の原意に沿って表現するとどうなるのでしょうか。

それが「言葉と文字」ということになるのではないでしょうか。


これでは文字として同じ「言葉」が使われているために、現代の拡大解釈された意味では分かりにくい表現となってしまいます。

そのためにここでは言葉を原意として使用する場合には「ことば」とひらがな表記をすることとします。

そうすることによって拡大利用され曖昧となってしまった言葉という文字による影響をできるだけ避けてみたいと思います。


人が人として生きていくためには「ことば」が必要であり、文字は「ことば」を認知するための一つのツール(記号)です。

人が生まれてから幼児期の間に身につける母語は「ことば」であり文字ではありません。


母語として持った「ことば」を聞き取るために都合の良いように聴覚が発達していきます。

他の音と「ことば」を聞き分けるために言語野が発達していきます。

自分の母語である「ことば」が話しやすいように声帯が発達していきます。

母語として持った「ことば」であらゆる知的活動を行なうように脳が発達していきます。


文字を習い始めるのは基本的には義務教育が始まってからです。

文字は「ことば」を記録するための記号でしかありませんので、文字=ことばとは決してならないものです。

私たちは文字を言葉として理解していると勘違いをしているのです。

だから「話し言葉と書き言葉」という表現ができてしまったのです。


文字は記号ですのでそれだけでは脳は理解できないのです。

文字を「ことば」に変換して初めて理解しているのです。


ある種の障害によって文字を「ことば」に変換できない人がいるそうです。

その人は文字を読むことは出来ても読んで理解することができないそうです。

ところが同じ文を誰かに詠みあげてもらうと理解することができるのだそうです。


「ことば」で脳の機能を発達させてきた子どもが、文字と「ことば」の変換ができるようになるのが7歳前後だと言われています。

幼児期に文字を教えても、文字を読むことは出来ても「ことば」としての理解はできていないことになります。

幼児期に文字を教えることは無駄な活動と言えるのでしょうね。


文字が「ことば」を示す記号である以上文字そのものに意味はないことになります。

その記号が「ことば」と結びついた時に初めて「ことば」としての意味につながっていくことになります。

頻繁に同じ記号と同じ意味が使用されていると、「ことば」への変換過程が省略されてしまうことが起きます。

文字=意味と短絡化されてしまうことが起きます。


「ことば」はいろいろなニュアンスによってさまざまな意味を持っています。

記号とひとつだけの意味が強固に結びついてしまうと、あたかも文字=意味のように見えてしまうようになります。


「ことば」は「ことのは(事の端)」でありあるもののほんの一部を音として表しているものですので、象徴的な代表的な意味はありますが一つの固定的な意味として限定されているものではありません。

また、「ことば」は一人ひとり違ったニュアンスや感覚を伴って存在しているものですので、同じ「ことば」によって共通的な理解をできることもあれば異なった理解となる場合もあるのです。


あまりにも画一的な環境に長いこと浸っていると、使われる文字も「ことば」も理解する内容も同じパターンのものが繰り返し行なわれることになります。

いつの間にか文字=意味という感覚になってしまうことになります。


さらに、日本語の使用されている文字には漢字があります。

漢字は現存する文字のなかで唯一の表意文字だと言われています。

単なる記号である文字が意味を持っていることになります。


これはとても厄介なことになります。

文字としての漢字が持っている意味と「ことば」が持っている意味の二つが存在することになります。

文字の持っている意味は目に見える形にたいして与えた意味ですので固定的なものとなっており、限定的なものとなっています。


「ことば」としての意味はあるもののほんの一部を音として表したものですのである種無限の広がりを持っています。

この両者が一緒であるはずがないのです。

「ことば」として理解しようするときには文字と持っている意味が邪魔になることが多くなるのです。


反対に文字自体が意味を持っていることによって、安易に文字が「ことば」にとって代わってしまって直接的に意味を限定してまうことが起こるのです。

漢字が広がることによって「ことば」の意味が漢字の意味に置き換えられてしまうことが起きたのです。


文字がなくなっても「ことば」はなくなりません。

「ことば」を教えるのではなく文字を教えようとします。


日本語の「ことば」は1500年以上かけて発展して受け継がれて現代に伝えられているものです。

記録された文字ではない「ことば」を伝えていきたいですね。




2015年9月14日月曜日

文字と言葉(1)

言語という時には書き言葉と話し言葉の両方を含めたものを意味することが多いと思われます。


この文章はサラッと理解できてしまうものだと思いますが、よく見てみると「?」となる表現が含まれていませんか。

何となく気になっていた「ことば」があります。

それは、「言葉」という漢字で表現された「ことば」です。


表意文字である漢字で表現された「言葉」は、文字自体が意味を持ったものとなっているために音である話し「ことば」よりも文字によって理解をしようとするものとなっています。

文字よりも話し言葉の方が先に使われていたことは間違いがないと思われます。


「ことば」あるいは「ことのは」という音は文字のなかった時代も使われていたものだと思われます。

「万葉集」には「言葉」「言羽」「辞」の三種類の漢字が使われています。

その前では言語を表す「ことば」は「言(こと)」が一般的であり「事(こと)」と区別なく使われていたと思われます。


そこでは「言(こと)」は「事(こと)」と同じ意味を持ち事実にもなりうるような重い意味を持ったものであったと思われます。

やがて、事実を伴わないような軽い意味を持たせようとしたときに「端(はし)」を加えて「ことのは(言の端)」ができたのではないかと言われています。


その後の「古今和歌集」や「土佐日記」は仮名文字の初めと言われていますが、ここでは仮名の「ことば」が使われています。

「枕草子」では「詞」が使われ、「徒然草」では「言葉」が使われています。


決定打と思われるものは、最初の勅撰和歌集であり紀貫之が仮名によって記したとされる「古今和歌集」の仮名序にあると思われます。

やまとうたは ひとのこころを たねとして よろづのことのは とぞなりにける

「言の葉」が多く使用されることによって「言葉」として定着していったのではないでしょうか。


原意から見れば「言葉」は「話し言葉」に限定使用されるべきもののようです。

「話し言葉」という表現自体が「落雷が落ちた」「腹痛が痛い」のように二重表現になっているということもできます。

音としての「ことば」を表した「言葉(言の葉)」はより広く一般的に使用されるようになったと思われます。

原意からすれば矛盾とも思われる「書き言葉」という表現も、違和感なく使われるようになってなっていったのではないでしょうか。


「言葉」は音として伝わって初めて「ことば」として意味のあるものとなるのではないでしょうか。

言語の成り立ちから見ても、文字としての理解よりも音としての「ことば」としての理解の方がまさっているように思われます。

漢字という特殊な文字をうまく利用している日本語は、文字と言葉についてとてもデリケートな感覚持っているように思われます。

しばらくはこんなことを見てみたいと思います。


現在、世界で使用されている文字のなかで、文字自体が意味を持ったものとなっている表意文字と言われる文字は漢字だけであると言われています。

したがって、文字として漢字を使用しない言語においては、使用している文字はすべて話し言葉のための音を表す文字となっており文字を見てもその意味するところは分からないことになります。

ましてや、馴染みのない文字に出会った時にはその文字自体をどのように発音するのか分からないことになります。


理解するための手掛かりである話し言葉としての音を見つけることができないからです。

文字から音を見つけ出し、その音によって「ことば」の意味について推測することが行なわれていることになります。

文字からその意味を確認している認知行為としては、文字→音→ことば→意味という活動が行われていると考えることができます。


しかし、同じ文字に対してこのことを繰り返しているうちには、文字を見ただけでいきなり意味に結びついてしまう文字→意味ということが起こるようになります。

同じことを繰り返しているうちに過程が省略されて、記憶として残っていることへ直接結びつくことが起きていると思われます。

標識に用いられているような誰もが簡単に見ただけでわかる文字はその典型ではないかと思われます。


英語のJapanに対して日本という国を表す文字であることを知らない人はいないと思います。

音としての発音が英語としての発音ができなくともJapanという文字と日本が直接結びついて記憶されているからです。

同様にChinaという文字に対しては中国という国を表わす文字であることを知らない人はいないでしょう。


しかし、それぞれの文字が文中において小文字で始まると漆器(japan)と陶磁器(china)を意味する「ことば」として使用されています。

大文字で始まる国名である固有名詞を表す文字を利用した表意文字ということができるものとなっているのです。

音としては全く同じものですので、文としての脈絡や冠詞で判断しないと分からないものとなってしまいます。

また、japan=漆器、china=陶磁器を知らない人にとっては音からその意味を想像することは、「風が吹けば桶屋が儲かる」的によほどの想像力を働かさなければかなり難しいことになります。

現実にはほとんど困難だと言ってもいいのではないでしょうか。


そのようにして見てみると、どの文字についても完全なる表意文字や完全なる表音文字だけの文字はないのではないかと思われてきます。

特にその成り立ちが表意文字であった漢字であっても、音を持たない漢字は存在しません。

漢字の持っている音を利用してその文字の持っている意味とは異なる「ことば」を文字化することは十分に可能だと思われます。


「夜路死苦」と書いて「よろしく」と読ませる落書きが目立ったことがあります。

まさしく漢字を表音文字として利用した表記です。

「夜道の一人歩きは気をつけましょう」というよりもインパクトを持った表記ではなかったでしょうか。


日本語の持っている仮名も、その成り立ちは漢語の読みを利用して文字のない和語(古代やまとことば)を表記するための文字として使用したことが始まりです。

それが草体化してひらがなという表音文字になったことはご存じのとおりです。


文字として意味を持った漢字とは言っても、その意味の持ち方には何種類かあると思われます。

そもそも文字という「ことば」が、文字のなかった時代から使われていたものとは考えにくいことです。

文字という概念すらないわけですらそれを表す「ことば」があったとは思えません。


「文字」という「ことば」がどこから来たのか見てみました。

どうやら「文」と「字」というふたつの「ことば」から来たようです。


「文」は音読みの「ブン」ではなく「もん」から来ているようです。

明確な分類がされている資料がありましたので参考に記しておきます。


「文」と「字」

「文」は漢字のなかでこれ以上分解することができない単体の文字のことだそうです。

「文(もん)」とは着物を重ねた時に胸元できれいに襟が揃ったことを表す象形文字だそうです。

「あや」とも読みますね。


文字としては象形文字として実際に目に見えるものを具体的に絵として描いてその物を表現して漢字とするものと、指事文字として実際には目に見えないものを点や線で暗示的に表現する漢字とするものであるとあります。

象形文字としては、日・月・川などが例に挙げられています。

指事文字としては、一・二・三の数字や上・下などが挙げられています。

この二種類が分類としての「文(もん)」になり、すべての漢字の基本になるものだそうです。


「字」は「文(もん)」を組み合わせてさらに複雑な意味を表わそうとしたものだと言われています。

文字としては会意文字と言われている意味のある「文(もん)」を組み合わせてさらに複雑な意味やより具体性を持ったものを特定しようとするものと、形声文字と言われている部首を持って一方で発音を表しもう一方でそれが何に関係するものであるかを表すものとされています。

会意文字としては、武(弋+止)・信(人+言)などが挙げられています。

形声文字としては、河・家・味などとなっています。

一般的には意味を表す部分と音を表す部分を合わせて作られたものとされており、漢字全体の7~8割がこれにあたると言われています。


いつごろまで「文」と「字」が区別されていたのかはよくわかっていませんが、初めて知る分類でしたのでとても興味を持ってみることができました。

「言葉」というものは原意を離れて使用されてきており、もはや話し言葉だけを意味するものではなくなっていると思います。

文字で表現されたものに対しても「言葉」という表現を使っても違和感を感じることがなくなっているようです。


話し言葉としての意味を強調したい場合には「ことば」と仮名表記するようにしていった方が原意を表しているのではないでしょうか。

漢字表記をすることによってその文字の持っている意味をくみ取ることは可能ですが、すべてを表しているとは限らないからです。

漢字があることによって日本語を複雑にしていることは間違いのないことですが、漢字によって言語として日本語が様々な面で助けられていることも間違いないと思われます。


文字としての漢字の意味とその文字によって音として表された「ことば」の意味が一致していないものがたくさんあるのも日本語の特徴なんでしょうね。

特に外国の言葉を日本語に翻訳した漢字表記は、ほとんどのものが一致していないと思った方がいいのではないでしょうか。

漢字によって表現されたことによって安心してしまっている自分にあらためて気がつきました。


漢字として表現したときに文字として持っている意味が邪魔をすることもあることに初めて気がついたところです。

あらためて「現代やまとことば」の威力を思い知ったところです。

「文字と言葉」は思いつくたびに、また新しい発見があるたびに見つめていきたいと思います。