日本語型の言語と大きく異なるところが、「ことだま」領域が存在することであり、そこから発生する精神文化的な特徴が言語の特徴となっていることが見えてきました。
現代日本語は、「ことだま」と「ことあげ」の両方の要素を兼ね備えています。
他の先進国の言語には、「ことだま」の要素を持った者が少ないので、そこでの触れ合いにおいては「ことあげ」の方が彼らの感覚に合ったコミュニケーションが可能となります。
ただし、文字のなかった時代より継承されてきた日本語がもともと持っていたものは、「ことだま」との共生です。
日本語のもともとの性格がそこにありますので、「ことあげ」だけの生活においてはどこかで歪を感じることが起きてきます。
これが知らないうちにストレスとなる場合も出てきます。
現代の仕事にかかわる業務の場合には、ほとんどが「ことあげ」の領域で行われています。
仕事でストレスを感じることは、上下関係や人間関係以外だけではなく、使用している言語にも原因があるのかもしれません。
リフレッシュやリラックスを求める時に、言葉の少ない人工物の少ない環境に身を置きたく多くなるのは自然な反応です。
日本語を母語として持つ者は、自然の中に放置されても感覚自体がおかしくなることはないそうです。
他の言語を母語として持つ者は、自然の中に長い間放置されると感覚自体がおかしくなってくるそうです。
何十年と言う森林生活をしていた小野田正一さんが、持っている感覚自体は決して壊れていなかったことは、彼らにとっては驚きなのです。
自然界の音を言葉として感じることができ、会話すらできているような感覚を持つことは他の言語ではありえないことなのです。
私たちの近い感覚で表現してみると、自然の中に放置される彼らの感覚は、自動車の騒音の中に一人でいることと同じようなものだそうです。
そう思うと、とても長時間いられる環境ではないですよね。
日本人思っている感覚の中に、相手に対しての助力の精神があります。
時においては、事故の犠牲を払ってでも、相手へ助力を優先させるものでもあります。
生かされている自分と言う感覚があります。
「ことだま」は森羅万象すべての自然とつながっている領域であり、その中にいる自分を見ることができる領域です。
したがって、自分が主体になることはありません。
その領域には、自分以外のものがすべて含まれてきますので、相手もその領域に含まれることになります。
その領域がなくなる時には、自らの存在自体もなくなることが感覚として理解できていますので、自分自身のことよりもその領域を守ることに力を注ぎます。
その中で生かされている自分を無意識に感じているのだと思われます。
この感覚を表現したものの一つが「神」ではないでしょうか。
また、この感覚を現実の場として利用とする者が「公」であったり「お上」であったりしたのではないでしょうか。
現代日本語の言葉は「ことあげ」との接点の方がはるかに多くなっているのでしょう。
何かの拍子に、違和感を感じながらも現実世界の便利さを利用するためには、その方が都合よくなっているからだと思われます。
日本語同士の会話では、相手を中心に置いたコミュニケーションの場が、どんどん少なくなっていることも大きな要因ではないでしょうか。
全く「ことだま」の感覚を持たない言語と触れる機会が、一気に膨れ上がってきていることも要因でしょう。
そうであっても、母語としての日本語の習得は、母親や家族から伝えられる「ことば」として、必ずひらがなの音から入ってきます。
文字のない時代よりずっと継承されてきた音です。
人の得る情報は80%が視覚からだと言われています。
言語についても、話し言葉から得る情報よりも文字から得る情報の方がはるかに多くなっています。
「ことだま」との接点となる音は、ひらがなの清音だと言われています。
濁音や半濁音のない、五十音表のひらがなの音ですね。
話し言葉としては、すべてがひらがなの音しかありませんが、その音からすぐにひらがな以外の文字が浮かんでくるものがあります。
これは「ことだま」との接点にはならないようです。
アルファベットの音、外来語の音、漢字の音読みの音などは、音を聞いた瞬間に文字をイメージします。
しかもイメージされた文字はひらがなではありません。
ずばり、「ことあげ」につながりやすい音となっています。
漢字の訓読みは、純粋にひらがなの音として入ってきます。
しかし、瞬間的に漢字がイメージされてしまうと同じように「ことあげ」につながりやすくなってしまいます。
「かく」と言う音を聞いて、書く、描く、画く、掻く、欠くなどがすぐに浮かんでしまったり、漢字を探してしまったりしていることでは「ことだま」にはつながらないようです。
純粋にひらがなとしての「かく」を受け入れて初めて「ことだま」へとつながる可能性が出てくるようです。
「ひとり」という言葉に対して、「一人」と思い浮かべるのか「ひとり」として受け入れるのかでは、大きな違いがあるということになります。
もともとひらがなしか表現のない言葉もたくさんあります。
挨拶の言葉は多いですね。
「おはよう」「こんにちは」「さようなら」、人と交わすだけの「ことば」ではないような気もしてきませんか。
「ありがとう」「おめでとう」などは、無理に「有難う」や「御目出とう」などと書くこともありますが、ひらがなの方が素直に入ってきませんか。
そしてこのひらがな言葉が誰にとっても一番わかりやすい言葉となっているのです。
わかりやすい話をする人は、必ずひらがな言葉を多用しています。
ひらがな言葉は、意味としては抽象的なものがとても多いにもかかわらず、なぜか話しとしては分かりやすいのです。
現実の言葉以外の何かが共有されているのかもしれません。
これは日本語を母語として持っている人だけの感覚です。
これを日本語を母語として持たない人が理解しようとすると、「あいまい」だということになるのでしょう。
話し言葉であっても、文章であっても、訓読み漢字とひらがなの多用をお薦めしています。
私は、これらの言葉のことを「現代やまとことば」と呼んでいます。
専門家相手に、個人の成果や論文を発表する場面では役に立ちません。
ビジネス上のプレゼンテーションでも役に立ちません。
そこでは自己の欲求や主張を表現する場ですので、「ことあげ」そのものが行なわれているからです。
それでも、その中で敢えて使ってみることは試してみてもいいことではないでしょうか。
「ことだま」にはつながらなくとも、わかりやすさと言う一点においては絶対的な効果があるはずです。
専門用語やアルファベットの3文字略語などを使った時は、必ず訓読み漢字やひらがなで意味の補充することができると、とたんに聞いている人の反応が変わってくるのがわかります。
「現代やまとことば」は「ことだま」との接点がきっとあるはずです。
できるだけ使ってみませんか。
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