2014年8月12日火曜日

「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化

「言挙げ」とは、言葉に出して「理論闘争」して相手を口で言い負かすことを慎むべきこととして伝えてきたものです。

その起源は、最古の書物と言われる古事記において「言挙げ」の記述を見ることができます。

ヤマトタケルの命(みこと)が伊吹山の神の出現に対して退治に出向いた時のことです。

突然現れた白猪を神の使いだと見誤り、素手でやっつけてやろうと言挙げをしたことにより命を落とす結果となったとあります。


また、「ことだま」と同じく万葉集にもいくつか見ることができます。

神の意志を受けて行動するのが古代日本人の態度であり、神の意志を確認するために使われるのが「ことだま」です。

「言挙げ」をするのは、神のみに許された行為なのであり、個人が自分の意志を明白にする態度は神の意志を越えたり、神の意志に背くことになると考えられてきました。


万葉集には「千万の 軍なりとも 言挙げせず 取りて来ぬべき 男とぞ思ふ」のように、千万の敵だとしても言挙げをせずに退治するのだという歌もあります。

また「秋津島 大和の国は 神からと 言挙げせぬ国 然れども 我は言挙げす」のように、我が国は言挙げをしない国だが、恋の苦しさのためにその思いを特別に述べるのだという意味の歌もあります。

同じ歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする」ともあります。


「ことだま」はいろいろな機会に取り上げられることが多いので、言霊として知っている人も多いのではないでしょうか。

サザンオールスターズの「愛の言霊」と言う曲もありましたね。

しかし、「言挙げ」という言葉を知っている人はそれほど多くないのではないかと思います。

本来の意味からすれば、「ことだま」と対で使われるのがふさわしいと思われるのですが、いつの間にかほとんど聞かない言葉となってしまいました。


しかし、この言葉に日本人の精神文化のとても大きな部分が込められていることは間違いないと思われます。

「言挙げ」においては、主に二つのことを慎むべきであると読み取ることができます。

一つ目は、多くを語らないということです。

多くを語ること、たくさんの言葉を発することが慢心を生み出すと考えられています。

また、「ことだま」はそれにふさわしい選び抜かれた「ことば」でなければならず、多くを語ることは「ことだま」につながらないこととして戒めています。


もう一つは、個人としての自己主張は慎むべきであるとしています。

自己主張は神のみに認められたものであり、その神によって認められた言葉によって初めて意思を示すことが可能であるとしています。


はっきりとした記載はなされていませんが、自然のあらゆるものに神の存在を意識し、その神との承認に使われるのが「ことだま」であることは読み取ることができると思われます。

日本人が日本人を感じる一番の場面ではないでしょうか。

たとえいわれのないことでどんな非難を受けようとも、苦笑い一つを残して「人の口に戸は立てられない」と、あえて言挙げしない姿です。

そこには、何とでも騒ぐがいい「自ら省みて直くんば 何万にといえどわれ行かん」、「天の采配」にゆだねるのです。

ごちゃごちゃと言い訳をせずに、感情に任せて相手をなじることもしません。

相手にとっては、このことが凄みとも恐ろしさとも映ることになります。


太古の昔より「言挙げ」という「ことば」があり、厳に慎むべきこととして教え伝えられてきているのです。

そしてそれは「ことだま」を汚すものとして、対極におかれています。

「ことだま」か「ことあげ」かではないのです。


常にこの両者の間を揺れ動いているのが人です。

日本語の精神文化に二者択一はありません。

常に両方が存在しており、しかもその間を揺れ動いているとする中庸が日本の精神文化です。


「ことだま」を意識することはできません。

しかし、「言挙げ」を意識することはできます。

「言挙げ」を意識することによって、自然に「ことだま」が生かされていくようになっています。


何と言う素晴らしい導き方ではないでしょうか。

「ことだま」と言う、目に見えない意識できないものを理解させるにあたって、「言挙げ」という具体的な「ことば」の使い方としての禁じ手を理解させることをしています。

「言挙げ」の実例やその結果起こることを明確にして、慎むべきこととしての認知を深めます。

理解できようとできまいと、「言挙げ」を慎むという具体的な行動によって、「ことだま」に自然に近づくことができるようになっています。

あえて、両者の関係については明確に触れることはしていません。


何かをしなさいと指導されると、その理由や目的が理解できないと真剣に取り組めないものです。

ましてや抽象度の高いものになると、さらにその傾向が強まります。

何かの行動を慎むべきで、慎まないとこんな恐ろしいことになるよと言われると、その行動が具体的であればあるほど意識できて取り組みやすくなります。


昔から残る怖い話は、何かしらの慎むべきことに対しての怠った結果として伝わるものがほとんどです。

日本の精神文化を土台にした、素晴らしい指導法ではないでしょうか。

スポーツの世界でも同じですね。

良い指導者は、やってはいけないことや危険なことをしっかりと具体的に指導します。

ぎりぎりのところまで直接経験させる場合もありますね。

あとは枠にはめることなく、のびのびと力を発揮できる環境を整えていくだけですね。


日本語にはいろいろなものが隠されています。

文字のなかった時代の「ことば」を受け継いで現代でも使っているからこそ、見えてくるものもありますね。

いろいろなところにそのきっかけがあるはずです。

精神文化を具現化するための唯一のツールが言語なのですから、もっとさまざまな研究があってもいいと思われます。

絶対的な論拠があるわけではないのですから、ある程度は好きなことを言っても大丈夫な世界でもあります。


「ことあげ」という「ことば」を見つけることだできたことに感謝ですね。

また、一つ日本語の素晴らしを見つけることができました。

これは日本人の素晴らしさでもあるモノですね。

やっぱり、奥が深いですね。




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